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⑤ 中核の思い出




 七日に二度訪れる休日。

 安息日一歩手前であるその週末は、風の強い日であった。

 


 青い空に浮かぶうろこ雲が、左から右へと忙しく流れ去っていく。

 太陽だけがその位置取りを変えることなく、薄雲をすり抜けて輝きを放っていた。

 


 それは絵に描いたように気持ちの良い秋晴れだ。

 しかし、その天気とは真逆の歩調が、アスファルトを物憂げに鳴らしていた。



 一歩進む度にため息が聞こえてきそうなほどに、その足取りは異常に重々しい。

 まるで彼の周りだけが、酷く重力の影響を受けているようだ。

 


 その少年こそが、今の僕だった。

 


 こんなにも良く晴れた日だというのに、僕は山に向かっていない。

 その事実が頭に圧し掛かり、心身は一層、憂鬱な気分へ沈んでいく。

 


 頭上に見える太陽が恨めしい。

 本来辿っていたであろう道筋とは別の方へと、僕はトボトボと向かっていた。

 


 鈴音と遊ばなくなって、どれぐらいの日々が過ぎ去っただろうか。

 少なくとも、ここ一カ月近くは彼女の姿を見ていない気がする。

 


 鈴音と会わないうちに、世界は随分と涼しくなってしまった。

 今や山はあちこちで、緑色から赤黄色へと衣替えを始めていた。

 


「秋になったらさ、紅葉狩りなんかもしよーね!」



 季節に合わせて姿を変える遠くの山々を眺めていると、その時が待ち遠しそうに話してくれた鈴音を、そして「あぁ、楽しみだな」と、楽しげに笑う彼女に向けて頷いた僕を思い出してしまう。

 


 約束破りな自分が嫌いになりそうだ。

 


 だがその美しい記憶を塗り潰すように、脳裏は次いで苦しげに笑ったあの日の鈴音を映し出す。

 


 とっくに胸の中心にまで食い込んでいた杭は、今日も背中から飛び出す勢いで、何度も強く打ち付けられた。

 


 胃に詰まった苦い空気を無理に吐き出す。

 僕はなんとか、胸を穿つ痛みを堪えようとする。



 その記憶こそが、何から何まで僕が悪かったことを、いつ何時でも僕に思い知らせてくれた。

 そして今度こそ、僕は僕が大嫌いになった。

 


 思い出すのは三週間ほど前、鈴音を傷付けたあの日のことだ。

 


 日向達に取るに足らないプライドを踏みにじられ、下らない苛立ちを覚えた僕は、あろうことか彼女に八つ当たりしてしまった。

 


 確かに、その一瞬に燃え上がった怒りのエネルギーは凄まじかった。

 が、この手の感情というものは長続きはしない。



 鈴音が走り去った時には既に、僅かながら燻る火種にも冷水を掛けられていた。

 家に帰って一晩寝てしまえば、翌日にはすっかり別の感情だけが胸を覆い隠していた。

 


 怒りの次に訪れる感情など、後悔以外の何物でもないだろう。

 翌日からの僕はと言えば、あの日の選択全てを恨み、やり直したいと願い、だが、その場で足踏みを続けていた。

 


 だからこそ、こうして鈴音と会わない日々が続いて、今も山に向かおうとしない僕がここに居るのだ。

 


 そして今日もまた、僕は彼女に会いに行けなかった。

 今度は隠さずため息を吐き出す。

 僕は暗い気分に塗れたまま、辿り着いた図書館に入ろうとした。



「少年、最近元気ないねー」


 

 ドアノブに手を掛けたところで、ふと、見知った声が僕を引き留める。

 一応、後ろを振り返ってその姿を確認してから、僕は返事をした。



「…斎藤さん。こんにちは」



 これからが勤務時間なのだろう。

 まだ、彼女は首元からネームプレートを垂らしているわけではなかった。

 けれどもここ数カ月の付き合いで、声の主がお節介の過ぎる司書さんであることはすぐに分かった。

 


「こんにちはー」と斎藤さんは適当な挨拶を返す。



 そしてこちらが本題であると言わんばかりに、彼女は僕の方へ身を乗り出した。



「で、どうして少年はそんなに落ち込んでるのかな?しかもここ数週間も」



「別に、落ち込んでなんかないですよ」



 斎藤さんは僕の目を覗き込むようにして訊ねた。

 僕は彼女から目を逸らし、適当な言葉でやり過ごすという選択肢を選んだ。

 


