18:阪神2歳牝馬優駿 前編
『阪神2歳牝馬優駿、生憎の小雨が降る中、馬場状態は稍重。うら若き乙女達18頭が、2歳牝馬の頂点を目指し、プライドを賭けたレースが今始まろうとしています・・・・・・1番人気はデイリー杯を勝ちました・・・・・・』
画面に流れる実況を聞きながら、大南辺は食い入る様にして画面を覗く。普段はパドックへと向かい、馬の状態を自身の目で見る大南辺だが、前日から続く緊張に、パドックを見る事無く馬主席へとやってきていた。
「ベレディーの様子は悪くない」
それしか言葉に出てこなかった。憧れのGⅠに自分の持ち馬が出走している。ただそれだけで込み上げてくるものがあった。ベレディーの新馬戦、牝馬限定とはいえ芝1200mと適正距離より短いレース。別のレースにするべきだったのか、様々な思いが交錯する中でのベレディーの勝利。
「あれは感動したな。嬉しかったな」
その後の第2戦、コスモス賞。ここでも人気薄でありながら、先行からの粘り勝ち。手に汗握るあのレースからまだ半年も過ぎていない。そして迎えたGⅢのアルテミスS。芝1600mとベレディーからすれば短い距離を逃げ切り、最後まで先頭を譲らずに粘り切った。まだ3度目のGⅢ勝利を3連勝、無敗で迎えた時、大南辺の頭の中にはこの阪神2歳牝馬優駿があった。
それ故に、ベレディーがこのGⅠへ出走が出来ないと聞いた時、大南辺は非常に大きなショックを受けた。初めは、オープン馬でしっかり賞金を稼いでくれたら。ある意味売れ残っていた馬であり、もしかしたらGⅢを1個は勝ってくれるかもしれない。そんな期待を込めての購入。その思いが大南辺からすると容易く達成できてしまったように感じた。それならばとの思い、欲が沸き上がって来た。
「勝てなくても良い。ただ、自分の馬がGⅠを走った。その思い出だけでいいんだ」
GⅠ、それは馬主達にとって憧れのレース。
大南辺はそう自分に言い聞かせながら、じっと画面を見つめるのだった。
◆◆◆
鈴村は騎手控室で思いっきり震えていた。
今日の第3R500万下において既に一鞍騎乗し、5番人気5着という可もなく不可もない結果で終わっているが、それで緊張が弱まる訳では無い。
「それでも練習出来たと思えば、いつも通り、いつも通りで良いんだから」
そう言って必死に自分に言い聞かせる。
それでも、レースが近づいて来るにつれて体に震えが走る。
「た、立てるかなこれ」
がくがくと震える足を手で押さえながら、思わずそんな言葉が零れる。
すると、目の前に誰かが立ち止まった。
「思いっきり震えてるやないか。初GⅠ騎乗でビビっとるな」
視線を上げると、ベテラン騎手の鷹騎手と、立山騎手が立っていた。
「あ、えっと」
何と話して良いのか判らずただ黙り込む香織に、両騎手は笑いながら香織の両肩をそれぞれ叩く。
「力が入っとるぞ」
「リラックスしないとレースにもならないぞ」
恐らく私の様子を気にして声を掛けてくれたのだろう。けれど、緊張はぜんぜん緩和される様子の無い私を見て二人は笑いを苦笑に変える。
「初GⅠなんだ、仕方ないとはいえ、レースそのものは変わらんぞ」
「おお、走っちまえばあっという間だ。そもそも、俺達に勝てると思ってるのか?」
「は、走ってみないと判らないです!」
香織は条件反射的に反論をするが、口の中はカラカラだった。
「その意気だ、ほれ、気合入れていけよ」
「馬を信じてやれ、馬が走らなきゃ何をやっても駄目だからな」
そう言って離れて行く二人を見ながら、香織は改めてベレディーへと思いを馳せた。
「そ、そうだよね、私がこんなんだったらベレディーに負担がかかっちゃうよ」
パンパン
両頬を叩き、自分に気合を入れて立ち上がった。
「水が飲みたいなぁ」
ただ、今この状況で水を飲む事なんて出来ない。
レースが終わったら、コップ一杯の水を味わって飲もう。そう思いながら香織は帽子を手に取って立ち上がったのだった。
◆◆◆
パドックではいつもの様に特に緊張することなく、私はグルグルと引綱に引かれながら回っています。今日のゼッケンは6番なので、割と前の方かな? 偶数番号だから、ゲートの中であまり待たされないのは嬉しいです。やっぱりあの狭い所は圧迫感がありますよね。
ただ、さっきから小雨が降って来てなんかすっごく嫌です。
私が気にする事を判ってたから、調教師さんが今日は何か真ん丸なプラスチックを半分にした様な物をつけた覆面にしてくれました。そのプラスチックにはさっきから水滴が流れていくのが見えます。
ただ、視界がなんか歪むんですよね。そこがちょっと難点です。
「トッコ、がんばれ~~~!」
声の聞こえた方向を見ると、なんと桜花ちゃんが応援の垂れ幕まで作って応援してくれています! やっぱり応援の垂れ幕があるのと無いのでは嬉しさが違います。
「キュイーーン」(わ~~い、ありがとう~)
桜花ちゃんに向かって嘶くと、桜花ちゃんも大きく手を振ってくれます。
ただ、いつもとは違うパドックを隙間なく取り囲むように集まる人、人、人、桜花ちゃんは最前列で牧場のおじさん達といるから良いけど、そうで無ければ群衆に飲み込まれちゃいそうです。
そして、今日はトラックを廻る中には見た事のある馬も数頭居る事がわかりました。前に一緒に走ったお馬さんかな? お名前までは憶えて無いけど、アルテミスSで最後まで走ったタンポポチャさんは判ります。
「ブフフフン」(こんにちわ~)
「ヒヒヒ~ン」
うん、何を言っているのか判らないですけど、お友達みたいな感じになっています。あのアルテミスSでレース後にお互いに判りあった仲ですからね。視線が合っても前みたいに敵対心は・・・・・・あれ? 思いっきり睨まれてますよ? 前のような感じではないですが、何でしょうライバル的な? そう思う事にします。私のメンタル的に。
すると、止まれの号令で一斉に騎手の人達が出てきました。勿論その中には鈴村さんもいます。
ただ鈴村さんの動き方が、なんかカクカクしているような気がします?
