閑話:桜花とトッコ
ミナミベレディーの引退式を終えた翌日、桜花は家族と一緒に北海道へ向けて飛行機に搭乗していた。そして、その機内では隣に両親が居る為、桜花は手持無沙汰となり窓の外を眺めながらミナミベレディーへと思いを馳せていた。
桜花が物心付いた頃には、馬も、牛も、それこそ鶏ですら身近にあり、生き物の生き死にの傍で生活して来た。仔馬や子牛が生まれて喜び、飼育している生き物の死亡や死産を見ては悲しみ。生き死にを比較的間近で見て来た桜花にとって、自牧場で生きている生き物達はどこか一線を引いた存在だった。
「ねえねえ、お母さん。この仔って重賞勝てる?」
「そうねえ、どうかしら? でも、頑張ってほしいわね」
生まれて来た仔馬を見て、真っ先に母に尋ねる言葉が勝てるかどうか。競馬のレースを見て一喜一憂する両親の姿からも競馬の厳しさを感じ取っていたし、生まれた仔馬に無事に買い手がつくか、その事を気にして仔馬の鬣にリボンを結んだ事すらある。
そして、小学生の時に作文で書いた桜花賞の事は、何時の頃からか口にしなくなった。大きくなるにつれて競馬を理解し、その難しさを理解していった。馬の血統を勉強し、自牧場の現状に理解を深めて行った。現状を知れば知る程に、自分はこの牧場を継げるのだろうか? そんな不安が大きくなっていく。
「う~ん、ヒカリやガンバレの産駒が頑張ってくれないと、是から厳しくなるなあ。どっか重賞勝って欲しいなあ」
両親の苦労を見続けていたからこそ、生き物の生死を身近に感じていたからこそ、何処かドライな子供になって行ったと思う。
まだ幼い頃、競馬の現実を知り、勝てなかった馬の未来を知り、生まれて来る仔馬達の将来を思い涙した事もある。気持ちに一線を引きながらも、それでも自家生産馬達の勝ち負けに一喜一憂する。
そして、仔馬達が生まれる都度、その未来が少しでも幸せになる事を願う。牝馬達の勝率が何故か高い事から、牝馬が生まれれば喜び、牡馬が生まれれば残念に思う。勿論、牝馬の方が高く売れると言う事情もあるが、将来に希望が持てると言う意味合いも強い。
そんな北川牧場でミナミベレディーが生まれた時、桜花はまだ中学3年生だった。北川牧場としては、前年の産駒数が少なかった事もあり期待を一身に背負ったサクラハキレイ産駒である。
両親の様子から決して牧場経営が順調では無い事は察していた桜花としても、是非高値で売れて欲しい期待の仔馬だった。そんな仔馬が無事に産まれた事に牧場全体が歓喜に沸いた。
「良かったね! キレイ頑張ったね!」
「ええ、そうね。ちょっと色が黒いけど、鹿毛かしら?」
「黒鹿毛?」
「どうかしら?」
母と二人でモニター越しに仔馬の様子を確認するが、生まれて来た仔馬は中々に立ち上がろうとしない。
「お母さん、中々立ち上がらないよ?」
「そうねぇ」
「大丈夫かな? どっか異常が有ったりしないかな?」
生まれたばかりの仔馬であろうと、まずは必死に立ち上がろうとする。一概に言えないのだが、立ち上がる時間が短ければ短い程大成すると言われたりする。それ故に、桜花も期待してしまうのだが、生まれた仔馬は周りをキョロキョロするだけで一向に立ち上がろうとする様子が無い。
「脚に不具合でもあるのかな? 全然立ち上がろうとしない」
「不具合があっても立ち上がろうとするわよ? 見る感じでは異常は無さそうなんだけど」
生まれたばかりの仔馬は、座り込んだまま立ち上がろうとする様子が無い。本来であれば、お腹を空かせて早く母馬の母乳を求めて立ち上がろうとするものだ。心配する二人の目の前で、母馬であるサクラハキレイが鼻先で仔馬に立ち上がりを促すのが見えた。
「あ、立ち上がろうとしてる」
「なんか、のんびりした仔馬ね」
漸く動き始めた仔馬は動き始めたは良いが中々に立ち上がる事が出来ず、何とか立ち上がって母乳を飲み始めた時には桜花達の方が気疲れでぐったりしてしまった。
そして、何とか無事に幼駒としてデビューしたのだが、其処からも心配は尽きない。
「何か、すっごく歩き方が変じゃない?」
「獣医さんに診てもらいましょうか」
母馬の周りをトコトコ歩いては立ち止まり、トコトコと歩いては立ち止まる。まるで歩く事に違和感を覚えているかのように不器用な様子で、レントゲン迄撮って貰う事となる。
「特に異常は感じられません。う~ん、不器用なんですかね?」
「はあ、不器用ですか」
「手前を変えるのが苦手な馬とかも居ますし、まあ走るのが不器用な馬というのも居るんですね」
診察をしてくれた獣医が驚くほどに、生まれたばかりの幼駒の走り方はぎこちない。
「この仔、無事に売れるかなあ」
「そうねえ」
そんな私達の心配が的中した様に、サクラハキレイ産駒牝馬と言う事で幼駒を見に来た常連さん達は誰も購入をしようとはしなかった。
「う~ん、何か生まれながらに欠陥があったりとかしません?」
「レントゲン撮影でも異常はないですし、診断書も頂いてます」
「1歳になった時の状態で判断させて頂ければ」
「そうですか」