 そんな僕を見た斎藤さんは、呆れた様子で首を振った。



「ほらほら、すぐそうやって君は誤魔化すよねー。お姉さんに話してみなさいよ。自分で抱えてたって解決しないものは、誰かに話すのが一番なんだから。あ、これ経験則ね」



「…」



 自分の悪癖を見抜かれて、尚且つそれらしいことを年上の人に言われてしまえば、話してみる価値もあるように思えた。



 実際のところ、僕一人で色々と考えた結果が、約一カ月も鈴音に会えていないという事実なのだから。

 


 僕は恥も外聞もかなぐり捨てた。

 極力言葉を選びながら、斎藤さんにあの日のことを簡潔に説明した。

 


 そのなんとも情けない話に耳を傾けたお姉さんは、一通り僕が話し終えると、こう言った。



「ふ~ん…なるほど…。つまり少年は、その子と仲直りしたいってこと?」



 小さく首を縦に振る。

 彼女はケロッとした様子で答えを出した。



「だったら早いとこ『ごめんなさい』って言えばいいだけじゃん」



「…それが出来たら苦労しないんですよ」



 その一見近道に想える答えを前に、僕は大きく肩を落とした。

 


 その失望は果たして、彼女の案に向けられたものなのか。

 それとも僕自身に向けられたものなのか。

 それは火を見るより明らかである。

 


 そうだ。

 僕だって本当は、そんなことにはとっくに気が付いているのだ。

 かれこれ一カ月もぐだぐだ悩んでいることなんて、実は簡単に解決出来るものだということぐらい。

 


 斎藤さんの言う通り、僕が今すぐに山に向かって、それでもし、鈴音が居てくれたらその場で全力で謝って、また仲良くして欲しいと言えばそれで済む話なのだ。

 


 でも、僕にとってそれはいばらの道であった。

 


 もし、鈴音が僕を赦してくれなかったら?

 もう絶交だと言われたら?

 そもそも、二度とあそこに来てくれなかったら?

 


 その諸々の不確定要素に目を向けてしまうと、臆病な僕はその行動を選べなかった。



「やらない後悔よりやる後悔。謝られて嫌な気分する人なんていない。さぁ、レッツアポロジャイズ!」



 僕の重い腰を押し上げるようにして、斎藤さんは軽い調子で鼓舞してくれる。

 けれど、僕はいつまで経っても思い迷って、その椅子から退こうとしなかった。

 


 そんな僕を前にして、彼女は珍しく、真剣な表情を作った。



「…あのさ、その子に嫌なことしちゃって、それで会えなくなっても、少年はこうやって植物のこと知ろうとしてるわけでしょ?」



「ってことはさ、少なくとも少年は、まだその子と仲良くしたいって思ってるんだよね?」



 斎藤さんに核心を突かれて、僕はハッと気が付かされた。

 


 何もかもがその通りであった。

 鈴音を傷付けて一緒に遊べなくなった今、それでも、僕がなんとなく図書館に足を運び、自然に関する知識を追い求め続けた理由なんて、それ以外に有り得ないではないか。

 


 僕は素直に頷く。

 斎藤さんは諭すように続けた。



「じゃあ、やっぱり早く仲直りした方が良いよ。ここで頑張んなきゃ一生このままだよ?少年はそれで良いの?」



 もう二度と、鈴音とは遊べない。

 僕は彼女と笑い合うことが出来ない。

 


 ふと、そんな光景が頭に浮かび上がった。

 一瞬の沈黙の後に、僕は斎藤さんに確かな決意表明をした。



「…分かりました。ちゃんと謝りに行きます」



 僕の答えを聞いた彼女は、親指を立てて叱咤激励してくれた。



「えらい!良くぞそう言った少年!折角ならさ、お花屋さんで手向けの花用意してあげれば?植物好きの子なら絶対喜んでくれると思うよ!」



 斎藤さんの良さげな案を採用することにした僕は、すぐさま下準備に取り掛かることに決めた。

 思い立ったが吉日というやつだ。

 本を借りるのはまたの機会にすることにして、まずは自宅へと舞い戻ろうと思った。

 


