4:気が付けばまもなく新馬戦ですよ!
「それでは予定通りミナミベレディーのデビュー戦は6月の札幌芝1200、牝馬限定で行きます」
馬主の大南辺、馬見調教師、訓練助手の蠣崎の3人でミナミベレディーの今後の予定を打合せしていた。
2歳になりどんどんと成長していくミナミベレディーではあるが、まだまだ成長途中と言って良い。しかし、当初からの物怖じしない性格が幸いして調教も順調に進んでいた。
「距離的には1200はいささか短く、ミナミベレディーには忙しい展開になりそうですが出走頭数も少ないこの時期を逃す手はありません」
「出走頭数は10頭か、有力馬はコチノクイーンですね。コチノ牧場生産、ミラクルサンデー産駒でスピード馬、よくこの時期に合わせて来ましたね」
馬見調教師は距離適性においての心配があり、馬主である大南辺は出走馬に前評判の良いコチノクイーンがいる事に心配を覗かせる。
「札幌は移動が短くて済みますし、ましてや牝馬限定ですからね。ちなみに騎手は誰を?」
蠣崎の質問に、これまた調教師は顔を顰める。
「新人の浅井ジョッキーをお願いしたいんだ。何と言っても斤量マイナス4kgは大きい。もっとも、馬見さんは反対なようだがね」
大南辺の言う浅井ジョッキーは今年競馬学校を卒業した新人騎手であり、あわせて女性騎手としても人気を博している。今年デビューしてからこの2か月で既に5勝している。この時期の新人騎手としてはまずまずの成績ではある。
「浅井騎手ですか、確かに勝てばミナミベレディーの名前が広まるかもしれませんが、どうせ新人なら大関君を推しているんですよ。彼には期待しています」
馬見調教師の言葉に、蠣崎は首を傾げる。
「お二人ともそこでベテランという発想は無いのですか?」
その質問に、二人は顔を合わせて苦笑した。
「今回限りなら其れも有りだろう。ただね、主戦として乗ってくれる騎手の方がミナミベレディーには良いと思ってね。あの子は人見知りはしないけど、騎乗するには癖があるからね」
「当初以上にしっかりした馬体になったし、期待してるんだよね。ただスタミナはちょっと不明だから新人なら負担も少ないからね」
「斤量ですか、そこはまあ否定はしませんが。まずは1勝目指してベテランも悪くないと思いますよ?」
3人の意見は割れて、その日は結局夜になるまで意見を戦わせることとなった。
◆◆◆
「それで? なぜ一番中途半端な私が鞍上で呼ばれたのでしょう? 今はフリーとは言え私の昨年の勝利数は12勝止まり、今年に至ってはまだ勝ち鞍0ですが?」
その3日後、トレセンで馬見調教師の前に居るのは鈴村香織騎手。デビュー10年目のベテラン女性ジョッキーだった。通算勝利数は82勝、グレードクラスの勝利はGⅢを1勝、GⅡ、は騎乗経験はあるが、掲示板にすら載らなかった。
そんな鈴村騎手にとっては、ハッキリ言って鞍数は一つでも欲しい。ましてや場合によっては主戦騎手にして貰える可能性があると聞いている。更に馬見調教師の話を聞く限りではGⅢクラスなら勝てるくらいの素質はあるとの事。
近年、騎乗できる馬の数も質も落ちて来た鈴村騎手にとって、まさに棚から牡丹餅のような話だった。
「うん、一つ目は君が女性騎手であり、斤量マイナス2kg、更に話題性が高い事。二つ目は浅井騎手が騒がれてはいるけど、近年女性騎手の活躍がまた下がり気味でGⅢも4年前に君が勝った中山金杯以降は誰もいない。そこで再度GⅢを勝てば君の名前と共にミナミベレディーの名前も売れると思わないかい?」
「え? はぁ。ただ、それって取らぬ何とかでは」
鈴村騎手も馬見調教師とはほぼ初対面で、人柄などを詳しく知っている訳では無い。それでも一応は呼ばれたので調べては来た。ただ、未だ厩舎としてはGⅠの勝利は無く、調教師としては鳴かず飛ばずと言った印象だった。
「その意見を否定は出来ない。僕も出来れば鷹騎手とか、立山騎手とかにお願いできればと思うんだけど、そもそも付き合いが無い。ましてや、グレードクラスで他馬と騎乗が被ればあっさりと見放されそうだ」
競馬界は成績のみならず人の繋がりが非常に強い世界だ。繋がりを疎かにすれば、良い馬を預けて貰える事はまず無い。即ち成績も上がらない。これは調教師のみならず騎手にも言える事だった。
「私は今は一鞍でも多く騎乗したいですし、ともかくまずは馬を見させていただいても宜しいですか?」
鈴村の心中は複雑ではあったが、騎乗できるのだ。それがGⅢクラスの馬に何の不満があるものか。そんな思いでミナミベレディーの騎乗及び、騎乗前の調教も引き受けるのだった。
翌週、調教牧場に鈴村騎手達の姿があった。
