⑫ 送別の思い出
「いつ頃か、お前とは遊ばなくなった時期があったよな」
すっかり顔を赤くした日向が、ふと思い出したように言った。
弱い昼白色に照らされた居酒屋は、まだ日中だというのに地元客で溢れていた。
「そう言えば、そんな時もあったな」
僕は小鉢をつつきながら軽く頷いた。
日向は揶揄うような笑みで続ける。
「あれだろ?あの図書館の美人なお姉さんに恋でもしてたんだろ?」
そこまで言われて、僕は不意と司書さんのことを思い出した。
なかなか筋違いなことを言われて、思わず目が点となる。
しかしまぁ、他の職員や図書館常用者からすれば、僕はさながら犬のように、斎藤さんに良く懐いているように見えたことだろう。
僕は適当に相槌を打って小麦色の液体を呷った。
喉には弾けるような感覚が伝わった。
「いやー、あの人、美人だったよなぁ~」
日向は昔日を懐かしむように呟いた。
それなりに賑わった店内を見渡す。
白い壁の隅に、肩遅れのテレビがひっそりと設置されていた。
僕は何気なく、画面に目をやった。
この季節に相応しく、番組の内容は心霊現象に関する特集のようだ。
画面に映る役者たちは、まるで幻影でしかない幽霊が本当に実在するかのように、大袈裟に驚いて見せていた。
いや、今のは語弊のある言い方か。
彼女らはそこに存在するかもしれないし、存在しないかもしれない。
少なくとも、僕は幽霊を見たことがない。
それだけの話だ。
どうやら、テレビの内容は酒の肴にはならないらしい。
画面に着目していた日向の方も、似たような結論に至ったようだ。
酒のつまみに視線を戻すと、僕らはまた、過ぎ去った日々に思いを馳せた。
頭の片隅の方で、僕はひとり、過ぐる日々に思いを巡らせた。
♦♦♦
ストレスは大きく分けて二種類存在する。
それは主に、ポジティブストレスとネガティブストレスと呼ばれるものだ。
一般的なイメージのストレスは、後者に該当することだろう。
後者を例えるなら、会社の上司が吐き捨てるような態度で罵倒してきた時に感じる、あの手先がじれったくなる鬱憤だ。
対してポジティブストレス、言わば前向きなストレスとは、普段行かないような場所で遊び倒したあとの気怠い心地良さなんかだ。
こちらはリフレッシュとしても機能するという正の面もあるが、どちらのストレスも、心身に負担を与えるという意味では共通している。
引っ越しなどで生活環境の大変化が起こりがちな春頃、ストレスは特に、人間に影響を及ぼす。
ある研究結果によると、蓄積したストレスが発端となって、春季には恋人関係の破綻が増加傾向にあるらしい。
それを知ってか知らずか、故人は春を別れの季節として扱ってきたのだろう。
多くの人々が初めて、別れの季節を胸に響かせるのは、たぶん、中学校卒業の時なのだと思う。
小学校卒業の時とは違って、これまで肩を組んできた仲間たちと、それぞれ別々に道を進んでいくことになるのだから。
しかし、僕はそれより一歩先に、一つの物事の終わりに出会うことになる。
別れと出会いの季節などとはよく言ったものだが、その春、僕は出会いを経験することなく、一方的に別れだけを押し付けられることになった。
♦♦♦
切り裂くような北風が唸りを潜め、淡く澄んだ空がぼんやりと霞むようになった。
次第に長閑なそよ風が舞い込み、麗らかな日光が姿を見せ始めた。
街行く人々の足取りも軽やかだ。
ここ最近は、何処からか呑気な鼻歌が流れてくる日々が続いている。
僕も浮き立つ心地で街を通り過ぎていく。
お昼前の時分には図書館へ辿り着いた。
借りた本の返却と、新たな蔵書を借り出すのが目的だ。
恐らく、鈴音はいつでもあそこにいるのだろう。
だから、僕は願わくばこの時間でさえも、鈴音との一時に割きたいと思っていた。
けれどあいにく、僕の住む町の図書館は閉館時間が早かった。
一度鈴音と顔を合わせたら、日暮れまでずっと一緒に時を過ごしていたい。
そう思う僕にとっては、こうしてお昼前にこちらへ向かうのが最適解だった。
図書館のドアを潜る。
まずは返却箱に向かい、借りていた本を仕舞う。
続いて受付の方へと視線をやり、斎藤さんが居るかどうかを確認した。
