⑩ 川辺の思い出
それ以外には何もない、駅前のバス停に佇むこと三十分。
ふと、身体が陰に覆われた。
プシューと、近くで空気の抜ける音が聞こえる。
やっとのことでバスが到着したようだ。
正面へと視線を向ける。
かつては鮮やかだったろう外装は剥がれ落ち、今やバスは傷だらけの姿をしていた。
ディーゼルエンジンからは、黒い排気ガスが断続的に噴き出している。
その間隔は不規則で、今にもその動きを止めてしまいそうだ。
という感想を抱くのは、これで何度目だろう。
案外故障しない所を見るに、こいつもブラウン管テレビみたいなものなのかもしれない。
軋んだ音を立ててドアが開く。
僕は古びたバスに乗り込んだ。
冷房が効いていることはない。
当然のように、車内には蒸した空気が充満している。
窓が大きく開け放たれていることが、唯一の救いだった。
定刻には十分ほど遅れているものの、定年間近と見える白髪の運転手は謝りもしないし、一方、僕もそれを咎めることはない。
この街では皆、時間にルーズなのだ。
まるで徒競走でもしているかのように忙しない都会とは違って、時の流れはゆったりと動いている。
ここで暮らしていると、時計の針が止まっているのかと勘違いしてしまうぐらいだ。
勿論、それはあくまでも錯覚に過ぎない。
実際にそうであれば、どれだけ嬉しいことだろうか。
ともかく、ここで生まれ育った僕はそれを知っているから、この程度で腹を立てることもないのだ。
適当な座席に腰を下ろす。
バスは大きな音を立てて走り出した。
どうやら、道の方にもガタが来ているらしい。
頻繁に車体は上下に揺れ、その度に風鈴が大きな音を奏でた。
そしてその心地良い音色に引き込まれるように、僕はまた、遠い思い出に浸ろうとするのだ。
しかし、その直前のことだ。
どうにも聞き覚えのある声が、後ろの方から響いた。
それに気が付けたのは、ついさっき掘り起こした記憶の中に、同じような声の持ち主が現れたからだろう。
「よお、奇遇だな、千風」
後部座席に首を向ける。
相変わらず色黒な彼が笑みを浮かべていた。
記憶の中の彼と比べると、その顔の輪郭には、本来の枠からはみ出したような違和感があった。
しかし、それはあどけなかった表情が大人らしいものに成長した証だろう。
こうして旧友の姿を見ると、ようやく、この街にも時が流れていることが実感できた。
「あぁ、久しぶりだな、日向。何年ぶりだ?」
僕は同じように言葉を返した。
「何言ってんだ。つい一カ月前も会っただろ」
彼は気さくに僕の冗談を笑い飛ばした。
共に幼少期を経た旧友の中で、このようにしばしば顔を合わせる奴はこいつぐらいだ。
他の連中は皆、この退屈な街に嫌気が差して都会に出ていった。
だから皆で集まる機会は中々ない。
日向は家業を継いだ為に、僕を含む多くの人間と違って、今も生まれ育った故郷で暮らしを営んでいた。
最寄りのバス停に着かないうちに、日向は降車ボタンを赤く点滅させる。
それから、手に何かを握る仕草を取ると、それを口に呷るようにして見せた。
「せっかく一カ月ぶりに会ったんだ。一杯やろうぜ」
「まだ昼だぞ?」
彼はにやりと笑い掛けてくる。
僕は形式だけの浅いため息を吐き出した。
そういうのも嫌いではない。
小腹が空いていたのも事実だ。
次のバス停で降りると、僕らは目的の方角へと繰り出した。
道の両脇には細々と店が立ち並んでいる。
けれどもそこから活気が失われた様子はない。
そんな、田舎街の小さな商店街だった。
どうやら、毒林檎に手を伸ばすのは、もうしばらく後で済みそうだ。
♦♦♦
その年の夏を契機として、そして秋冬と季節を経るにつれて、僕は減少傾向にある新たな読書家の一人に加わった。
とは言え、学校の図書室に入り浸り、書架を征服する勢いで読書に没頭することもなければ、かと言って、街の図書館の閲覧室に引き籠ることもなかった。
