85:秋に向けて
放牧に出していたミナミベレディーが無事に厩舎へと戻ってきた。
馬運車から降りてきたミナミベレディーは珍しく若干疲れたような表情を浮かべていたが、昨年以上にしっかりとした艶のある馬体をしており、この秋に向けて馬見調教師は笑みがこぼれる。
「うん、しっかり休養できたかな?」
「ブフフフン」(ヒヨリ達がゆっくり寝かせてくれないの)
「ふむ、ちょっと疲れているかな?」
珍しく恨みがましいような視線を後から降りてきたやたらに元気なサクラヒヨリ達2頭へと注ぐミナミベレディーを見て、何となく察する馬見調教師だった。
「次回移動するときは、1頭だけのほうが休めそうだな」
そういって苦笑する。
その後、馬見厩舎へと戻ったミナミベレディーは早速というように寝藁に寝転がって眠り始めてしまった。
「馬って1日3時間くらいしか寝ないはずなんですけど、べレディーは思いっきり寝ますよね? 1日7時間は寝てませんか?」
「まあ夜は人と同じように寝るな。朝は早いが寝るのも早いからそれくらいは寝ているな」
寝藁に転がってすでにピスピス寝息を立てているべレディーに、馬見調教師たちは顔を見合わせて苦笑を浮かべた。
そして、午後からミナミベレディーの体調検査が行われ、特に異常は見当たらないのを確認すると、翌日からの調教スケジュールが決められていく。
「次走はそうするとオールカマーですか」
「京都大賞典も良いのだが、天皇賞に出すには間隔が短すぎますからね。オールカマーで様子見というところだね。ベレディーもようやく馬体が仕上がってきたから、一叩きが出来る様になったのが嬉しいね」
以前までは1レースでの疲労度が高く、なかなか本番前の一叩きが難しかった。変にレースを挟んで体調を崩されれば本番に出走が出来ない可能性があった。
それが4歳になって一気に仕上がってきた馬体は、先日の宝塚記念の無理なレースであっても比較的ダメージは少なく、今後のレースを組みやすくなっていた。
「場合によっては勝ち負けは無視して札幌記念も検討していたんですがね」
宝塚記念出走前にも秋のレース計画を練っていた。
その中では、札幌記念も候補に上がっていた。しかし、宝塚記念出走後の様子を見て予定を考え直したのだった。
「秋の目標はなんと言っても秋の天皇賞です。牝馬初の天皇賞春秋制覇、もしこれが成ればミナミベレディーはまさに日本競馬の歴史に名を残しますよ」
「そうですね。まあ若干距離に不安がありますから、何とか頑張ってもらいたいですね」
芝2000mという距離は、ミナミベレディーにとって不安のある距離ではない。ただ、ライバルとなる馬達にとっても同様で、特に同世代のライバルたちは近年の傾向か芝2000mが最適距離の馬が多い。
「まあエリザベスはサクラヒヨリが出走するだろう。鈴村騎手としても、出来ればべレディーには別のレースに走ってもらいたいだろうからな」
実際のところ、GⅠ勝利に確実性を目指すならエリザベス女王杯であろう。もっとも、そこには最大のライバルであるタンポポチャが出走に意欲を燃やしているとも聞く。
もっとも、最近ではスプリンターズステークスへ進むのではとの噂もあるが、今のところ具体的な情報は入ってきていなかった。
「どの馬もミナミベレディーの動向に注視していますからね。特にジャパンカップや有馬記念はどうするのかとか」
「うん、ジャパンカップはともかく、有馬記念には出走させるつもりだよ。勝ち負けはともかく、やはり宝塚記念を勝っているからね、有馬記念は出さないと」
馬のみではなく、競馬関係者、競馬業界の柵もある。それ故に有馬記念の出走は致し方がないと思っていた。もっとも、天皇賞からそこそこ期間が開く為に十分な準備は出来るとも思っている。
「タンポポチャはどうするんですかね? 競馬協会はミナミベレディーとの直接対決などを期待しているみたいですが」
「さて、まあ幸いにして4歳以上でわざわざ芝の1600mを走らされる事はないからな。その点だけはべレディーが有利だろう」
馬見調教師は、そう言って苦笑するのだった。
◆◆◆
香織は7月の勝ち鞍数を6個伸ばし、今年に入っての勝利数を43勝としていた。途中なかなか伸ばすことが出来なくなっていたが、7月に入り乗り替わりなどもあって順調にその数を増やし、今の段階で全騎手でなんと7位につけていた。そして、勝率だけで見ればなんと4位の成績だ。
