③ 未知の思い出
それからというもの、陽が昇り世界が明るく照らし出されると、僕らは毎日のように山中で落ち合った。
鈴音は生ける辞書のように新鮮な知識を溜め込んでいて、彼女の口から飛び出してくる智恵はそのどれもが刺激的だった。
昨日よりも今日、今日よりも明日。
僕は鈴音から生の情報を味わう度に、ますます彼女との時間を待ち望むようになった。
自室の窓際にてるてる坊主を垂らして、明日も晴れますようにと健気にお祈りするぐらいだった。
だからこそ、寝覚めを促す日差しが弱く、加えて、一定間隔で屋根を激しく叩く音が聞こえてきた時には酷く気分が落ち込んだ。
先ほど、ほぼ毎日と言ったのは、例えば雨の日なんかは流石に山には入れないからだ。
これが小雨程度であれば、遊び時間の午後までに止む可能性もあり得るだろう。
けれど、傘が押し潰されそうな程の土砂降りとなると、それも無理な話だった。
その日の雨模様は、まるで遥か天空から何者かにバケツをひっくり返されているかのように勢いに凄味があった。
アスファルトの上は、曇天を映し出す鏡のように雨水で覆われている。
道路に跳ねた雨粒が、足首を後ろから襲った。
靴下が雨水にやられるのが先か。
それとも僕が屋内に逃げ込めるのが先か。
なんて馬鹿らしいことを考えているうちに、僕は目的地まで辿り着いた。
その横幅は一軒家の二、三倍以上は裕にあるだろう。
僕の目の前には、大きな平屋式の建物が聳え立っていた。
何枚もの窓が敷き詰められているのが特徴的で、それは自然採光を意識した結果なのだと思う。
もっとも、今日はその目論見も全く機能していないのだけれど。
重い引き戸を潜り抜ける。
館内は薄明るい電灯に照らされていた。
子供にとってはちょっとした大空間であるその場には、かび臭いのような、それでいて落ち着く香りが漂っている。
辺りを見渡すと、利用客の姿がちらほらと伺えた。
僕も慣れた調子で館内を進み、縦列に並ぶ背丈以上の本棚を通り抜けていった。
奥まで行って左に曲がると、そこにお目当ての本棚があった。
分厚い本を一冊、両手で慎重に抱えた。
一目散に休憩スペースへと向かう。
こちらはまだ誰も居ないようで、僕は気兼ねなく椅子の一つを占領した。
大きな冊子を途中から捲り始める。
僕が本を眺めている間、周囲には空気の流れる音と本を捲る音だけが漂流していた。
もし、静けさに音があるとするのならば、この空間のことを意味するのだろう。
かなり集中していたらしい。
知識を詰め込む作業に行き詰まりを感じて、僕は一度、本から目を逸らした。
凝り固まった筋肉を解すように、大きく伸びをして前方を向いた。
そこで気が付いた。
僕の座る席の前に、一人の女性が腰掛けていることに。
年は二十代辺りだろうか。
その黒縁眼鏡をかけた女性は、肩甲骨まで伸びた髪を色濃いダークブラウンに染め上げていた。
黒いエプロンを身に着け、首から「斎藤」と刻まれたネームプレートを垂らしている。
周囲を見渡しても、相変わらず休憩スペースは閑散としている。
そんな中この人は、何故、わざわざ僕の目の前に腰掛けたのだろう。
と、自意識過剰とも言える疑問を覚えるのは、ある意味で当然のことだった。
何せ彼女の目的は読書ではないらしく、その証拠に手元には本の一冊もない。
彼女は僕の持ってきた本へと視線を移し、次いで僕の顔をまじまじと眺めた。
「少年、最近よく図書館に来るね」
よもや話し掛けられるとは思っていなかった。
少し高めの声がこちらに飛んできて、僕は大きく瞬きをした。
それを目配せだと思ったのか、彼女は続けて唇を動かした。
「溜め込んだ宿題に追われて、自由研究の題材でも探しに来たってわけ?」
そんなことはない。
宿題には計画的に取り組んで、今や全ての課題が終わっているのだ。
彼女の言葉を否定するよう、僕は首を横に振った。
僕の答えを聞いたお姉さんは、如何にも怪訝そうな表情を作った。