確かに本は好きだ。
だが、僕が本当に好きなのは、本を読むこと自体ではなかった。
読書が全く嫌いというわけではない。
しかしそれ以上に、僕は聞き手となることが好きだった。
読み手が朗読する物語を受け取り、脳裏に美しい情景を描いては咀嚼する。
当時の僕はその点に魅力を感じていたのだ。
この世に生を授かった時にはとっくに絶滅してしまっていたが、生まれる時代が違えば、僕は紙芝居屋なんかの虜となっていたことだろう。
けれども僕はそれを惜しむことはない。
紙芝居屋などに出会わずとも、こちらの方がより素晴らしいものだと確信しているから。
「其の島に天降りまして、天之御柱を見立みたて──」
音楽のように澄み切った玉音が、僕のすぐ隣から響く。
高尚な演奏に身を浸すよう伏せた目を、僅かに横へと向けた。
そこでは、目を閉じて長い睫毛を際立たせた君が、心をも洗い流してしまいそうな清音で詩を詠っていた。
口を挟みかけた僕は、しかし何も言わず、鈴音を邪魔しないよう耳を傾けた。
彼女の旋律は数十秒と続き、あっという間に締め括られた。
最後の一音を詠った鈴音は、小さく息を吐き出した。
程なく、僕は両手を叩いて賛称した。
彼女はこそばゆそうに頬を緩ませる。
微笑む君を存分に楽しんだ後で、僕は言いたかったことを伝えた。
「ごめん、全然意味が分からなかった。もうちょっと優しく説明して欲しい」
「え」
すっかり僕が理解したと考えていたらしい彼女は、称賛を浴びて得意げだった目を丸めた。
「じゃあなんで黙ったのさ~」
鈴音は非難したそうな表情で僕を問い詰めてくる。
「そりゃあ、あんまり鈴音の声が綺麗だったから、ついつい」
僕は随分とわざとらしい口調で答えた。
君は喜ぶような呆れたような、なんとも言えない笑みを浮かべた。
「仕方ないなぁ」
と一呼吸挟んでから、彼女は僕にでも分かるよう、簡単にお話を教えてくれた。
結論から言うと、それは国生みと黄泉の国の物語だった。
伊邪那岐と伊邪那美で有名な、あの神話だ。
彼女の搔い摘んだ解説は、国生みの終わりから黄泉の国の最後までだった。
詳細に言うと、火之迦具土神が生まれ、それと引き換えに伊邪那美が死んでしまったところからである。
「なんで初めからじゃなくて、中途半端なところから始めたんだ?」
僕はふと、疑問を投げ掛けた。
「…そこはあんまり関係ないところだから」
鈴音はそげなく答えた。
「でもさ、伊邪那岐も酷いもんだよな。せっかく再会できた伊邪那美から逃げ出すなんて」
「そうかな?私はそれも仕方のないことだと思うけど」
彼女の話す物語にも区切りが付いたことだし、話題転換の意味も込めて、僕は無難な感想を述べた。
鈴音は予想外の答えを返した。
ここは共感の得られる箇所だと思っていたばかりに、その衝撃は大きかった。
「なんでしょうがないんだ?伊邪那岐と伊邪那美は相思相愛だったろ?」
彼女の語りを思い出しながら、僕は二人が愛し合っていたという事実を指摘した。
「うん、伊邪那美が死ぬ前はね。でも、伊邪那岐は変わり果てた最愛の人を受け入れられなかった。それだけの話だよ」
鈴音は間を置かずに、どこか儚げな声で反駁した。
今の僕らが着目しているのは、黄泉の国の物語の方だ。
その概要は、死んでしまった伊邪那美をどうしても忘れられなかった伊邪那岐が、はるばる黄泉の国にまで妻を迎えに行くという話である。
黄泉の国とは、死者の行き着く世界だ。
そこに辿り着いた伊邪那岐は、とうとう伊邪那美を見つけ出す。
しかし、伊邪那美は既に黄泉の国の食物を食らい、死者の国の住人となってしまっていた。
そうなると、簡単には元の世界へ戻れない。
黄泉の国の神から帰還の許可が得られるまでの間、二人はその場で待機することになった。
決して、私の姿を見ないように。
