⑨ 幽霊の思い出
翌日の放課後、僕は山に向かうことなく、図書館へと繰り出していた。
頭上に広がる大空は、水気の多い絵の具で塗りたくったような色合いに染まっている。
その中でひかめく太陽は、異国の夏を追い掛けたばかりに、遠い場所から僕を眺めていた。
肌寒い風が吹き込むこともない、柔らかな日差しに満ちた冬晴れ。
この季節にしては、今日は外で動き回るのに最適な日だった。
せっかくの晴れに彼女と遊べないことは残念極まりない。
が、一度その寂しさに身を浸すことで、明日がより楽しみになることだろう。
そうやって、ある意味での正当化を何度も繰り返す。
僕はなんとか、今にも百八十度回転しそうな我儘な足を言い聞かせた。
鈴音に会いたい気持ちを抑え込んだところで、図書館の扉をゆっくりと開ける。
館内入場三歩目のことだ。
早速、長身の彼女がこちらに向かって来た。
「お、少年。珍しいね、雨も降ってもない昼下がりにここに来るなんて」
僕の姿を認めた斎藤さんは心底意外そうに言った。
「そういう日もあるんです」
と、挨拶がてらに言葉を返す。
僕らはそのまま、図書館の一角へと足を進めた。
どういう動機からの行動なのかは、僕にもいまいち良く分かっていない。
でも、こうして図書館を訪れる度に、斎藤さんは僕を気に掛けてくれていた。
そのせいか、斎藤さんはいつからか、僕専属の秘書みたく振舞うようになった。
彼女は慣れた手つきで本棚から数冊の本を引っこ抜いては、それらをざっとテーブルの上に並べた。
「で、今日はどっちの本探してるの?植物系?それとも神話系?お勧めはこれとこれなんだけど」
斎藤さんは毎度の如く、僕の趣向にピッタリ合った本を提供してくれる。
もしかせずとも、その才能は何か別のことに活かした方が良いのかもしれない。
まずは数冊分の表紙を眺める。
それから一冊ずつ手にとっては、数頁を捲って感性と相談する。
その末に僕は「じゃあ、今日はお勧めどっちも借りることにします」と答えた。
本来であれば、ここで斎藤さんの仕事も終わりだ。
けれども今日の彼女は「そう言えば」と言葉を続けた。
「えーっと…日向祐介くん、だっけ?少年のこと探してたよ」
「…日向が?なんでですか?」
よもや斎藤さんからアイツの名前が出てくるとは思わなかった。
何処がどう繋がってこんな伝言が届けられたのか。
と言うか、同じクラスに属しているというのに探しているとはどういう意味なのか。
疑問が後者に偏った結果、僕はそちらについて訊ね返した。
「さぁ?まぁ察しは付くけどね。少年は雨の日とかに良く来るよー、って教えてあげたんだけど、どうやらその生態も移り変わりつつあるみたい」
「人を観察動物みたいに扱わないでください」
斎藤さんとしょうもないやり取りを交わしつつ、僕は久々に日向のことを思い出した。
しかし、あの時の怒りは再燃するどころか、今や完全に沈下してしまっている。
僕は根に持つ性分ではないのだ。
とは言えあれ以来、僕は彼らと遊ぶことはなくなった。
それは単に、学校の時間は本を読んでいればいいし、放課後には鈴音に会いに行くわけだし、ただ、彼らがいなくとも僕の世界は成立していたというだけの話だ。
人というのは、どこにも居場所がないことは辛いが、どこかに一つでも安息地が見つけられたなら、それで充分な生き物なのだ。
まぁ、用があるならそのうち向こうから話し掛けてくるか。
適当な考えに落ち着いた僕は、受付にて本を借りるべく動き出そうとした。
が、一歩目でその足を止める。
僕は斎藤さんに向き直った。
「一つ、聞きたいんですけど」僕は話を切り出した。
「あたしに答えられることなら」斎藤さんは頼もしい返答をくれた。
昨晩から頭を捻っては、それでも答えを導き出せなかった疑問。
僕はそれについて訊ねた。
「今日は山に入るな、って言われたんですけど、斎藤さんは何か知ってたりしますか?」