「だったらどうして?そんなに日に焼けた少年は、座って本を読むよりも外で元気に駆け回る方が似合ってると思うんだけど」
「そりゃそうですよ。でも、こんな土砂降りの中で駆け回るなんて、それこそ蛙ぐらいですから」
僕は窓を濡らす雨粒を眺めながら、ようやく、彼女の問い掛けに言葉で応えた。
堅苦しい丁寧語を使うのが嫌だったわけではない。
高学年となった今、目上の人に敬語を使うことは習慣化していた。
発声するのを躊躇った理由は、ひとえにここが図書館という沈黙空間であるからに他ならなかった。
しかし、お姉さんはそんなことお構いなしに、感心したような様子で頷いた。
「確かに、人間様にとっては大雨は嫌なものよね」
「ここ、私語厳禁なんじゃないんですか?」
そろそろ手元の本に集中し直したかった。
だから僕は痛いところを突いてやったわけだ。
図書館がお喋りをする場所ではないことは、誰にとっても周知の事実である。
故に、これを機にお姉さんも押し黙ざるを得なかった。
僕はそんな未来を予想していたのだが、現実には、彼女はすました顔で言い返してきた。
「あたしはここの司書さんなの。だから別にいいの」
卑怯な手を使われた気分だった。
彼女はネームプレートを誇示するよう、それを手に持って僕に見せつけてくれた。
僕は不正を咎めるように軽く睨みを利かせてみた。
向こうは素知らぬ顔で話をやめようとはしなかった。
「それよりも」と話題を転換してくる。
「少年みたいな子がよく図書館に来るなんてさ、やっぱりちょっと疑問なのよね」
「はぁ」
先程から固定観念が強過ぎはしないだろうか。
僕はため息交じりの相槌を打った。
でも、まぁ確かに、彼女の言い分には一理ある。
少なくとも以前の僕が、図書館に寄り付くような人間じゃなかったことだけは間違いない。
やはり、僕みたいな褐色少年が姿勢正しく本を読んでいる姿など、場違いという言葉がこれ以上になく似合ってしまうのだろう。
お姉さんは僕の読んでいる本の端を指で叩きながら言葉を続けた。
「毎度毎度その植物図鑑読んでるみたいだし…あれかな?女の子にお花をプレゼントしようとしてるのかな?」
「違います」
脊髄反射であるかのように僕はその言葉を一刀両断した。
お姉さんは何とも言えない笑顔を浮かべながら、「ほぉ~」と良く分からない感嘆を表した。
僕が図書館を訪れ、植物図鑑を読み漁っている理由。
また、そもそも僕が図書館に足を運ぶようになった訳。
この二つの事柄が不可分であることに疑いはなく、その全てに鈴音の存在が関連付けられていることにも、異議はない。
平たく言えば、鈴音があんまり山に詳しいものだから、僕は少しでも、彼女の知識に追いつきたいと思ったのだ。
与えられるだけではなく、偶には鈴音に知見を誇ってみたかった。
そして願わくば、僕がいつもそうするように、僕は彼女にちょっぴり感心されてみたかった。
そんな小さな競争心と羨望心こそが、僕を似合わない場所へと導いているものの正体であった。
お姉さんがにんまりとした表情を浮かべている間、僕はそのように自らの行動を再認識していた。
彼女はようやくその笑みを抑えると、徐に席から立ち上がった。
何処かへ移動する素振りを見せ、手招きで僕を誘導する。
僕はそれに大人しく着いて行ってみた。
立ち止まったお姉さんは、書架から一冊の本を抜き取った。
「図鑑は借りられないけどさ、こういう本だったら貸し出しもしてるんだよ?」
彼女が差し出した書物を受け取り、数頁眺めてみる。
差し詰め、それは植物に関する情報が詰まった簡易版辞典のようなものであった。
お姉さんの紹介してくれた書物は、僕の身体に多大な衝撃をもたらした。
目から鱗が落ちるようだった。
図鑑以外にも各種植物の詳細が記載されている書物があることなど、僕は今日まで知る由もなかったのだ。
本を借りることなく図書館で図鑑を読み耽っていたのは、図鑑が貸し出し対象から外れていたせいだ。
この本を借りることができれば、毎朝家から図書館までを歩く手間が省けることになる。
