32:トッコさんは治療中、リンゴや氷砂糖の差し入れは歓迎です。
桜花賞が終わって、何か一気に疲れが出ちゃった私です。
レースで走っていた時は桜花ちゃんの為にと必死だったのですが、終わってみれば体の至る所が悲鳴を上げていて満身創痍でした。
歩くだけで体中がギシギシ言っているような気がして、特に右の後ろ脚に体重がかかるとズキッって痛みが走るのです。
桜花ちゃんの前でそんなそぶりを見せたらきっと心配させちゃうので、頑張って普通を装って表彰式まで終わらせましたよ! 御蔭で美浦の厩舎まで戻った時には筋肉痛も合わさって酷い状態になっちゃってました!
「キュフン」(動けないよ~)
体を動かすだけで其処ら中で痛みが出ます。あの後、お医者さんが診察してくれたんですがコズミと肉離れと診断されちゃいました。注射も何回か打たれちゃいましたけど、幸いな事にみんなが心配していた骨折やら、何か聞いたことの無い故障ではないそうです。蟹? 海老? 色々言ってたけど意味判んないですよね。
「キュフフン」(でも、痛いものは痛いの~)
暢気な感じで言ってますけど、実はもう寝たきりなんですよ! 唯一の楽しみだった食欲も激減というか、ぜんぜん食べたいって気持ちが起きないのです。そもそも、痛いので動きたくないから飼葉桶に行くのすら嫌です。流石に喉は乾くので、お水だけは何とか寝ながら飲めないかな?
「ベレディー、痛みは引いた? 大丈夫?」
鈴村さんがお見舞いに来てくれました。もうレースが終わって4日目なのですが、鈴村さんは小まめにお見舞いに来てくれます。リンゴも持って来てくれて、寝たままの私に食べさせてくれるので嬉しいです!
「キュイン」(まだ痛いの~)
それでも、時々起き上がって体勢を変えないと床ズレがおきます。馬房は狭いので寝返りがうてないので一苦労なんです。ついでに、下の関係もちゃんとしないと、汚れた寝藁で寝たく何か無いですから。
「リンゴ食べれる?」
差し出されるリンゴをお行儀は悪いけど寝たままの体勢でモグモグさせて貰っちゃいます。
「頑張って回復するんだよ。動けるようになったら放牧に出る事になったからね」
「ブフン」(放牧?)
「北海道の北川牧場に放牧になるんだよ。しっかり回復して、秋からまた頑張ろうね」
そっかぁ、桜花ちゃんの所で放牧なんだ。
思いも掛けず、楽しみが出来ました。
流石に桜花ちゃんと遊んだりは出来ないだろうけど、それでものんびり牧場ライフです。牧場にはお姉ちゃんやお母さんもいますし、早く歩けるようにならないとです。
そんな事を思っていたら、だんだんとお腹が空いてきました。よっこいしょと起き上がって、飼葉桶から飼葉を食べ始めます。
「ベレディー、大丈夫なの?」
突然動き始めた私に、鈴村さんは驚いたみたいです。でも、筋肉痛はだいぶん回復しているんだよね。ただ、相変わらず右の後ろ脚は痛みが残っているんですけど。
ゆっくりと右の後ろ脚を上げてみるのですが、駄目ですね。やっぱりズキッっとした痛みが走ります。
ご飯を食べたら横になって休みましょう。
「やっぱり右の後ろ脚が痛いのね。あとでまた消炎クリームとマッサージをして貰おうね。そして早く一緒に走ろうね」
「ブフフン」(うん、早く走りたい)
じっとしてるのは楽なんだけど、適度に動かないと疝痛になるらしいの。腸捻転とかだと危険なんだって、だから体を解すくらいには歩かされるんだよね。
「もう少し動けるようになったらプールとかが良いかな? 適度に運動しないと馬は怖いのよ?」
「キャフン」(プールは嫌い)
鈴村さんのプールという言葉に思わず拒否反応がでちゃいました。
でも、牧場に放牧に行けるなら頑張って回復しないとだよね。
