⑭ 御祭の思い出
約一時間、僕らは居酒屋に居座っていた。
日向との近況報告やらなんやらも終わり、そろそろビール一本で粘るのが厳しくなってきたところで、お会計を済ませることにした。
暖簾をくぐって外に繰り出す。
思わず、細目に外を眺める。
世界は、溢れんばかりの茜色に満たされていた。
あらゆる建物に重厚な影が立ち、真っ赤な夕陽が建造物の空隙に覗いている。
商店街から住宅地までの遠い田舎通りを、僕らはのんびりと歩いた。
やがて昔のように、とある分かれ道で手を振り合った。
この辺りは、右も左も棚田だらけだ。
皐月に植えられた苗が大きく育ち、今ではそこに緑の絨毯が作り出されている。
いや、ここはだんだん田なのだから、どちらかと言えば絨毯階段と呼ぶ方が相応しいのかもしれない。
登り坂の中腹へと向かって足を進める。
耳を澄まさずとも、水田からは蛙の鳴き声が響き返っている。
淡い青のシオカラトンボが、眼前を飛び去っていく。
後方から現れた少年少女が、目を輝かせてその後を追った。
少年の方が勢いよく虫網を振り被った。
が、蜻蛉はそれを裕にそれを躱してしまう。
上手く逃げ仰せた蜻蛉は、瞬く間にその場を離れていった。
二人は悔しそうに、その後ろ姿を見つめていた。
僕は不意と足を止める。
何を見るでもなく、少年少女の姿見を眺めた。
その二人に、ふと、いつかの面影が重なる。
♦♦♦
長い雨もようやく降り止み、徐々に太陽が威力を放つようになった。
やがて世界は並外れた生気に踊らされ、草木は迸る勢いで成長していった。
雨傘が日傘に持ち変えられ、誰もが窓を開けて団扇を携えるようになった頃、僕は一年に一度の長い休みを手に入れた。
春、冬と大きな休暇はあるものの、やはり夏休みは出来ることや活動時間の規模感が違うのだ。
小学校生活最後の、一学期終業式の日のことだ。
当然の如く、僕はこの休暇を鈴音との時間に費やすことに決めていた。
というか、それ以上に有意義な時間の使い方があるとは考えられなかった。
そうしなければ僕は最低の夏休みを過ごすだろうとさえ思えた。
そうして七月の終わり頃から、僕は日中のほとんどを彼女と過ごすようになった。
なにも特別なことをしたわけじゃない。
昨日とも今日とも判別が付かないような、ありきたりな毎日だ。
それでも、僕は日々が痛いほど楽しかったし、鈴音だって僕との時間には何度も笑顔を綻ばせてくれていた。
しかし、その素晴らしい日次の中にも一つ、僕を困らせることがあった。
それを具体的に指し示せば、鈴音がよく上の空を眺めるようになったことだ。
丁度、僕が夏休みに突入して以来のことである。
彼女はふとした時に何かを思慮するように黙りこくり、僕の声を右から左に聞き流すことが多々あった。
僕に何かを言い出そうとして、でも開きかけた口を閉じてしまうということを幾度となく繰り返したりもしていた。
魅惑の笑みを零しながらも、鈴音は常に、心ここにあらずであった。
それは八月上旬の日のことだった。
今日の鈴音は一段と、落ち着かない様子である。
もう目の前のことにも手が付かないようで、浮かべる笑顔までもが乾いてしまっていた。
まぁ、その笑顔はその笑顔で、鈴音の超然的な美しさを感じられて良かった。
けれどここまで来ると、本人でない僕までもが、必要以上に彼女を気掛かりに思うようになった。
両者の気がそぞろとなった状態で臨んだ笹船づくりは酷いものだった。
笹船は小川に流したところで、すぐ水流に揉まれてしまった。
形を崩しゆく二葉の笹船を呆然と眺める。
僕は鈴音が落ち着かない理由に、彼女は僕には分からない何事かにばかり気が向いていた。
白日だけが徒に動き続け、もう空の切れ目が赤みを帯びつつあった。
長いような短いような日中が幕を閉ざしてしまう。
結局、僕はその訳を見つけられずに、鈴音は今日も何かを言い出せずに、お互いが手を振ろうとしていた。
大樹の片影に佇む彼女に背を向け、森に差し込む夕焼けの赤光を顔いっぱいに浴びる。
僕が軽く半身を振り向かせ「またな」と君に言おうとした時だった。
