27:桜花賞出走決定
一つのGⅠに出走できる騎手の数は最大18名。その狭き門を多くの騎手達が奪い合っているのは競走馬と同じである。生涯GⅠに勝てずに引退する騎手が殆どと言っても良い。GⅠに勝てるような馬には大体が一流ジョッキーと呼ばれる人達が騎乗する。
「ミナミベレディーが桜花賞出走を決めたみたいだな」
木内裕也騎手御年40歳、通算勝利数368勝、内GⅢ12勝、GⅡ2勝、GⅠ0勝、GⅠを勝てると思えた馬にも何度か巡り合ったが、いつもあと一歩が届かない。そんな木内騎手は桜花賞でファニーファニーへと騎乗する事となった。乗り替わりである。
「よお、木内騎手、お手柔らかに頼むよ」
次レースに出走の無い木内が騎手控室で今週の競馬新聞に目を通していると、先輩である鷹騎手が声を掛けて来た。
「鷹騎手、それはこっちのセリフですよ。タンポポチャはガチガチの一番人気じゃないですか。ファニーファニーはインスタグラマーが桜花賞を回避して来たんで、急遽桜花賞へと出走決定したんです。まあ、御蔭で乗り替わりでご指名頂けたんですがね」
当初、ファニーファニーはフローラSへの出走が有力視されていた。しかし、そこにフラワーCを勝ったインスタグラマーが出走を決めた事で、ファニーファニーの陣営は桜花賞へと出走を切り替えたのだった。
「ファニーファニーは距離適性が中々読み切れていないみたいだね。どちらかと言うとマイラーっぽいけど、末脚がそこまで鋭くないからね」
良いところまでは行く。ただ勝ちきれない。競馬において良くあることではある。ただ、今回ファニーファニーのオーナーからは掲示板内の死守を依頼されている。その為の乗り替わりであるが、勿論の事、木内はGⅠ初勝利だって諦めてはいない。
「実際の所、ファニーファニーとミナミベレディーの両陣営に営業を掛けていたんですけど、ミナミベレディーサイドには断られました。前走ハナ差の2着ですからね。鈴村騎手にもう一度チャンスをって処でしょうか? 羨ましいですねぇ」
GⅠ初出場で大ミスをしでかして、それでも主戦騎手をさせてもらっている。そして次はまたもやGⅠだ。それも桜花賞だ。それなのに、騎手は引き続き鈴村騎手など信じられなかった。
「桜川さんに聞いたんだけどさ、ミナミベレディーの所有者の大南辺さんって勝ち負けよりもロマンを求めるタイプらしいよ? だから面白いって桜川さんが爆笑してたね」
そう言って笑う鷹騎手だが、そういう馬主は決して少なくはない。もっとも、近年の馬主達はだんだんと勝ちに拘る、採算重視の馬主も増えてきている為、何方かと言うと古いタイプと言えるのかもしれない。
「まあプロミネンスアローやヤマギシンフォニーも強くなってきているしね、特にプロミネンスアローかな、前走では差しに転じての2着だったけど、あれは追い出しが遅かったね」
前走でタンポポチャの2着に甘んじたプロミネンスアローだが、先行策ではなく中段からの差しを試したのだろう。一見タンポポチャに対し1馬身差の2着と差が付いたように見えなくはないが、恐らくプロミネンスアローサイドはそこそこの手応えを感じていると思われる。
「ファニーファニーとミナミベレディーで頭争い。後方からプロミネンスアローとタンポポチャ、その前にヤマギシンフォニーですか、厳しいなぁ」
「意外とミナミベレディーをかってるんだね」
鷹騎手は面白そうに木内騎手を見る。
「前回、ミナミベレディーと争った時に粘り負けしてますから。見た感じあれから馬体も良くなってますよ。本音を言えばミナミベレディーを狙ってたんです」
そう告げると、木内騎手はバツが悪そうな表情を見せたのだった。
◆◆◆
桜花賞への出走決定。フラワーCで勝てないまでもハナ差の2着に入った事で、馬見調教師を含む陣営は大南辺が桜花賞へと出走を決定する事を確信していた。そして、その為の準備を始めている。
「鈴村騎手、プレッシャーをかけて申し訳ないが次の桜花賞で明らかな騎乗ミスがあれば乗り替わりを決定せざるを得ない。その事は事前に通知させて貰う。ただ、明らかに騎手の問題では無い場合においては掲示板に載れなくとも問題とする事は無い。その事は予め通達させて貰う。流石に、惨敗した場合は判らんがね」
「前走のような事は二度と無いように努力します。今回、またチャンスを頂けた幸運を決して無駄にはしません」