◆◆◆
桜花は、いつもの様に牧場の柵に凭れ掛かりながら、先日の表彰式の事を思い出してニヤニヤしていた。
あの日トッコと並んで撮影した写真は、引き伸ばされて額に入れられ桜花の部屋に飾られている。
「桜花賞かぁ・・・・・・」
自分の名前の由来を知った小学生の頃、学校の作文でいつかうちの牧場で桜花賞に勝つ馬を生産する! そんな夢を書いたこともあった。しかし、年齢が上がると共に現実という名の壁が立ちはだかっている事を知る。
桜花賞で勝つ馬は、毎年一頭しかいない。
4月生まれの桜花は、すでに18歳になった。作文を書いてから10年、桜花賞に勝つどころか桜花賞に出走出来た馬すらいない状況に、何となく自分の未来を重ねてしまったとしても、この年頃の女の子としては致し方が無い。
「頑張れば、もしかしたら、万が一でも奇跡が起こるかもしれないよね」
トッコが生まれた頃は高校に行けるかの心配をしていた。
今は進学する大学と、自分の将来に対し悩んでいる。受験までまだ1年近くある。もう一年未満の時間しかない。どちらも正解だし、この時間を自分がどうやって使うか次第で未来は変わっていく。
「トッコはいっつも一人であの丘を上ったり下りたりしていたよね」
ついつい目で追ってしまうのは、トッコが一人で走っていた小さな丘。
他の馬達とは離れ、まだ当歳の小さな仔馬がただ一頭、上っては下りて、上っては下りて、何が楽しいのか不思議に思って眺めていたのを思い出す。
今年の産駒達が母馬と一緒にいるのが見える。ただ、母馬と離れて一人で黙々と駆け回るような変な馬は見る限りではいない。
「獣医かぁ、まだ間に合うかなぁ」
昔に描いた自分の未来、途中で諦めてしまった自分の夢、馬と一緒に育ってきたが故に、こんな小さな牧場でも不慮の事故で亡くなる馬を見てきた。せっかく生まれた仔馬が死産だった事だってある。
もし自分が獣医だったら助かったんだろうか?
そんな思いから目指した夢は、お金だったり、成績だったり、友人関係だったり、色々な挫折の中で磨り減って何時の間にか消えてしまった。
「ただねぇ、流石に今からだと偏差値がねぇ、理数系はともかく、英語がなぁ」
そもそも英語に馴染む環境に無かったは言い訳にしかならないのは判っている。
理屈で覚えようとする桜花にとって、ただ暗記しなければならない英語は最大の難敵であった。別名、追試の常連と呼ばれていたりする。
「あ~~~、こんな事なら英会話の塾とか行かせて貰っていれば!」
今更の事を今叫んでいる。
一つの夢が叶った桜花であったが、もう一つの夢は更にハードルが高いようであった。
◆◆◆
その頃、馬見は美浦所属の獣医師から一つの忠告を受けていた。
「馬見調教師、映像を見せてもらいましたが、確かに途中から走り方が変化していますね」
桜花賞でベレディーの走りが坂の手前から大きく変化した事、今回の右後ろ脚の肉離れとの関係など、気になる所を獣医師の視点での意見を聞きに来ていた。
「ストライド走法からピッチ走法に近い走り方に変化していますよね。こんな事ってありえるのでしょうか?」
調教師として幾多の馬を調教してきた馬見であっても、今までそんな話を聞いたことは無かった。
「此処までは右手前で綺麗にコーナーを回ってきていますね。直線に入った時に手前を入れ替えて左手前になっています。そうすると右後ろ脚が推進力を作るのはご存知だと思いますが、この馬の異常な所は頭の使い方です」
獣医師はそう告げると、VTRを更に送り坂の中盤から直線にかけての映像をスローモーションで流し始める。
「馬は疲れてくると当たり前ですが頭が上がります。この為、騎手は馬の頭を押す事で走りを補助するのですが、この馬は最後の1ハロンは今まで以上に頭の下がる位置が低くなっています。これは有り得ないですね」