「ねぇ、ち、千風くん」
裏返ったように上下に揺れた声調で、鈴音は控えめに僕を呼び掛けた。
僕は目線で問い掛ける。
彼女は大きく息を吸って吐き出し、小さな咳払いをしたうえでこう言った。
「今日、このあと大丈夫かな?」
その時に彼女が浮かべた笑みは、今日初めての温かみを感じるものだった。
僕は僅かに返事に迷ったが、それでもやっぱり、最後には縦に首を振った。
「じゃあ、ここで待ってるね」
鈴音はつっかえが一つ取れたよう大袈裟に胸を撫で下ろし、僕に向けて柔らかく目尻を下げた。
♦♦♦
家に帰って軽く夕食を済ませる。
鈴音の元へと急ぐ前に、固定電話に手を掛けた。
数回、耳元で単調な音が繰り返される。
受話器の向こうから声が聞こえてきた。
「千風、どうかしたのか?」電話に応じた日向は訊ねる。
「日向、急用が出来たんだ。悪いけど僕抜きで行ってくれ」僕は簡潔に事を伝えた。
「分かった。じゃあまた遊ぼうぜ」彼は短く答え、電話を切った。
実はこの後、彼らとの予定があったのだ。
がしかし、鈴音との時間と彼らとの約束を突き合わせれば、僕がどちらを選ぶかは決まりきったことであった。
もちろん、突然約束をすっぽかしてしまって、日向達には悪いとは思っている。
けれども、僕にとって鈴音と居られる時間というものは、諸々を後手に回して構わないほどに優先度が高いのだ。
以前、外に繰り出した時とは違っている。
本日の宵は、赤い残光が紺の空を薄明るく滲ませていた。
加えて、夜の街を彷徨う人々が三々五々と大勢であった。
ともするとその人数は昼間よりも多いのではないだろうか。
彼ら彼女らは夏夜の暑さに浮かされたかのように、嬉々と一方向に足を進めていた。
そんな中、僕一人だけが、波に逆らうように皆とは真逆の方角へ向かっていく。
濃い闇が落ちた山の道なき道を行く。
やがて、夜風に揺れるシンボルツリーの姿が見えた。
今日の鈴音は僕を脅かすことなく、分かりやすい場所で待ち惚けとなっていた。
「ごめん、ちょっと遅くなった」と僕は軽く謝る。
「いいよいいよ~」鈴音は気さくに笑った。
そうして形式的な会話を交えたところで「それで、今日はどうしたんだ?」と僕は彼女に訊ねた。
もう夜間に蝉が鳴き始めるぐらい、世界には気怠い暑さが立ち込めている。
仮に今晩、あの小川へ向かったとしても、蛍の姿は影も形も見られないことだろう。
沢蟹を追い掛けることは三日前にしたし、カブトムシを捕まえるなら早朝に集合すべきだ。
そんなことが分からないほどに鈴音は知識が薄くないだろうし、となると、今日はどうして呼び出されたのか。
僕は僕なりに色々と考えてみたが、それらしい理由は一つも見つからなかった。
答えを要求された鈴音は「…えっとね」の間投詞を挟んでから、ぎこちなく言葉を紡いだ。
「今から、お祭り行かない?」
彼女は自分の口でそう言った後になって、これで誘い方が合っていたかを確かめるよう、もう一度同じ言葉を言い直した。
彼女の言葉を受け取った僕の頭は、なるほどな、と得心が半分。
そしてもう半分は、これまでの価値観がひっくり返るような驚愕で覆われていた。
「お祭り?」と僕は彼女の言葉を繰り返す。
「うんっ」鈴音は食い気味に頷き返した。
「鈴音って…山の外に、出られるのか?」
僕にとって一番気になる点はそこだった。
「まーね、今日は特別だよ」鈴音は何でもなさげに答えた。
ずっと前に探偵ごっこはやめたはずのだが、ここで脳内事務所に、新たな事実が舞い込んできた。
僕はこれまで鈴音を、この地に囚われた悲劇の地縛霊か、それに近しい存在だとばかり思っていたのだ。
しかしどうやら、この説はたった今破綻してしまったようだ。
であれば、彼女は一体。
いや、僕は既に事務所をたたんだ身だ。
今更真実を明らかにしたところで、得られるのは鈴音が悲しむ顔だけだろう。
そのように僕は考えることを放棄し、取り敢えず山から出ようと踵を返した。
「こっちから行った方が早いよ。ついて来て」