居ればそちらに向かってお勧めの本を訊ねただろうし、居なければ自分の感覚で本を選ぶまでだ。
彼女の姿は見えない。
どうやら今日は不在のようだ。
僕は一人、いつもの本棚へ向かっていく。
その途中、本棚整理をしている斎藤さんに出くわした。
僕の姿を認識するや否や、彼女は開口一番にこう言った。
「良いニュースと悪いニュース、どっちから聞きたい?」
斎藤さんからの報せに、良いも悪いもあるのだろうか。
それは判別し難いことだったが、悪い話から聞いては、後の良い話も喜べまい。
少し考えてから「良いニュースで」と僕は答えた。
「りょーかい。じゃ、ついて来て」
彼女は僕を先導して、いつものコーナーへ向かった。
そこで僕も気が付いた。
これまでは図書館の隅でこっそりと息を潜めていたその場所が、隣のコーナーを追いやり、実に倍以上のスペースを占領していることに。
僕は目を見開いて本棚を見つめた。
斎藤さんは屈んで僕の視点に背丈を合わせた。
彼女はその表情に微笑みを作る。
周囲の迷惑とならないよう控えめな声で、僕の歓喜を代弁した。
「少年の大好きな植物に関する蔵書が増えましたー!」
確かに、良いニュースだった。
これだけ新たに蔵書が増えれば、僕はまた一歩、鈴音の知識量に近づけるのだから。
僕は喜色を隠せないままに、手当たり次第に目新しい本を眺めていく。
「少年がこのコーナーの本を頑張って読んでるから、貸出冊数が増えたのよ。日頃の努力の賜物ね」
浮かれる僕を横目に、斎藤さんは優しく言ってくれた。
こうして褒められるのは悪い気分じゃない。
彼女もこの部分だけを切り取れば聖母のような人なのだが、誰しも、素顔が一枚とは限らないものである。
斎藤さんに関して言えば、もう一枚の素顔は少々おふざけが過ぎるところだろう。
今日はこれを借りてみようか。
と、興奮に一区切りついたところで、僕は現実に戻ってきた。
はしゃいでいるところを、斎藤さんにニマニマと眺められていた。
今更そのことを認識し、どうにも、極まりが悪かった。
だから僕は反動的に、ぶっきらぼうに言った。
「それで、悪いニュースってなんですか?」
「あたしがここで勤務するのは、明後日で最後ってことかな」
まるで何事もなかったかのような言い草だった。
さらりとそう言ってしまうと、彼女はいつも通り、調子に乗った口を滑らせようとした。
「まぁ、あたしみたいに素晴らしい司書さんが居なくなっちゃうのは寂しいかもだけど──って、少年?」
その時、僕は二重の意味で驚き通していた。
一つは単純に、斎藤さんがこの図書館で働かなくなることについて。
そしてもう一つは、世間話をすることはあれども、結局はビジネスライク的な関係に過ぎないと思っていた斎藤さんが居なくなることに対して、少なからずの衝撃を受けている自分自身に向けられたものであった。
口うるさくも僕にお節介を焼いてくれる彼女が、もう数日後にはその姿を消している。
その場面を想像すると、なんだか、胸に小さな穴が開いたような気分になった。
斎藤さんは不思議そうにこちらを眺めている。
僕は素直な気持ちを言葉にした。
「…そりゃ、寂しいですよ。鬱陶しい時もありましたけど、なんだかんだお世話になりましたし」
僕はくぐもった声で呟く。
彼女は目を皿のように見開いた。
「へー、そんな風に思ってくれてたんだ。結構意外かも」
斎藤さんは丸い目を横に細め、感慨深そうに言う。
「もしかして、あたしのこと好きになっちゃったりして?」
などと、斎藤さんの続ける阿保な言葉は聞き流しておく。
その間、僕は色々と考えを巡らした。
そしてその末に僕は、今日はこのまま踵を返すという選択肢を選んだ。
「あれ、本借りていかないの?」
当然、彼女は疑問気に訊ねてきた。
僕は斎藤さんに目を合わせ、今し方用意した理由を返した。
「三日じゃ二冊も読めないですから。なのでまた明々後日来ます。…だからその時、ちゃんとお勧め教えてくださいよ?」
こちらの意向を理解してくれたようだ。
「はいはい、お姉さんに任せなさい!」
斎藤さんはおかしそうに笑みを浮かべながら、胸を張って僕に応えた。
