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⑥ 御伽の思い出

 

 

 何度思い返そうと、その日、僕の世界に大革命が生じ、君があらゆる物事の中心になったことに疑いはない。

 


 鈴音が右だと指差せばそこが右となった。

 彼女が夜だと唱えれば空は黒く染まって、そこに丸い月が昇るようになった。

 


 僕のすること為すこと全てに、鈴音の存在が関連付けられるようになったし、僕の生きる世界は、君が居て初めて成り立つものになった。

 


 つまるところ、当時の僕が築き上げようとした要塞は、あっさりと陥落してしまったというわけだ。

 


 気怠げなブレーキ音が聞こえた。

 列車が左右に大きく揺れ動く。



 どうやら目的地に到着したようだ。

 回想を一時切り上げ、僕は列車が停止するのを待った。

 


 いつも通り、終点で降りるのは僕だけだった。

 廃れたプラットフォームに足音が一つ響く。

 無人の改札窓口に切符を捨て置いた。

 


 古臭い駅を出て、はたと足を止める。

 降り注ぐ日差しを遮るように手をかざし、頭上を仰ぐ。

 


 そこには青天井の大空が広がっていた。



 大きな白雲が、上下にすくすくとたなびいている。

 陽光は過剰に降り注ぎ、地上の景色を歪ませていた。

 

 

 微かな風が立ったかと思えば、湿った熱気が身体を包み込む。

 深く息を吸い込めば、鼻いっぱいに懐かしい炎天下の匂いが充満した。

 


 駅前には閑古鳥さえ寄り付かない。

 僕は足を進め、近くのバス停で時刻表を確認した。



 どうやら、十分ほど前に先発が行ってしまったらしい。

 次のバスは三十分後に到着するようだった。

 


 まぁ、待つことには随分と慣れてしまった。

 それぐらいは許容範囲だ。

 気長に次のバスを待つことにした僕は、錆びたベンチにゆったりと腰を下ろした。

 


 そこら中から、締まりのない蝉の声が聞こえている。

 夏らしい夏に放り込まれたせいか、頭の中には風鈴の調べがちらついて止まない。

 その爽やかな音に導かれるように、僕はまた、頭を空っぽにするのだ。

 


 在りし日の追憶は続く。



 ♦♦♦



 あの日を契機として、僕らは再び時を共にするようになった。

 


 一年でも数少ない快適な気候の中、どんぐり拾いに繰り出す日もあれば、遠目に鹿の親子を見守る日もあった。



 秋風に揺られ、赤や黄に輝く葉が舞い散る森を駆け回る日もあったし、約束通り、幾色にも染まった帳の世界に見惚れる日もあった。

 それは、季節に似合った穏やかな日々だった。

 


 そうこう毎日を過ごしていくうちに、森の中には、木々の隙間を縫うような木枯らしが吹き抜けるようになった。

 


 色彩に富んだ紅葉樹も、もう山香ばしを除いてすっかり葉を落としている。

 田圃に首を垂れる黄金の稲穂は、綺麗さっぱり刈り取られてしまった。

 美しかったあぜ道には、今や殺風景な土色だけが広がっている。

 


 二度目の季節の移ろいを前にして、馴染みの図書館から借り出した蔵書を片手に、僕は今日も今日とて山に入り浸っている。

 


 こちらもすっかり慣れた道になってしまって、僕はすぐにいつもの場所に辿り着いた。

 


 周囲の木々が剝げ始めたからこそ、常緑樹であるシンボルツリーは一層の存在感を放っている。

 シンボルツリーの周辺には、赤黄色の落ち葉や褐色化した枯れ葉が散り積もっていた。

 


 その下の方で、地面に張り付いたナズナの緑が見え隠れしている。

 三色に彩られた大地は、さながら錦の絨毯のようであった。

 


 紅葉が最後の輝きを放っている世界の中、巨木の大きな幹に寄りかかっている君は、僕の姿を見つけるや否や、大きくその手を振ってくれる。

 


 それだけで僅かに血の巡りが速まった。

 僕は飛ぶように彼女の傍に駆け寄った。

 


「そう言えば、今回は千風くんの番だったよね」



 鈴音は思い出したように言う。

 すとんと、彼女はその場に腰を下ろした。

 僕も同じように大樹に身を預け、足を台替わりにして本を用意した。



「今日はなんのお話なの?」



「これは司書さんにお勧めされたんだ本なんだけど…」



 僕の持ち寄った本が気になるのか、隣に座る鈴音はこちらに身体を傾けた。

 


 黒髪が僅かに揺れ、君の柔らかな匂いが流れ込む。

 その度に僕の心臓は早鐘を打つ。

 全身に真っ赤な熱が蓄積していく。

 


 言わずもがなではあるが、それは変化のほんの一部分に過ぎない。

 たとえばあれ以来、僕は長い間、君と瞳を合わせることが出来なくなった。

 


 もちろん、一瞬、目が合う程度なら何の問題ない。

 でも、その状態が長く続くと、僕の胸の奥はこそばゆくなるようになってしまった。

 