「頑張りなさいよ、少年」



 駆け足でその場を去る僕へ向けて、斎藤さんは手を振ってくれる。

 振り返った僕は元気よくお礼の言葉を述べ、急いで踵を返した。

 


 この一カ月の間、僕の心身を蝕んでいた暗澹は、爽やかな秋空に吸い込まれていった。









 ♦♦♦









 間もなく家に帰ってきた僕は、手を洗うこともなく二階の自室へ駆け込み、机上にある銀の缶を迷うことなくひっくり返した。

 


 小さな貯金箱に入っていたなけなしのお小遣いを握り締める。

 その足で花屋へと向かう。

 花屋のおじさんに相談し、仲直りに相応しい花を一つ、購入した。

 


 心も身体も、今すぐに鈴音の元へと駆けていくつもりだった。

 しかしながら、その頃にはもう世界は赤焼けに包まれていた。

 


 今日は時間がないことを悟った僕は、明日こそは、と意気込みながら帰路を辿った。

 気持ちの逸る自分を落ち着けられず、その夜は上手く寝付けなかった。

 


 翌朝、僕が重い瞼を擦って目を覚ますと、まずは肌寒さが皮膚を襲った。

 その時点で、限りなく嫌な予感がしていた。

 


 続いて、耳が痛くなるほどの轟音を聞き取る。

 僕は寝床から飛び起きた。

 


 慌てて窓へと身を乗り出す。

 そこには、深い曇天に包まれた街並みが広がっていた。



 幾層にも重なった暗雲からは、大粒の雨が激しく降り注ぐばかりでない。

 ごうごうとおどろおどろしい音を立てて、横風が勢い強く吹き荒れていた。

 木々が暗がりの中で横に揺れたと思ったら、自宅が心臓に悪い軋み音を立てた。

 


 これは山に向かえるような日ではない。

 鈴音に謝りに行くのはまた明日にしよう。

 最悪の気象状況を前に、僕はすぐさま合理的な判断を下した。

 


 が、そこでふと立ち止まる。

 僕は脳裏に過らせてしまったのだ。



 この一カ月もの間、心の中で何かしらの言い訳を重ねては「ごめんなさい」が言えなかったような愚者が行動を先送りにしたのならば、果たしてそれは実現されるのだろうか、と。

 


 自分のことは自分が一番解っている。

 答えは自明の理であった。



 明日の僕に託すことを、数十回と繰り返してきたのが今日の僕だ。

 こうしてまた都合の良い理由に縋り付いていては、きっと明日の僕は今日の僕になって、また実現不能な明日の僕を思い描くのだろう。

 


 僕はいつまでこんなことを続けるつもりなんだ。

 もうそんなことを繰り返している暇はないぞ。



 せっかく花も買ったんだ。

 花弁が落ちるのを待つつもりか?



 こんなに綺麗な花を渡せば、鈴音だって屈託のない笑顔を零してくれるはずだ。

 だから今日に行け。

 今すぐ山に向かえ。

 


 言い聞かせるように自分を駆り立てた僕は、直ちに朝の準備に取り掛かった。

 もし、母さんが家に居たなら、強風と大雨の中、外へと繰り出そうとする僕を引き留めたことだろう。

 


 だが、運が良かったのか悪かったのか、今日の母さんは朝早くから仕事に出ていた。



 作り置きのおにぎりで朝食を済ませ、手早く合羽を身に付ける。

 忘れずに仲直りの印を携えると、僕は意を決して玄関を出た。

 


 正面から吹き荒れるあからしま風が、合羽に覆われた頭部をいとも簡単に露出させた。

 風に呷られ身体を浮かされないよう、姿勢を低くして一歩ずつ足を進める。

 単なる住宅路を歩くだけなのに、自転車で向かい風に突っ込む以上に体力を消耗させられた。

 


 豪雨に身体を晒しながら田圃のあぜ道に辿り着く。

 ここに来るまでには、傘どころか人一人として見ることはなかった。

 どんよりと暗い空も相俟って、それはさながらゴーストタウンにやって来たかのようだった。

 


 用水路の水流が荒くうねっている。

 その横を突き進んでいくと、やっとのことで森の入り口が見えてくる。

 薄暗い木々の住処に立ち入れば、気休め程度には雨風がマシになった。

 