「あれがベレディーだよ。可愛いだろう?」
「え? 新馬ですよね?」
鈴村騎手の目の前には、栗毛の牝馬がのんびりと飼葉を食べていた。
その馬体は既に450キロは優にありそうで、この時期の牝馬としては雄大な体躯をしていた。そして、トモの張りも含めて新馬の領域をすでに超えているような気さえして来る。
「すごいですね。でも馬体からすると中距離ですか? 芝向きの繋ぎですが、う~ん、牝馬限定とはいえ札幌の1200に出すんですか? 1800とかの方が良さそうなんですが」
明らかにストライド走法向きの馬体ですね。首も長いですし、ただ、何となくですが中途半端というか、チグハグな感じを受けます。
「悩み処なんだけどね、ただ今の時期であれば1200でも行けると思うんだ」
馬見調教師の言う通り、この時期の新馬戦であれば勝ち負けは問題ないと鈴村騎手も思った。ましてや牝馬限定であれば・・・・・・。
「判りました。ご指名頂いたからには最善を尽くします」
そう言って頭を下げる鈴村騎手に対し、馬見調教師は最後の爆弾を落とすのだった。
「あ、それとベレディーは鞭厳禁だから。スパートの合図は手鞭でお願いするね。まあ言葉で行け! って言ってもスパートするから言葉でも良いけどさ」
「はぁ?」
何を言われたか理解できず口をポカンと開ける鈴村騎手に、馬見調教師は笑いながらミナミベレディーへと鈴村騎手を紹介する為に近づくのだった。
◆◆◆
飼葉をモグモグしていると、此方へ来る人が見えた。ただ、まだ私から遠い距離で何か私を見ながら会話をしているので、ちょっと気になっちゃいます。
ん? あ、調教師のおじさんだ。あと知らない女の人だね。服装からすると騎手の人かな?
おじさん達の話からして、もうじき新馬戦というレースに出る事になるみたいなんだけど、もしかするとあの人が私に乗るのかな?
こっちを見てるので、私も思わず見返していると、調教師のおじさんと一緒にこっちへと歩いてきます。
「やっぱり中長距離向けですね。ただ、牝馬にしては馬体も良いですから先行逃げ切り狙いなら何とかという所でしょうか?」
「そうだね、ただ最初に加速が付くかが問題かな。あと枠番とゲート次第という所だね。小器用な子だけどレースは初めてだから小回りは苦手と思って欲しい」
私を見ながら話をしています。内容的にはレースについてなので、そろそろレースがあるみたいですね。
「プフフン」(頑張りますよ)
騎手のお姉さんにご挨拶します。一緒に走るなら仲良くしないとですし、競馬は見た事すらないのでお姉さん任せですから。
「この子のゲートはどんな感じでしょう? 嫌がったりしますか?」
「嫌がりはしないんだが、ゲートが開く音に吃驚する事があるかな。大人しい子だけどちょっと臆病かもしれない」
う~ん、最近はこれでも慣れて来たんですよ? ゲートの練習を結構させられましたから。
ただ、あの狭い場所でガシャンって音が響くと身が竦んじゃう所があるのです。うっすら記憶で駆けっこのピストルの音も怖かったので、どうしてもあのイメージが身に沁みちゃっているのかもしれません。
「調教はこれからですよね? ちょっと走って来ます」
「うん、最初は15-15くらいで様子を見てくれ、あとは任せるが、来週が本番だからよろしく頼むよ」
あ、来週がレースなんですね。成程、これは気合を入れて頑張らないとですね。
という事で、トコトコと騎手さんを乗せてコースへと進みました。
「はい、いくよ」
合図とともにタタタッ、タタタッと走り始めます。
どうですかこの華麗な走り方。昔のドタバタとは違うのです。他のお馬さんを見て、研究したのです。
「うんうん、次は13-13くらいで行ってみようか」
ん? もっと早くですか?
指示される感じに柵にそって走るのですが、スピードを維持したままで柵沿いに走るのは結構難しいですね。どうしても外に膨らみそうになります。
「うんうん、15-15にもどそっか」
そう言って手綱を引かれるので、スピードを落としました。
その後、調教師のおじさんの所へ戻って指示を受けて、今度は他のお馬さんと一緒に走ったり、坂路を上ったり下りたりといつもよりちょっと多めの訓練をして、一日を終えました。
人間だった時と違って塾や学校の試験も無いし、他人とのストレスは少ないし、これで馬肉の未来さえなければ言う事無いんだけどな。あ、でもリンゴやニンジンはもっと食べたいなぁ。
そんな事を思っていたら、翌週はレース前という事で食事量を減らされちゃいました。ぐっすん。
レース一つとっても決めるのに大騒動です。
2019年のJ〇Aさんのレース日程を参考にさせていただいています。