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暗がるトラペゾヘドロン

 それは、一つとして平行な辺を持たず、二つとして同じ面を持たず、三つとして同じ角を持たない立体である。全ての辺はねじれの関係にあり、同じく面は完全に向かい合わず、ほとんどの角度はその大きさを違えている。

 光を遮る事のない不明の物質で構成されているにもかかわらず、それを通して向こうを覗く事はできない。あたかも夜を内包したように暗いその内側には、やはり夜と同じように細かな光を浮かばせている。見る角度を変えれば、その光から赤黒い線が見え隠れする事に気が付くだろう。そして、その線は見るたびに長さと方向を変え、その変化にはまるで規則性が見られない。


 秩序立たない事を象徴するその姿を称し、暗がるトラペゾヘドロン。

 この世ならざる何処かから現れた、這い寄る何者かの先触れである。


 ◆


「あと七年」


 私が九歳の頃だ。医者から、そんな事を言われた。私の余命である。

 母が私の背に歪な星のような痣があると初めて気が付いてから、実に三年目の出来事であった。


 母が言うには、そして父が言うにも、幼少の時分には確実になかったはずの痣である。生まれたときはもとより、授乳や湯浴みに際しても全く覚えがないという。これは、乳母や他の使用人にも聞いた事なので間違いはないだろう。また、背中を打ち付けたり、傷付けたりといった覚えも全くない。どのように記憶を辿ってみても、湧いて出たとしか思えないのだ。


 そんな痣は時と共に大きく広がり、丸一年経つ頃には背中の全体となる。そして、さらに半年すると腕にまで伸び始めたようだった。

 現在では、すでに胸の中頃にまだ広がっている。あまりにおかしいと検査を受けてみて言われた言葉が、先の余命についてのものであった。


「これほど細やかな魔法式は見た事がありません。お嬢様は、あと二千六百六十日後にお亡くなりになるでしょう。これは七年と百五日後です」


「……どうにかならんのか? たかだか痣の一つではないか」


「その痣が魔法式となっているのでございます。時間と共に大きくなり、十全な形となった時に効力を及ぼす。今生きておられるのは幸運やお嬢様の力などでなく、まだ魔法が行使されていないからに過ぎません」


 父は頭を抱えた。四人兄弟の中の唯一の娘を溺愛し、まさしく箱入りに育てていた男である。まさか歳を二十数える前に命を落とすと聞けば、自らが(くび)られるほどに悲しむのも無理はない。


「一体どのような魔法なのだ? 娘はどうなる?」


「それが、全く分かりません。聞いた事のない式組みなので、どの文句が何を意味するのか判別ができないのです。ただ一つ、この魔法の効力は命を落とすまでと定義されておりますゆえ、命を摘み取る魔法であると見て間違いありません」


「なんという事だ……」


 その日から、我が家の日常は一変した。

 生活の全ては私を救うために存在し、あらゆる娯楽は排除された。貴族であるというのに切り詰めるような暮らしをし、どうにか捻出した金はなんらかの情報や資料に変えられるのだ。

 夜会には出ず、社交会からは完全に取り残された。家の中からは明るさなどなくなり、使用人の数も徐々に減っていく。みるみるうちに凋落してしまったために、他の貴族からは蔑みの目で見られる事となる。

 しかしそれでも、父の思いは変わらないようだった。


「必ず助けるからな」


 そう言われるたびに、私の心は締め付けられた。

 我が家が没落貴族だなどと嘲笑されているのは、全て私のせいなのだから。


 家族の……特に父のやつれようといったら目も当てられない。

 頬はこけ、あれほど熱心に整えていた髭は見る影もなく伸び放題である。目の下からはクマが消えず、顔色は死体のような土気色だ。

 私よりも早死にしそうな父を見るのはあまりに辛く、次第にほとんど部屋の外にも出なくなってしまう。誰も彼もが私のために傷付いている現状から、少しでも目を背けたかったのだ。


 そんな生活が三年。私は十二歳になった。

 母は、カルト宗教にのめり込むようになり、家にいる時間が少なくなる。魔術的根拠のない(まじな)い品を売り付けられ、家の中にはおかしなものが溢れはじめた。

 そして、それは全て私のためにしている事なのだ。

 父は、母の事に口出しをするつもりがないようだった。決して理解を示しているという風ではなく、まるで興味がないでも言いたげである。

 およそ、家族ではない。互いへの興味が希薄となり、唯一の目的ばかりが重要になってしまっている。繋がりは私という目的のみであり、ただ集まっているだけの人間達なのだ。周りが何をしていようとも、自らの邪魔をしていない限りは興味を示さない。


 そんな頃である。私が()()()を見るようになったのは。


 そこは、見渡す限り砂の大地が広がる場所である。時間は夜。何故自分がそんな場所にいるのかは分からず、まだそこが夢である事には気が付いていない。

 目の前には巨大な建造物。下から見上げても頂上を目視できないような四角錐の石積みが聳え立ち、私はその内部へと足を踏み入れる。あまりに怪しいが、この夢の中で私がこの建造物を避けて通った事は一度もない。

 まるで口を開けているような横穴に入ると、すぐに地下へと降りる階段が見えてくる。見る限り全く明かりはないが、不思議と視界は確保されていた。

 降りるとすぐに、随分と広い空間に出る。直上に位置すると思われる四角錐を上下逆さまにしたかのような、酷く広大な空間だ。

 その空間の逆さ頂点には玉座と、その上に左右非対称の立体が乗せられている。暗がりの中にあってその存在を主張する無秩序はいっそ冒涜的で、私はそれから目を離す事ができずにいた。吸い込まれるような深い夜色の立体に、意識が蹂躙されたのである。ただ見ているだけで、秩序立てられたあらゆる存在を否定するかのような存在である。朦朧とする頭では、およそその大いなる無秩序から逃れる数多の方法のうちの一つにすら辿り着く事はできない。すなわち、私にできる事はただそこに佇む事をおいて他にないのだ。