彼女は呼び止めるように森の奥へ僕を連れていった。
暫し、密林のように繁茂した草木を潜り抜けていく。
すると、何処からともなく、太鼓と笛の律動が流れ込んできた。
楽音を辿るように斜面を下っていく。
段々と、そこに人声の喧騒が加わり始める。
そして最後には、ぽつぽつと闇の中に浮かんだ灯りが、木立の緑を温かく照らすようになった。
とうとう、僕らは草木から顔を飛び出させる。
そこはちょうど、祭囃子の中心となっている広場だった。
円形の広間のど真ん中には、荘厳な櫓が聳え立っている。
そしてその櫓の頂点を中心として、四方八方に提灯が連なっていた。
櫓の下では数え切れない人々が踊り明かし、或いは端の方で腰を下ろして小休憩を挟んでいる。
黒夜に浮かぶ橙の灯りは妖々しくもあり、集った群衆が渦巻きのようにゆっくりと流れる様は、僕に百鬼夜行を思わせた。
その場には、夏の暑さを一点に凝縮し、純粋な結晶として取り出したような荒々しい勢いが迸っていた。
見ての通り、今日はこの街の一大イベントと言ってもよい祭りの日だ。
この時ばかりは隣町からも人々が足を運んでくる。
それはそれは、街が大賑わいするのだ。
本来であれば、僕は日向達とここに来るつもりだった。
鈴音は目に焼き付けるよう首を動かし、辺りを見回す。
「人が沢山だね~」とのんびりとした感想を述べた。
ここに居ては、巡る人波に攫われそうだった。
僕らは速やかに広場の外れに向かった。
外れとは言えど、行き交う量は多い。
僕は往来する人々にぶつかりそうになりながら、たどたどしく足を進めていく。
対して彼女の方は、まるで森の中を進むのと変わらない様子で、難なく大人子供の隙間を上手く通り抜けていった。
そうして端の方に辿り着くと、そこで僕らは不意と立ち止まった。
そう言えば、僕らはお祭りにやって来たものの、何をするかについては全く考えていなかったのだ。
大きな瞬きをしていた鈴音と顔を見合わせる。
僕らは小さな笑みを浮かべ合った。
「これからどうしようか」
と、僕が彼女に話し掛けようとしたところで、ふと、鈴音が僕ではなく、僕の後ろに目を奪われていることに気が付いた。
気になってそちらへ首を向ける。
そこには、中学高学年か高校生ぐらいと思しき男女が並んで歩いていた。
あどけなさの残る男の子は鼠色の浴衣を身に纏っており、一方、少し大人びて見える女の子は、半色の浴衣に空色の髪飾りを身に着けている。
浴衣の色合いは然ることながら、下駄を慣らす音でさえ、その二人は綺麗に息を合わせていた。
一方の身体で隠れた二人の合間からは、ちらちらと結ばれた手と手が揺れて見えた。
ある程度の情報を抜き出すと、僕は二人に意識を向けることを止めた。
一方、鈴音はその後姿を見送るよう、延々と二人を眺め続けていた。
僕はあの二人を見て、何を考えただろうか。
君はあの二人を見つめ、何を思ったのだろうか。
願わくば、鈴音と僕があの二人の上に重ね描いたものが、同じであって欲しいと思った。
そんな泡沫の祈りは、宙に浮かんで弾け飛んだ、
かに思えた直後、手のひらには確かな温もりが伝えられた。
何かの間違いだと思った。
だから僕は、それが僕の強烈な願望によって引き起こされた幻触ではないことを確かめようとして、けれど、その幻の温もりが壊れてしまう恐れ、何度も何度も目を泳がせた。
そのあとになってようやく、僕は己が右の手のひらに視線を落とした。
その全てが、現実であった。
瞬間、心臓が爆発したように大きく跳ね、熱という熱が激流の如く血管を巡った。
僕は言葉を失ったままに君を見やる。
鈴音はつぶらな瞳で僕の目を捉えながら、口籠るように細々と言った。
「嫌だったら…嫌って言って…」
夢に夢を見た気分だった。
頭がくらくらするほどにぼんやりとして、だが僕は慌てて、ふるふると首を横に振った。
それから振り絞るようにして「…嫌じゃない」と横目に見る君に伝えた。
すると君は、気恥ずかしそうな笑みを零した。
僕の手のひらを潰さないよう、優しく力を加えてくれる。