♦♦♦
春真っ盛りなこの時期、冬の間がら空きに見えた田んぼは、藤紫一色に染め上げられる。
小風に乗せられた春の匂いに釣られたのだろう。
何処からかモンシロチョウやミツバチが田圃へとやってきて、そこから忙しなく蜜を運び去っていく。
もちろん、人様は明るい花々が一面に咲き誇る様子を楽しむ為に、若しくは虫たちの為だけに蓮華草を咲かせているわけではない。
いわゆる緑肥として、田圃を所有する農家が育てているのだ。
厳しい寒さを乗り越え、活力を取り戻しつつある自然を眺めながら、僕は草木の萌えつつある山に歩み入った。
頭上で音痴な鶯が鳴き声の練習をしていて、耳元ではてんとう虫が羽音を立てて飛んでいく。
足元にはたんぽぽが力強く咲いていた。
少し視点を上げれば、散り始めた山桜や梅、昨日鈴音と蜜を吸ったツツジなんかも伺えた。
山は色華やかに飾られ、視覚も聴覚も癒される季節となった。
とは言ってみたものの、僕の心を一番に和ませてくれているのは、年がら年中一緒にいる君なのだけれど。
シンボルツリーに近づけば、当然、その下で鈴音が待ってくれている。
おはようの挨拶もほどほどに、僕らは穏やかな春の日を楽しみに向かった。
何をするのかはその日によってまちまちだ。
春の山菜を収穫したり、カラスノエンドウで草笛を吹いてみたり、
或いはいつものように御伽噺を読むこともある。
今日も似たような、でも毎日違っている時間を過ごしている最中、ふと、僕は彼女に訊ねた。
「鈴音って、かなり花に詳しいだろ?」
シロツメクサとたんぽぽを重ね合わせて、ちょっと豪華な冠を作り上げようとしている鈴音は得意げに言った。
「うん、千風くんよりは詳しい自信があるかな~」
その表情は中々に憎たらしい笑顔だった。
がしかし、より博識であるのは彼女だというのは、悔しいことに事実だ。
いつか見返してやるぞ、と思う一方で、でもそれは一体いつになるのだろうか、とも思いながら僕は本題を切り出した。
「じゃあさ、尊敬して…お世話になった人に贈る花って、何が良いと思う?」
要するに、僕が改めて三日後に図書館に赴くことに決めた理由。
それは、斎藤さんに日頃の感謝を込めた花を贈ろうと企てたからである。
僕は尊敬という単語を発しようとして、しかしそれは気に食わず言葉を変えた。
でも、鈴音はそれを並列として捉えたらしい。
「尊敬しててお世話になった人かぁ。そうだね~」と思案顔で唸った。
「いや、尊敬はあんまり出来ないかもだけど」
「因みに、誰に贈るつもりなの?」
僕は苦笑いで訂正を入れる。
鈴音は思い出したように、手を器用に動かしながらこちらを見つめた。
何気なく、斎藤さんとの日々を思い返す。
そのくだらない時間に、つい口元から笑みが零れる。
ありありと脳裏を巡る記憶の要約を、僕は流水のように切れ目なく伝えた。
「えっと…図書館で働いてるお姉さんだな。僕がここに持ってくる御伽噺とか、勉強のための植物図鑑とか、その人がよく一緒に選んでくれてたんだ。まぁ、ちょっとお節介が過ぎるところがあって、たまに呆れるような時もあるけどさ、総合的には良い人で──」
そう言えば、こんなこともあったな。
あぁ、あんなこともあったか。
といった具合に、僕は思わず、回想に夢中になってしまった。
「…ふぅん」
それを無表情に眺めていた君は、途中で面白くなさそうに相槌を打った。
「そんなに熱心に語れるぐらい大事なら、自分で選んだ方が良いんじゃない?」
鈴音は素っ気なく言い切る。
ぷいと、視線を自らの手元へ向けた。
「え?だから鈴音の力を借りたいと思ったんだけど」
鈴音の急な変わりように、僕はその意味を理解出来なかった。
純粋な疑問の言葉を返す。
しかし、それっきり彼女は知らんぷりであった。
黙々と冠を完成させる。
それを頭の上に乗っけて立ち上がり、自己満足的にくるりと回った。
いつもならその後「どう?」とか、これまた返答に困ることを微笑みながら聞いてくれるのだが、何か怒らせてしまったのだろうか。
鈴音はそれからも、僕にそげない態度を保ち続けた。
そしてそれはその日に限らず、次の日までも続いた。
