112:トッコの冤罪発生?
馬見調教師は何時もの様にミナミベレディーの馬房へとやって来て首を傾げる。
ミナミベレディーは秋の天皇賞の疲れも取れて見るからに元気そうだ。元気そうなのだが・・・・・・。
「なあ、ベレディーなんだが太ってきてないか? 回復して来てると安心していたんだが、何となく胴回りが太くなってきている気がするんだが」
「言われてみると・・・・・・太くなってますね」
「ブヒン」(失礼な!)
調教助手の蠣崎は、それこそ毎日のようにミナミベレディーへと調教をつけている。それ故に逆にミナミベレディーの体重の変化に鈍くなっていたのかもしれない。
もっとも、体重増加は回復の証でもあり、過剰であれば兎も角、そうで無ければ歓迎できる事であった。
ミナミベレディーの明確な抗議を余所に、二人は胴回りなどを確認していく。
「飼葉の量などは大きく変えてはいないんですが、疲労を取るために運動量は最初は少なめでしたが最近は以前と変わらない量に戻してますが」
咄嗟にはミナミベレディーが太って来た理由に思い至らなかった蠣崎だが、そう言えばと厩舎の入口へと戻り置かれている木箱の中を覗き込む。
「原因はこれですか」
「そうだな、これだな」
その箱には、北川牧場と大南辺から送られてきたリンゴが入れられている。
ミナミベレディー以外の馬にも、ご褒美として与えられたり、日々の食事に刻まれて入れられたりしていた。しかし、箱の中に入っているリンゴの量は目に見えて減っていたのだった。
「そういえば、波多野の奴がミナミベレディーにちょこちょこリンゴをあげていると言ってましたね。確か、飼葉桶を鳴らして食事を催促するようになったとか」
「ああ、その話は山田からも聞いたな。甘えて来るのでついついリンゴをあげてしまうとか」
「ブフフフン」(リンゴは大事なのよ?)
「よしよし、ベレディーは元気だな」
「有馬記念も期待できますかね」
「ブルルルン」(リンゴは必要よ?)
馬見調教師達は、会話に入り込んでくるミナミベレディーの鼻先を撫でながら、今後の調教内容とミナミベレディーの間食注意を徹底する様に指示する事にした。
◆◆◆
「ブフフフフン」(リンゴは癒しなの、大事なのよ!)
馬房から去っていく調教師のおじさん達に声を大きく抗議するのですが、おじさん達はそのまま去って行っちゃいました。
「ブルルルン」(そんなに太ってないよね?)
鏡が無いので判りませんが、間食と言っても一日にリンゴを5個か10個かくらいしか食べてませんよ?
調教もまるでレース前に戻ったように坂路を走ってますし、それなのに、何か酷い誤解を受けた気がします。
馬房の中で少し軽やかにステップをしてみますが、うん、全然問題ないですね!
やっぱりおじさん達が勘違いしているんだと思うのです。明日の調教で軽やかにステップして見せればきっと勘違いだと気が付いてくれると思います。
「ブフフフン」(でも有馬記念って何でしょう?)
そういえば、最後におじさん達が言っていましたけど、もしかして今年はまだレースを走るのでしょうか?
だんだん寒くなってきているし、もう温泉でゆっくりしても許されると思うんです。
そう思う私ですが、そう言えば2歳の頃に鈴村さんがガチガチになっていたレースも冬だったような。
そう考えれば気温が低ければ体も硬くなるし、鈴村さんがガチガチになっていたのも判りますね。寒いと手も悴んじゃいますから。そう考えればお馬さんは冬毛が生えるから少しは良いのでしょうか?
冬に行く牧場だって、北海道よりはマシだと思うのですが寒いですからね。
この住んでいる馬房も、一応は暖房が入るのですが外気の寒さに比べると温かいかと言われれば今一つですからね。でも、石油ストーブとかでもし火事が出たら、それはそれで怖いですよね。私達は馬房から出れませんからお馬さんの丸焼きになっちゃいます。
「ブフフフフフン」(エアコンとセラミックファンヒーターが希望なのです!)