「よお、凄いじゃないか。今年は爆発しているな」
騎手控え室へと入ると、立山騎手がそう言って笑いかけてくる。
「あ、ありがとうございます。今年は自分でも乗れてるなって気がしています。ちょっと吃驚です」
実際のところ、その内容は相変わらずの未勝利馬、1勝馬が多く、重賞への出走はミナミベレディーとサクラヒヨリを除けば3度のみ。もっとも、その3度ともに4着1回、5着2回と掲示板に載せる事が出来、人気よりも上位につけ結果を残していた。
「馬群の捌き方も上手くなってきているな。2年前とは比べもんになってない。今週もうかうかしてると負けかねんわ」
そう言って笑う立山だったが、今週はクイーンステークスで自身の騎乗する馬と思いっきり激突する。特に、立山が騎乗するシャラパールは1番人気に押されている為に、特にここ最近穴馬で上位に食い込んでくる鈴村騎手には注目していた。
「今回、乗り替わりで依頼されたのでそこまで馬の特徴を把握できてませんから、勝ち負けはきついと思うんですけどね」
実際のところ、香織が依頼されたウインドセイバーは先日ようやく3勝を上げたところだった。実際のところ適正距離が難しく、今回のレースでも14頭中14番人気と最下位人気である。
「まあ、あの馬はなかなか厳しそうだな、確かに」
香織は、そう言いながらも普段と違い中々に立ち去らない立山に不思議そうな表情を浮かべる。
「アイドルの細川嬢とは仲が良いんだったよな?」
「え? ええ、まあそうですね」
立山からの突然の話の転換に戸惑う香織だが、まさかこのいい歳をしたおじさんが美佳のファンとか言い出すのかとちょっと驚くと、立山は慌ててそれを否定しだす。
「いや、違う違う、ほら、細川嬢から何か聞いてないか?」
「え? いえ、特には?」
何のことだろうと首を傾げる香織だが、立山はさらに大きな溜息をついた。
「なんだよ、まったく。あ~~、あのな。栗東にいる浅井騎手知ってるだろ?」
「はい、何度か挨拶はしています」
再度首を傾げる香織だったが、そんな香織に立山が頭を掻きながら香織に今度栗東かどこかで浅井に会ったら会話してやってくれと頼み込んだ。
「え? 私とですか? それは構いませんが、特に話すことはないのですが?」
「ほら、そこは同じ女性騎手の先輩として、何かアドバイスとかよ」
「女性騎手の先輩としてですか・・・・・・良くわかりませんが、わかりました」
何となく立山騎手が言いたいことが判らなくもない。ただ、だからといって何か話すことはあるだろうか? 思いっきり男所帯で生活しているようなものである騎手の世界。そこに染まりきっている香織である、いまさら女性騎手同士でと言われても話すことがなかったりする。
「それとだな、これも一応なんだが、お前さん美浦でその、なんだ、仲の良いやつがいるのか?」
「え? 仲の良い人ですか?」
そこで考え込む香織を見て、立山騎手は若干慌てた様子で言葉を付け足す。
「いやな、お前もそのなんだ、そろそろ結婚とか考えている相手がいるんじゃないかと栗東で噂になっててな」
一瞬キョトンとした香織であったが、途端に不機嫌な顔になった。
「プライベートですよ! 質問に答える意味を感じません!」
「あ~~、まあそうなんだが」
「そんな相手がいたら今年のような成績なんか残せてません! だから良いんです!」
「・・・・・・そ、そうか、何かすまんな」
ばつの悪そうな表情で謝罪する立山、もっとも立山はすでに二人の子供もいる妻帯者だ。
「ちなみに、何で細川さんがそこで出てくるんですか?」
「ああ、浅井騎手が鈴村騎手と話したがっていても切欠が無いとかで、電話番号を交換してた細川嬢に相談したそうだ。細川嬢は鈴村騎手の親友だからってな」
「・・・・・・親友ですか?」
「ん? 違うのか?」
「いえ、そうですか、親友ですか」
何処と無く嬉しそうな表情をする鈴村騎手。その表情に周りにいて様子を窺っていた同年代の独身騎手達はなにやら、先ほどのフリー宣言も合わせて一気にザワザワとするのだった。
うん、ほら、鈴村さんもそろそろ焦らないとだし、ちょっと応援を?
でも、春が来る気がしないのは何故でしょうか?