これまで毎日のように森の中で落ち合っていた僕らが、何故、今日に限ってそれを制限しなければならなかったのか。
僕にはどうしても、その理由が理解出来なかった。
僕が顔を出せば、必ずその姿を現してくれる。
その相関関係がある以上、鈴音があそこで待ってくれているのは、もう当然のことのように思えていた。
だから今日も言いつけを破って山に向かえば「来ちゃ駄目だよって言ったのにさ~」と朗らかに笑う君が居る気がしてならなかったのだ。
僕の質問を受けて、斎藤さんは少々考える素振りを見せた。
「そうねぇー……禁足日、とかじゃないの?」
「禁足日?」
聞き慣れない言葉だった。
僕は鸚鵡返しで彼女に応じる。
斎藤さんは重ねて推測の予防線を張りながら続けた。
「そう、日頃狩りや木々の伐採でお世話になってる山の神様に感謝する日のこと。その日は山に入っちゃいけないんだって。私はよく知らないけど、たぶん今日がその日なのよ、きっと」
「なるほど…」
そう言うことか。
だから鈴音も、今日ばかりは山に来るなと言ったわけだ。
そのように僕はひとり、自分の中での答え合わせに納得する。
その間、斎藤さんは近くの本棚に手を掛けていた。
そこから本を一冊取り出し、調子よく更なる言葉を繋いだ。
「禁足日って言うのはねぇ、一時的に禁足地に早変わりするみたいなものだから、中々に背筋の凍る話が揃ってるのよ。例えばこの怪異小説なんかは──」
「結構です」
楽しげな様子で赤い表紙の本を紹介しようとしている辺り、やはり、図書館で働いている斎藤さんも本の虫の一匹ということなのだろう。
しかし、それは僕にとって耐え難い内容であった。
訪問セールスをあしらうよう片手を前に出す。
身振りで意思表明を済ませる。
僕は早々に受付に向かった。
が、行く手は大きな身体で阻まれる。
「ん?もしや少年は怖いものが苦手なのかな~?」
彼女は憎い笑みを浮かべながら僕を煽った。
僕は知らんぷりを貫き通した。
「ちぇ」と詰まらなそうな舌打ちが聞こえてくる。
難は乗り越えたか。
流石の斎藤さんも、僕がそれを明言しないからと言って本を貸さないなどという暴動に出ることもない。
結果、僕は無事に、目的の本を借り出すことに成功した。
でも、そこはあの人のことだ。
僕は借りるつもりのなかった本を一冊、彼女は無理に預けてきた。
「ま、少年もこれでホラー慣れしときなさい」
よし、一頁も捲ることなく返却しよう。
僕はげんなりとした気分で固い決意を抱いた。
対照的にニマニマとした笑顔の斎藤さんから、仕方なしにホラー小説を受け取る。
表紙でさえも見たくなかったが、それが視界の端に映るのは不可抗力であった。
その瞬間、見えない何かに頭を固定されたように、僕は表紙に釘付けとなった。
長らく手入れされていないであろう乱れた長髪。
病的にまで青白い肌。
真っ黒な眼窩。
そして、くすんだ白のワンピース。
典型的且つ王道の幽霊が、そこには描かれていた。
だが、脳内の情報処理はまだ止まらない。
長いこと掛け違っていた歯車が噛み合う。
それは確かな音を立てて絡繰りを起動させようとする。
神経細胞にシナプスが駆け巡る。
脳裏に断片的な単語が浮かんでは消えていく。
綺麗な白のワンピース。
雪のような肌色。
寒さを感じない。
雨にも濡れない肌は焼けない髪は伸びない。
そう言えばどうして、彼女はいつも時間ピッタリにあそこに居てくれてる──。
「……まさか、な」
脇下に僅かな湿り気を感じ取る。
嫌な痺れと共に、ピンと背筋が伸びた。
「少年、どしたの?」
斎藤さんは不思議そうにこちらを眺める。
「いえ、なんでもないです」
現実に引き戻された僕は、ぎこちない笑顔を浮かべた。
正直、妙な合致点が多過ぎると思った。
しかしまぁ、そんなことがある訳ないじゃないか。
事実は小説より奇なりとはよく言ったものだが、幽霊なんてものは科学的根拠に欠ける存在だろう?