伊邪那美は伊邪那岐に向けて、そう強く念を押した。
でも、離れ離れになった愛する妻が、目と鼻の先にいる状態だ。
伊邪那岐は辛抱ならず、遂にはその姿を覗き見ようとしてしまう。
松明の揺れる火が、彼女の居場所を照らし出す。
そこにはなんと、蛆に集られ腐った身体となった伊邪那美の姿が見えた。
それを見て恐ろしくなった伊邪那岐はその場から逃げ出し、伊邪那美はそれを追い掛け──いや、ここらで切り上げることにしよう。
「伊邪那岐にとって、醜悪な伊邪那美は愛せる対象じゃなくなった。住む世界が異なる。たったそれだけのことだけど、そこに想いは結ばれないんだろうね」
憂愁の混じった吐息が聞こえる。
物語の当事者のようにとっぷりと世界観に入り込んでいるのだろう。
隣へ顔を向ければ、君は辛そうな表情でこちらを眺めていた。
その瞬間、僕はほとんど反射的に、次なる言葉を見つけていた。
「そんなことない。例えば鈴音が蛇女だったとしても、僕は変わらずに君を見つめられるから」
その言葉は喉まで出かかった。
が、瞬く間に軟口蓋が喉を塞ぐ。
それは寸でのところで飲み込まれた。
感情のままに動いてはいけない。
僕は落ち着きを取り戻すよう、大きな深呼吸を挟んだ。
客観的に見て、僕の放とうとしていた言葉はどれほどに自惚れたものだっただろうか。
そのうえ、たとえ話であったとしても、鈴音を気味の悪い妖怪として扱うことなど許されるはずがないだろう。
僕は慌てて代わりとなる言葉を用意した。
「…まぁ、これは伊邪那美を愛し切れなかった伊邪那岐が悪いんだろうな」
「プシュケーとはまた違うけど、伊邪那岐は自分の愛に疑いが生じたのかもね」
そうしてお互いに概評を纏めたところで、僕らは伸びをしながら立ち上がった。
「どこか行きたいところはある?」と鈴音は訊ねつつも既に足を進めていた。
「今日も鈴音のお任せで」僕は苦笑しながら彼女の後に続いた。
山もすっかり、茶色ばかりが目立つようになった。
踏ん張るように枝に残ったごく少数の葉っぱも、冷たい風に吹かれてひらひらと舞い落ちていく。
夏は過剰に草木が生い茂る反動なのだろうか。
冬は極端に、木々の間隔が広がったように見えるものだ。
枯れ葉を踏み締める音だけが、無口な森に響き渡る。
今日は流れる風の声さえ演出されなかった。
そんな寂々たる森を奥へと進めば、徐々に、僕らの足音以外の物音が聞こえるようになった。
こぽこぽ、こぽこぽと、一定の音律が森を流れていく。
音源に惹かれるようにそちらへ向かう。
やがて僕達は、少し開けた場所に出た。
そこは、落葉樹と常緑樹に囲まれ、枯れ葉の中にも緑がまだらに萌えている場所だった。
辺りにゴロゴロと、苔の生えた丸い岩々が散在している。
そしてその中央には、透き通った清流が穏やかに流れていた。
今日の目的地はここだったらしい。
鈴音は川辺の倒木に腰を下ろした。
僕を促すよう隣を叩く。
同じように、僕も倒木を座椅子代わりにする。
彼は耐えかねたように軋み音を鳴らした。
「ここ、良い場所でしょ?」
小川の調べに心身を解きほぐされていると、それに負けないぐらいに耳障りの良い声が僕の鼓膜を撫でた。
僕はそれを無言で肯んじた。
こちらの意図を汲んだらしい彼女は、暫し静寂の時間を作ってくれた。
時々、鈴音がゆっくりと流れる浅瀬に指先を伸ばしては「わっ」と弾んだ声をあげたりもしていたが、それも含めて快い静けさだった。
「ね、千風くん」
「どうした?」
ふと君に名前を呼ばれて、僕は相槌を打つ。
彼女は挑戦的な笑顔を浮かべると、小川を指差して言った。
「せっかくだし、勝負しよーよ。どっちが長く我慢できるか」
「よし、その勝負乗った」
鈴音との勝負事と言えば真っ先に山登りが浮かんでくるが、あれはもう勝てるビジョンが一切見えない。
ともすると、このチキンレースも似たような結末に至ることだろう。