 だからだろう、気が付かなかったのは。

 玉座の背後、影が差す場所。暗闇の中にありながらその存在を主張する影の中から、何かが私を見つめていたのだ。

 それは、影に立つに相応しい暗黒を身に纏う一人の人間だ。あくまでも玉座にあるのは立体の方だというのに、傍に立つその人間は紛れもなく君臨している。

 この世ならざる何処かより現れた夜の似姿には、不思議と顔が存在しなかった。その目が私を見ていながらにして、体は余す事なく真っ暗なのだ。

 暗黒。そうとしか言いようがない。この者こそが、暗黒の王。夜に吠え、無貌なる指導者である。

 私が一歩近付くごとに、無貌なる者はその影から這い出てきた。確かにその足で立っているが、肩を上下させないあまりにも滑らかな動きが“這い出る”と言うに相応しい様相なのだ。

 一歩踏み、近付き、近付かれ、やがて触れそうな距離となる。

 ようやく、私は恐怖を覚えた。顔のない相手、不可思議な立体、何より不明の空間にあって、今まで何一つ警戒心を持たなかったのである。全身に虫が這うような不快感と正体不明を前にして、ようやくあまりの恐ろしさに叫ぶ事ができた。

 これに触れられてはならない。これは、立体に近付く私を悉く捕まえるためにここに現れたのだ。

 なんとか逃れなくてはならない。知的生命としての理性を蔑ろにした本能がそう叫ぶ。指一本触れられるわけにはいかない。たったそれだけで、なんの好機もなくなってしまうのだから。


 そうなって初めて、私はここが夢であると気がつくのだ。

 自らが瞼を閉じている事を意識して、逃れるための最善を認識する。


 瞼を開けると、そこは見慣れた私の部屋だ。朝日が酷く眩しくて、しかし目だけは絶対に閉じられない。閉じてしまえば、またあの夢が続いてしまうのではないかと思われたからだ。

 そんな日が連日、連夜、連年続いた。


 三人いる兄たちは、両親に比べれば遥かにマシな方である。

 私にかけられた魔術を解こうと勉学に励み、私を守ろうと武芸に励み、活動資金を稼ごうと経済に励んでいた。

 しかし、一見すれば品行方正な兄たちも、その実態を知ればそうは言っていられなくなる。魔術に傾倒しすぎて異法にまで手を出し、武芸者を気取って暴力的な鍛錬を行い、資金繰りと称して詐欺紛いの行為を働く。およそ人道に反してこそ救いが訪れると信じているかのように、私の家族は歪に崩れてしまっていた。


 家族との接触を苦にして、私は本に逃げる事となる。

 私の三代前の先祖は、大変な好古家であった。特に古書に関しては熱心であり、未だに我が家には多くの価値ある本が眠っているのだ。しかし、父や兄によって、その収集品も金に変えられつつあった。全てが失われてしまうまでに、できるだけ目を通しておきたいと思うのは自然な事だろう。

 古今東西の様々な英雄譚に心を震わせ、手に付けるつもりもない技術の指南書にすら目を通した。そして最も私の興味を引いたのは、この世に両手で数えるほどもないだろうという魔術書の数々だった。

 魔術に覚えのあった先祖は、暇を見つけては多くの知識を探求した。遠方に足を運び、時には危険と隣り合い、この世の淵にこそあろう真実へと手を伸ばしたのだ。そして、その知識をこの屋敷の地下室へと押し込めた。あるいは愚かしくもある行為であったが、その蛮勇によって私は知識へと繋がれる。家族がこの価値に気が付いてしまう前に、なるべく多く読む事が私の幸せとなっていた。


 初めはほとんど意味の分からなかった魔術書群であるが、一年二年と時間をかける事によって少しずつ紐が解けていく。それらは酷く時間のかかる読み物ではあったが、私は全く苦しくは思わなかった。

 この地下図書室に存在する魔導書を十に分けたうちの一つでも読み解けば、国一番の魔術師となれるだろう。命あるうちに誇れるものができるかもしれないと思えば、私の意識は軽かった。


 しばらく読み進めると、価値ある書物の中になんとも奇妙な本が紛れている事に気が付く。

 宇宙的(それが何を意味しているのかは皆目検討もつかないが)恐怖と、それにまつわる神の如き生物。旧き支配者とその信奉者についての知識が殴られていた。およそこの世の記述とは思えない不可思議な描写と、およそこの世のものとは思えない摩訶不思議な生物の記載。そして、それらはたった一つの例外もなく精神を蝕み、私を只人から遠ざけてしまう怪物に他ならなかった。

 英雄譚に語られる勇者がいたとされる異世界。この世の裏に位置する逆世界。複数の時が介在する未来世界と過去世界。あらゆる可能性を内包する並行世界。この書物に書かれた知識はそのうちの何処か、あるいは全ての知識であると思われた。少なくとも、自らの世界ではないと思わなくてはならなかったのだ。

 図書室に存在する幾らかを読み終える頃には、私の中から何かが失われていた。あるいは初めから持ち合わせていなかったように、私の心はか細い綱の上で右へ左へと揺れ動いているのだ。

 その冒涜的図書の一番の奇妙は、それほどに悍ましい性質に対して驚くほどに魅力的である点にある。家族を一人残らずおかしくなってしまったと評した私は、同じくこんな魔術書に魅了されてしまっていた。

 蛙の子は蛙とはよく言ったもので、やはり私も家族の家族なのだ。


 蜘蛛が巣を張る地下室で、埃にまみれて読み漁る。かつては頑丈に本を支えていただろう腐り木の棚は、今では少しずつ本を痛める事にしか役立っていないようだった。ページの一枚ずつを破ってしまわないよう慎重に読み進めるのは一苦労だ。しかしそれでも、私は手を止めるつもりがなかった。