あぁ、その通りだ。
うん、くだらないことを考えるのはよそう。
土砂崩れのような思考を強引に堰き止め、僕はあまりに飛躍したその可能性を、頭から追いやった。
♦♦♦
太陽が一周回って天に上ると、僕はまた山へと向かうようになった。
僕があそこに辿り着けば、やっぱり鈴音もひょっこりと姿を現した。
そんなことを何カ月も繰り返しているなんて、もしや僕らは、磁石のように引かれ合っているのだろうか。
いや、残念ながら、それは僕の一方的な思い込みなのだろう。
実際の僕らはS極とN極などではない。
単に僕の方が、彼女に引き込まれているだけだ。
だがこの数日間を境に、僕はそんな甘い幻想に浸っているばかりではいられなくなった。
馬鹿げた思考が脳裏を過っては、事ある毎に僕の心に陰りを与え始めたのだ。
これが、そのれっきとした証拠だろう。
彼女は懸命に首を伸ばしてこちらを覗き見ながら、不服そうに言った。
「…千風くん、もうちょっとこっち寄ってよ。じゃないと見えないからさ~」
二人揃って大樹の麓に腰を下ろし、今日は僕が本を開けている。
最早恒例となった読書会だ。
しかし、そこには以前と違っている点が一つあった。
それは、隣り合った僕らの距離感覚である。
前までの僕と鈴音は、肌と肌が辛うじて触れ合わないぐらいの間隔で座り込んでいた。
そよ風が吹けば君の髪が流れ、僕の頬にくすぐったい感覚を残す。
鼻孔には落ち着く匂いが広がり、僕の全身は骨が抜けたのように和らいだ。
それはそれは、実に安らかな心地でいられる時間だった。
けれど、今となってはどうだろう。
僕らの間には人一人分ぐらいの奇妙な空間が生じている。
彼女がこちら側へにじり寄れば、僕は距離を取るまではせずとも、その度に仄かな緊張感を覚えた。
この排他的な合間を設けたのは、僕の身勝手な行動によるものだ。
そしてそもそも、これまで彼女の傍に寄っていたのも、君が何も言わないことを良いことにしていた僕の方であった。
僕は不自然に、鈴音を遠ざけようとしている。
それは自分でも自覚していることであった。
そして彼女もまた、薄々何か勘づいてきたのだろう。
つい昨日から、僕の真意を図りかねた様子で、
「…ね、どうしたの?」
と頻りに尋ねてくるようになった。
その度に僕は精一杯の貼り付け笑顔で、
「どうかしたのか?なんでもないけど?」
と応じるのだ。
「…そう?なら良いんだけど…」
歯切れの悪い調子で言った君は、取り敢えず、僕の言葉に納得した素振りを見せた。
けれど、その表情にはほんの少しの憂いを残したままである。
そして、そんな君に出会えば出会うほど、僕の胸は注射針で刺されたみたいに、チクリと小さな痛みを味わう羽目になった。
僕は繰り返し自分に言い聞かせる。
脳内に纏わりつく二つのイメージを、なんとかして切り離そうとする。
でも、それは溶解した金属みたいに接合点で溶け合って離れてくれない。
じわじわと、彼女への心象に不純物が混じっていく。
そうだ。
鈴音は何も悪くない。
悪いのは間違いなく、割り切れない僕の方なのだ。
こうして鈴音に忌避感めいたものを抱いてしまった原因は分かっている。
赤い表紙のせいだ。
清廉な鈴音とあの汚らわしく陰湿な表紙絵は似ても似つかないはずなのに、いつしか僕は、それを混同してしまっていた。
一度でも錯覚が生じてしまえば、物事の見え方は大きく歪む。
その正否に関わらず、仮説の肯定に繋がる要素にばかり囚われてしまうのだ。
世にいう確証バイアス。
僕はまさに、その状態に陥っていた。
