107:ヒヨリとタンポポチャのエリザベス女王杯
『今年も好天に恵まれた京都競馬場、牝馬の頂点懸けた激闘が間もなく行われようとしております。芝の状態は良、芝内回り2200m、昨年の女王ミナミベレディー不在の中、桜花賞、秋華賞と牝馬2冠に輝いた全妹サクラヒヨリ、昨年の姉に続けるか! また、昨年の牝馬2冠馬、GⅠ6勝馬タンポポチャ、ミナミベレディー世代の意地を見せるか! 今年のオークス馬スプリングヒナノ、春の天皇賞、惜しくも2着に敗れたプリンセスフラウもいます。それぞれの牝馬達が・・・・・・』
エリザベス女王杯の実況が始まり、各馬がパドックへと現れ綱を牽かれながらゆっくりと回り始める。
3番と好枠順を引いたサクラヒヨリは、武藤と厩務員に綱を牽かれながらも落ち着いた様子でパドックを周回しながらも、時折顔を上げてタンポポチャの姿を見る。
「落ち着いているのは良いが、思いっきりタンポポチャを意識しているな」
「馬ってそこまで鼻もそうですが、記憶力も良かったでしたっけ?」
武藤調教師と調教助手はサクラヒヨリを間に挟んで会話をしながら、チラチラとサクラヒヨリの様子を窺う。そして、タンポポチャも同様に、時々顔を上げてサクラヒヨリへと視線を向けている様に感じる為、タンポポチャを牽引している磯貝調教師達も同様に困惑した視線を武藤調教師達に送って来る。
「二股かけた本人不在でバチバチやってるぞ」
「いや、それ笑えませんから」
まだこうして話していられるのは、両馬ともに落ち着いた挙動をしている事と、サクラヒヨリが3番、タンポポチャが9番と離れているからであった。
「一応、鈴村騎手には注意しておこう。これでレースで掛かったりしたらシャレにならん」
「以前のアルテミスステークスみたいにタンポポチャが掛かってくれた方が勝率も上がりそうですが」
二人がそんな話をしている間にも、止まれの号令が掛かり騎手達がそれぞれの馬へと駆け寄って来る。
「ヒヨリは落ち着いてますね」
エリザベス女王杯へ来る前にミナミベレディーに会えたとは言え、それまでに会えなかった為かサクラヒヨリは明らかに気が立っていた。その為、鈴村騎手は移動もある事から心配していたのだが、見る限りにおいては落ち着いているようで安心する。
「うむ、落ち着いてはいるんだが、どうやらタンポポチャに気が付いたらしい」
「え? どういう事です?」
武藤調教師の言う事が理解できず、首を傾げる鈴村騎手。
「恐らくだがミナミベレディーにマーキングしている相手がタンポポチャだと気が付いたと思われる」
やたらと重々しく告げる武藤調教師に対し、鈴村騎手はポカンと口を開けた。
「え? まさかですよね?」
「いや、どうやらタンポポチャも気が付いている様子だ。まあ、とにかく騎乗してくれ」
流石にここで話し込むわけにもいかず、鈴村騎手は急いでサクラヒヨリへと騎乗する。
そして、サクラヒヨリに乗り本馬場へ向かう最中に、先程までのパドックの様子を聞いた。
「拙いですか?」
「サクラヒヨリは先行するからな、余程の事が無い限りレースには影響しないと思うが一応注意しておいてくれ」
武藤調教師の言葉に鈴村騎手は大きく頷くのだった。
◆◆◆
桜川はサクラヒヨリが本馬場へと入っていくのを感慨深く見ていた。
サクラハキレイ、サクラハヒカリと北川牧場から購入した2頭はGⅢを勝ってくれた。北川牧場からは今までの他に4頭の馬を購入していたが、どの馬も一生懸命走ってくれる馬達だった。