 カビの生えた紙の臭いは不快だったが、幾らかは部屋に持ち帰って読んだ。起きてすぐから眠る直前まで読むために、部屋と図書室の移動すら惜しまれたのだ。


 私が十六になる頃には、私達はとうとう家族ではなかった。既に危ぶまれていた関係は、もはや疑う余地すら無くなっていたのだ。

 私を含めた全員が何かに取り憑かれており、それ以外を蔑ろにして生活している。これを家族などと呼ぶ事は、毛虫と猫を同等に扱うほどの冒涜だろう。


 地下図書室の本は、着々と失われていった。この場所にある物は金に代えられないほど価値のある財産なのだと話しても、お前のためだと言って聞く耳を持たないのだ。

 なぜ分からないのだろう。この場所にある知識と比べれば、私の命など比べるべくもないほどに無価値であるというのに。

 すっかり隙間だらけとなってしまった棚には、蜘蛛が新しく巣を張っていた。埃がどれほど纏っているかで古さを判別できるのが少し面白い。

 かつては床も埃にまみれ、歩けば薄く張った雪の道のように足跡が残った。今では私と、この知識をほんの僅かばかりも理解のできない肉親達によって踏み荒らされてしまっている。本棚を擦って動かした跡まである。その床に残る足跡が足跡とわからなくなるほど踏み込まれる頃には、この地下図書室は単なる地下室となり、肉親達が思っている通りの無価値なガラクタ部屋となる事だろう。

 その前にこの場所の知識を私の中に収めようと、私の行動はなお一層この地下本位なものとなっていった。

 そんな場所を、いつものように歩いていた時である。父と兄のどちらかが本を持ち出し、棚には新しい隙間ができていた。部屋の中は埃まみれだというのに、本が置かれていたその場所だけは本の存在を主張していた。積もった埃の境界がほんの背表紙をなぞり、そこにあった物の大きさや厚さまでを正確に教えてくれている。

 そうして棚を覗き込み、私は気が付いたのだ。棚の奥、置かれていただろう本の裏。壁にもたれかかるようにして、それはあった。


 それは、日記だ。


 表紙には、先祖の名前が記載されている。まだ家族がおかしくなる前に聞いた、誇り高い先祖の名前だ。

 踊った、心が。この場所にあった数々の価値ある本を集めた偉人の言葉が、今私の手の中にある。そう思えば、自然と手が震えていた。歴史に名を残す魔術師、我が家の開祖。戦場ではどんな騎士よりも勇敢で、平時にはどんな賢者よりも聡明であったという人物である。我が家の家紋にある魔術師の杖は、その力と叡智の証明なのだ。

 急ぎ、隠し、部屋へと戻る。服の下に物を隠すなど貴族にあるまじき行為だが、万一にも取り上げられるわけにはいかなかった。


 部屋に戻ると、やはり気持ちが逸る。着替えもせずにベッドへと倒れ込み、恐らく知識の深淵へと続くだろうこれを丁寧に開いた。あの場所にあった他の本と同じように酷く風化しているこれは、細心の注意を払わなくてはすぐにでも塵埃と変わらない有り様となってしまいそうである。


 ◆


 初めのうちは、ごく当たり前の魔術師の半生だった。

 半端な才能と知識を持ち、魔術の研究と称して散財しているような人生。昼間は商家の使用人として働き、夜は手に入れた魔法素材を経験の伴わない勘に頼って無駄に消費するような生活だった。

 彼が魔術師として大成する転機は、齢三十を数えた頃だ。暑さの残る秋の日で、街では霊に仮装する祭事を行うための準備が取り進められている。

 仕える商家の主人に呼び出された彼は、奇妙な物体を差し出されこう言われた。


「お前は魔法に覚えがあったな。これが何なのか調べなさい」


 受け取ったのは、歪な物体だ。左右非対称で、不気味な無秩序の塊。


「はい、承りました」


 彼はそう言い、その日のうちに姿をくらませた。


 気が付いていたのだ、その立体の本質に。それさえあれば、自らは限りなく理想に近い力を手に入れられるという事に。

 それは、十年も仕えた主人を裏切り、手にある物を我が物としてしまえるだけの魔性だ。広い海に流れていくような、あるいは深い穴に落ちていくような、どちらにせよ引き返しようもない、暗い魅力を有している。

 街を出て、国を出て、かつての名前は捨ててしまった。自らが過ごしたこれまで全てと天秤にかけてなお、その立体は不動の傾きを見せていたのだ。


 そこからが、快進撃である。

 無類の魔力と、無双の魔法。新天地にて瞬く間に力を示した彼が評価を得るまで、大した時間はかからなかった。立体に触れているだけで知識が流れ込み、魔力もこれまでにないほどの成長を見せる。過去と未来を五十年ずつ見ようとも、彼と比べられる魔術師など存在しないほどである。

 今日(こんにち)、我が国が世界の覇権を握るほどの大国であれるのは、身内の贔屓目を加味しても彼の成果だ。そこから三代、私に至るまでその権威はとどまるところを知らない。


 だが、どうやらその栄光に影が差し始めた。


 まずは視界の端。見えるか見えないかという場所に、暗い人影が映るようになったのだ。ある時は家具の向こうに。ある時は木の下に。しかし、その姿を実態をもって捉える事はできなかった。

 初めのうちはその程度だが、次第に様子が変わり始める。その人影が、どうやら近付きつつあるようなのだ。日に一歩あるかないかという程度ではあるが、確かに自分へと向かっている。触れるほどの距離となった時、一体どうなるのか見当もつかなかった。


 そんな折、国王から爵位と領地を賜った。今までの働きからすれば遅いほどだが、それでも労働階級の出身である事を思えば異例である。

 ただ、彼にそれを喜べるほどの余裕はない。視界に映る影は、ほとんど形を判別できるほどの距離へと近付いていたのだから。


 貴族として、魔術師として、何一つ不自由のない生活。魔法の研究を続け、何年か暮らすと男爵家の次女を妻に迎えた。


 ある日、夢を見た。

 日に日に近付く影に怯え、あと一歩で触れられるほどの距離となってしまった頃である。立ち尽くす自分の目の前に、息遣いすら感じるほどの距離で影が立っていたのだ。


「トラペゾヘドロン」


 飛び起きた。確かにそう言ったのだ。

 隣で眠っていた妻は気遣うような態度を示したが、適当な誤魔化しをて寝かしつける。もはや、視界に映る全ての影に気配を感じるようになってしまっていたのだ。家具の向こうにも、ベッドの影にも、そして妻の背後にすら。


 トラペゾヘドロン。

 それがあの魔法道具の事であると思うのに、そう時間はかからなかった。と言うよりも、彼は信じて疑わなかったようだ。日記はこの辺りから意味の通らない言葉が多くなり、明らかに気を違えているだろうと思われた。