加えて、これまで腑に落ちなかった疑問の数々も、彼女が非科学的な存在であると仮定すれば説明がついてしまうのも問題であった。
尤も、前提をそんな都合の良いものにしてしまえば、当然の如く疑問というものは大概が解決してしまえるものだ。
けれど、当時の僕はそんな簡単なことさえ見落としていた。
例えば、仮に彼女が隣町の学校に通っているのだとしたら、距離的に考えて僕の方が先にここに着くはずなのだ。
なのに、いつもここで待ってくれているというのは、一体どういうことなのだろう。
他にも、そう言えばどうして、彼女は僕よりも先に帰ることはないのか。
何故、僕を見送っているのか。
そもそもいかで日常の話題を一つも吹っ掛けてこないのか。
考えたことを一から挙げるとキリがないが、それら全てが、鈴音と幽霊との結びつきを強めたことに違いはない。
言わずと知れたことだが、人は正体不明の未知を恐れる生き物である。
それは僕とて例外ではなかった。
僕には幽霊なんて居るわけないだろうと笑い飛ばせる勇気はない。
襲い来る幽霊に対して強気に立ち向かえるような度胸もない。
独り暗闇の中に放り込まれるようなことがあればもう駄目だ。
何処かで何かが、血眼になって生者を睨み付けているのでは。
そんな訳もない恐怖に苛まれ、膝を抱えて震えあがることだろう。
恐れという感情には人一倍敏感な僕が、僅かにでもその可能性を見出してしまったのが、運の尽きだったのかもしれない。
鈴音をそんな風に見てしまうなど、己の審美眼が曇ったようでこの上なく不快だった。
それでも、原始的本能には打ち勝てなかった。
もちろん、とって食われるかもしれない、などとまで思っているわけではなかった。
けれど、鈴音がいつか正体を露わにし、血走った目で僕を見つめる。
そしてその細い両手で僕の首を締め上げるのではないかと思うと、とても無防備に傍には居られなかった。
「んー…今日はもう読書やめよっか。千風くん、実は身体動かしたいんでしょ?」
鈴音は徐に立ち上がり、的外れなことを言ってのけた。
「…あぁ、そうしよう。やっぱり冬は寒いからな」
僕は彼女の良案にすぐさま乗り掛かった。
歩き回るとなれば、多少の距離を開けても怪しまれはしないだろうから。
そうして僕らが、不自然な距離感で大樹の下を発とうとした、矢先のことだった。
「千風!」
何処からか、聞き覚えのある声が響いた気がした。
それは彼女の清らかな声とは違い、若い男の子が発するような大きな声だった。
辺りを見回してみれば、僕らの前方には日に焼けた少年が見えた。
「日向か、久しぶりだな」
「…あぁ、こうやって話し掛けるのは、久しぶりだ」
僕がいつもの調子で言葉を切り出したのに対して、日向はやけに慎重に言葉を選んでいた。
僕らがまともに口を利いたのは、実に数カ月ぶりのことだった。
「よく僕がここにいるって分かったな」
「最近放課後になったら居なくなるから、もしかしたらここかと思って来たんだ。当たりみたいだったな」
二言目を発する時には、日向も以前の様子に戻っていた。
なるほど、彼がここにやって来られたのは、僕が一度連れてきてやったからか。
「それで、わざわざここまで来てどうしたんだ?」
「そのー…」
三言目になると、日向はまた言葉に詰まった。
首裏に手を当てる。
煮え切れない様子で右のつま先を立てている。
数度、靴先で地面に円を描いたところで、彼は意を決したようにこちらに顔を向けた。
「この前は、結構言い過ぎたなって思って…。やっぱり、このままじゃダメかと思ってさ…その、悪かった」
