94:トッコとヒヨリと十勝川さん
今日はタンポポチャさんが美浦トレーニングセンターへとやって来る日です。
昨日からワクワクして何となく筋肉痛も和らいだかも? まだちょっとギシギシする感じがあるんですが、タンポポチャさんと一緒にお散歩してたら治る気がします。
「ブフフフン」(午後のお散歩の時かなぁ)
私もそうですけど、馬運車に乗せられて移動した後は、色々と獣医さんに検査とかされます。
移動中に何処かぶつけて怪我をしていないかとかを調べて貰うのです。その為に、私はだいたい移動した日は午後に引綱でのお散歩くらいしかしません。
でも、中には長距離の移動が苦手で思いっきり体調を崩すお馬さんもいるみたいです。でも、私なんかは栗東へ行くとタンポポチャさんに会えるから楽しみなんですけどね。
「ブルルルルン」(タンポポチャさんも私に会えるのを楽しみにしてくれてるかな)
ここ最近はお互いに一緒のレースが無いんです。でも、その代わり事前に一緒にお散歩したり、コースを走ったり出来るのでそれが楽しみかな。少しでも楽しみがあると、長距離移動も苦にならないですよね。
午前中のお散歩は、やっぱりヒヨリとご一緒する事になりました。
先週のレース前からですから、3日ぶりかな? そのせいなのかヒヨリは私に頭をスリスリしてきます。
「ブヒヒヒン」(お散歩終わったらハムハムしてあげるからね)
「キュヒヒヒヒン」
うん、思いっきり嬉しそうなので、私も同じように嬉しくなっちゃいますね。
「ミナミベレディーのコズミも酷くなさそうで良かったですね。先日のレースを見てうちの武藤もちょっと心配してました」
「ああ、ありがとうございます。最後の直線はベレディーも無理してくれたので、勝てたのは良いのですが次の本番に影響が出ないか心配しましたよ」
厩務員のおじさん達がそんな会話をしています。
で、思いっきり忘れていたんだけど、私は筋肉痛が酷いふりをしていたんでした! 次のレースはまたも持久走みたいなんです。ハッキリ言って走りたくないんです!
ちょっと、どよ~んとした気分になっていたら、ヒヨリの所の厩務員さんが聞き捨てならない発言をしました。
「秋の天皇賞ですか。芝2000Mだとトカチマジックを含め強力なライバルが犇めいていますから、中々に厳しそうですね」
・・・・・・ん? 芝2000Mですか? あれ? 天皇賞って芝3200Mですよね?
私のレースの話が、もしかしたらヒヨリの次走の話になっています?
「ブルルルン」(ねえ、もしかして次って持久走じゃ無いの?)
そこの所はしっかり確認をしたくて厩務員さんに尋ねました。
「ん? ベレディーどうした?」
「ブルルルン」(次のレースって芝2000Mなの?)
「よしよし、ベレディーは良い子だな」
私の質問は相変わらず言葉が通じないのです。
「ああ、ベレディーはスタートが良いですから展開にあまり左右されない強みがありますよ。もっとも、各陣営もベレディー対策を色々と考えていると思いますが。まあ、先日のような方法は遠慮したいですけどね」
厩務員さんは私の質問に回答をくれる事無く、またお互いに会話を始めちゃいます。
う~~、今のお話はすっごく重要なのよ?
私がそう思いながら厩務員さんを見ていたら、ヒヨリが頭をごっつんこしてきます。
「キュヒヒヒン」
私が引き続きピコピコお耳を動かしておじさん達の会話を聞いていたためでしょう。横を歩いていたヒヨリが思いっきりご機嫌斜め? うん、多分ですが私の意識が自分に向かっていない事に気が付いて拗ね始めているようです。
「ブフフフン」(ヒヨリの事はちゃんと気にしてますよ?)