 それでも、時間が経過するごとに暴風が狂風に、豪雨が一段と凄まじく大地を叩き付けていく。

 僕は徐々に、疲労を蓄積させていった。



 季節せいもあって、冷雨が身体を打ち付けていたこと。

 それから、風に吹き飛ばされないよう木々の枝にしがみ付いたりしたことも、影響していたのだとは思う。

 


 髪はシャワーを浴びたようにびしょ濡れになって、身体は芯まで冷え切っていた。

 加えて、指先の感覚が分からなくなり始めた。

 


 軽く息を切らしながら、僕は現在地点を確かめるよう周囲を見渡す。

 目的のシンボルツリーに向かうには、ここからどう動けば良いのかを再確認しようとしたのだ。

 


 しかし、僕はその場から一歩も足を動かすことができなかった。



 最近、この辺りを歩いていなかったせいだろう。

 季節が転じて森の様子も変化したのか、ここが何処なのか、僕はいまいち判然としなかった。

 


 だが、ここで立ち止まり続ける訳にはいかない。

 身体を動かすことをやめてしまえば、気温と雨風にやられた身体が震えてしまう。

 僕は感覚に頼って前進を再開した。

 


 糸のように細かい雨が、周囲を霧のような不明瞭さで覆い尽くしている。

 日光の代わりに雨粒が注ぎ込まれる暗い木々の密集地帯は、一転して僕に陰鬱な印象を与えた。

 


 不思議と恐怖心は芽生えなかった。

 今の僕には目指す場所と目的があるからこそ、余計なことに頭を使わなくて良かったのだろう。

 


 いや、本当のところは、そうじゃないかもしれない。

 今更後ろを振り返ったところで、もはやこの深い森から出ることは叶わない。

 無理にでも、そこから目を逸らしていたという可能性もある。

 


 一旦孤独と恐怖を認識してしまえば、もう正常な判断を下せる気がしなかった。

 とは言ったものの、引き返すという道を選べなかった時点で、まともな思考が出来ていたかどうかは怪しいものだろうが。

 


 絶え間なく降り落ちる雨水は、次第に合羽の隙間から内側へと染み込んでいった。

 靴の中までもが冷水で浸食され、身体から熱量という熱量が奪われていった。

 


 徐々に身体が震え出す。

 やがて小刻みに揺れ始める。

 雨に打たれて全身は重くなり、唇は色を失いつつあった。

 


 それでも前へ前へと突き進み続け、しかし、シンボルツリーの蜃気楼さえ浮かんでこない。

 見覚えのある山道を歩いているはずなのに、暴雨の世界では映るもの何もかもが違って見えた。

 


 激しい雨水に穿たれた斜面には、所々で古い石段のようなものが露出していた。

 嵐に幹を傾かせている木々の中で、頑強にも真っすぐ伸び続ける大樹が一本、視界の端に映った。



 ようやく着いたのかと思って右手に視線を移すと、それは、途中でポッキリと折れてしまっている禿げた木の円柱だった。

 


 感覚的にはもう目の前に大樹が見えるはずなのに、一向にその姿は伺えない。

 いつまで経っても同じ場所を歩き続けているような気がしてならなかったが、僕は低回するように右往左往することしか出来なかった。

 


 そうこうしているうちに、暗雲の立ち込める空は一層の悪天候に見舞われていく。

 ときおり、鼓膜を破壊するような白の嘶きが、不気味に辺りを照らし出すようになった。

 雨音の中には帰れ帰れと世界が僕を拒む声が聞こえた。

 


 だとしても、僕は撤退の二文字を選ぶことは出来なかった。

 もはや何かに導かれるようにして、ひたすらに突き進み続けることを選択した。

 


 下風に足元を掬われないよう、強く大地を踏みしめる。

 森の遥か先に視点を固定させ、シンボルツリーを探し求め続ける。

 


 少しずつ少しずつ、だが確実に一歩前進を繰り返す。

 凄まじい豪雨で視界不良の中、僕は懸命に視線を左右へと動かし、遠くを眺めていた。




 結果から言えば、それがいけなかったのだろう。

 



