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第5話:あなたの小箱のなかには


 あなたの部屋にはよくロックミュージックがかかっていた。それも私たちが生まれるよりずっと前の曲ばかりが。歌詞はみんな英語で、学生時代に何度も赤点を取りかけたことのある私にはlove以外の単語がまったく聞き取れなかった。


「ずっと海外のロックばっかり?」「ずっとだね。もともとは英語の勉強のために聴き始めたんだけど、いつの間にか好きになってた」


 あなたは鍋の様子をうかがいながら答えた。私たちは土日にはなるべくどちらかの部屋に泊まり、家主が料理を作るというルールを定めていた。とはいえ、じっさいは私が招待されるほうが圧倒的に多かった。弱火でじっくりということを知らない私の料理をあなたはなかなか食べたがらなかった。


「最近の曲は嫌い?」「あんまり好きじゃない。自分の生活と近すぎるから」「現実から逃げたい?」「人は現実から逃げるために音楽を作ったり小説を書いたりする」「で、私たちはこうやってその恩恵にあずかるってわけね」私は小説のページをめくった。「でも、あなたはロックって感じじゃない。クラシックが好きって言うならまだわかるけど」「人がみんな見かけどおりなら、ぼくはロックなんて聴く必要がなくなる」「きっと、私も小説を読まなくなるね」と言って私は笑った。「ところで、なんでこの人はずっとおっぱいって連呼してるの?」「おっぱいじゃなくて"occupy"だよ」「英語は嫌い。ここは日本で、私は日本人」


 メロディにあわせておっぱいと連呼すると、そのたびにあなたは笑った。私は楽しくなって、声をますます大きくした。子どもが親の興味を引こうとしてふざけるみたいだった。


 夕食を済ませ、先にお風呂に入った私は、シャワーの音を聞きながら壁際のCDラックを物色する。きっとこのなかの何割かはすでに耳にしたことがあるのだろうが、どのタイトルもピンとこなかった。三段目に差しかかったとき、無感動に動いていた私の指がふいに止まった。『ホテル・カリフォルニア』と記されたケースを取り出し、ジャケットを確かめる。夕暮れを背景にライトアップされたホテルが浮かび上がる幻想的な光景は、あの夜のできごとを思い起こさせた。私たちが泊まったホテル・カリフォルニアはこの写真とは似ても似つかないボロボロのラブホテルだったが、それでも朝焼けに滲むネオンを見て私は美しいと感じた。あの安っぽい輝きに、決して安っぽくはない幻想を抱いたのだ。けれど、いまとなっては……と、そこまで考えてCDを元の場所に戻した。


 ラックの上に置かれた小箱に目が留まる。私はその箱の中身を知っている。あなたが月に一回処方されている抗うつ剤である。


 薬の存在に気づいたのは、付き合い始めて半年ぐらいのときだった。いまみたいにあなたの風呂上がりを待っているあいだ、興味本位で棚を検めていたらたまたま見つけたのだ。なにげなく薬の名前をネットで検索した私は、すぐに検索したことを後悔した。検索候補には、効果、副作用、過剰摂取といった単語が連なっていた。


 それ以降、あなたの家に招かれるたびに薬の種類と数を確かめるのが私のルーティンになった。ときには、そのためだけに一時間もかけて町田から綾瀬まで電車を乗り継いでくることさえあった。薬は途中で一段階強いものに変わり、その後量が少し増えた。


「まだ酔ってる?」


 ベッドのなかであなたは私の手を握った。夕食のとき、私だけ少しお酒を飲んでいた。


「もう酔ってない」


 私はあなたの手を強く握り返した。あなたは空いているほうの手で私の頬に触れ、長い口づけをし、私のパジャマのボタンを外し始めた。あなたの部屋に来たときは必ずと言っていいほどセックスをするが、それはいつも驚くべき静けさのなかで行われる。静かで、それでいて終わりが見えないのだ。いつもならその終わりのなさを愛情の証しのように感じるのだが、今日はどういうわけかおそろしい気持ちが勝った。私はあなたの手の動きに合わせておっぱいおっぱいと連呼した。するとあなたは大笑いして続きを諦め、代わりに私を力いっぱい抱きしめた。


「ごめんなさい。もしかしたら、まだ酔ってるのかも」


 私が服を着直していると、あなたはおもむろに立ち上がってリビングへと向かった。おそらく薬を飲みに行くのだろう。私は少し丸まったあなたの背中に問いかけた。


「どこへ行くの?」「トイレ」


 あなたが戻ってくるまでのあいだ、私は開け放たれたままの扉をじっと見つめ、耳を澄ましていた。トイレの水が流れる音はついに聞こえてこなかった。暗闇のなかを確かな足取りで戻ってきたあなたは、片方の袖にだけ腕をとおしている私を見て怪訝そうな顔をした。


「どうしたの?」「別に。静かすぎて少し不安に思っただけ」「今日は変だね」


 あなたは私を抱き寄せ、頬に口づけをした。このキスが終わったあとのことを想像した。実は、薬を飲んでいるんだ。それはうつ病の薬で、ぼくは……あなたがその口から、薬のことを打ち明けてくれるときのことを思い浮かべた。私は薬のことについて、自分からあなたに訊いたことはない。あなたはきっと自分から打ち明けてくれるはず。今日か、明日か、明後日か、あるいはいつか、必ず、きっと。


 そう願い続けて、一年半が経とうとしていた。

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