一応、話し掛ければ返事はしてくれる。
いつもの場所で僕を待っててはくれている。
だから、そこまで怒り心頭と言うわけではないのだろうが、それではこの有様はどう説明すればいいのか。
知らない身内話で盛り上がられたら、そりゃあ不愉快だったか。
一晩経った後に、そう反省した僕は彼女に謝った。
「別に、いいよ」と答えた鈴音は、けれども冷たい反応のままであった。
いつもは笑顔で溢れている君が、少々つれない反応を示す。
たったそれだけのことでも、僕の心は簡単に攪乱されてしまう。
その三日間、僕はまるで季節が逆戻りしたかのような気分に落とし込まれた。
鈴音の斜めなご機嫌を持ち上げることと、斎藤さんに贈る花選ぶこと。
一つの問題を解決しようとした結果、僕は却って二つの問題を抱える羽目となった。
♦♦♦
何故だか心労が倍以上になって、無駄に疲弊した状態で僕はその日を迎えた。
結局、鈴音の力を借りられなかった僕は、薄い知識で一本の花を選び出した。
一応、花を贈るのはサプライズの予定だ。
それが見えないよう大きめのバッグを携え、僕は図書館に到着した。
初めて斎藤さんと会話を交わしたあの日と違って、今日は気持ちの良い日光が館内を照らし出している。
僕は受付へ近づこうと動き出す。
先にこちらの姿を認めた彼女が、こちらに歩み寄って来てくれた。
そのままいつもの場所へ移動し、また変わらず、彼女は幾冊かの本を取り出した。
「この四つが、最後に少年にお勧めしとく本かな」
斎藤さんは簡潔かつ興味を引かせるような説明をしてくれた。
僕はうちの二冊を借り出すことに決めた。
彼女に貸し出し許可を貰う。
流れで出口まで見送ってもらったところで、僕はふと、足を止めた。
「斎藤さん」僕は意を決して、彼女に呼び掛ける。
「ん?」と斎藤さんは軽く相槌を打った。
僕はバッグから花を取り出し、頭を下げてそれを差し出した。
「今日まで僕に良くしてくれて、本当にありがとうございました」
短い言葉だったが、僕なりに伝えるべきことは言葉に出来たはずだ。
実際にそれを言葉にしてみると、妙に恥ずかしい気持ちを抱かされた。
が、それは向こうも同じだったらしい。
「おー、カーネーションかぁ…ありがとうね、少年」
斎藤さんは人差し指で頬を掻きながら、僕の手にある白いカーネーションを受け取ってくれた。
いつもと違って少し照れ臭そうな様子は、新鮮そのものであった。
しかしそれも一瞬のことで、一口息を吸うと、彼女はいつもの調子に戻った。
「一応、教えておいてあげるけど、誰かに花を贈るときは、色に気を付けないとだからね?少年がくれた白は『感謝』って意味だけど、例えばオレンジ色だったら『あなたを愛します』になるから」
へぇ、カーネーションって色ごとに別の意味を持つのか。
今後誰かに花を贈ることがあれば、是非とも気を付けることにしよう。
あぁ、そう言えば、鈴音には蔦葉天竺葵を渡そうとしたことがあったっけ。
あの時は花屋のおっちゃんに選んでもらったからな。
もしかしたら、それがまずい花言葉だったせいで、鈴音は受け取ってくれなかったのかもしれない、か。
彼女の助言に耳を傾けながら、僕はそんなことをぼんやりと考えていた。
そして同時に思い出す。
かつて僕が行き詰まった難題を、斎藤さんはいとも簡単に乗り越えさせてくれたことを。
原因不明で悪化した鈴音の機嫌を、どうにかして元に戻すこと。
僕には中々どうして難しいことだけど、彼女になら、それをどうにかする方策を思い付けるのではないだろうか。
もうとっくに、僕の頭は斎藤さんを頼れる人だと認識していた。
自然と、言葉は口から零れ落ちた。
「あの、斎藤さん。最後に一つ、聞いていいですか?」
「うん、なに?」
「実は…」
相談に乗る素振りを見せた斎藤さんに対して、僕は隠すことなく事の詳細を伝えた。
僕の頭を悩ませていることを知った彼女は、例のニマニマとした笑顔を作った。
「ほぉ~。あたしに贈る花が何が良いか聞いたら、口利いてくれなくなっちゃいました、と」
僕はこくりと首肯する。
彼女は面白おかしそうにケロッと言った。
