あるセカイにて
生命に満ち溢れるセカイ、セフィロート。
このセカイには昔から、魔法とは異なる特殊な力【ダート】が存在する。【ダート】を持つ存在は英雄的存在として、各地で語り継がれている。
英雄はいつだって、子どもの憧れだ。
人々はいつだって、【勇者】という言葉に憧れる。
彼とてそうだった。
氷の剣士、リアン。
これは生まれながらに勇者の資質を持ちながら、勇者にならなかった少年の決意の物語である。
田舎都市、ケセド。そこは慈愛を司る天使【リー】が守護する土地で、セフィロートの都市の中で一番小さな都市だった。小さいからこそ、人々は手を取り合って助け合い、誰もを愛する優しさを持っている。セフィロートには十の都市があるが、その中でも最も平和で理想郷と呼ばれる都市がこのケセドである。
ケセドは争い事がなく、心穏やかで優しい人々が多いため、他の都市と比べ、人生の終わりにここを訪れたいという者は多い。そのくらいゆったりとした心地よい時間がこの都市には流れている。
他都市から流通するものもあるにはあるが、少なく、自給自足が基本。それゆえ、軋轢も少ない。人と人との関わり合いが多すぎず、少なすぎないこの都市は、不思議と若者も離れていかない、愛すべき土地であった。
そんなケセドがセカイの救世主たる【ダート】の担い手を出したことはない。セカイでの諍いとも無縁でいられる、この土地では。それが、通説だった。
影年一九八〇年、それは揺らぐ。
幼子が一人、生まれたことが始まりだった。白い髪に湖のように凪いだ目。その体温は赤子にしては低く、上げるはずの産声すらない様に、ケセドの民たちは大変心配した。
近くにある森の神木【アルブル】に赤子について聞くと、アルブルは答えた。
「その者は【ダート】を持ち、生まれた。神よりの使徒である」
その言葉に、ケセドの民は驚愕する。【ダート】を持つ子どもを初めて見た、というのもあるが、神より【ダート】が遣わされたということは、そう遠くない未来、争いが起こるということである。しかも、それまでセカイの争いとは無縁だったケセドまで巻き込むほどの大きな争いだ。
ケセドの民は争いを憂えた。
同じ頃、セフィロート随一の森、フロンティエール大森林を越えて向こう側の都市では、異変が起き始めていた。
魔物や魔族たちが集い、何かを始めようとしていた。
魔物や魔族とは、信仰する神が異なるだけで、友好的な関係を築いてきた。都市間で争いが起きるときも、対立するのは人間と魔物、という境ではなく、各々が信じる派閥に属していた。人間と魔物が共闘することは何も珍しいことではなかったのだ。
だが、人間の社会に溶け込んでいた魔物たちが、同胞のみで集い、何かを目論んでいるというのは暗雲立ち込める気配がした。まだ何も起こっていないのに、【ダート】が遣わされたということは、現段階で考えられる厄災はそれくらいなものだろう。
つまり、魔物たちと敵対関係になるということ。
その事の重大さは長閑な暮らしを送ってきたケセドの民でも十二分にわかった。人間はこのセカイの主神【生命の神】の創造物である。ゆえに【生命の神】を崇めている。対する魔物や魔族は【生命の神】の対抗神である闇の女神【ディーヴァ】の眷属であり、信仰する神も当然【ディーヴァ】であった。
人間と魔物たちが敵対するということは、それぞれの崇める神たちの衝突を意味する。セカイができて、二千年近い時が経った。これまでそれが起こらなかったことも不思議ではあるが、それは【生命の神】と【ディーヴァ】による戦争だ。
神同士の戦争となれば、【生命の神】の創造物である人間や、【ディーヴァ】の眷属である魔物や魔族が無関係ではいられない。いくら平和な理想郷のケセドでも、干渉せずにはいられない。