夏の怠い暑さに加え、移動手段に乏しかった当時の僕にとっては、その一冊が革命的な発明と同一視されていた。
僕がこの手の本を大変お気に召したことに気が付いたのだろう。
お姉さんは続けて、似たような書籍を数冊紹介してくれた。
僕は彼女に促されるままに受付カウンターに向かい、貸し出しの手続きを済ませてもらった。
初対面で浮上したお姉さんを鬱陶しく思う気持ちは、既に何処かへ拡散していた。
心のほくほくした僕が純粋な気持ちでお礼を述べると、彼女は思い出したようにこう言うのだ。
「いやいや、女の子にお近づきになろうとしている少年を見過ごすことなんてねぇー。とてもあたしには出来ないかな?」
その性懲りもない様子に、僕は一転して呆れを抱いた。
僕は彼女の言葉を無視して出口へと進む。
それなのに「少年、頑張ってね!」とお姉さんは威勢の良い声を背中に飛ばしてくるのだ。
何を勘違いしているのだろうか。
僕は浅く息を吐き出し、図書館を後にした。
♦♦♦
扉を押し開け、外へ繰り出すと、蒸し暑い世界が妙に明るく輝いていることに気が付いた。
何気なく、光の差す方へ目をやる。
厚い雲の隙間から、眩い太陽が姿を見せていた。
どうやら雨が上がったらしい。
てっきり、今日は午後も降雨に見舞われるものかと思っていた。
空っぽだったはずの貯金箱から一枚の硬貨を見つけたみたいに、僕は予想外の雨上がりに喜びを隠せなかった。
雨が止めば山に向かえる。
あそこに行けば鈴音が待っている。
また、彼女から色々を教えてもらえる。
箇条書きのように嬉しいことばかりが脳裏に書き出され、僕は居ても経ってもいられなくなった。
当時の僕の心模様の起伏は、その日の急な天気と似たようなものだったのだろう。
秒読みで逸る心に身体が置いておかれないよう、僕はアスファルトに反射する家々の屋根を勢いよく踏みつけながら自宅へと急行した。
借りてきた本を玄関前に放置する。
居間にいるであろう母さんに向けて「行ってきます」を叫ぶ。
僕はその足で外に飛び出した。
何度か道を曲がりくねる。
水位の上がった田んぼを両脇に、あぜ道を駆け抜けていく。
そのままの勢いで森に突入し、そこからは感覚で山道を辿った。
少しばかりの斜面を登ると、相も変わらぬ巨大な威容を捉えた。
すっかり僕らのシンボルツリーになったその樹木に近寄ろうとすると、やっぱり、その裏側から小さな姿が飛び出してくれる。
君の姿を見つけた僕は思わず頬を緩ませた。
彼女は変わらない笑顔で僕を迎えてくれた。
「晴れて良かったね~」
鈴音は空の遠くを眺めながら言う。
僕も軽く頷き、彼女の傍へ向かう。
そこからはここ一、二週間の流れだ。
まずは直射日光を避けるために大樹の陰に隠れ、僕も鈴音も他愛もない話に花を咲かせる。
とは言ったが、基本的には僕が話題を振りかけ、鈴音が相槌を打つという形だ。
たとえば、今朝の大雨が凄かったとか、青かった稲が黄金に輝き始めてたとか、そんな世間話だ。
だがその合間合間に、地上に降る雨は実は三十分も前の雨粒なんだとか、浮塵子と呼ばれる小虫が稲を食い荒らしてしまうのだとか、鈴音は話の中で付け加えるように説明してくれる。
そこには、凡そ僕と同じ年代とは思えないような彼女の博識が見え隠れしているからこそ、僕にとってこの時間は、単なる雑談以上の意味を有していた。
満足いくまでお喋りを続けると、僕らは徐に立ち上がった。
「千風くん。今日はさ、山の中を色々見て回ろーよ!」
鈴音はそう告げると、僕を手招きしながら弾む足取りで大樹の裏へと向かっていった。
この辺りが彼女の庭であることは、今日までの日々の中でよく知っていた。
僕は導かれるようにその後を追った。
地表にまで露出した大きな根に躓かないよう気を付けながら、僕らは少しばかり大樹から離れていく。
これまでにこちらの方面へ案内されたことはなかった。
奥に進むほど、緑の層は厚くなっていった。
森の創り出す独特な昼間の暗がりの中では、地面と木々の茶色がよく映えている。