 水を貫く剣。夜を呑む獣。増えつつ冷たく、それでいて広がり続ける切っ先。そんな無秩序の言葉を連ね、時折叫ぶように言葉を書き殴っている。


 魔法道具を砕かねばならない。彼がなぜそんな結論に至ったのか、そこには記されていなかった。あるいは意味の分からない言葉のいくつかがそれを説明していたのかもしれないが、私ではそれを理解する事ができない。

 ともかく彼は、魔法道具と影の接触により、何か恐ろしい事が起こるのだと思っているらしいのだ。


 そして、結論から言えばそれは叶わなかった。魔法道具から発せられる魅力を前にして、それを無き物になどできなかったのだ。

 しかし、辛うじてそのための魔術は完成させていたようだ。魔法道具の神秘を跡形もなく砕き、塵と芥の集まりとしてしまえる魔術である。

 その魔術は自らの血に刻む事によって不滅となり、子孫のいずれかに魔法使いとしての才覚が目覚めた時にその効力を発揮する。彼のように魔法道具に魅了されてしまう前に、その存在を砕いて欲しいと記されていた。


 直接の記載はないが、どうやら彼は命を絶ったらしい。これで影が印を見失うのだと、崩れた文字で書かれていた。


 ◆


 魔法道具は床の下。本棚をその上に置いて隠している。

 その言葉を頼りに、私は再び図書室へと足を運んだ。


 これは、私の使命なのだ。何か恐ろしい事が起こる前に、私がやらなくてはならない事なのだ。

 背中の痣の意味が、ようやく分かった。これこそが彼の遺した魔術であり、影に対する力なのだ。私の命が続く限りにおいて効力を持つ魔術ならば、そう考える方がより自然だ。現代魔術においては命を摘む際に用いられる『命を落とすまで』という文言も、時代を違えるならばその限りではない。

 そして、私はもう十七である。

 魔法式に記された日付は翌日まで迫り、そうしてようやくこの魔術は効力を持つ。命を脅かすものではなかったのだ。これは、彼が魔法道具に心を奪われながらも抵抗をしたささやかな証なのだ。

 それをこの差し迫った状況で知ったのは、ともすれば運命的だ。あの日記は、目に見えない大きな力に遣わされたのだと感じていた。


 ——だというのに。


「おお、こんなところにいたのか。こちらへ来なさい」


 急ぐ足とはやる気持ちを、父の声が止めてしまった。

 夜の暗がりに見る父の顔は、いつもより色が悪いように見える。


「お父様、(わたくし)急いでおりますの。後ででもよろしいかしら?」


「いや、それは駄目だ。お前にはもう時間がない」


「……分かりました」


 貴族という立場にあって、父の言葉は絶対である。

 爵位とは当主に与えられるものに他ならず、その家族の特権はその当主に帰属するに過ぎないからだ。普段、どれほど砕けた関係にあろうと、こうまではっきり命令されては逆らえない。平民のそれとは比べるべくもなく、その言葉は重い意味を持つのである。


 連れられたのは、父の応接間。

 来客を迎えるこの場所は、この屋敷でも最も広く重厚で絢爛な作りをしている。貴族にとって、その権威の誇示は果たすべき職務の一つだからだ。しかし、我が家にあってはその限りではない。隅の埃、色褪せた壁紙。多少取り繕われてはいるものの、手入れが行き届いていない事は明白だ。


 そして、そこには一人の男が待っていた。


「お待ちしておりました」


「……っ!」


 背中を、虫が這ったのかと思った。猫が驚いた時に尻尾の毛を立たせるように、肌が粟立ったのだ。


 それは、深い影だ。起き上がり、厚みを持ち、重さのある影。ただ肌の黒い人間というわけではない。全く光に照らされていないように凹凸を認識できないというのに、その輪郭はくっきりと見えている。

 あるいは闇とも呼べるような人型が、私の目の前に立っていた。


 これだ、彼が言っていたのは。私の先祖は、これを恐れて命を落としたのだ。彼の死によってしばらく遠ざけられていた存在が、長い年月を経てようやく私の元へと達した。その不気味な指先が、私の喉元へと差し伸ばされているのである。

 これを前にしたならば、先祖の恐れも理解できる。何故理解できるのかを言葉で説明するまでもなく、こんな存在がこの世にあってはならない。


 これの持つ魔力があまりにも強大だからだ。


「こちらは、とある教団の神父様だ。我が国ではあまり知られてはいないが、とても高名な方だよ」


「教団という事は、お母様の……」


「そうだ。先日、紹介された」


「よろしくお願いします、お嬢さん」


 父は、その神父を不思議に思っていないらしかった。

 神父は話すが、口が開いているのかどうかは分からない。顔の凹凸すらわからない影の姿では、口や鼻や目すら判別できないのだ。辛うじて、輪郭の変化で口を動かしているのだろうという事のみが予想できる。

 およそ、人間らしからぬ姿だ。しかし、父がそれを指摘する事はない。


 一体なんなのか、私には分からない。

 何が目的なのか、何故かはっきりわかる。


 今すぐにでも、魔法道具を壊すべきだ。そうでなくては、この恐ろしいものの目的が果たされてしまう。


「お、お客様には申し訳ありませんが、(わたくし)……調子が優れなくて……」


「おお、それはいけない。しかし、ご安心なされませ。私はそのためにここにいるのです」


「そ、そのためと申されますと……?」


「いえ、いえ、何も難しい事はございません。我が教団の神より与えられた加護をもちまして、お嬢さんの穢れを祓って差し上げましょう」


「……!?」


 穢れ。間違いなく、痣の事を言っている。


 私を探しにきたのだ。殺しにきたのだ。消しにきたのだ。

 あの魔法道具を手にするために、時を経て目の前に現れた。


 逃げなくてはならない。先祖の考えた事は正しい。

 しかし——


「神父様はお忙しい中わざわざ来てくださった。幸いだったな」


 父の顔を見ると、やつれていながらも笑っていた。事態の重大さに気が付いているのは、私以外に誰にもいないのだ。


「わ、(わたくし)、やはり体調が崩れなくて……!」


「我慢なさい。神父様の手にかかればたちまち良くなるだろう」


「ええ、お約束しますよ」


「触らないで!」


 退いた。たった一歩でも距離をとりたくて。

 遠くに。ほんの少しでも遠くに。一日を跨るほどに時間を稼がなくてはならないのだ。


 なにせ、嗤っている。恐れる私を、口のない影が。

 全く顔が見えないというのに、嗤っているのが分かる。私にできる事など何もないと、理解しているのだ。私の力で、逃げる手段などたった一つも残されていない。


 間に合わなかったのだ。先祖は。

 心を犯された彼が涙ながらに指を掛けた希望は、あと一日というところで追いつかれてしまった。影はその悍ましい真っ暗な手を私に伸ばすだけで、あの魔法道具を手にする事ができる。唯一の対抗である私を、いとも容易く取り除けるのだから。