「それは嫉妬って気持ちよ。いやー、その子に嫉妬させるなんて、少年も中々のやり手だねぇ~」
「は?んなわけ──」
予想外にもほどがある答えだった。
思わず敬語を取っ払って、その可能性を否定しようとする。
そうであって欲しいと願う気持ちと、そんなことがあるはずがないだろうという冷静な気持ち。
その二つが拮抗し、心の中は忙しくて仕方なかった。
「ま、何はともあれ、ちゃんと誤解は解いてあげないとね?それじゃ、またいつか」
僕の反論を躱すよう、斎藤さんはニマニマとしたまま僕を言い伏した。
たちまち、僕を置いてこの場を去っていく。
最後まで「少年」呼びは変わらなかったな。
彼女の後姿を眺めた僕は、妙にしみじみと思った。
♦♦♦
そういう訳で、問題解決に至らないどころか余計な妄言さえ突っ込むことになった僕の頭の中は、既に機能不全にまで追い込まれていた。
痛む頭を抱えて、それでもシンボルツリーに向かってしまうのは、どうしようもなく僕が彼女に会いたがっているからなのだろう。
思考が無意味な空転を繰り返す。
いつの間にか、僕は大樹に辿り着いていた。
ふと、俯いた視線を戻す。
春の日差し。
映える緑。
大樹の下で座り込む君の姿。
そして、彼女の伸ばした右手の先で休むカラスアゲハ。
目には羅列的に、幾つもの情報が飛び込んできた。
その光景は僕に、美術展のメインを飾る一枚絵を思わせた。
僕がその神秘的な空間に魅入っていると、奇跡の絵画に命が宿った。
君が僕を視認し「あっ…」と小さな声をあげる。
その振動のせいか、蝶はひらひらと何処かへ舞っていった。
芸術的一場面を壊してしまった罪悪感ゆえに、僕は何も言葉を放てなかった。
長い沈黙があった。
やがて鈴音は、目交ぜで隣に来るよう僕を促した。
僕はいそいそと、一線を画した大樹の方へ寄る。
彼女の隣にそっと腰を下ろした。
それからは何も言わずに、僕らはお互いに僅かながら身体を寄せ合った。
でも、たったそれだけのことで「ごめん」とか「私こそごめん」とか「いいよ」の言葉は不必要だと思えた。
程なくして、鈴音は僕の目を見やり、何気なく言い出した。
「ね、覚えてる?少し前に話したエロスとプシュケーのこと」
「あぁ、覚えてる」
僕が二つも前の季節のことを思い返していると、彼女はつい昨日のことを思い出すように続けた。
「あれはさ、私の方が間違ってたかもしれないね。まだはっきりとは分からないけど、千風くんの方が正しいんだよ、きっと」
あんなにもきっぱり割れていた意見を、鈴音は今更、僕の方に譲ると言ったわけだ。
しかし、幾ら思い出せど、僕の解釈は作品に似合わない独り善がりなものだったと言わざるを得なかった。
「そうか?鈴音の解釈の方が物語に合致してたと思うけど」
「じゃあ、あの二人は嘘をついてたってことだよ」
鈴音はあっさり言い返し、それから、物語の何もかもを無に帰すように笑い飛ばした。
「…よいしょ」と、彼女はもう少し僕の方へとにじり寄る。
君は優しく、穏やかな表情で僕の耳元に囁いた。
「真実を見つけ出した千風くんには、特別に、私からのご褒美があります」
その女神めいた微笑みは、あっけなく僕の心を捉えた。
鈴音はそのままこちらに手を伸ばす。
凝り固まった頭上に、こそばゆい感覚が生じた。
そこで僕は、彼女にわしゃわしゃと、頭を撫でられていることを認識した。
与えられる柔らかな手のひらは、寝起きの布団みたいに心地良くて、その人一人に浴びせるには強烈過ぎる笑顔は、どこまでも僕の胸を震わせた。
それでも以前の僕であれば、鈴音から伝わる無邪気な愛情を受け取ることを恐れ、小動物のようにその場から飛び跳ねたことだろう。
だけど、どうやら僕は、とっくに飼い慣らされてしまったみたいだ。
すっかり素直になってしまった心模様に、思わず苦笑いを零す。
僕は身じろぎさえすることなく目を閉ざし、彼女にされるがままとなった。
脳髄にその心地良さを染み込ませるかのように、君は暫くの間、僕に慈愛の賜物を授けていた。
次回の投稿日は、7月25日の火曜日となります。
それでは、また次話でお会いしましょう!