 けれど、いつまでもそんな調子ではいられない。

 冷たい空気を吸い込み、熱の籠った身体に落ち着きを与える。

 僕は平静を取り戻した。



「今日はエロスとプシュケの話…ギリシャ神話だな」



 僕は気を取り直して古臭い表紙を見せてやった。



「あ~、あの二人のことかー!」彼女は得心したように声をあげた。

 


「これも知ってるのか?」僕は驚き声で尋ね返した。



「前も言ったでしょ?私は全部覚えてるって」鈴音は堂々と答えた。

 


 なんと本人が言うには、彼女は御伽噺の全てを、その小さな頭の中にインプットしているらしい。

 


 さて、それが真実かどうかは定かではない。

 しかし現に、鈴音が僕にその手のお話を語る時は、本を持って来ずに自分の言葉で話し始めるのだ。

 


 鈴音の方が内容を把握しているならば、このように隣り合わせに座り、これからわざわざ二人で文章をなぞる必要もないのかもしれない。

 


 だけど、こうやって二人で息を合わせて黙読をすることは、仲直りを境とした僕らの日常の新たな一コマに加わっていた。


 

 鈴音がこういう御伽噺にも精通している。

 そのことを知って以来、僕らは数日に一度、こうして大樹の下で並んで座っては、それぞれの持ち寄ったお話を語らうようになった。

 


 僕が本に触れる習慣を身に付けられたのは、間違いなく、隣で熱心に文字を追っている君のお陰なのだろう。



 差し詰め、僕にも読書の秋がやって来たとでも言えばよいだろうか。

 尤も、そろそろ秋も終わりが近しいし、季節が変わろうともこの時間は続いていくのだろうが。



「愛と疑いは一緒にいられない」



 最終頁を見届けると同時に、嘆息の混じった淡い声が聞こえた。

 


 ふと、横に首を向ける。

 彼女は薄い青の秋空の先を眺めていた。

 数拍の間を置いてから、鈴音は僕に問い掛けた。



「千風くんはさ、どう思うかな?」

 

 

『愛と疑いは一緒にいられない』



 簡単に言えば、それはエロスとプシュケの物語の一節に出てくる格言のようなものだ。

 


 まずは、エロスとプシュケについて大雑把な説明をしておこうか。



 物語の中心人物は、プシュケと呼ばれる絶世の美女と、彼女を愛したエロスという神様だ。

 そしてその内容は、二人が様々な苦難を乗り越え、最後には幸せに至るというものである。

 


 件の格言が出てくる場面に焦点を当てよう。



 その物語では、人間と神が結ばれるには、人は決して神の姿を見てはいけないというルールが存在していた。

 その為にエロスは、プシュケに姿を見せないように生活していた。

 


 しかしプシュケは、夫であるエロスが人食いの怪物なのでは、という疑心を捨てられない。

 とうとう、エロスの姿を目視してしまう。



 言いつけを守ってくれなかったプシュケに対して、エロスはその言葉を残し、去ってしまった。

 大体こんな感じだろう。

 


 なるほど、言われてみれば、それは確かに深い意味を持った言葉なのかもしれない。

 僕はたっぷり熟考した末に、彼女を見やりながら答えを出した。



「愛と疑いは共存できる。僕はそう思う」



 鈴音は目配せで続きを促した。

 言い切った僕は、なんだか先生に発表しているような緊張感で理由を付け加えた。



「例えば、愛している人がいたとして、その人に一滴の疑いも向けないなんてことがあったら、それはもう盲目の愛情じゃないか?相手を疑う気持ちが芽生えて、それが胸を渦巻いたとしても、相手を愛することは出来ると思うんだ」



「…だから、愛と疑いっていう気持ちは、必ずどっちか一つしか選べないものなんかじゃなくて…えっと…」



「一方を立てると、他方が立たないものじゃないってことだね」



 頭の中に思い浮かべるイメージを言語化しようとして、でも、それは話しているうちにどんどんとこんがらがっていった。

 僕が上手く言葉を纏められなくなっていると、彼女は小さく笑いながら、上手い言い回しを与えてくれた。



 解答には三角を付けられてしまった。

「はい、そうです」と僕は思わず、畏まった返事をした。



「鈴音はどう思ってるんだ?」



「私はね、愛と疑いは一緒にいられないと思うよ」



 代わり番こに訊ね返せば、鈴音は僕と真逆の答えを呈示した。

 同じように視線を送ると、彼女はすらすらと言った。



「だってさ、どれだけ愛してる人がいてもね、その人に疑いを抱かせるようなことをしたら、或いは、疑心の念を抱かせたままにしていたら、きっと相手は、その人を愛してなんかいられなくなるよ。その人の愛は疑いに塗り潰され、そうでなくとも疑いが勝るだろうからさ。私にとって、愛と疑いは相反するものだと思うな」



 鈴音は確固たる様子でキッパリとそう主張した。

 そこには水と油の如き、僕と君との決定的な価値観の差異が現れているように思えた。

 


 愛情が別の形に歪められてしまう。

 彼女の語ったその言葉は、僕にとっては何処かもの寂しいものに思えた。

 