「あぁ、そんなの気にするな。僕らの間じゃ珍しくないことだろ?」
僕はあっさりと日向を許した。
実際、僕らは喧嘩が日常茶飯事みたいなものだった。
今回も特に、深刻な仲違いをしたという訳でもない。
これまでは大体、どちらかが謝りたい雰囲気を醸し出したところで、それとなく仲直りを繰り返していたのだが、今回の僕はそんなことはそっちのけであった。
その最大の理由が、僕の隣で身体を強張らせ、黙りこくっている彼女である。
せっかくの機会だと、僕は鈴音に目配せした。
それから「それよりさ」と僕が日向に話し掛ければ、
「だめっ──」
鈴音は小さな悲鳴を上げると共に、慌てて僕の服の裾を掴んだ。
しかしそれは一歩遅く、僕は胸を張って彼女を紹介してしまっていた。
「ほら、こいつが前に言ってた鈴音だ。植物博士で御伽噺にも詳しいんだけど…鈴音?」
遅れて彼女の妙な反応に気が付く。
鈴音は僕の服の裾をぎゅっと握り絞めた。
それから、僕の身体を遮蔽物にするように後ろへ隠れてしまった。
鈴音に身体の近くを掴まれて、僕の心臓は喜びと恐怖の二つの意味で大きく脈動した。
肩越しに振り返った視点を元に戻す。
日向は、僕を眺めて唖然としていた。
数秒口が閉じないような素振りを見せた末に、我が目を疑う様子で、恐る恐る言った。
「……千風?お前、一人でどうしたんだ…?」
「……は……?」
今度は僕が、唖然と口を開ける番だった。
瞬く間に頭の中が困惑に染められる。
日向が放った短い言葉を三度ほど繰り返す。
長い時間を掛けて、僕はそれが聞き間違いなどではないことを把握してしまった。
そして同時に、もう一つ、理解せざるを得なかった。
僕と同じか、或いはそれ以上に愕然としていた日向は、動揺したままに言葉を続けようとした。
「いや、だから一人で──」
それ以上は言わせてはならない。
言わせたくない。
言って欲しくない。
様々な感情が心に入り混じった。
僕は直感的な判断を下し、すぐさま言葉を重ねた。
「あぁ、ちょっと寝ぼけてたみたいだ。さっきそこで昼寝してたからさ。…まぁ、日向は先に帰ってくれ。また明日な」
春や秋ならまだしも、この寒さの中、外でうたた寝する馬鹿者など居るはずがないだろう。
その口から出まかせは甚だ杜撰なものであった。
でも、混乱状態の日向には効果覿面だったらしい。
捲し立てるように堂々と言い切ってやれば、彼も一先ず、そういうものだと飲み込むことにしたようだった。
「…あぁ、また明日な」
何かを不思議がりながらも、日向は別れの言葉を残して去っていった。
その背中が確実に見えなくなるまで見送り続ける。
残された僅かな間で、目が回るほどに思案を繰り返す。
僕と鈴音との空間に嵐が襲い来たことで、これまでの安寧は根こそぎ破壊されてしまった。
まぁ、ずっと前に僕は日向達を連れてきたのだ。
どう転んでも、このような結果には行き着いたのだろう。
これは僕の蒔いた種だ。
誰にも文句は言えまい。
さて、これからの僕はどうしたものだろうか。
いざという時には、全力でこの場から逃げ出さねばならないのだろう。
虫の音はおろか、鳥一匹の囀りさえ聞こえてこない。
冬の寂しい空気だけが、その場を突き抜けている。
僕はあらゆる可能性を想定しつつ、思い切って身体ごと振り返った。
その先には、視線を落として縮こまっている鈴音が居た。
そこには、普段の彼女が放つ明るい様子は微塵も見受けられなかった。
僕は警戒を怠らず、彼女の予備動作に備えた。
