263:鈴村騎手と桜花賞
忘れな草賞で無事にトカチドーターを勝利に導いた鈴村騎手であったが、その後に騎乗した桜花賞では、3番人気のフカムシチャに騎乗し勝利した馬に1馬身程遅れての3着に敗れていた。
「申し訳ありませんでした。勝ちきれませんでした」
「いや、良く3着まで持って来てくれた。騎乗依頼をお願いした時にも言ったが、あの馬は気分屋でな。鷹も騎乗するのに苦労していた。3着に入ってくれただけで御の字だ。ただ、鈴村騎手には申し訳ないが、次走は鷹になる」
「はい、覚悟していました。フカムシチャは良い末脚で、加速も素晴らしいです。最後の坂でも足が止まる事もありませんでしたし、オークスで距離が延びるのはプラスだと思います。私が、もう少し追い出しが早ければ、結果は違ったかもと申し訳なく思います」
「まあ、適距離が読み切れていないんだが、恐らくは2000mあたりだろう。1600はやはり短すぎるようだな。1800ならまた違った結果になったかもだが。
タンポポも桜花賞ではミナミベレディーに勝ちを譲っちまったが、オークスはしっかりと獲った。
そう考えれば、次に期待しよう。もっとも、ミナミベレディーはオークス回避だったが、今回はそうは行かないだろうがな」
そう言って笑う磯貝調教師であるが、タンポポチャの半妹であるフカムシチャに期待する思いは強い。タンポポチャで達成できなかった牝馬3冠を狙っていただけに、内心では非常に忸怩たる思いがある。ただ、それを今此処で言ったとしても結果は覆らない事も判っている。
今回の桜花賞では鈴村騎手のヤル気を上げる為であろうが、乗り替わりに際し勝つことが出来れば引き続き騎乗させて貰う事が条件に入っていた。
その結果は人気通りの3着となり、残念ながら今後はまた鷹騎手が騎乗する事となる。
「鷹もまあドジを踏んだもんだ。まあ運が無かったとも言えるがな。あいつが一番悔しいだろうよ」
「そうですね。鷹騎手騎乗であれば桜花賞を勝てたかもしれませんし、そうすれば牝馬3冠もありえました」
「タラレバを言ってしまえば切りがないがな。まあ、鈴村騎手には助けられた。すまなかったな」
癖の強いフカムシチャである。それ故に、誰が騎乗しても結果が出るような馬ではなく、最悪は惨敗すら有り得たのだ。磯貝調教師も鷹騎手も、その可能性が非常に高い事を危惧していた。
そこで思いついたのが、ミナミベレディーの音源を使う鈴村騎手であった。
鈴村騎手も騎乗する全ての馬に音源を使う事は無く、特に気性難な馬に対してレース前に気持ちを落ち着かせるために使用する。そして、不思議とその音を聞くと落ち着く牝馬が多い事を知っていた。併せて、鈴村騎手が何故か牡馬には使用していない事も。
美浦トレーニングセンターでは、鈴村騎手の事を陰で冗談半分、本気半分で音源使いなどと呼んでいたりする。
「まあ、結果的にはギリギリ及第点だな。フカムシチャも優先出走権が取れた、あとはオークスで結果を出すだけだ。ただ、ミナミベレディーの音源か。予想以上の効果だったな」
鈴村騎手が去った後、磯貝調教師は今日のレースを振り返る。その中で、得る所が何かあったかと言えば、気性難のフカムシチャがレース前のパドックでも比較的落ち着きを見せ、レースでは素直に騎手の指示に従った事だろう。
「急な乗り替わりで、あの人見知りをするフカムシチャがしっかりと反応できたのは驚きました」
「そうだな。音源の御蔭なのか色々と試してみたいな、あれは」
調教助手の言葉に、磯貝調教師も素直に頷くのだった。
磯貝調教師がそんな事を考えているとは欠片も思いもしない鈴村騎手は、あとは帰宅するだけだと競馬場を出る。
私服に着替えながら今日のレースを振り返っていた鈴村騎手は、忘れな草賞を勝利したトカチドーターと、桜花賞に騎乗したフカムシチャ、この2頭のレースを自分なりに比較していた。
「ドーターで出走していたら、掲示板も無理だったかな」
今日のレースでは善戦し、勝利したトカチドーター。そんなトカチドーターではあるが、やはり桜花賞で勝つためには更なる成長が必要に思われる。
「スタミナもそうだけど、メンタルもかな」
トカチドーターは、馬群に包まれると委縮する所がある。最近は改善されてきたとはいえ、周囲を囲まれると覿面にメンタルが削られて行く。前より、外寄りに付ける事が出来ればまだロスは少ないのだが、気性が大人しい為に掛かりやすくもなる。
「やっぱり、もう少し成長しないと厳しいね」
それでも、同じようにメンタルに課題があったサクラヒヨリが、5歳になって急速に成長を見せ始めている。特にミナミベレディーへの依存から脱却し始めている事に、鈴村騎手のみならず武藤厩舎の面々も安堵しているのだ。
「ドーターも4歳後半からかなあ」
既にオープン馬となっているが故に、まずは重賞を1勝させてあげたい。そんな思いが強くなる鈴村騎手であった。
競馬場で預けてあったスマートホンを受け取り、着信を確認する。すると数件の着信が入っている事に気が付いた。
「あれ? んっと、十勝川さん?」
一番直近の着信は、トカチドーターの表彰式で挨拶を交わしたばかりの十勝川からであった。
何か伝え忘れがあったのかな?