絡まる手と手の心地良さに息が詰まりそうで、喘ぐように口を動かせば、湿った空気に綿菓子を感じた。
甘い魔法に掛けられて、僕にもようやく、夏が訪れたように思えた。
♦♦♦
このまま何事もなく夏が春の背を追い掛け、秋が冬の寒さから逃げてきたのならば、この祭りの日こそが、僕の脳裏に他の何よりも鮮明に刻み込まれた君との記憶になったのだろう。
しかし、現実問題として、この記憶が君との最もたる思い出にはならなかった。
まずはこのあとの出来事が、僕の感情を激しく掻き乱すことになるからである。
♦♦♦
君が僕の先を行き過ぎないよう。
僕が君に遅れ過ぎないよう。
お互いの歩調を確かめるようにすり合わせる。
ただ、前に足を動かすだけだというのに、二人で並んで歩くということは実に難しく、何処かこそばゆく、胸にハッカの爽やかな香りが広がるようになんとも新鮮なものであった。
それでも、冗談っぽく二人三脚みたいに掛け声で波長を合わせてみたりして、やがて僕らの歩幅は、ピタリと寄り添うようになった。
鈴音の手を取る僕は、このまま彼女と地球の果てまで散歩してしまえるような一体感に満たされていた。
ちょうど、その時のことだ。
ゆるい熱風に混じって、香ばしい匂いが流れ込んできた。
ふと、現実世界に戻ってくる。
途端、優しい提灯の灯りを掻き消すほどに煩い光が目にぎらついた。
僕らはほとんど同時に歩みを止める。
瞳孔を調整するように、一度瞬きを挟んだ。
道の両端に並ぶ簡易テント。
闇を寄せ付けない白い照明灯。
商店街を思わせる力強い客引きの声。
どうやら僕らは、知らず知らずに即席の屋台街に迷い込んだみたいだ。
「どうする?広場まで戻るか?」僕は彼女に顔を向ける。
「ちょっと見て回ろうよ」と鈴音は僕の手を引いて前に進み出した。
道を歩けば、油のはねる音や焦げた醤油の匂いが伝わってくる。
僕の腹の虫は暴動寸前に追い込まれた。
鈴音は都会に旅行へやってきた観光客みたいに、首を左右に振っては物珍しそうにその足を進めていた。
しかし、突如その動きが止まる。
今度は右にくる思われた顔がこちらを向かず、彼女は左の屋台に釘付けとなったのだ。
その屋台では、明かりを受けて光沢を放っている赤い果実が、小さな花畑を作っていた。
僕らよりも幼い子供がその内の一本を受け取り、満足そうにその場を後にしていく。
その子に分かりやすく羨望の目を向けている鈴音を見て、僕は軽く吹き出してしまった。
「りんご飴、気になるのか?」
僕は笑い声を抑えられないままに訊ねる。
君は小恥ずかしそうに頷いた。
そんな鈴音を見た僕は胸に甘い痺れを覚え、年相応だな、という感想を訳もなく抱いた。
空いている右手でポケットを探り、この日の為に貯めていた虎の子を取り出す。
それから、鈍く輝く五百円玉を彼女の前に掲げ、僕はニヤリと笑い掛けた。
鈴音はきょとんと僕を見つめた。
僕はそのまま彼女の手を引っ張り、屋台の前で「りんご飴、二本ください」と言った。
「お前、一人で二本も食うのか?」
店番のおじさんは、欲張りな人を見る目で僕を眺めていた。
お釣りとりんご飴を二つ受け取る。
店の前から立ち退き、一本を彼女に手渡す。
鈴音はそれを遠慮がちに受け取った。
僕がりんご飴を舐めるのを待ってから、恐る恐る口を付けた。
飴を舐めた途端、君はその表情をパッと輝かせる。
その時に僕は初めて、誰かに奢ることの喜びを知った。
そうして僕らはりんご飴を片手に、またのんびりと歩き始めた。
黙々と、甘い飴と酸っぱい林檎を齧る。
それが残り半分ほどになったところで、鈴音は棒に視線を固定させながら、ぽつりと言葉を零した。
「何も、聞かないんだね」
今更『何を』というのを聞くのは無粋だと思われた。
その上、今晩は夏の魔法が僕を無敵にしてくれている気がした。
だから僕は、君の手のひらを少し強く握って、鈴音にこう言ったのだ。
「前にも言ったろ?」「伝わる温もりが同じなら、僕はそれで充分なんだって」
鈴音は少し強張った笑顔を作った。
「…千風くんは、強いね」