あれは火を出しませんよね? でも、そういえば何がセラミックなのでしょう? うん、良く判りませんが暖かくて火事にならなければ何でも良いかな?
馬着を着ているのですが、とにかくご飯は食べ終わっているので、あとは寝藁に包まって寝る事にしましょう。でも、今までのようにリンゴを簡単にもらえなくなっちゃうのはショックです。
「ブヒヒヒヒン」(お腹が空いて来たよ~)
仕方が無いので空腹を我慢して寝ちゃいましょう。こうなったら不貞寝ですよ。
今度からはリンゴもすぐに食べずに、少し寝藁に隠して置くのも良いかもしれませんね。そうすれば好きな時にリンゴが食べれますよね?
チラッと気になったレースの事も一瞬で忘れ、私はそのまま寝ちゃうのでした。
◆◆◆
武藤厩舎では、武藤調教師が有馬記念の人気予想を見て唸っていた。
「桜川氏は何と言っているんです?」
「昨年のミナミベレディーも出走は回避しているからな。ましてや今回のメンバーでは掲示板に上がるのすら厳しいかもしれんし、無理はさせなくても良いとの事だ」
ミナミベレディー、タンポポチャ、プリンセスフラウ、トカチマジック、その他にもGⅠ馬が目白押しだった。その中で今年の牝馬2冠馬といえど中々に厳しいレースを強いられるのは目に見えている。
「やはり回避の方向で進めよう」
「判りました。恐らく残りのレースで人気もこっから下がりますからね。ただ、長内騎手はがっかりしそうですね。有馬記念に出走ならぜひ乗り替わりで騎手にとPRしてましたから」
調教助手の言葉に武藤調教師も苦笑を浮かべる。
長内騎手の努力は武藤調教師もしっかりと理解しており、もしミナミベレディーとレースが被るようであれば長内騎手に騎乗を頼むつもりではいた。
「それは来年まで我慢してもらおうか。来年は何処かでミナミベレディーとの直接対決があるだろう」
今年の牝馬2冠馬のサクラヒヨリと言えど、業界の評価的には昨年の3歳牝馬達に比べ評価は下に見られていた。現在の4歳馬には代表的な牝馬が多く、その評価を覆すには来年の直接対決で古馬達に勝たなくてはならない。
「本番は来年以降だな。もっとも、その4歳でのGⅠを何処か一つでも獲りたいのだが」
「5歳になればともかく、4歳の間は厳しそうですね」
ミナミベレディーを含め、実績を出している牝馬は、恐らく5歳で引退していくだろう。願望が多分に混ざってはいるが、サクラヒヨリは5歳であっても十分に活躍してくれそうである。その為、焦る必要は無いのだろうが、せめて何処かの重賞は欲しい。
「前に馬見調教師が言っていたが、放牧で間を空けすぎてしまうとミナミベレディーは調子が落ちると言っていた。サクラヒヨリが同じとは限らないが、有馬記念を出さない代わりに1月の日経新春杯かアメリカジョッキークラブカップ辺りを考えている」
「なるほど、芝2200Mですか。確かに有力馬が有馬記念を走っていますから手頃ですかね」
「そうなるとありがたいな。中京よりも中山で行われるアメリカジョッキークラブカップが良いのでは無いかと思ってはいるが」
そう言いながらも武藤調教師は若干難しい表情を浮かべていた。
「そうなると今から短期放牧になると思いますが、12月の中には戻さないといけませんね。もしくは、放牧はせずに調教を続けるという選択肢もありますが。ミナミベレディーが有馬記念後に放牧となると、サクラヒヨリはどっちにしろ重なりませんね」
調教助手の言葉に、武藤調教師が顔を顰める。
有馬記念迄はミナミベレディーと一緒に調教をしていれば、サクラヒヨリは別段放牧をしなくても問題は無いだろう。ただ、有馬記念が終わったのちにミナミベレディーが放牧に出た後が問題だ。武藤調教師的に、唯一そこが心配であったのだった。