森はさながら樹海みたいな深さであったが、そこに陰気な雰囲気は感じられなかった。
僕には却って、そこは心が穏やかになるような極相林だと感じられた。
そこから更に歩みを進めれば、いつもの巨木に負けず劣らずの樹木が、幾つも横転して辺りに散乱していた。
まるで僕らの行く手を阻むかのように、倒木の一本が目の前に立ち塞がっている。
けれど、鈴音は倒木の放つ威圧を気にすることもない。
それをいともたやすく飛び越えてしまった。
あとに続く僕は苔むした樹皮に手を掛け、なんとかそこを乗り越えた。
あれほど大きな樹木たちが役目を終えたからだろう。
転倒した木々の越えたその向こう側には、輪っかみたいにポッカリと穴の開いた広場が形成されていた。
いわゆるギャップと呼ばれる空間だ。
大空に浮かぶ太陽は、ちょうどその輪の真ん中に差し込んでいる。
溢れんばかりの白日が、その場を温かい光で満たしていた。
その中心には、背丈が一・五メートル程度の若木が一本、凛々しく輝いている。
僕はふと立ち止まり、その若木を長らく見つめていた。
先へ先へと移動する素振りを見せていた鈴音は、茫然と足を止める僕に気が付き、こちらに振り返った。
「そんなに気になるの?」
「あぁ、綺麗だなって思ってさ」
僕は思ったままの言葉を返す。
君は何度か瞬きをしてから呑気に答えた。
「まだまだ成長途中だからね。いずれはこの山の主になるんだよ~」
「それは楽しみだ」
いつかこの小さな木があの大樹を上回るのだと思うと、なんだか、自然というものの大きな循環を感じられた気がした。
僕は何気なく、若木を囲む光のベールへゆっくりと近づく。
この身体は弾かれることなく、その温かな光に包み込まれた。
本当にこの山の主になれるかどうかは置いておいて「頑張れよ」という意味を込めて、僕は若木を優しく一撫でしてやった。
それを見た彼女はくすぐったそうに笑っていた。
「そう言えばあの若木、どんな樹種だったんだ?」
「内緒だよ~。千風くんが当ててみたらいいんじゃないかな?」
あれから少し歩いた先で、僕は不意にそう訊ねた。
前方を歩く鈴音は足を止めることなく、お得意ののらりくらりとした濁し方で流してしまった。
彼女に言われた通りに色々と考えてみるも、まだまだ知識の薄い僕では全く見当もつかない。
そういう訳で、今日も鈴音が要所要所で立ち止まっては自然の素晴らしさを伝えてくれて、僕もまたこれまでと変わらず、彼女の詠う終わりのない叡知を聴講していた。
そうしてあれやこれやとしていると、あっという間に夕暮れが訪れてしまった。
鈴音と過ごしている時間は、本当に一瞬のことのように思える。
冗談抜きの話で、何者かが時計の針を乱暴に回していたりはしないだろうか。
「早くしないと日が暮れちゃうよ?」
「あぁ、ごめんごめん」
足音が途絶えたことに気が付いたのだろう。
後ろを振り返った彼女は、動きを止めた僕をそう急かした。
日没後に山地に取り残されるなんて事態は、出来るだけ避けたいものである。
沈む太陽の速度に負けないよう、僕らはいつもの場所へと足を進めていった。
その最中のことだ。
ふと、今度は鈴音が立ち止まった。
再びこちらを向いた彼女は、黙って僕を差し招いた。
僕が隣にまでやって来ると、彼女は小さな指を茂みへと向けた。
「今日最後の問題だよ。あの花が何か、千風くんは分かる?」
茂みに隠れて黄色い花が数輪、可憐に咲き誇っている。
葉っぱの形は大葉のようで、中心にあるイガグリみたいな黄緑色の球体が、五つの花弁に囲まれていた。
本来であれば、その程度の情報量では、到底僕がその植物を特定出来るわけがなかった。
だが幸いかな。
今日たまたま読んでいた図鑑の右下の方に、これとそっくりの写真が貼られていた。
万が一にも間違う気がしなかった僕は、間を置くことなく言ってやった。
「ダイコンソウだろ?」
たぶん、この時の僕は、この上なく得意満面に答えたのだと思う。
だってそうだろう?