彼女は握る手の力を強めて、消えてしまいそうな声で応えた。
そんな君は、いつもと違ってほんの少しだけ弱々しく見えた。
彼女を安心させるよう、僕も同じ分だけ、握る手に力を込めておいた。
中途半端に胃袋を刺激したせいだろう。
りんご飴が綺麗さっぱりなくなった頃、腹の虫はとうとう、内側から僕をぶん殴るようになった。
折よく好ましい屋台を見つけた。
僕はそこで焼きトウモロコシを購入する。
もちろん二本分だ。
「またくれるの?」
彼女は意外そうに首を傾げた。
僕は一芝居打とうと思って、それっぽい声真似をしてみた。
「あぁ、『よぉ、坊主。可愛い嬢ちゃん連れてるんだな。一つオマケしてやるよ』って屋台のおじさんが言ってくれたんだ」
すると鈴音は、面白そうに目を細め、
「千風くんの嘘つき」
と楽し気に言った。
僕は返すように、
「嘘じゃないさ」
と言ってみたところで、その続きの言葉を繰り出すことは叶わなかった。
君は待ち焦がれるように期待の目を向けていた。
でも、僕の喉はそれ以上、動かなかった、動かせなかった。
やがて鈴音は、ずっと昔からそうなることが分かっていたみたいに、一瞬間、何かを諦めたような表情を過らせた。
僅かな沈黙を経て、僕らは歩き出した。
それからはひたすらトウモロコシを齧る時間が続いた。
少なくとも、夏夜の狂熱に踊らされた僕は、まだ夏の魔法に包まれていたのだと思う。
だが、それでも、その先を言葉にすることは憚られたのだ。
だってそうだろう?
その先の未来に挑んだが為に、この心地良い関係が崩れてしまうかもしれないのだから。
臆病だったと言われればそれまでかもしれない。
だけどそれは、石橋を金槌で叩かねばならぬほどに僕にとっては下らなくないことで、その意志決定は僕の全てを左右するほどのものだった。
先に断っておくと、これは後知恵でしかない。
それは、全知的な視点から語られる、当事者の心情を無視した意見であると承知した上での話だ。
だが、敢えて言わせてもらえば、紛れもなくこの瞬間にこそ、僕は続きの言葉を伝えるべきだった。
僕は夏の魔法に浮かされて、うっかり口を滑らせなければならなかった。
それは決して遅れてはならぬことだった。
でも結局のところ、僕はその場で足踏みしたまま、一歩も前へと進もうとしなかった。
現状維持の果てに待つものは永遠ではなく破滅だというのに、都合のよい面にばかり縋り、僕はそこから目を逸らしたのだ。
石橋だって強く叩き続ければ、いつかは壊れてしまうというのに。
結果、僕は僕の選択に、大きな悔いを残すこととなる。
♦♦♦
食べ進める焼きトウモロコシは、焦げた醤油の辛みとコーンのほんのりとした甘さが絶妙だった。
それを食べ終えると、僕らはゴミを捨て、屋台街を抜けていった。
近くの縁石に腰を下ろす。
遠くから祭りの喧騒をぼんやりと眺める。
空高くに三日月が昇った。
店仕舞いを始める屋台がちらほら現れた。
「一旦戻るか?」
僕が立ち上がる素振りを見せると、鈴音は僕を引き留めるように握る手に力を込めた。
「…んーん…もう少しだけ、このままでいよーよ」
君は甘えた声で僕の身体にもたれ掛かった。
僕はもうしばらく、月の淡い光を眺めることにした。
屋台の半数が照明を落とし、夜の帳が密度を増した頃「そろそろ帰ろっか」と鈴音は徐に身体を起した。
自然な動作で僕の手が解かれる。
温もりが零れ落ち、何かが足りない感覚が手の内を漂った。
僕がしみじみと手のひらを眺めているうちに、鈴音は近くの茂みから森へ向かっていた。
「いつもの場所まで送っていくよ」と僕は君の後をついていくべく動き出そうとする。
「別にいいよ、そこまでしてくれなくても」彼女は微笑みながら僕を制止した。
しかし、そこで退く僕ではない。
「いや、夜は危ないからさ」
なんて取ってつけた理由で言葉を返そうとして、その時、彼女はそれを遮るように口を動かした。
「ね、千風くん」「…もう一つだけ、わがまま言っても良いかな?」
君の我儘ならなんだって聞いてやりたかった。