 だから、逃げ出した。

 背中を向けて、走って逃げた。


「待て! どこへ行く!」


「おやおや」


 後ろ手に扉を閉める。そんなものがどれほど役に立つのかわからなかったが、それでも僅かな時間でも稼ぎたかった。

 ここは私の屋敷だが、それでも父の屋敷だ。とてもではないが、ただ走るだけで逃げられる気はしない。


 正面には窓。左右には廊下。装飾目的の鎧が数体並ぶ。そして、いくつかの部屋。廊下の先には階段。迷う暇がないと考えた時、私の答えはそう悪くないものであると思える。

 正面の窓ガラスを割った。先祖の遺した魔術書で覚えた知識があれば、手を触れずに物を壊す事くらい大したものではなかった。

 だが、それに満足している暇はない。

 背後の扉は、今すぐにでも開かれてしまうのだから。


 ◆


「なんだ今の音は!? 待ちなさい!」


 扉から、父が飛び出す。

 後に続いて、影が。父と違い、大して慌てた様子もなく。


「窓が割れていますね」


「まさか飛び降りたのか!? なんて危険な事を!」


 窓を叩き割るのは、大して難しくなかった。先祖から受け継いだ魔法の才と知を思えば、こんなものは卵を割るにも等しく容易である。


「屋敷の裏は林になっているのですね。時間が経てば見つけるのに手間がかかりそうです」


「む、娘が林に!? そんな! あり得ない!」


「呪いは体力を奪うものではないのでしょう? ならばあり得ない事はないと思いますよ」


 言いつつ、黒い男は割れた窓から飛び出した。二階の窓から、驚くほど軽やかに。着地の音が、聞こえないほどに。


「お、お待ちください! 私も!」


 父は、廊下を駆け出して玄関へと急ぐ。流石に窓から飛び降りる勇気はなかったらしい。しかし、慌てすぎるのも問題だ。探している娘が、()()()()()()()()()()()()()()()()のだから。


「…………っ」


 息が荒い。

 走ったわけでもないのに。ただ数分同じ部屋にいただけなのに。ほんの数秒身を隠していただけなのに。触れられてすらいないのに。ただ見つめられていただけなのに。

 そんな恐ろしさの只中にあったのだ。しかし、それでいて未だに逃れられてはいない。あれを退けるためには、この僅かばかりの時間稼ぎに上乗せて日を跨ぐ必要があるのだから。


 希望など、あるだろうか。

 確かに私には、先祖の魔導書から得た知識がある。一度はあれを退けた先祖の知識を持つ私ならば、あるいは時間くらい稼げるかもしれない。しかし、私には守らなくてはならない物が自分自身以外にもある。

 未だ見ぬ、歪な魔法道具。私が無事であろうと、あれを手に入れられなければ全く意味がないのだ。

 だから、走る。

 父とあれが戻る前に、魔法道具を確保しなくてはならない。屋敷の最奥。本来ならば、物置としてしか使われていない場所の床下に続く細階段を通り、私がここ数年で自室の次に長くを過ごした地下室へと降りる。その場所に、目的の物があるはずなのだ。

 中を埋めていた物を失ってしまったいくつもの棚が、カビと埃のにおいに包まれて寂しく佇んでいた。


「…………」


 空っぽの棚を動かすくらい、私にとっては大した事ではない。魔術師としての才覚が覚醒し始めているのを感じる。それも、急速な速さで。

 うっすら湿った床には、確かに切れ目があるようだった。指を入れる隙間もなく、窪みにその形の石を詰めたような。魔法を使わなくては、開くのは困難だろう。この屋敷の人間だと、私以外では開けられない。


 ゆっくり、丁寧に、持ち上げる。わけのない事だ。

 そして——


「……ない」


 石畳を切り取ったかのような窪み。明らかに意図して作られた隠し空間。間違いなく何かが収められるための場所なのだろうと思われるそこは、しかし伽藍堂であった。


 ◆


「お待ちください神父様!」


「おや、いらしたのですね。卿」


 林の中、木陰が落ち、風の通る道。

 ひどく穏やかな自然を蔑ろにする者が二人。騒ぎ立てる男と、黒の神父である。


「む、娘を探すのならば私も……」


「いいえ、どうやらいらっしゃらないようです」


「……?」


 神父が飛び降り、男が飛び出し、まだ五分と経っていない。広い屋敷裏を隅々まで探すにあたって、『いないようだ』などと言えるほどの時間はないはずなのだ。

 しかし、そんな疑問もすぐに溶ける。何を言われるわけでもなく、不思議と疑問に思わなくなるのだ。男にとって、神父は疑うべき相手ではない。理由もなく、そう信じられてしまうのだった。


「恐らく屋敷に身を潜めているのでしょう。お転婆ですね」


 神父は、薄ら笑いを浮かべて屋敷に戻る。今出てきたばかりの男は顔を顰めたが、文句を言わずに後に続いた。


「さて……どこから探したものか……」


 神父は、楽しげに屋敷を歩く。

 言うまでもない事ではあるが、彼にとって現状はなんら悲観的なものではない。大した事のない小娘か、元来の目的の物か、そのどちらかに手をかけるだけで目的は達せられるのだ。力の差も考慮すれば、むしろ敗北しょうがないとすら感じられる。例え、日を跨ぐまであと半日ほどしかなかったとしても。