その証拠に【ダート】が生まれたのだ。
【ダート】の子どもは感情の機微が少なく、物静かな子に育った。旧い言葉で【絆】を意味する【リアン】という名前を授けられた。リアンは三歳になる頃には、【ダート】を自在に操れるようになり、ケセドの人々の希望を託される。
ケセドは閉ざされた田舎のように見えるが、他都市との交流もきちんとあり、森の向こうにある都市ゲブラーでも、【ダート】を持つ子どもが生まれた報を聞く。ゲブラーは軍事都市で、これまでもセカイの危機のたびにたくさんの【ダート】を輩出している。そんなゲブラーからも【ダート】が出たとなれば、いよいよ争いが起こるというのが現実味を帯びてくる。
ケセドはリアンを大切に大切に育てた。争い事に疎いケセドの民だが、それでも、リアンに鍛練をさせた。リアンの【ダート】は温度を操るものだが、リアンは主に冷気を使ったため、【氷のダート】と認識されるようになった。
リアンは氷のダートで人の役に立とうとした。例えば農作物に被害を出す虫害。虫たちを氷漬けにして、無害化した。他にも暑い日に水を冷やしたり、雨の日に雨を雪に変えて、子どもたちを楽しませたり。どれも平和でほのぼのした内容だった。ケセドの地に生まれただけあって、リアンも平穏を好む性質なのだ。
だが、それではいけない、とケセドの民たちが、おそらくセカイで起ころうとしていることをリアンに説明した。リアンには救世主になってもらわなければならない。セカイを救うための【ダート】の力を持っているのだから。
ケセドの地には魔物が現れることが少なく、魔物の習性を説明するのは難しかった。接点のある魔物は森の守護者の土の民と、木々に宿る木の民くらいなものだ。土の民は守るべきものを害されたとき以外は怒らないし、木の民に至っては戦闘能力がない。リアンに魔物は脅威だ、と教えるには、両方とも役不足であった。
リアンは魔物や魔族と戦わなければならない、と聞いて、勤勉なことに、自分で魔物や魔族について調べた。そうしたら、リアンはケセドの誰よりも、魔物について詳しくなり、ケセドの民が説明することは何もなくなってしまった。
そんな中、リアンをかの英雄都市ゲブラーにやろう、という話が出た。知識においても、戦闘においても、ゲブラーの方が何かと役に立つことが覚えられるだろう、と。
その理由を聞いて、リアンは黙って頷いた。リアンは反抗することを知らないかのように静かで、大人に楯突かない。その振る舞いから、何か嫌なら言ってくるだろう、利口な子だもの、と大人たちはリアンを信頼し、リアンをゲブラーにやる手筈を整えていった。
リアンの旅立ちの前の晩、霧雨が降った。リアンは暖かみのあるどの家にも入らず、小さな小さな木材の陰に向かって、口を開いた。
「もう、僕は守ってやれないよ」
するとその木材の陰からにょき、と額から角を生やしたうさぎが出てきた。小さく、あまり害のなさそうな様子だが、魔物である。
リアンはそっとうさぎの頭を撫でる。この魔物は角に触れられることを嫌うので、慎重に。
ほろ苦い笑みが口の端から零れた。
「まだ何も起きていないのに、おかしいね。どうして『争わない』という選択肢がないんだろう」
「きゅ?」
リアンの言っていることを理解してはいないのだろうが、うさぎが首を傾げた。リアンは答えなんて求めていない。魔物の中には人間の言葉を話す者もいるが、このうさぎはそうではない。そんなことを知っていたから。
木材の合間から、うさぎを出してやり、森の方へ向けて解き放つ。うさぎは戸惑ったようにリアンを見るが、リアンは静かに微笑むだけ。
「ばいばい。どうか、生きていて」
叶わないかもしれない願いを紡いで、リアンはうさぎを見送った。
寂しい雨がしとしとと、リアンの肩を濡らすのだった。