訪れる馬主達に都度説明するが、残念ながら誰もが購入を見送る事となった。
「トッコ、此の侭だと売れ残っちゃうよ?」
桜花は幼駒の様子が気になり頻繁に顔を出していた。そして、ついつい愛称をつけてしまう。
「桜花が愛称を付けるなんて珍しいわね」
「う~ん、何か見棄てられない的な?」
頻繁に顔を出す桜花に、トッコと名付けられた幼駒はとても懐いていた。それ故に桜花のトッコへの愛情もどんどんと深くなっていく。
「う~ん、何とかできないかなあ?」
まだまだ幼駒であるから母馬の周りをトコトコとしている。ただ、他の幼駒と共に駆け回ると言う事が無い。まだまだ母乳の時期であるから食べ物で釣る事も出来ない。
「トッコ、頑張らないと駄目なんだよ? 判ってる?」
「プヒュン」
「プヒュンじゃ無いんだけどなあ」
こちらの心配など欠片も汲み取る事無くトッコは気持ち良さそうに鼻先を撫でられている。母馬であるサクラハキレイはトッコの様子が気になるのか、チラチラと此方へと視線を寄越す。
トッコが生まれてから2か月が過ぎ、母乳に加え固形飼料を与え始める。慣れない内は固形飼料を食べない仔馬も居るがトッコは至って食欲旺盛に固形飼料を食べ始めた。
「食事だけは心配がないねぇ」
「プフン」
トッコはしっかりと母乳を飲む御蔭で成長が早い。特に問題となるような病気なども無く、後は無事に売れてくれるか、それだけが心配になる。
「大丈夫かなあ? ちゃんと売れるかなあ」
7月に行われるセールへと出品予定ではあるが、果たして値段がつくのだろうか? 相変わらずトットコ走る様子に、桜花は知らず知らずに溜息を吐いた。
その数日後、学校から帰った桜花が何時もの様に放牧地へと顔を出すと、これまた何時もの様にトッコは母馬の周りでのんびりとしていた。
「はぁ、不味いなぁ、お父さん達は黙っているけど、相当ヤバいよね。私高校へ進めるのかなぁ」
ブツブツと自分を取り巻く状況や不安を口に出していると、突然トッコが嘶いた。
「ブヒヒ~~~~ン!」
慌ててトッコへと視線を向けると、トッコの様子が明らかに可笑しい。慌てて父を呼びに行き、更には獣医の診察もして貰うが特に異常はない。
その事に安堵はしたが、トッコの異常さは此処から更に際立って行った。
「変な走りが強化されたよね。ピョンピョンダンス迄身に着けて、その所為で7月のセールですら売れなかったからなあ」
隣の席に座っていた恵美子は、桜花が思わず口にした言葉を聞いて思わず噴き出す。
「お母さん?」
「ふ、ふふふ。ごめんなさいね。お母さんも丁度同じことを考えていたの。ほんと、トッコがこんなに凄い馬に成るなんて欠片も思わなかったわね」
「うん、無事に売れて競走馬に成れるかすら心配してたもんね」
結果的にその心配は杞憂に終わり、北川牧場に大きな利益を齎してくれた。利益以上にGⅠ馬生産牧場と言う名誉も与えてくれた。
「トッコが帰って来てからが大事だよね」
「そうね。設備は以前に比べて格段に整ったわ。でも、それで馬が勝てるようになるかと言うと、そんなに簡単じゃないわ」
ミナミベレディーという新たな大黒柱を得た北川牧場ではあるが、その産駒が活躍出来なければ未来へとは続いて行かない。母馬がGⅠ馬だからと言って重賞を勝てるとは限らない。
「う~~~、処でトッコの種付け相手ってもう決まっているの?」
桜花としても気になるのは今年ミナミベレディーに種付けする牡馬だった。仔馬が生まれてから出走するまでに早くても2年半くらいかかる。晩成傾向のサクラハキレイ産駒であれば、結果が出るのに5年や6年かかる可能性だってある。
「そうね。第一候補としてはリバースコンタクトね。実績もそうだけど、何方かと言えばタンポポチャの半兄という所で第一候補ね。やっぱり最初の種付けは色々と難しいし、ましてやトッコだから」
「あ~~~、うん、そっかあ。やっぱり今年は難しそうだよね」
「努力はするわよ? リバースコンタクトの他にもトカチマジックも候補にはいれてるけどお値段がねえ。他にも何頭か候補はいるけどトッコ次第よね」
「トッコは、牡馬に当たりがきついよね」
桜花の言葉に恵美子は苦笑する。
そもそも有馬記念で引退し、更に放牧してからの牧場入りだ。
まず繁殖に回すには準備期間が短くて厳しい。更に初年度産駒は走らないなどと言われていたりするが、これも馬自体の準備不足もあるかもしれない。それ故に恵美子としても今年の種付けには慎重であった。
「仔馬が生まれても、その馬が走るかどうかは判らないわよ?」
「それは判ってるけど、そもそも生まれないと判断できないよね?」
「それはそうね。でも、その判断が出来るまでに時間がかかるわよ? 焦っても良い事は無いわ」
恵美子の言葉に桜花はガックリと肩を落とす。
「うん、でも、そう考えるとキレイは凄い馬だね。重賞馬産みまくりだもん」
「ええ、本当にね」
桜花にそう返事を返す恵美子の表情には、実に誇らしげな笑みが浮かんでいたのだった。
何となく思いついたので書いてみましたw