けれども、僕は即座にその提案に応じた。
大切なのは勝ち負けではない。
第一に鈴音が笑顔になれて、二の次に僕が勝てるかだ。
勝負を開始することに決めた僕らは、倒木から勢いよく飛び降り、川辺に近づいた。
声を揃えたカウントダウンの末に、両者勢いよく水面に片手を突っ込んだ。
バシャリと音を立てて二つの波紋が生じ、小さな気泡が下流へと流れていく。
冬の小川は厳しく冷たかった。
僕は思わず唇を噛みながらも、川に手を浸し続けた。
意外にも、勝負は長期戦へと突入した。
僕も鈴音もさも何事もないかのようにポーカーフェイスで視線をぶつけ合いながら、冷水に腕を浸らせ続けた。
先に音を上げたのは、やっぱり僕の方だった。
あまりの冷たさに、右手が刺すような痛みを覚える。
僕は耐え難く腕を水上へと引き上げてしまった。
「いやー、流石にちょっと冷たいかな~」
などと、鈴音は呑気に笑いながらゆっくりと左手を引き上げる。
その表情通り、彼女にはまだまだ余裕が溢れているように見受けられた。
しかし、彼女の左手もまた、僕の右手と同じよう、僅かに赤く腫れていた。
鈴音でも、度を越した温度変化には影響を受けるのか。
そんなことを頭の片隅で思いながら、ふと、僕は閃いた。
それを実行した場合に起こり得る可能性までをシミュレーションすることない。
いや、実際に想定してしまえば、そんなことは出来なかったのだろう。
僕はあっさりと、それを行動に起こした。
「ひゃぇ!?」
冷え切った僕の右手を、君の濡れた左手の甲にそっと重ね合わせる。
その突発的な行動に、鈴音は頓狂な声をあげた。
鈴音は跳ね飛ぶように僕の傍から離れようとした。
けれども彼女の意志に反するように、左手だけは頑固にその場から動き出そうとはしなかった。
あんまり慌てふためく彼女が意外で、僕は思わず笑い声を洩らした。
何がなんだか分かっていない様子で、でも、鈴音は文句を言いたそうに小さく口を尖らせていた。
「さっきの話の、続きだけどさ」
僕が話を切り出すと、鈴音は声も出さずにこくこくと固い動きで頷いた。
凍えた右手には感覚が戻らず、未だ痺れが残ったままである。
色々が身体と頭に追いついて来る前に、僕は君に言いたいことを伝えた。
「住む世界が違っても、そんなことは関係ない。こうやって二人が感じる熱が同じなら、僕はそれで充分だと思うんだ」
──僕は一体何を言っているんだ!?
気取った台詞を放ち、その蛮勇を真正面から認識した瞬間、僕は顔から火が出たかと思った。
動転のあまり、自ら掴んだ鈴音の手を払い除けるように放してしまう。
それほどに、僕は僕に深く混乱していた。
一体、この衝動的な言動をどう釈明したものか。
僕は途方に暮れながらも、恐る恐る鈴音を見やった。
君は宙に吸い込まれたように僕を見ていた。
瞬きすることすら忘れて、愕然とその場で固まっていた。
その状態は長らく続いた。
「…鈴音?」
心配に思った僕が声を掛ける。
彼女は我に返ったように背筋を伸ばした。
やがて君は、視線を僕の右手に移し、何を思ったのだろうか。
一歩こちらに詰め寄ると、ゆっくり、その左手を伸ばす。
先程の僕と同じよう、鈴音はそっと、僕の手の甲に触れた。
そして、ほんのりと赤い顔で僕を見つめながら、甘い囁きを放った。
「それなら、これから毎日、私に教えて?伝わる熱には、隔たりなんてないんだって」
とっくに手の感覚は戻っていた。
僕よりも一回り細く小さい指が、確かにこの手に纏わりつく。
そこから、じんわりとした温かみが伝わっていた。
一方、僕の手は全身の血液を集結したかのように、さぞ煮えたぎっていたことだろう。
君に瞳を直視された僕は、目を逸らして頷くのが精一杯だった。
次回の投稿日は7月22日の土曜日となります。
それでは、また次話でお会いしましょう!