鈴村騎手は首を傾げながら電話をする。
「あ、鈴村です。あの、どうされました?」
鈴村騎手が電話を掛けると、直ぐに十勝川が電話に出る。そして、競馬場を出た所だと伝えると直ぐに迎えに行くとの事だった。
「はあ、今日はもうホテルでゆっくりするつもりだったんだけど」
帰ろうと思えば関東まで帰れなくはないのだが、流石に今日すぐに帰るには疲れていた。その為、鈴村騎手は新大阪駅の傍にホテルを予約していた。
そして、電話をして直ぐに見覚えのある車が目の前に停車した。
「ごめんなさいね。表彰式の時にお話ししようと思って、つい忘れてしまったの。駄目ねぇ歳をとると」
促されるままに車に乗ると、早々に十勝川がそう言い訳をする。
「いえ、今日はホテルで一泊する予定でしたので」
これなら関東まで今日帰る予定にしておけば良かったかと思わなくもない。ただ、そんな思いを欠片も表に出すことなく、笑顔で十勝川に返事を返す。
「ごめんなさいね。明日は北海道へ戻るから、ついついお声がけしちゃったの。北川牧場へもお邪魔して、今年の打ち合わせもしないといけないしね。ミナミベレディーは別として、昨年同様に他の4頭はうちでお見合いをさせて頂く予定なの」
「あ、北川牧場に行かれるんですね。羨ましいです。私も北川牧場へ行きたいんですが、行けるのは恐らく夏になってしまうと思うんです」
毎週のレースで騎乗依頼がある為に、鈴村騎手は中々に思うように時間を作れない。
「あら、そうすると夏の札幌競馬場だったら率先して騎乗して貰えそうね」
コロコロと笑いながら告げる十勝川に、ガチで頷く鈴村騎手。もっとも、そう都合よく札幌での騎乗依頼が飛び込んでくるかは今後の頑張り次第だろう。
北川牧場の改築、改装の話を十勝川としながら、気が付けばミナミベレディーの話へと移り変わって行く。鈴村騎手としても、ミナミベレディーの話題は大歓迎であるが、その内容は十勝川によって巧みにコントロールされていた。
「ミナミベレディーが引退するまで聞き辛い事もあったのよ? やっぱり勝負事ですから、それこそ内容によっては勝ち負けに絡むでしょ?」
「そうですね。私も話す内容には常に気をつけていました」
実際の所、ミナミベレディーについては話しても信じて貰えそうもない逸話も多数ある。それ故に、無難な回答しか出来ない事も結構多い。
「ミナミベレディーの嘶きが入った音源。あれは欲しかったわねっていうか、今も欲しいわ。一応、ミナミベレディーの嘶く声を集めてみたんだけど、全然効果が出なかったんですもの。やっぱり何か特別なのよね?」
ミナミベレディーが北川牧場へと放牧された時など、十勝川は録音機を手に何度も訪問していた。しかし、その際に録音した嘶きを自身の馬に聞かせてみても、思っていたような効果は全然得られなかったのだ。
「え? えっと、特別というか、牧場ではのんびりしている嘶きしか集まらないのではないかと。もっとも、ヒカリや他の馬達と走っている時だったら別かもしれませんが」
まさか十勝川がそんな事を行っているとは、鈴村騎手は想像もしていなかった。ただ、確かに牧場でミナミベレディーの嘶きを収集したとしても、恐らく食べ物を強請る嘶きや、放牧されている時のまったりした嘶きなどしか集められないだろう。
「そうねぇ、言われてみるとそうかもしれないわね。馬は声色で感情を感じ取ったりしますものね」
十勝川とて長く牧場を経営して来ているのだ。それこそ、よりよい生産馬を生産、育成するノウハウは北川牧場の比ではない。
「そう言えば、桜花ちゃんが零してましたがベレディーは今年の種付けは厳しいみたいですね」
「そうねぇ、残念ですけど候補はリバースコンタクトに絞られたわね。それも、無事に出産したタンポポチャを見て、上手く刺激にならないかでしたかしら? 北川さんの所は発想が面白いわ」
またもやコロコロと笑う十勝川だが、桜花が割と真面目にその可能性に期待している事を知っている鈴村騎手としては、笑うに笑えない状況であった。
「桜花ちゃんがベレディーに1歳牝馬を鍛えさせようって言ってました。当歳は勿論ですけど、昨年の北川牧場で生まれた馬は牝馬4頭ですから。物は試しにって思っているみたいです」
「あら? それは興味深いわね。北川牧場を訪問したら是非そのお話も聞かなくちゃ」
そんな会話をしている間にも、車は大阪中心部へとやって来る。
「流石に、今日は蟹じゃありませんよ。蟹は嫌いじゃ無いんですけど、やっぱり会話がし辛いですからね。私だって何度も失敗を繰り返さないわよ? 個人的には蟹は大好きなんですけど、ちゃんと日本料理ですから、鈴村さんも大丈夫でしょ?」
「はい。特に好き嫌いはありませんから」
コロコロと笑う十勝川に、鈴村騎手は苦笑を浮かべるのだった。