僕は軽く頷き、鈴音の気ままなおねだりを待った。
その間、彼女は逡巡するように、何度もその口を開こうとしては閉じることを繰り返した。
そんな君の表情は、諦念か憂慮か、それとも別の何かか。
僕には上手く判別出来ないものだったけれど、それが決して良いものではないだろうということだけは、強く伝わってきた。
だからある時、僕は直感的に理解した。
何かがおかしい、と。
そう思った次の瞬間、頭の中には甲高い警告音が鳴り響く。
その先を言わせてはいけない。
少し先の未来を見たかのような心が訴えかけてくる。
僕は何かしらの行動を起こそうとして、しかしその前に、長い躊躇いを乗り越えた鈴音は、それを言葉にしてしまった。
「もう、あそこには来ないで欲しいの」
ぐらりと、大地が抜け落ちたような感覚があった。
一瞬、僕は彼女に何を言われたのかを、上手く理解出来なかった。
自分にも君にも問い掛けるように、僕は言葉にならぬ問い掛けを口の端から零れ落とす。
でも、君は儚げな微笑みを浮かべるばかりで、何も言ってくれなかった。
今一度、頭の片隅でその言葉を読み解く。
訳が分からないのか分かりたくないのか「どういう…意味だよ?」と僕は引き攣った笑顔を浮かべた。
その言葉をもう一度耳にすると言うことは、それすなわち僕の胸に大きな杭をもう一本打ち付けると言うこと他ならなかったが、だとしても、僕は訊ねずにはいられなかった。
鈴音は何かを押し殺すように瞼を閉ざす。
きわめて無表情に、冷たい声を発した。
「だから…こうやって一緒に遊ぶのは、今日で最後にしようって」
今度は胸がすり潰されるような痛みに襲われた。
つい、膝から崩れ落ちそうになる。
しかし醜態を晒さないよう虚勢を張り、僕は愕然とその場に突っ立った。
表情の抜け落ちた、或いは「どうして?」の四文字で埋め尽くされた僕を見た彼女は、冷徹だった表情をいたたまれないものに歪ませた。
けれど、胸に込み上げるものを必死に抑えつけるように、君は震える声調で、短く言い残した。
「さようなら、千風くん」
醒めない悪夢を見ている気分だった。
後頭部を鈍器で殴りつけられ、その衝撃で魂が飛び出たかのように、僕の身体は自分のものじゃないみたいに微動だにしなかった。
視線を背けて僕の下から去り行こうとした鈴音は、しかし言い忘れたように振り返る。
「…今日まで一緒にいてくれて、ありがとうね」「本当に、楽しかった」
君は僕の目を見てぽつぽつと呟いた。
僕は君の目なんて見ていられなかった。
「…お、おい!」「待てよ鈴音!」
君の後姿が茂みに消えそうになった頃、ようやく僕は現実を取り戻した。
逃げるように森の中へ進んだ鈴音を追い掛けるべく、慌てて走り出す。
がしかし、これまでに一度も彼女に敵わなかった僕が追い付けるはずもなかった。
それぐらい、本当は分かっていた。
それでも、いま彼女を引き止めないといけない気がした。
暗黒に目を凝らしてひたすらに君の姿を探し求める。
愚直に森を駆け続けようとする。
けれど、数秒と経たないうちに鈴音の残した言葉で身体中が苦しくなって、つま先に引っ掛かりを覚えた。
途端、視点ががくんと下がって、いくら藻掻けども、身体はそれ以上前に進まなくなった。
いつの間にか、僕は地面に突っ伏していた。
膝下からヒリヒリと、微かな痛みが押し寄せる。
けれどもそれ以上に凄惨な苦しみが、大きな穴の開いた胸に響き渡っていた。
その場所には無情な突風が流れ込む。
この痛みを刻み込むように、ズタズタと肉を切り裂いていく。
ぼうっとした頭で目を凝らそうとも、もう君の名残さえ見当たらなかった。
空を見上げども、慰めの月明かりは届かない。
何もかもが受け入れたくない。
そんな僕の心情にはお構いなしに、許容限界を超える感情が殺到する。
終いには身体中が一つの感情に支配されて、暗がりの森が酷く滲んだ。
何処からか吹き抜けたぬるい風は、呆気なく、僕から夏の魔法を取り上げた。
次回の投稿日は、7月29日の土曜日となります。
それでは、また次話でお会いしましょう!