苦笑交じりに告げる馬見調教師に対し、鈴村騎手も目を逸らすことなく覚悟を告げる。フラワーCですら実は緊張していた。同じ過ちを繰り返すのではないかと。次はまさにGⅠ桜花賞、牝馬にとって最重要の一戦、緊張しないはずがない。それでも、前回のあのレースが終わった後の後悔、苦しみ、他の騎手からの嫌味などザラだった。そういったものに向き合いながらここ数か月を過ごしてきた。
「結果で見返すしかない世界です。頑張りましょう」
それは何も鈴村騎手だけの話ではない。馬見調教師もまた、調教師として試されている。明らかにGⅠを獲得するには劣ると思われている馬。その馬でどうやって戦うのか。それを馬主達は見ているし、その結果次第で預託馬は増減する。自分の調教師としての寿命は日々変化しているのだ。
鈴村騎手の表情を見た馬見調教師は、それでも上手く騎乗できるかは五分五分かと思いながらも前回ほどに酷い事にはならない事を祈る。
ベレディーに調教をつける為に部屋を出た鈴村騎手もまた、桜花賞への思いを胸に出来る限りの事をしようと思う。ただ、その思いの一部が若干おかしい事は本人も気が付いてはいる。
「過去の桜花賞のレースを見せたからって勝てる訳じゃ無いんだけどね」
そもそも馬が違えば能力も違う。出走するメンバーだって違う。それでも、少しでも参考になればと思うし、自分が見るだけでなく、ベレディーと共に見る事で何かが変わるかもしれない。
そんな非科学的な事でも試してみようと思う。今の自分にはそんな少しの事でも自信につながる、運を手繰り寄せる為に出来る事をする。そんな思いで鈴村騎手はノートパソコンを手にベレディーの馬房へと向かうのだった。
◆◆◆
北川牧場では、一人娘の桜花が今まさに大騒ぎであった。
北川牧場初の桜花賞出走、自分が生まれてこの方、冗談でも話に出た記憶はない。自分の名前を冠する桜花賞、勿論勝てるかなど思ってもいない。それでも、自分の名前が付いているレースであるからこそ、人一倍桜花賞への思いや憧れは強かった。
「すごいよ! トッコが桜花賞に出走するなんて。新聞の切り抜きとか、応援馬券とか、色々と記念に取っておかないと!」
堂々と桜花賞と印刷された馬券に、ミナミベレディーという名前が刻まれる。ただそれだけで嬉しい。勿論勝ってくれるに越したことは無いけど、トッコの適性などは嫌という程に聞かされているから。
「騎手、鈴村さんじゃなくて鷹騎手とか、ロンメル騎手とかだったらワンチャンないかなぁ」
ある意味もっともドライで現実的なのは桜花なのかもしれない。
予想出走馬を見ながら、ついつい一流騎手で空いている人が居ないかを確認してしまう。
「蟹江騎手とか空いてるっぽいけど、トッコには合わなさそうだなぁ。あの子そもそも鞭を使われると逆に失速するって言ってたし。馬に合わせた騎乗が出来る人って考えると残りの日数だと厳しそう」
馬主や調教師でもないのに、真剣に競馬雑誌と睨めっこする女子高生。
非常にレアな存在であるのは間違いないと思われる。
「桜花、何時まで馬鹿な妄想を言ってるの。それより、当日行きたいのでしょ?」
恵美子の言葉にブンブンと首を縦に振る桜花。勝てないのだから態々行かなくてもと思わないでもない恵美子ではあるが、そこはやはり娘の名前を桜花にしてしまった責任のような物を感じなくはない。
「お父さんと行ってらっしゃい。流石にお母さんは厳しいけど、当日朝の飛行機の空きを調べておいてあげるわ。まあ普通と逆の流れだから空席はあるでしょ」
「ほんと! お母さんありがとう!」
喜ぶ娘を見ながら、恵美子は小旅行のスケジュールを考える。
土曜日に北海道へ来て、日曜日に大阪へ帰っていく。そんな弾丸旅行を計画する人は少なくない。それに対して土曜日に大阪へ行き、日曜日に帰って来る北海道人はそれ程多くは無い。もっとも、札幌へ出て、千歳から関空へ行って、阪神競馬場へとなるとそれはそれで一大旅行になるのだが。
「阪神は初めてでしょ? 金曜日出発にした方が良いのかしら?」
「お父さんに付いて行くから平気じゃない?」
娘はそう言うが、夫である峰尾も阪神競馬場へは数回しか行った事が無い。その為、当日に向かおうとして迷子になってレースに間に合わなかったなどとなると目も当てられない。
「はぁ、何か心配になってきたわ。私も一緒に行こうかしら」
恵美子は思わずそう呟くのだった。