「キュヒヒン」
「ブルルルン」(本当よ? ヒヨリは良い子だね)
私は必死にヒヨリを宥めます。
「う~ん、サクラヒヨリは甘えん坊ですね。北川牧場で放牧されていた時もベレディーと母馬のサクラハキレイの2頭に甘えまくりだったとか」
「ええ、もっともサクラフィナーレも一緒でしたが、サクラフィナーレはどちらかと言うとミナミベレディーに懐いていたようで。まあ2頭の御蔭でサクラフィナーレの新馬戦も見えてきました」
「ほう、何時頃に?」
「天皇賞と同じ日の5レース芝1800Mで登録しました。という事で、ぜひ競馬場への馬運車はミナミベレディーとご一緒させていただきたいです。後程うちの武藤も馬見調教師にお願いにあがると思います」
「なるほど、初のレースですからね。まあベレディーは気にしないでしょうから問題無いと思いますが、馬見には私からも伝えておきます。ところで鞍上は誰にお願いされたんです?」
「最初は鈴村騎手も考えたんですが、何と言ってもミナミベレディーとサクラヒヨリで実績がありますから。ただ、長内騎手がうちの武藤に嘆願しまして、サクラヒヨリの調教も頑張ってくれているので長内騎手にお願いする事になりました」
「長内騎手は頑張っていますよね。そう考えれば良い選択でしょう」
「そうである事を祈ってますよ」
私はヒヨリとお散歩しながら、ついつい厩務員さん達の会話に気をとられちゃいます。
「ブルルルン」(そっかフィナーレのレース決まったんだ)
「キュフン」
ん? 何かヒヨリのお返事が変? でも何と言ったのか判らないんですよね。
「ブヒヒヒン」(ヒヨリももうじきレースだよね。頑張ってね)
「キュヒヒヒン」
うん、ヒヨリは元気いっぱいですね。
◆◆◆
「本当に凄い馬ねぇ、あれだけの不利を受けて勝っちゃうなんて。天皇賞でうちのマジックは勝てるのかしら?」
十勝川はミナミベレディーのオールカマーにおけるレース映像を見ながら頬に手を当てて首を傾げる。
トカチマジックは栗東に所属している為、本来は京都大賞典への出走が有力視されていた。しかし、移動を苦にしないトカチマジックである為、比較的有力馬の参戦がないオールカマーか毎日王冠にするかで陣営は悩んでいた。そして、早々とミナミベレディーがオールカマーへの出走を表明した為に、トカチマジックは毎日王冠を選択する事となった。
「栗東の馬達と競わないのは良いのですが、やはり移動が心配ですね」
「距離が違うとはいえ、東京競馬場を経験させておくのは悪い事じゃ無いわ」
牧場長の浜田の言葉に、十勝川は笑顔で答える。
「それにしても、酷いわねこれ」
十勝川が指摘するのは、馬主や調教師達の間で話題になっているネクロミアと日比野騎手によるミナミベレディー妨害事件の事だ。改めてレースを見て、その稚拙さが際立っている。そして、それ以上に十勝川を怒らせているのが、下手をすればミナミベレディーの命が失われていたかもしれないと言う事だった。
「それで、回状は回ったのね?」
「はい、他からも回っているようですが一応うちからも出しておきました」
中規模生産牧場である十勝川ファームであるが、歴史はそこそこに古く調教師などとの繋がりも強い。
その為、今回のケースを受けて十勝川ファームでは事件の全容が解明されるまでは日比野騎手の騎乗をさせないように関係のある調教師へと書面を回していた。
「北川牧場との関係構築は順調、大南辺さんとも良好、このまま順調に何とかミナミベレディーとサクラヒヨリごと取り込みたいわねぇ。せめて産駒を優先して買えるようになりたいわ」
「今年、サクラハヒカリ他のキレイの産駒牝馬達に無事種付け出来ましたし、生まれた子達が走ってくれると良いですね。そうすれば、ミナミベレディーの種付けで悩まなくて良いですから」
「そうね、そう上手くいってくれるといいわね」
実際に十勝川としては馬自体を購入するなどでは無く、種付けにおける主導的立場を築きたいのだった。
ミナミベレディー達の産駒が走ってくれれば、それだけで自身が所有する種牡馬の価値が上がる。併せて、見どころのありそうな産駒牝馬を購入する事が出来ればなお良い。
十勝川もミナミベレディーが齎してくれるかもしれない将来に対し夢を持っているのだ。
「それにしても、よくこの血統で走ったわね。姉妹揃って桜花賞を勝ってるし、私もレースは見たけど運で勝てた訳でもないわ。姉妹揃って器用に走り方を変えるし、血統だけじゃなく調教の仕方なのかしら?」
ミナミベレディー自体の当初からの評判も勿論だが十勝川は集めていた。
そして、関係者や他の調教師達の意見は揃って4歳以降の成長次第ではGⅢなら勝てるかな? くらいの評価であった。
「それにしても器用なのよね。やっぱり調教なのかしら? 一度馬見厩舎に行ってみるしか無いわね」
十勝川は、春の天皇賞を走るミナミベレディーの映像を見ながら、そう決断するのだった。