僅かな沈黙があった。
鈴音は滲んだような瞳で、僕を覗き込んだ。
「…え…っと、ね…。…その…わ、私は…」
しかしそれは言葉とならず、君は怯えたように声だけでなく身体をも震わせた。
それはまるで、大きな罪を犯したが故に相応の罰を待つ子供のような姿だった。
鬼が出るか蛇が出るか。
そういった心構えで後ろを向いた僕は、そのどちらもが姿を現さなかったことに思わず放心した。
やがて、鈴音の目尻には光るものが浮かんだ。
数滴の雫が、頬を伝って流れ落ちる。
大地は微かに黒く濡れた。
途端、訳もなく胸が締め付けられた。
まるで、大地に染み渡る水滴が己の心にも及んでいるかのように、僕は今の自分が何物にも代えがたい苦しさを覚えていることを、強く意識させられた。
──あぁ、そういうことだったのか。
その時、巨石が音を立てて瓦解するように、僕の中の変に凝り固まった価値観は一掃された。
十年近くと一緒にいる自分の一端をようやく理解できた気がして、それは心地良ささえ感じるほどに、不思議と腑に落ちる答えだった。
あんなにも掻き乱されていた心が、今は迷い一つ感じられない。
僕は何気なく身体を伸ばした。
彼女を追い越すよう、ゆっくりと歩き出す。
「じゃ、ちょっと身体動かしに行こうぜ。ずっと座ってて身体鈍ってるしなー」
「…千風、くん…?」
僕の間延びした言葉が、静まり返った周囲に木霊する。
それはこの緊迫した空気には似合わないものだ。
僕を呼ぶ君の声は、戸惑いを隠せていなかった。
僕は思い直したように数歩進めた足を戻した。
彼女の真正面に立ち、ポケットからハンカチを取り出す。
それで彼女の目尻から柔らかい頬にかけてを丁寧に拭ってやると、僕はいつも通りの、嘘偽りのない微笑みを向けた。
「ん?なんかあったか?ほら、早くしないと時間なくなるぞ」
まるで僕の行動が理解出来ないといった様子で、君は長らく、狼狽したように僕を見つめていた。
しかしある時になって、ようやくその表情に日を差し込ませてくれた。
僕はほっと胸を撫で下ろす。
そのまま鈴音は僕を追い抜くように駆け出し、やがてはいつものように僕を先導し始めた。
やっぱり、これで良かったんだな。
彼女の屈託のない笑顔を眺めていると、僕は深くそう思わされた。
暗黙の秘密が暴かれそうになった直前で、僕はなんとか、何よりも優先するべきものを再認識出来たのだ。
鈴音にはそんな顔をして欲しくないんだ。
いつでも太陽みたいな笑顔を魅せて欲しいんだ。
あんなにも不安そうに怖がる君を見たその時、僕の魂は切に叫んでいた。
回りくどい事はなしにして、結局のところ、それが全てだった。
要するに、君がこの地に囚われた地縛霊だろうと、或いは人の形に化けた妖狐だろうと、僕が君に抱く気持ちは変わらないのだ。
もちろん、本当のことが気にならなかったと言えば嘘になる。
でも、それで鈴音が嫌な思いをするぐらいなら、そんなことは知らなくてよかった。
僕と君とを天秤に掛ければ、どちらに傾くかは言うに及ばないことだった。
如何に表面が暗い靄に覆われようとも、奥底では真っ直ぐな感情が息をしている。
大切なのは属性ではない。
そこに想いが宿るか否かだけなのだろう。
そもそも、これほどにまで純粋な君が悪霊な訳がない。
よしや呪いを掛けられたとしても、どうってことはないのだ。
それにたぶん、僕にとって鈴音から授かる呪いというものは、驚喜の福音に等しいだろうから。
次回の投稿日は、7月21日の金曜日となります。
それでは、また次話でお会いしましょう!