 一際強い逆風が吹き込み、僕は押し返されないよう両足で深く踏ん張った。

 幾ばくか風が弱くなったところで、右足を大きく前に繰り出す。

 それから右足に力を込めて、今度は左足を蹴り上げるように前へ持ってくる。

 


 その幾度となく繰り返した作業に、微かな異変が生じた。

 


 どれだけ右足に重心を寄せても、どういう訳か、僕は大地の感覚が掴めなかった。

 おかしいな、と何気なく視線を下に向けたところで、目には衝撃的な光景が飛び込んできた。

 



 僕の右足は、宙に浮かんでいた。

 



 大地が続くと思われていたその場所には、地滑りが起きたような空間が広がっていたのだ。

 



 ゾッと、背筋に強烈な悪寒が走る。

 あっと気が付き身体を引っ込めようとするも、もう何もかもが手遅れだ。

 既に身体は前のめりになってしまっていた。

 


 死に物狂いで崖上へと手を伸ばす。

 僅かに、片指が崖先に届く。

 が、その程度で全体重を支えられる訳もなく崖先の突起から左手が剥がれ落ちる。

 


 今度こそ宙に投げ出されて、僕は元居た場所を見上げる形で仰向けになった。

 


 頭の中は真っ白だった。

 頼りない悲鳴を上げることすら出来ずに、僕は崖地から身を投げる嵌めになった。

 


 受け身を取ることさえままならない。

 自分の不注意を悔やむ暇もない。

 脳は自身に起きたことを上手く処理できなくて、僕は身を藻掻かせることすら忘れていた。

 


 放心状態で自由落下に身を任せていると、突然、肉体を突き破るような衝撃が、背中の一点を貫いた。

 それは、金属バットで脛を叩き割られたように凄まじい威力だった。



 視界が暗転と明転をせわしなく繰り返す。

 そのまま二転、三転と、ピンボールみたいに身体のあちこちが崖地とぶつかり合う。

 やがて、僕は投げ捨てられたように崖下に倒れ込んだ。

 



 長い間、周囲は静まり返っていた。

 



 僕はうつ伏せの状態で地に蹲る。 

 体中の機能が停止したかのように、肉体はピクリとも動かなかった。

 



 降り注ぐ大雨が、音という音を掻き消していく。

 冷雨に打ちのめされた身体は、増々冷え込んでいく。

 そのせいか、興奮状態で麻痺していた感覚も元に戻り始めた。

 段々と、身体の至る所が、鈍い衝撃や鋭い激痛に襲われた。

 


 掛け値なしに、それは顔面が渦を巻いて歪むほどに酷い苦しみだった。

 


 言葉にならない呻き声が、喉奥から絞り出される。

 あまりの痛苦に無意識に身を捩る。

 それが、無理に動かした身体の痛みを増長させた。

 悪循環の中で、僕は獣のような叫び声を上げていた。

 


 だけど、その状態が暫く続いてしまうと、次第に、身体に起こった異常事態がどうでもよくなっていった。

 


 熱を帯びた傷口に死神の吐息が纏わりつく。

 呼吸が遠のくように深くなっていく。

 なんだか、身体がやけに軽いというか、それはまるで空に浮かんでいるように、心地良い気分だとさえ思えた。

 


 ぼんやりと霞む視界の先に、薄暗い緑が映え広がっている。

 突如、片目が鮮やかな赤に覆われた。

 でも、それを拭う力さえ僕は振り絞れない。

 


 朦朧とする身体に反して、意識は異常なほどに鋭敏だった。

 だから、今の僕の身体に何が起きて、これがどういう状況なのかはなんとなく理解出来てしまった。

 


 まぁ、誰かを傷付けるような人間には、これがお似合いの末路なのだろう。

 僕は不思議と、この理不尽を受け入れてしまう。

 


 色々とやり残したことはある。

 一番に思い浮かぶのはやっぱり、鈴音と仲直りが出来ず仕舞いになってしまうことだろうか。

 


 だけど、この結果は因果応報なのだから、致し方がないことだ。

 それに、あれから一カ月も経ったのだから、きっと鈴音は僕のことなんて忘れて、普段の日常に戻っていることだろう。

 