「旦那様、御息女の捜索には貴方のお力が必要です」


「は、はい! なんなりと!」


 神父に平伏する男の姿は、およそ貴族のそれではなかった。いや、そればかりか、矜持も自尊心も誇りも持ち合わせていない生き物など、もはや人間ですらない。

 家畜である。ただ与えられる事に満たされ、自らが見下されている事に気が付かない家畜。神父には、目の前の男が小汚い豚に見えた。


 ——しかし、だからこそ愛おしくもある。


「ご安心なさい、御息女の痣は必ず取り除きます。人手を集めてみんなで捜索しましょう。必ず見つかりますよ」


 命じるままに、男は駆け出す。

 その愚かしさは、神父にとって好ましいものに他ならない。愚かで、惨めで、もう間も無く命を落とす事も知らない生き物である。神父は、それが潰れるところを見るのが好きだった。


 娘の捜索は、意外に難航した。

 大量の魔術書を読み漁り、鍛錬に費やす時間があり、なにより才覚は発言した痣が補償している。卓越した魔術師が本気になったのならば、凡夫ではその姿を捉える事すら困難を極めるのだ。

 一時間、二時間。屋敷に住み慣れた男と家族、そして幾人かの使用人が草の根を分けてなお、娘の髪の毛の先すら見えてこないという事態であった。経験豊富な魔術師とそれ以外の人間の間には、それほどの力の差が存在するのだ。


 ただ、娘は卓越しているわけでも経験も豊富でもない。並々ならぬ才能を持ってはいるものの、現状はあくまでも本を読んだのみの実力に過ぎないのである。

 つまり、充分な時間をかければ綻びが生まれる。確かに同年代のそれと比べれば天才的でありながら、やはり所詮はまだ子供なのだ。


「いました! 屋根裏です!」


 使用人の声が、ようやく捜索に進展があった事を知らせる。夜の帳も落ち、屋敷に明かりが灯された頃である。

 一度見られたのならば、再び身を潜めるのは困難だ。今、屋敷の中にはどこにも目があり、どこに逃げようとも誰かに発見されてしまう。死角をつなぐ事のできた先ほどまでのようにはいかないのだ。

 そして……


「ご機嫌よう、お嬢さん」


 この怪物から、逃げられるはずがない。


 神父が姿を現す。何の比喩でもなく、どこからもなくその場に()()()のだ。廊下を駆ける娘の前に、指の届きそうな距離で。


「…………っ!」


 少女とは思えないほどの身のこなしで、娘は踵を返した。それは魔法補助による賜物だが、その年齢を思えば紛れもなく天才のそれである。幾人もの家族、使用人が集まろうとも、彼女には追いつけないでいたのだから。

 しかし、神父は別だ。

 大魔術師であったこの屋敷の先祖ですら、退ける事がようやくであった怪物。当然ではあるが、娘が逃げ切るにはあまりにも強大である。


 日を跨ぐまで、あと数刻。それほどの時間、神父を退け続けなければならない。


「おやおや……」


 見るからに、娘の息が上がっていた。

 明らかに、逃げ切れるはずなどない。


 箱入りの賜物である薄白い肌が、わずかに赤く色づいている。しかし、高く鳴り響く鼓動は、きっと疲労のみによるものではない。

 震えているのだ。恐れているのだ。泣いているのだ。慌てているのだ。

 すでに限界を超えていながら、なおも直前を上回り続けなければならない。無類の才覚と覚悟の極地を合わせてようやく耐え得る現状。その上で未だ数刻も続けなくてはならないという重圧。齢十六の少女が置かれるには、あまりにも過酷である。


 そして、案の定と言うべきか、すぐに追い詰められてしまった。廊下の端、屋形の角。もう逃げ道など、どこにもない。

 しかし——


「近寄るな!」


 その声に、弱さはない。

 膝は笑う直前であり、肩は深く上下し、指は震え、それでも挫けてはいない。膝は屈さず、顔は晒さず、心は折れない。この屋敷の中にいる人間で、彼女よりも強くある者など一人も存在しない。


 そうでなかったなら、これほどに逃げられるはずがないのだ。残り数刻という目前まで、無事でいる事などできなかった。


「お、おい! 神父様はお前を助けようと……!」


「お父様は黙ってて!」


 駆けつけた男に対して、貴族の娘とは思えない言葉が出た。父親に向ける言葉としては褒められたものではないが、この状況下にあっては正しい対応だ。ただ、その正しさはどうにも伝わる様子がなかった。男の目には、明らかな怒りが見え始めていた。


「私は、どうやらお前を甘やかしすぎたようだな!」


「まあまあ、旦那様。ここは私にお任せください」


「……神父様がそう仰るのなら」


 神父が、一歩前に出た。娘が猫ならば、尻尾を毛羽立たせて威嚇していただろう。そう思わせるだけの警戒を、彼女は確かに見せていた。

 しかし、それがどうしたというのか。

 たかだか小娘が、ただ怒っているだけだ。子猫が鳴く程度で恐れ慄く者などいないように、神父は相変わらずの薄ら笑いで歩みを進める。


「おや、これはこれは……」


「? 神父様、一体……?」


 足を止める。ただ見つめる。手を伸ばせば届くという距離で。

 神父の頬が歪み、口が裂け、これ以上にないというほどに笑った。目の前にいる娘だけに見せた、本性の一端である。


 娘の命を奪う事は、息をする事よりも容易い。ただ指を触れるだけで、その灯火を絶やしてしまえる。神父は、そういう生き物だ。この世に思う通りとならない事こそが、彼にとっての異常である。

 しかし、その異常を起こす者が、今目の前にいる。


()()()()ですか」


 かつて、神父が狙いながらも手にかけられなかった唯一の男。その魔術師が到達した答えのうちの一つに、目の前の小娘が手をかけたのだ。もしも触れれば身を焼くだろうと感じる。無論、それで命が脅かされるはずなどないが、命を刈り取るには相応の時間がかかるだろう。

