242:有馬記念を見ていた人達
目の前でミナミベレディーに騎乗した鈴村騎手が、大きく手を振って観客の歓声に応える。その姿をモニターで見ながら、浅井騎手は何とも言えない、言葉に表せない熱い物が体の中に溢れてくるのを感じた。
「凄いなあ」
ただ、それだけの言葉が零れるように口から洩れる。
ミナミベレディーという馬と出会い、初のGⅠ、桜花賞を制覇。そこから始まって遂にGⅠ10勝という快挙を達成。ミナミベレディーという馬の名前は、様々な人達の中に刻まれ、今後も語り継がれていくのだろう。そして、それに寄り添うように主戦を務め、共に記録を作って来た鈴村騎手の名前も伝説になった。
今も語り継がれる名馬達、そしてその名馬に騎乗して来た騎手達。ミナミベレディーと鈴村騎手は共に引退から何年が過ぎようと、競馬ファン達が折につけ振り返る伝説になったんだ。
自分がまだ競馬学校で必死に頑張っていた頃、鈴村騎手は失礼かもしれないけど何方かと言えば落ち目の騎手といった認識だった。先輩女性騎手の一人ではあるし、重賞であるGⅢを勝利していたけれど新人騎手としての優遇が外れた所で一気に勝ち星に恵まれなくなっていた。
その為、浅井騎手の中において鈴村騎手は、何方かと言えば追い越さなければならない目標の一つ。同じ轍を踏まないように斤量に頼らずに勝てるようにならないと、と思わされる反面教師みたいな存在だった。
そんな鈴村騎手が、引退も噂される中で出会ったのがミナミベレディーだった。そして、其処からは今思えば伝説の、そして奇跡の始まりであり、今目の前で広げられたミナミベレディーの最後のレースは、まさに伝説の締めくくりのようなレースだった。
「はあ、いいなあ」
観客達からの大歓声を受けながら、微動だにせずに観客達を悠然と眺めるミナミベレディー、そしてその鞍上で観客席に向かって会釈を繰り返す鈴村騎手。まさに映画の一場面のようだった。
「まあ、出来過ぎなレースでしたね。相変わらず接戦の好きな馬ですが、それでいてしっかり勝ち切ってしまう所が恐ろしいですけど」
モニターを眺めていると、突然自分の背後から声がかかる。慌てて振り向けば、篠原調教師が何時もの様に口元に薄い笑みを浮かべてモニターを見つめていた。
「あ、テキ、お疲れ様です」
「何をしているかと思えば、有馬記念観戦ですか。まあ、歴史的な瞬間ですからね」
今日阪神で行われたレースで、浅井騎手は2歳未勝利戦と2歳新馬戦の2鞍騎乗を行っていた。共に篠原厩舎の預託馬であり、未勝利戦は4着であったが、芝1400m新馬戦では上手くスタートダッシュが出来た事で何とか先行逃げ切り勝ちを決める事が出来ていた。
「凄いですね。それこそ引退させるのが勿体ないくらいです」
今目の前で行われたレースを見れば、まだ来年もミナミベレディーは十二分に走る事が出来るだろう。それこそ、GⅠ勝利数を一つや二つ伸ばす事も出来るのでは、そう思わされるレースだった。もし、自分が主戦騎手を務めていたなら来年も一緒に走りたいと思うだろう。まだまだ勝利を積み重ねる事が出来るのだから。
そんな思いで再度モニターへと視線を向けようとすると、篠原調教師がクツクツと小さく笑い声を上げる。
「そうですねぇ、来年もGⅠで活躍できそうですね。もっとも、馬見調教師は無事に引退まで来れてホッとしているかもしれませんが」
篠原調教師の思いもよらない言葉に、浅井騎手は思わずまじまじと篠原調教師を見てしまう。
「伝え聞きですが、ミナミベレディーはレースでちょっと無理をする所があるそうです。それ故に僅差で勝利を掴み取っているのでしょうが、それは故障と紙一重でしょう。今や名牝と言われる伝説級の牝馬ですから、預かっている立場の調教師としては中々に胃が痛くなるでしょうね。まあ、贅沢な悩みですがね」
そう言いながら何時もの様にコロコロと笑う篠原調教師であるが、相変わらずその目つきは笑っている様には思えない。
「それ、鈴村騎手にも聞いた事があります。そうですよね、サラブレッドには怪我が付き物ですから。無事に引退出来て良かったですよね」
