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第3話:蛍とアブラムシ



 愛と忍耐強さにまつわる母の言葉を、私はあなたの隣でたびたび思い出した。あるいはあなたの向かいで。あるいはうしろで。あるいは腕のなかで。


 あなたは私がこれまで出会ったなかで最も沈黙の似合う人だ。こちらが油断をしようものなら一時間でも二時間でも黙っているのがあなたという生物の基本的な生態である。私と付き合い始める以前は、休日になるとずっと家にこもっていたという。ときどきは外に出るのでしょうと訊くと、あなたは薄い色の唇を最小限の範囲で動かして言った。


「食料を買いにいくときにはね」


 でも、そうかと思えば、あなたはたまに遠出をしたがった。たとえば、土合駅なんかに。それは群馬の北の端に位置する駅で、下り線のホームが地下深くにあることで有名だった。私はあなたに連れられてしかたなくそこを訪れたが、十分以上かけて階段を下りた先に広がっていたのはまさに地底と呼ぶにふさわしい光景だった。トンネルのなかに等間隔に照明が焚かれ、それでもなお退けることのできない暗闇が四方からじわじわとホームを侵蝕していく。うわあ、という感嘆の声は壁や天井に反響して、私の背中を貫いた。


 地下五十メートル、いや六十メートル? もしかしたら七十メートルだったかもしれない。とにかく、私たちは足の筋肉が悲鳴を上げるまで階段を下り続けてようやくそこにたどり着いたのだ。ホームは暗く、ひんやりとして涼しかった。少しじめじめしてもいた。二人きりだったら私は怖すぎて発狂したと思うけれど、幸いにもハイキング帰りと思われる一団がいたのでホッと胸を撫で下ろした。


 私はあなたの腕を掴んで言った。


「ちょっと暗くて怖いね」「二人きりならもっと雰囲気が出るのにね」


 あなたは別の一団を見てつまらなそうな表情を浮かべた。


 ある夜、私を自宅に招いたあなたは、すべての部屋の電気を消してリビングのカーテンを開けた。


「結局ぼくは」あなたは窓際に立ち、向かいのマンションの明かりを見つめた。「暗いところが好きなんだ」「知ってる」


 私はスマートフォンのフラッシュライトを点けて、足の指と指のあいだを開かせる健康グッズを一生懸命はめこんでいた。


「暗いところには誰もいない。でも、明るいところには常に誰かがいる。虫だって明るいところに集まりたがるよね」「人と虫を一緒にするつもり?」「一緒さ」あなたは煙草をくわえ、火をつけた。「どちらも光が大好きで、やかましく、そしていつか死ぬ。人も虫も死んで初めて静かになる」「結局」私はあなたのしゃべり方を真似てみた。「あなたは暗いところじゃなくて静かなところが好きなのよ」「どうしてそう思うの?」「あなたは静かな人だから」「でも、ぼくはまだ生きてる」


 ふうっと煙を吐くと、あなたはとつぜんアブラムシについて語り始めた。アブラムシの雌は単為生殖が可能で、雄は秋から冬にかけてしか生まれてこず、それ以外の季節に生まれるのはすべて雌なのだそうだ。あなたがひとしきり話し終えて黙りこんだので、私は自分の足元から視線を上げた。暗い室内にあなたの煙草の火が頼りなげに浮かんでいるのが、まるで蛍みたいだった。どこからともなくあらわれて、どこへともなく消えていく夏の虫。それがあなただった。


 私は愛する人の横顔を食い入るように見つめた。その輪郭を目に焼きつけるために。けれど煙草の火がもみ消された瞬間、なにもかもが暗闇の奥深くへと呑みこまれてしまった。

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