「ううう、ベレディーは落ち着いているなあ、私は思いっきり緊張してるんだけど」
鈴村さんが私の横に来て、私の首をトントンとしてくれます。でも、やっぱり鈴村さんの方は思いっきりガチガチに緊張していますね。
「ブフフン?」(大丈夫?)
逆に私が心配になって、ベロンと鈴村さんのお顔を舐めました。
「うわ、ベレディー、もう! はぁ、でもありがとう。やっぱり緊張しているのが丸判りなんだね」
鈴村さんは、ここで漸く顔を綻ばせて私の首に一度しっかりと抱き着いて、その後、厩務員さんに手伝って貰って私に騎乗しました。
「うんうん、今日も頑張ろうね。でも、無理しちゃ駄目だからね」
騎乗した鈴村さんに促されながら、私はトンネルをくぐり本馬場へと向かいます。
チラリとみると、桜花ちゃんが慌てて応援幕を畳むのが見えます。あれってレース毎に出すのだろうし、許可制なのでしょうか? 良く判りませんね。
本馬場に入って、走ってみんなが集まるゲート前に移動します。その際に芝の感じが判るのですが、何か湿ってて脚がちょっと滑りそうで嫌な感じです。
「芝が滑るから飛ぶような走りは危険かな。ピッチ走法が有利となる厄介だな。追い込み馬は、う~ん」
何か一人で唸っている鈴村さんだけど、なるほど、大きく駆けて芝で滑ったら転んじゃうよね。どれくらい滑るのかは判らないけど、注意するに越したことは無いよね。
ゲートで相変わらずグルグルと回るのですが、前までのレースと違って今日のメンバーは比較的落ち着いている感じかな? こうやってみんな慣れていくんだね。でも、そうなると私の利点がだんだん減っていくって事? それは拙いですね。
「ブフフフン」(勝てる時に勝たないと?)
でも、お母さんが勝ったGⅢを既に勝っているから、そこまでピリピリしなくて良いのかな?
何か色々と思考の沼に入りそうになった時、フンフンって息遣いが間近で聞こえました。
「フヒ?」(ん?)
視線を上げると、何時の間にかすぐ傍まで来ていたタンポポチャさんが私に視線を向けていました。
何か目の中に炎でも燃えていそうな視線です。
あの、一応ですが私達牝馬同士ですからね? 馬に百合世界はありませんよ?
思わずそんな事を言いそうになった時、遠くでラッパの音と、手拍子が聞こえて来ました。
「は、始まるね」
何かこのラッパの音がまたもや鈴村さんを緊張の坩堝に叩き込んじゃいました? ちょっと心配です。
「ブフフフフン」(大丈夫だよ~)
騎手を見上げる様に頭を上にします。
そうすると、まだ降っている雨が水滴になって目の前に流れていきます。
「ごめん、やっぱり緊張しちゃうんだよね。うん、レース、今はこのレースに集中する!」
その後、奇数番号からお馬さんが順番にゲートへと入っていきます。
今日は順調にゲート入りが進んでいて、私達もすんなりとゲートへと入りました。
「いよいよだからね。最後の馬が入ったら出るからね」
うん、手綱を握る手に力が入ってますよ? 鈴村さん大丈夫でしょうか?
そんな状態でも、最後の馬がゲートに収まって係員の人が出ていくのが見えました。
私はいつもの様に、スタートに備えてグッと馬体を沈めました。
ガシャン!
いつもの様に、ゲートが開くと同時に私は飛び出します。でも、この時、いつもと違って手綱が引っかかって首が上手く動かせなかったんです。
「きゃあ!」
あれ?
そう思った瞬間、出足が思いっきり遅れました。
鞍上で鈴村さんが何かバタつく様な挙動をします。この感覚は前に調教助手さんを乗っけて走った時に一度経験していたので、何が起こったのかが判りました。
「ブヒン!」(危ない!)
速度を緩め、頭を上げて落馬しそうになった鈴村さんが体勢を回復する為の補助をします。
すぐに鈴村さんは体勢を整えたのですが、気が付けば思いっきり出遅れていました。
おおお、お馬さんがだいぶ前にしかいない。
鈴村さんが大丈夫そうなので慌てて速度を上げて追いかけますが、最後方という位置になっちゃいましたね。う~ん、ちょっとこれは拙いかもしれません。
「ベレディー、ごめんなさい!」
うみゅ、思いっきり涙声の鈴村さんの声が聞こえて来ました。
緊張で手綱を引いた状況のままでのスタートだったんだろうなと今なら判りますが、それが判っても何の解決にもなりません。
フンフンフン!
このまま最下位で終わっちゃったら鈴村さんのメンタルがヤバそうです。
鈴村さんの為にも、ちょっと無理をしてみましょう。
女は度胸、男は財布、トッコさん逝きま~す!