浅井騎手は美浦へとお邪魔した際に、トカチドーターの調教を行っていた鈴村騎手と会話した時の事を思い出した。その際に、トカチドーターがまだ幼い事も有り、ついつい話題はミナミベレディーの2歳、3歳の頃の話になった。
ミナミベレディーがまだ2歳から3歳の頃は、1レース毎にコズミが酷く、更に桜花賞出走後には肉離れを起こしたと聞いている。その際に鈴村騎手は「ベレディーはちょっと無理するからね。馬見調教師も馬主の大南辺さんも引退時期を悩んでるわ」と苦笑を浮かべていたのを思い出した。
「まあ、蠣崎調教助手なんかは頑丈な馬だと評しているみたいですけどね。大きな怪我も無く、無事に引退出来た事はとても素晴らしい事ですよ。あの勝負根性が産駒に受け継がれればと楽しみですよ」
篠原調教師は、そう告げると何時もの様に静かに歩き去って行った。
◆◆◆
「おいおい、またもや接戦かよ」
磯貝調教師は、阪神競馬場でモニターを眺めながら有馬記念を観戦していた。
昨年の有馬記念は、自身が調教するタンポポチャの引退レースだった。元々有馬記念で勝てるかというと距離的に厳しい物があった。それでもチャンスさえあれば、展開次第によっては十分に勝てるだけの調教を施したが、惜しくもハナ差の2着に敗れる事となった。
「勿体なかったよなあ」
あと何か一つでも嵌まれば勝てていただろう。そう思いたくなるレースだったが、それでもその何か一つを手繰り寄せる事が出来なかった。
「ああ。それが現実だがな」
そう嘯きながらも、そのタンポポチャの有馬記念を阻止してくれた現役時代最大のライバルであり、恐らくは親友と呼べるだろう馬ミナミベレディー。そのミナミベレディーのまさにラストランが、またもや接戦で締めくくられる。
勝っただろうか? 負けただろうか? まさに最後の直線は各馬が可能な限りの力を出し切った激闘と呼んでも良いレースであった。それこそ、昨年のタンポポチャとミナミベレディーのレースを思い出させてくれる僅差での争い。磯貝調教師であっても、直ぐにミナミベレディーが勝ったか負けたかは判断が出来ない。
「ただまあ、ハナ差で勝つんだろうよ」
幾度となくミナミベレディーのレースを見て来た磯貝調教師は、ゴール間際の執念としか例えようのないミナミベレディーの勝負根性を知っていた。普通の馬が息切れを起こすような状況であっても、必死に首を上げ下げする。勝つために命を削るような走りをする事を。
「はっ! 結局ハナ差かよ!」
見つめる電光掲示板の先で点灯される16番の文字。その文字を見ながら、まさに苦笑いしか浮かんでこない。そして、横に表示されるハナの文字。それは正に昨年の再現の様であった。
珍しくミナミベレディーが観客席の前に駈け、鞍上の鈴村騎手が観客達に会釈をする。その姿を見た磯貝調教師は、そこで改めてミナミベレディーがもう2度とターフを駆け抜ける事が無くなったのだと実感する。
牝馬最強時代、そう言われた昨年から今年にかけて、その中心となった最強牝馬ミナミベレディー、その最後のレースが終わった事で、何か大きな区切りがついたような錯覚を感じる。
「競馬はまだまだ休みなく続くんだぞ、何をしみったれてんだ俺は。しかし、やっぱり中山行くんだったなあ」
何でこんな所で寂しくモニターを眺めてんだよ。そんな事を思ってモニターを睨みつけている磯貝調教師を、自厩舎の調教助手が呼びに来る。
「テキ、有馬の結果出ましたか?」
「ああ、ミナミベレディーがハナ差勝ちだ。GⅠ10勝かよ、たく、悔しいなあ。タンポポが現役だったらもっと楽しかったのになあ」
そう告げる磯貝調教師に、調教助手は思わず苦笑を浮かべる。
「それならさっさと帰りましょうよ、ここにいてもミナミベレディーの引退式は見れませんよ。どうせ専用チャンネルで録画してるんですから、帰ってゆっくり見たらどうです?」
磯貝厩舎の預託馬は、既に今日のレースを終え馬運車で送り出されていた。
「はあ、そうだな。タンポポは順調そうだし、楽しみは春だな」
「何言っているんですか、まだまだうちの馬が走るんですから」
「そんな事わかっとる! まったく、鷹の野郎、さっさと答えを出せよ」
ブツブツと呟きながら、磯貝調教師は調教助手に連れられて阪神競馬場を後にするのだった。