 このまま誰も居ない場所で、雨粒と共に大地に染み込んでしまえばいい。



 僕は投げやりな気持ちで、自ら全身の力を抜いていく。

 自然な流れに身を任せて、重い瞼をゆっくりと閉ざした。

 


 そうして僕が、胸の奥で大事に抱え込んだもの全てを手放そうとした、その時のことだ。



 何かが、こちらに駆け寄って来るような音が聞こえた気がした。

 


 なんだろう、と思って、なんとなく瞼を薄く持ち上げてみる。

 二重にも三重にも重なった、輪郭の覚束ない君の姿が見えた。



「なんで…なんでこんな嵐の中っ…」



 そんな君は、今にも泣き出してしまいそうな程に表情を歪ませている。

 その口から繰り出した言葉は、酷く取り乱したように震えていた。

 


 君が動揺するなんて、らしくないな。



 僕は他人事のように思いつつも、結局、僕は最後まで君を笑顔にしてやれないんだな。

 どう足掻いても僕は僕が大嫌いになった。

 


 きっと、目の前にいる君は幻なのだろう。

 僕の未練が形となって現れただけなのだろう。

 


 だとしても、もう身体は動かないけれど、心は君に伝えたがっていた。

 ちゃんと言葉にしておかないと死んでも死にきれないように思えた。

 


 だから僕は残る力をかき集めて、微かに唇を震わせたのだ。



「……ごめん、鈴音…嫌なこと、たくさん、言って…」



「……ずっと…謝れ、なかったけど……僕はやっぱり、鈴音と一緒に居たくて…うん、許してくれないかもしれないけど、ごめん…」



 僕はちゃんと、伝えきれたのだろうか。

 徐々に鈴音の姿が霞んで、突然、真っ暗が訪れた。



 それは黒よりも深くて濃い、行方の見えない深淵であった。

 たぶん、僕はこれからずっとこの場所に縛り付けられるのだろうな、と思った。

 


 そんな中、身体はなんだか、とても温かいものに包まれた感覚があった。



 想像していたものよりもずっと気持ちの良い余韻を残しながら、僕はとうとう、残る意識を手放した。









 ♦♦♦









 初めに僕を促したのは、腹の底に響くような恐ろしげな拍子でもなければ、数多の業を煮詰めた暗赤色の光線でもなかった。

 


 何処からか、間延びした小鳥の囀りが聞こえる。

 閉じた瞼の裏には、ゆったりとした光が注ぎ込まれている。

 そんな呑気な環境だった。

 


 地獄行きのはずの僕が、何かの手違いで天国に迷い込んでしまったのだろうか。

 目を閉ざしたまま、僕はそんな疑問を抱いていた。

 


 頭は何か、柔らかいものに乗せられている。

 僕はもう、身体を一歩も動かしたくない気分だった。

 動かせるけど動かさないで、ずっとこの心地良さに浸っていたいような、そういう感じだ。

 


 なんてことを考えて気が付いた。

 


 今の僕には、()()()()()()()()()()()()()()()()()()という事実に。

 


 信じられない事態に、僕は反射的に目を見開く。



「あっ」と可憐な声がすぐ近くで響いた。



 視界の遥か先には、透き通るような青空と白い雲が浮かんでいる。

 その少し手前では、青々とした大樹がそよ風に揺られていた。

 


 そこには、天地がひっくり返ったみたいに穏やかな天候が、何処までも広がっていた。

 


 がしかし、そんなことはどうでも良かった。

 空、樹と遠くから順番に焦点を当てる。

 そして最後に、僕は一番手前に映るものへと視線を移した。

 


 丸い瞳に反射する僕は、間抜けな表情で瞬きを繰り返していた。

 そんな僕を見つめる君は、面白そうに桜色の唇を引いていた。



「おはよう、千風くん」



 鈴音が屈託のない笑顔で、僕に挨拶を交わしている。

 僕は未だ、狐につままれたままであった。



 取り敢えず身体を起そうと思った。

 けれど、鈴音の人差し指が優しく、僕のおでこに添えられる。

 そのまま頭を押し返されて、結局、僕が彼女の膝の上から起き上がることは許されなかった。



「えっと、これは一体どういう状況なんだ…?」



 ようやく頭が追い付いてきたところで、僕は彼女を見上げながらそう訊ねた。

 君は僕から目を逸らすと、遠くを眺めて考える素振りを見せた。

 