 それでも、僕は出来るだけ鈴音の思考回路に寄り添いたくて、懸命に頭を捻らせた。

 そんな僕を穏やかに眺める彼女は、「それにね」と言葉を続けた。



「『信じることは見ること』って言葉も、その本には書かれてたでしょ?」



「それってさ、信じることが前提になってるよね。疑っていたら信じれないのはもちろんだけど、そもそも、愛と信頼は表裏一体だと思わない?」



「それはそう思う。信じられなきゃ愛することは出来ない。…って、これじゃ鈴音の解釈の方が正しいってことなのか」



 信頼と愛は強固に繋がっている。

 彼女の問い掛けに対して、僕は迷うことなく同意した。

 そして思ったのだ。

 


 物語上では『愛と疑いは一緒にいられない』とエロスに言われた当の本人であるプシュケこそが、最終的には『信じることは見ること』であると語るようになった。

 


 となると、回り回って疑いと愛もまた相容れないものであると言えるのではないだろうか、と。

 


 君の完璧な推論にはぐうの音も出ず、僕は両手を上げて降参した。



「あ、別に言い負かしたかったわけじゃないよ。千風くんの考え方だって素敵だし、それぞれ思うことなんて千差万別なんだから」



 消沈した僕を気に掛けてくれたのだろう。

 鈴音は僕の肩を持つように微笑んでくれた。



 ささやかな同情を噛み締めた僕は、「読んでて一つ疑問に思ったんだけど」と話を続けた。



「『信じることは見ること』じゃなくて『見ることは信じること』じゃないのか?ことわざだってそうだろ?」



『見ることは信じること』



 これは確か、英語圏のことわざを日本語訳したもので『百聞は一見に如かず』と同じような意味を持っているものだったはずだ。

 夏休みの国語の課題を真面目に取り組んだことが功を奏したのか、僕はそんな言葉を覚えていた。

 


 尋ねられた鈴音は、一つも躊躇うことなく言った。



「ううん、信じることは見ることなんだよ」



 目線で続きを欲すると、彼女はまた流暢に言葉を並べ始めた。



「信じることで…つまりそう在ると考えることで、信じた世界が見えるようになる。これはね、イエスの奇跡によって盲目が解かれた人の話なんだけど、見えない状態でもイエスを信じたことで、本当に見えるようになったって言う──」



「あっ、ごめん。ちょっと難しい話だったね」



 饒舌に語り尽くそうとした鈴音は、不意とこちらを眺めた。

 そして、しまったとばかりの様子で口元を抑える。



 その難解過ぎる話を前に、僕が思わず放心してしまっていることに気が付いたのだ。

 


 最初こそ、僕も鈴音の言わんとすることを噛み砕こうと必死になっていた。

 けれど、頭は知らぬうちに限界を迎えていた。

 僕はつい、相槌を打つことさえ忘れてしまったのだ。



 鈴音が博識を発揮する場面を妨害してしまった僕は、代わりに彼女を称賛するべく、その口を動かした。



「いや、大丈夫だ。…ほんと、鈴音はなんでもかんでも知ってるんだな。いつも僕の方が与えられてばかりだ」



 僕は誇張なしの褒め言葉を贈ってやった。



 対する鈴音の反応は、僕の望んだものとは大きくかけ離れていた。

 間違いなくあの満面の笑みが見られると思っていたのに、実際の彼女はというと、微妙な思案顔を浮かべていた。



「んー…そんなことないんだけどなぁ~」



 別に、鈴音を褒め上げるために自分のことを下げたわけではない。

 僕は紛れもない本心で言ったつもりだった。

 だが彼女曰く、案外そういう訳でもないらしい。



「じゃあさ、僕は鈴音に何を与えられてるんだ?」



 と、僕の口がその形に動こうとした、直前のことだ。



 鈴音は不意と立ち上がると、お望み通りの無垢な微笑みを浮かべてくれた。



「さ、日が暮れる前に駆けっこしに行こうよ!」



 今日も一番欲していたものを拝めて、僕の心は充分に満足を示していた。

 


 もう意識は完璧に、その魅惑の笑顔に持っていかれている。

 僕は二の句を継ぐこともなく、駆け出した君を追い掛けるように大樹の下を発った。

 


 見える世界が丸ごと変わって以来、僕は事ある毎に、君の一挙一動に振り回され続けていた。

 


 君の横顔に見惚れ、

 君の微笑みに脳を蕩けさせ、

 その美しい声で名前を呼ばれる度に、心臓が大きく鼓動した。



 そんな風に、僕は目の前に浮上した初めての感情にばかり没頭していたのだ。

 


 そしてだからこそ、僕は最も注意を払わなければならないことに、意識を向けられなかった。

 


 それをあえて言葉にするのならば『愛と疑い』に関する僕と鈴音の価値観は、確かに食い違っているように見えたかもしれない。

 


 だけど、最も注意すべきことだったことは、そこじゃなかった。

 


『愛と疑い』に対するアプローチの方向性が、全くの真逆であること。

 


 それこそが、僕らがお互いにすり合わせるべきことだったのだろう。







次回の投稿日は、明日の7月16日、日曜日となります。


それでは、また次話でお会いしましょう!

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