これまで鈴音には数々の知識を授けてもらって、対して僕は彼女に何を教えてやれたというのか。
これは日々の努力が実ったというよりは運の力が勝ったようなものだが、それでもようやく、彼女の領域に片脚踏み込めた気がして、僕は鼻を高くしていたのだ。
鈴音は暫しの間、誇らしげな僕の顔をまじまじと見つめていた。
そしてとうとう、耐えられないといった様子で大きく吹き出した。
やや遅れて、僕は今の自分がどれほどに幼稚であるかを思い知った。
顔中は大火事になった。
彼女はその様子を見てまたお腹を抱えている。
あんまり馬鹿にされて僕が拗ねてしまう前に、鈴音は笑い声を抑え、気を取り直したように言った。
「正解だよ、これは大根草。この時期になったら綺麗な花を咲かせてくれるんだ」
彼女は大根草の青い葉をそっと撫でる。
今度は優し気な笑顔でこちらに向き直った。
「大根草の花言葉はね、『将来有望』なんだよ?今の千風くんに相応しいと思うなぁ~」
「…なんのことだよ」
鈴音がニコニコと嬉しそうにこちらを見やったその時、僕はそのように白を切ろうとした。
でもやっぱり、彼女は僕の嘘なんてすぐに見破ってしまうのだ。
「大根草に気が付くなんて…千風くん。さては私に隠れて色々勉強してるんでしょ~?」
「…まぁな」
結局、誤魔化し切れなくなった僕は、渋々それを認めることにした。
それを肯定してしまうことで、彼女にちっぽけな対抗心を燃やしているとか、本当は少し認めてもらいたいと思ってるとか、そういった色んな感情が透けてしまうことが堪らなく恥ずかしかった。
すると、鈴音はなんの前触れもなく、真正面から一歩、こちらに身体を寄せた。
ふわりと、甘い香りが鼻を擽る。
意識が、彼女の宇宙のような深い瞳に吸い込まれていく。
頭にはそっと、温かい感触が乗せられた。
「えらいえらい。これからもしっかり勉強するんだよ~」
ちょっと背伸びをした彼女は、その大きな目を細めながら、僕の髪をわしゃわしゃと優しく撫でていた。
一瞬の硬直、そして退避。
自身の身に起こった事象を把握するや否や、僕は条件反射的に後退りしていた。
僕は今更、自分の呼吸が過度に荒ぶり、心臓が異常なほどに締め付けられていることに気が付く。
知らぬ間に身体中からは尋常ではない量の汗が噴き出していた。
こんなにも恐ろしい思いをしたのは初めてのことだった。
あれ以上その場に長居しては、そのうち身体中が見えない何かに呑み込まれてしまうような気さえしたのだ。
僕が飛ぶように後ろへ下がったことで、鈴音の手は僕が居た場所に取り残された。
余韻のように動いている手のひらが、寂しそうに宙を彷徨っていた。
「なに、するんだよ」
親以外の誰かに頭を撫でられるなど、僕の予想だにするところではなかった。
未知が故に動揺を隠せないまま、僕は目を泳がせた。
「なにって、ちゃんと頑張ったんだからご褒美だよ?」
視界の端でしっかりと捉えられている鈴音は、あくまでも平常運転だった。
まるで小動物を愛でるかのような調子で言う。
「別にそういうのはいいから」
脳内を襲った混乱が徐々に落ち着いてきたところで、僕は早口で伝えておいた。
「そう?じゃあやめとこーかな」
君はあまり僕の気持ちが分かっていないようだった。
「そろそろ行こっか」と、彼女は何気なく前方を向き直る。
その横顔には小さな笑みが浮かんでいたけれど、僕は頭上に残る妙なもどかしさにばかり気を取られていて、少しもそのことに気が付けなかった。
やがて元の場所に辿り着くと、僕らは手を振り「またね」を交わした。
そうして君との一日が終わって、僕は夕陽を見失わないうちに山を後にするのだ。
思い返せば「また」が具体的にいつを指すのかなんて、僕らはたったの一度しか約束を交わさなかった。
雨なき日中に、あの大樹の下で。
その不文律が既に僕らの間で完成しているのだと、僕はそう信じてやまなかったのだろう。
出会った時からそうであったからこそ、僕らには以心伝心に似た何かがあるのではないだろうかと、そんな風にさえ思っていたのかもしれない。
だが、結果から言えば、当然の如くそんなわけがなかった。
以心伝心であるのならば、僕は鈴音のことはなんでも分かっていられたはずだから。
訪れる結末を捻じ曲げることは出来ずとも、その過程をより良いものに出来ただろうから。
次回の投稿日は、7月11日の火曜日となります。
それでは、また次話でお会いしましょう!