 鈴音はすぐに視線を戻した。

 その表情に微笑みを浮かべながら「さぁ~?」といつもの調子で言う。

 


 君の大きな両目が、僕だけを捉えている。

 そして僕もまた、君で視界の大部分を覆っている。

 


 こうして君の笑顔を至近距離で眺めていると、僕はなんだか、妙にむずかゆい心地に陥った。

 自然と、僕の視界はその他の部分に移動してしまった。

 


 このままこの場に居続けると、鈴音から発せられる見えない何かが、胸奥に溶け込んでくる気がした。

 それがどうにも恐ろしくて、僕は転がるように彼女の元から脱出した。

 


 そうして実際に身体を動かして気が付いた。

 上半身に纏わりついているナイロンのボロ切れが、合羽の無惨ななれ果てであることに。

 


 数秒合羽を凝視して、僕は再び考え込む。

 果たして、どこからどこまでが現実で、どの部分が夢であったのだろうか、と。

 


 少なくとも合羽を着ている以上、僕は無謀にも、あの大嵐を突っ切って山にやって来たことまでは確信を持てる。



 がしかし、その後のことには些か自信がなかった。

 濃霧に包まれたようにそれ以降の記憶が曖昧で、引き出せる記憶の断片のどれもが非現実的でしかなかったからだ。

 


 でも、今は記憶を探ること以上に、為さなければならないことがある。

 僕が苦労して森を突き進み、ここにやって来た理由を果たさねばならないのだ。



 夢の中で何度も予行練習をしていたお陰だろうか。

 一カ月も言葉に出来なかったこの気持ちは、思った以上にすんなりと喉から繰り出された。



「…鈴音。その、この前は酷いこと言って、ごめん。ずっと謝りたいと思ってた」



 大樹の下で横座りしていた君は、足を解すようにゆったりと立ち上がった。

 そして、僕の真正面にやって来ると、人懐っこい笑顔で呆気なく言った。



「いいよー、そんなことぐらい。全然気にしてないもん」



 誇張でも捏造でもなんでもなくて、鈴音は本当になんとも思ってなさそうに見えた。



「じゃあ、仲直りってことで良いのか?」僕は念押しするように確かめる。



「うん!これからも一緒にいよーね!」君は間を置くこともなく快活な様子で応えた。

 


 時間は掛かり過ぎたが、これでようやく、鈴音とのひび割れた関係を修復できたのだろう。

 ホッと胸を撫で下ろしたのも束の間、僕はもう一つ、やらねばならぬことを思い出した。

 


 確か、雨風にやられないよう、シャツの胸ポケットに仕舞っておいたはずだ。

 僕はレインコートの中に手を伸ばして、鈴音の為に用意した贈り物を取り出した、つもりだった。

 


 僕の手に握られていたものは、しかし、昨日購入した可憐な花ではなかった。

 やけに軽いそれの正体は、千切れた茎の部分だけであったのだ。

 


 山を彷徨っているうちに。花の上半分を失ってしまったのだろうか。

 僕は呆然と己の手の内を眺めた。

 鈴音は僕の取り出した茎をジッと見つめていた。



「蔦葉天竺葵」



 突然、鈴音は呪文のような早口言葉を呟いた。



「え?」と僕は素の調子で訊ね返す。



 彼女はこちらの意を汲み取ったように、今度はゆっくりとその口を動かした。



「つたばてんじくあおい。その花の名前だよ?知らなかったの?」



「うん。花屋のおじさんに選んでもらったから」



 あの美しい花に、そんな複雑な名前が付いているとは想像も出来なかった。



「茎だけでも花の種類が分かるなんて流石だな」僕は感心して彼女を褒め称える。



「そんなことないよー」鈴音は満更じゃなさそうに返事をした。



「天竺って言うと、あの西遊記の?」



「そうそう。三蔵法師や孫悟空なんかが出てくるお話だよ。あれすごいよね~」



 なんだかんだ一カ月以上も植物に関する見聞を広げてきたはずなのだが、この花に関連した内容はさっぱりであった。



 なので花名に関連した単語から会話を繋げてみると、これは当たりを引いたらしい。

 彼女は嬉々と僕の話に応じた。

 