 前は、終ぞなし得なかった。たかだか男一人の命を奪うのに、時をかけすぎたのだ。

 あと一刻。時を稼ぐにこれほど適した魔法もない。


「驚きましたね。人間の尺度で言えば確かに天才だ」


「余裕ぶるのもいい加減になさいな。お顔が見えないのは便利ですわね。動揺しても分からないから」


「動揺? いやいや馬鹿な」


 神父が笑う。微笑む。嘲笑する。顔が見えずとも、その表情は確かに感じられるものだ。

 そうこの程度、神父にとって動揺する事もない。所詮は、たかだか人間のする事なのだから。


「二つ、ごく簡単な対処があります。その魔術の穴と言ってもいい」


「穴……? ……っ!?」


 娘の反応を待たず、神父が手を振るった。魔術の行使とも思えないほどの優雅さで、ともすれば楽団の指揮のようですらある。しかし、起こした現象は脅威であった。

 床が裂け、壁が割れ、天井が落ちる。

 娘を、瓦礫に埋めてしまおうとしたのだ。


「な、なんだぁああ!?」


「煩いですよ旦那様。お下がりなさい」


 娘に遅れて反応した父は、神父の後ろ手に使われた魔術で廊下の端まで転がり飛んだ。それによって瓦礫に潰されてしまうような事はなかったものの、頭を強く打って気を失ってしまう。


「はぁ……はぁ……っ」


「おや、生きていますか。よい勘働きですね」


 魔法を駆使し、咄嗟に動き、後は運に頼り、娘は瓦礫の隙間に収まっていた。脚と、腕と、頭と、背中と、あとは無数に打ち付けてひどく痛むが、それでも命は落としていなかった。


「見ての通り、触れずとも命を奪う手段などいくらでもありますよ」


 いい終わるよりも早く、娘は瓦礫を飛び出す。荒削りだが卓越した才覚は、石や木の破片に阻まれる事のない行動の助けとなった。しかし、まるきりの無傷ではいられない。何度も繰り返せば、間違いなく命を落とすだろうと理解しているはずだ。

 さらに、神父は働きかける。


()()()()()()()()()()のですか?」


「……っ!?」


 動きが、止まる。神父の言葉の意味を理解できたからだ。


「逃げるなら外でしょう。わざわざ限られた範囲に飛び込む必要がない。時間を稼ぐためにも、森の中へ飛び込むべきだ。しかし、貴女は屋敷の中に逃げようとしている。何故か」


 娘の反応は、神父の予想が正しいのだと証明しているようだった。逃げなければならないはずなのに足を止め、目を泳がせて震えている。


 何故なら……


「魔法道具を持っていないのですね?」


「ッ!」


「はっはは!」


 神父の行動は早かった。


 風にも似た広範囲の衝撃が娘を襲う。

 立つ事もままならず、目を開ける事もできず、娘は嵐に煽られた木の葉のように宙を舞った。落ちた先は、木の葉の上だ。木々が生い茂る屋敷裏の森の中。神父は、娘を摘み出してしまったのだ。


 近付けば、魔術によって攻撃をする。地を砕き、空を割り、木々を粉とする強大な力をもって、この屋敷へのあらゆる侵入を阻むつもりだ。

 二度と屋敷の内側には入らせない。

 ならば、娘にできる事などもうないだろう。できるだけ、この場を離れる事以外は。


 ◆


 私の目的は、魔法道具を破壊する事だ。そのために逃げ、隠れ、走り、時間を稼いできた。

 しかし、それだけでは足りないのだ。最も重要であり、最も初歩的な一要素。すなわち、魔法道具自体の確保がなされていない。これは、ともすれば絶望的とすら言える事実である。

 それを見抜いたとあれば、神父の心中は大層穏やかになったろう。今までは時間に追われていたというのに、私をつまみ出した後でゆっくりと魔法道具を探せるのだから。


 ただ、それは()()()()()()()()()()()()()の話だ。


「はっ……はっ……!」


 息が切れてきた。脚が痺れてきた。

 それでも、立ち止まるわけにはいかない。いつ気付かれてもおかしくないのだ。そうなれば、私が後もう少しのところで掴んだ可能性を、手放す事になってしまう。

 未だ魔法道具が屋敷にあると信じて疑わない神父を出し抜くために、わざわざ体を張った賭けに出た。あの場で嬲られても不思議ではなかったが、辛うじて可能性に指を掛けたのである。


 走らなければ。急がなければ。

 今までの人生で最も速く、最も遠く、最も長く。脚が折れても、胸が破れても、体が裂けても。


 駆けるのだ。目的地はハッキリとしている。

 あの恐ろしい存在が気がつくまでに、必ず。


 ◆


「し、神父様! これは一体!?」


「ああ、起きましたか。なら手伝ってください」


 男が起きると、屋敷のいくらかが瓦礫に変わっていた。削れているとすら言える。混乱を隠せない彼に対して、神父の声は酷く落ち着いていた。


「お嬢様はまた隠れられました。また探しましょう」


「は、はい探すのは確かに……。いやしかし、この状況は……」


「あとでご説明しますよ。それよりも早くお嬢様を」


 不思議に思いながらも、男は神父に従う。その強大さは理解しているし、何より混乱した頭ではまともな思考はできそうもない。疑う事すら疎かにした人間ほど御し易い存在もなく、その愚劣は必ず身を滅ぼす。


 時間は、充分にある。

 神父の探し物は決して大きくはないが、目にしてそれと解らないほど目立たないわけではない。娘を探す名目で、怪しい物は片端から知らせるようにと言い付けていた。


「お嬢様は、何かを探しているご様子。思い当たる物はありませんか?」


「さぁ……? この屋敷に目ぼしい物などありましたかなぁ」


 役に立たない男を尻目に、神父も手づから捜索に加わる。


 触れるだけ。触れるだけでいいのだ。たったそれだけで、神父は本来の姿と本来の世を手に入れられる。


 一年ひととせ千度ちたび巡りそれを千度ちたび隔ててなお果てに届かない悠久の広がりを持つ向こうの向こう。上とも下とも右とも左とも前とも後とも言えない場所へと至る入り口がそれだった。