獣医師が指摘するように、VTRでは今まで以上に頭を下まで下げて走るベレディーの姿が写っている。
「この姿勢は馬にとって非常にきついんです。ただ、その分脚にしっかりと力が入ります。そのお陰で追い込み馬に引けを取らない伸びと粘りを実現させました。もっとも、その代償があの肉離れです。よく肉離れで済みましたよ。下手するともっと大きな故障に繋がっていたとしても不思議じゃありません」
獣医師の説明を最後まで聞き、馬見はまた桜花賞のVTRを見る。
頭を他の馬と比較しても低い場所まで振り下ろし、前への推進力に変えている。後ろ脚は通常より前に着地し、後方へと力の籠った蹴り足へと変えている。
「この走り方は危険、そういう事で宜しいのでしょうか?」
馬見の質問に獣医師は少し考えた後、小さく被りを振った。
「さあ? 危険というより異質、訳が判らないが正確です。馬が全力を出す以上危険でない訳が無いのです。その比率がどうなのかはデーターが無い状況で語れる話ではありません。ただ、普通の馬はこんな走り方を絶対にしない。言い切れるのはそんな所くらいですね」
困惑した馬見に対し、これ以上説明できることは無いと獣医師は話題を切り替え、ベレディーの治療方針へと内容は変化していく。ただ、放牧へと出す前にしっかりと治療をして送り出す事に決まる。
「放牧でだって怪我をするときはします。あの馬は立って寝る事が無いので、そのお陰で予想以上に回復していってますから、また走れるようにはなりますよ」
脅しすぎたと思ったのか、獣医は一転してポジティブな発言をする。
それを聞きながらも馬見は今後について考え始めるのだった。
◆◆◆
大南辺は今、何故か知り合いを招いて開くパーティーの手配におおわらわになっていた。
自身の所有馬であるミナミベレディー、その桜花賞勝利を祝うパーティーであるのだが、当初はそんなパーティーを開くことなど思いもしなかった。あの日、ベレディーの桜花賞勝利が確定した瞬間、大南辺は周囲を憚る事無く絶叫を上げていた。
「ヴォオオオオ~~~~!」
当たり前ではあるが、馬主席には負けた他の馬主達も滞在している。
それ故にあからさまな喜びを表す事は忌避される傾向にある。しかし、初のGⅠ勝利を前にそんな事は思いっきり吹っ飛んでしまった大南辺は、言葉にならない声を上げていた。その両目からは正に滝のように涙が溢れて流れ落ちている。
「ちょ、ちょっと! 貴方声が大きいわよ!」
横で腕を引き正気に戻そうとする妻に対しガバリと向き直った大南辺は、涙を流した状態で妻を両腕で強く抱きしめたのだった。
「ひょぅ、あ、あ、あなた、なにを」
突然の事に動転し顔を真っ赤にした道子は、結局の所、表彰式の為に係員が呼びに来るまでそのままの状態で立ち尽くしているのだった。周りの馬主や関係者たちは、苦笑を浮かべてその様子を見て、有り得ないと思われていた勝利に喜ぶ気持ちを汲み取ってくれていたのが幸いであった。
その後、道子はこの短期間の間に競馬場で作った社交の成果を満遍なく発揮し、関係者及び知人を招いた桜花賞勝利を祝うパーティーを開催する事を決断。今、その為の準備に夫も巻き込んで大騒動となっている。
「なあ、本当に行うのか? 結局ベレディーはオークスには出られなくなったんだし、何か中途半端じゃ無いか?」
「何言っているの!こんな交流の機会は滅多にないのよ!」
馬を主体に考える大南辺と、その妻の考え方が如実に違う事が判る事例である。
ただ、そんな妻に大南辺が逆らえるかというと、逆らえないからこその今の状態であるのだったが。