 鈴音はこの手の話も好きなのか。

 頭の中で新たな彼女の趣向を把握しつつも、仲直りの証という意味を込めて、僕は緑の茎だけとなった花を差し出した。

 


 暫し、鈴音はそれをじっくりと眺めていた。

 それから、明るい笑顔を振りまいてこう言った。



「ん~…私、今は受け取りたくない気分かなぁ~」


 

 予想外であった。

 いや確かに、花の魅力の大部分を占めているであろう花弁が失われている以上、この花の贈り物としての価値もまた消失したと言っても過言ではないのかもしれない。

 


 けれど、鈴音も形としては受け取ってくれるだろうと、断られるとまでは夢にも思っていなかったのだ。

 


 何が衝撃的だったのかが自分でもよく分からないまま、僕は棒立ち状態を強要された。

 彼女は心配そうに一歩こちらに近づき、首を軽く傾げた。



「…どうしたの?もしかして、まだどこか痛かったりする?」



「…いや、ただ、ちょっと胸が」



 そんなにも不安そうに眺められては、僕も取り繕うことができなかった。

 隠すべき本音を少し洩らしてしまうと、鈴音はもう一歩、こちらに寄った。



「胸?」



「あぁ。一応、この花を買うためにお小遣い叩いたからさ、ちょっとばかしショックだったというか──」



 鈴音がその小さな指で、僕の胸元を指差す。

 僕はおどけた調子で強がりの鍍金を張ろうとした、瞬間のことだった。

 



 僕の身体が引力に攫われ、時の流れが感じられなくなったのは。

 



 突然、僕の身体はぎゅっと柔らかい肌に包み込まれて、背中には温かい君の手のひらを感じ取った。

 



 真っ白な首元、艶のある黒髪。

 目と鼻の先で、君の優しい香りが鼻孔いっぱいに広がる。

 ほとんど理解が及んでいない状態で、耳裏に君の透き通った声が響いた。



「えっとね、それは分かってるよ。仲直りは仲直り。でも、なんて言うのかな。上手く、言葉に出来ないんだ」



 すぐ側で耳に残るような囁きが伝わって、途端、僕の胸は強く締め付けられた。

 それは、鈴音を傷付けてしまった時に味わった壊滅的なものではなく、きゅうと痺れるような感覚であった。

 


 周囲からは酸素が根こそぎ奪われ、だけど、君のしゃぼん玉みたいな匂いだけがその場に溢れ返っている。

 酷く甘い息苦しさを覚えながら、僕は君という透明なベールに覆われていた。

 


「どう?もう胸は痛くない?」



 滑らかな声が肉体を突き抜け、危うく魂が掴まれそうになる。

 徐々に、何かが僕の身体の内側へ浸透していく。

 いつしかその正体不明の存在が、僕自身の形を余さず変えてしまうような不安を覚えさせられた。

 


 ここには長居してはいけない。

 いつもの如く、頭の中は危険信号を発していた。

 そして、これまでもそうしてきたように、僕はその場から脱するべきであった。

 


 でも、君に包まれていると、伝播する温もりと共に、だんだんとそんな淡い不安の色さえもが塗り替えられていく。

 


 そのうちに僕は、もうこの甘美なる芳香に逆らう気も起きなくなってしまった。

 鈴音に言葉を返すこともなく身体を脱力させる。

 心を蕩かしながら、僕はただただ、彼女に抱き締められていた。

 


 心の隅の方でまずいと思っているうちに、手足の先からじわじわと、不思議な心地がせり上がってきた。

 やがてそれは溢れるほどの勢いで、僕の頭と心の中枢にまで行き届いた。

 



 その瞬間、一秒を引き延ばして十秒を作り出す世界が訪れた。

 



 音も匂いも、周囲の景色さえも不確かだ。

 だけど、君の姿だけは鮮明に捉えられた。

 



 瞬きを忘れて魅入る先では、鈴音が眩しくて見ていられないほどの煌めく笑顔を零していた。




 僕はもう、鈴音から目が離せなくなった。

 息継ぎすることすらままならず、ひたすら、君という海に溺れていった。

 



 握り締めていたはずの折れ花は、いつしか、大地に音を奏でた。







次回の投稿日は、7月15日の土曜日となります。


それでは、また次話でお会いしましょう!

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