 暗がりを象徴するそれに対した輝きの混沌。無秩序の無秩序たる所以が元来あった場所に戻るためのしるべ

 人の似姿を捨てたそれは元来となり、この世に混沌を振り撒いて消える。秩序を取り戻すまでの束の間が過ぎるまで、それがこの世を去る事はない。

 それは、月に吠える獣。無貌なるもの。強壮なる使者。

 闇を彷徨うもの。暗黒のファラオ。

 ——這いよる混沌、ナイアーラトテップ。


 この世ならざる世より飛来した無秩序の(あらわれ)。神父がその姿を取り戻した時、この世からは多くのものが失われてしまう。

 彼はただ、本来あった場所へと帰るのみを目的としていながら、その置き土産として混沌をもたらす。そのあらゆる行為が秩序立つ事はないのだ。

 それを知るのは、たった二人。そして、そのうちの一人はもういない。

 今を生きる者の中で唯一神父の力を感じる少女は、この危機に対して全くの無力である。


 ……だというのに。


「見つかりませんね」


「は、はい」


 屋敷の全てをひっくり返すには、充分すぎる時間があった。文字通りに草の根を分けて、ネズミ一匹逃さぬほどに。だが、どれほど探そうと、目的の魔法道具は一向に姿を現さないのだった。


「ど、どうしましょう!? もう日を跨いでしまう!」


「落ち着きなさい。お嬢様は何かを探している様子でした。心当たりはありますか? 家宝とか、魔法道具などの高価な物は?」


「家宝……?」


 混乱、動揺。

 慌て、ふためき、神父の強引な誘導に意を挟む余裕もない。

 考えつつも目を泳がせて、脂汗が額ににじむ。息は荒く、指も震えている。そんな状態だが、なんとか働かない脳に鞭を打って考えているらしかった。


「あ、ありません。金になりそうな物は全て売ってしまいました……」


 やがて顔を上げると、目尻を下げた表情でそう言う。

 その頼りにならなそうな様子は、神父にとって好ましいものだった。愚かしい人間、馬鹿馬鹿しい人間。男の迂闊さが神父をこの場に呼び寄せ、この惨状を招いているのだから。

 だが、それ以上に……


「……()()()?」


 その言葉が、気にかかった。


「売ったと? 全て?」


「へ? え、ええ、目につく物は全て」


 予感がした。あってはならない予感。神父にとって、最も望ましくない予感。


「……ぁ」


「神父様!?」


 神父の胸から、光が漏れた。いや、胸だけではない。身体に亀裂が入り、これでもかという輝きが内側から存在を主張する。常に薄ら笑いを続けていた神父の目が見開かれ、その予感が当たってしまった事をようやく認識した。

 顔に、身体に、手で触れて何かを確認する。亀裂は見る見るうちに大きく深くなるようで、それに伴って輝きもまた強く明るくなっていく。

 隣に立っている男は、神父が爆発したと思った。それほどまでに強い光が視界を満たしたのである。そして、その輝きがとうとう神父の肉体を全て満たした次の瞬間、彼の姿はもうその場所にはなかった。


 その意味を理解できる人間は、その場所には一人もいない。娘の尽力も、努力も、才覚も、あるいは世界が救われたのだという事実すら、誰に知られる事もなくそのうちに忘れられてしまう。

 世を跨ぐ存在を、たかだか人間の小娘が出し抜いたというのに。


 ◆


「……ありがとうございました。無理を言ってしまって」


 大変な苦労だった。

 我が家と懇意の商人の屋敷まで来て、売った物を見せろと迫る。その様はあまりにも不審であり、顔を合わせる事にすら簡単ではなかった。

 そもそも、私は商人と顔を合わせた事がないのだ。我が家の者であるという証拠すらないままに、無理な願いを聞いてもらわなくてはならなかった。


「あ、貴女は……貴女は、なにを……」


「ああ、そんなに怖がらないで。もう何もしません」


 どう考えても無理がある。門前払いされないだけでもありがたいくらいなのだ。その上で、私は魔法道具を破壊しようとしている。協力する理由など、ほんの僅かもありはしないだろう。

 だから、理由を作った。

 決して越えてはならない境界を越えて。


「娘を……返してください……」


「どうぞ。助かりました」


 まだ幼い赤子を商人に渡す。約束通り、傷一つ付けずに。


 疲れた。

 隠れる事も、逃げる事も、脅す事も、壊す事も慣れていない。頭がクラクラする。血液が一気に半分ほど失われてしまったようだ。立っている事もままならず、私はその場に座り込む。目の前にはつい今しがた破壊した魔法道具がある。見た目はそのままに、しかしその無秩序を象徴する異質さは感じられない。夜も内包しておらず、不気味な光を覗かせてもいなかった。


「……お水をいただけますか?」


 思わず、そう尋ねる。しかし、返事がされる事はなかった。

 商人は我が子を抱きしめ、涙を流して私を見つめるのみだ。もう二度と話などできないだろう。そう感じさせるほどに、私は彼を脅して従わせたのだから。


 ◆


 やがて、通報を受けた憲兵が来た。

 私は憲兵の肩を借りてどうにか立ち上がり、その商家を後にする。身元の分からない私に対して厳しい取り調べが行われたが、すぐに父が金を出して解放された。日を跨いでなお私が生きている事に驚いたようだったが、私は何も教えなかった。無論、神父が何者であるかについてもだ。話しても理解される気がしないし、今更理解を求める気もない。

 その後は、特に今までと変わらない日々を過ごした。

 私が起こした商家への酷い蛮行は、心を病んだためであるとされ、大きな罪には問われなかった。父はその事に酷く心を痛め、何も変わらず私をカゴの中の鳥として扱う。頼めば本を買ってくれるようになったが、それ以外は特に何も変わらない。部屋の中からほとんど出ない日々は慣れっこなので、あまり気にしてはいないが。

 ただ一つ不満があるとすれば、魔法の練習ができない事だろうか。部屋の中でできる事は限られており、読んだ知識を確かめる術もない。


 それともう一つ。不満ではないが、気掛かりな事がある。

 思い過ごしならば何の問題もないが、それが杞憂であると笑ってくれる人間は一人もいない。父が未だに私を軟禁している理由の一端も、恐らくはこのせいなのだ。

 ()()()()()()()()

 僅かでも気に掛かる限り、脅威は去ったなどと笑えるほど私は楽観的ではない。


 どうにか、本格的な魔法の練習に取り組まなくては。

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