サクラハキレイが引退し、その産駒のサクラハヒカリが重賞を制覇してくれた時、持ち馬という以上にその産駒が重賞を取ったという事が嬉しかった。しかし、サクラハヒカリの産駒は今ひとつ実績が残せない中、サクラハキレイの産駒ですでにGⅠを2勝もした。そして、今もエリザベス女王杯へと出走をしようとしている。
「なんというか・・・・・・幸せだね」
隣にいる夫の言葉に、微笑みを浮かべながら幸恵は見返す。
「あら? まだレースは始まってもいないわよ? 結果が出る前から変な人ですね」
「ははは、結果じゃ無いんだよ。ここにこうして居られる。その事が幸せな事なんだ。GⅠのレースがある度にそこに出走する馬と、その馬主達を憧れの目で見ていたんだからね。僕が所有していた馬の産駒が2度もGⅠを勝ってくれた。そして、もしかすると更に勝利を積み重ねてくれるかもしれない。もう此処まで来たら勝ち負けじゃ無くただレースを楽しみたいんだ」
まさに子供のような表情を浮かべる夫に、幸恵は苦笑を浮かべる。
「お金の掛かるお遊びですね。でも、ヒヨリちゃんには感謝です。今までの貴方の負け分を大きく減らしてくれましたから。そういう意味ではフィナーレちゃんにも期待しますわ」
「フィナーレも新馬戦を勝ってくれたからね。周りは期待しているみたいだけど、武藤調教師が言うには桜花賞は厳しそうだね。ヒヨリと違って大人しいらしい」
「あら、そうなんですね。それでも、GⅢくらいは獲ってくれるんじゃないですか?」
妻の言葉に苦笑を浮かべる桜川だった。
◆◆◆
「よしよし、タンポポは落ち着いているな。で、サクラヒヨリが気になるかい?」
タンポポチャ鞍上の鷹騎手は、パドックにいる時からタンポポチャがサクラヒヨリを意識している事に気が付いていた。
「キュフフフン」
ちょっとイラついたような嘶きをするタンポポチャを宥め乍ら、ミナミベレディーの音源が手に入っていたらもう少しタンポポチャも落ち着いていたのかと思う。
「此処の所、レース前にはミナミベレディーに会えていたからね。今回も会えると勘違いしちゃったかな」
「キュヒヒン」
首をポンポンと叩いて宥めながら、鷹騎手もサクラヒヨリへと視線を向ける。
「ミナミベレディーはともかく、その妹には負けられないよ?」
タンポポチャの状態は引き続き好調を維持している。スプリンターズステークスを走った疲れを微塵も感じさせる事無く、今日のレースに出走する事が出来た。
唯一の誤算が、どうやらレース前にミナミベレディーに会えるとタンポポチャが勘違いしていたみたいな事だろうか?
磯貝調教師が言うには、馬運車を出た先が美浦トレーニングセンターで無い事に気が付いたタンポポチャは、それまでのご機嫌な様子が一変したそうだ。
もっとも、パドックでサクラヒヨリを見た途端、タンポポチャは落ち着きを取り戻したらしいが。
「さて、ゲート入りだよ」
サクラヒヨリはすでにゲート入りをしている。
今日のレースは中団からのレースをするつもりでいるが、それも周りの状況次第だ。ただ、最後の末脚勝負をするつもりではいる。一抹の不安はタンポポチャが変にサクラヒヨリを意識していた事だろうか。
ゲートへ入り、係員の動きを視界の端に収め、スタートのタイミングを計る。
ガシャン!
まさにゲートが開く瞬間に、タンポポチャへとスタートの指示を送った。
そして、タンポポチャがゲートから駆け出すと、すぐ横ではサクラヒヨリがタンポポチャ以上に好スタートを切っているのが見えた。
「焦るなよ、まだ行く時じゃ無いからな」
軽く手綱を引きタンポポチャの行く気を抑える。その間に、各馬がそれぞれに位置取りを行うが、驚いたことにプリンセスフラウが早くも手綱を扱いてサクラヒヨリを交わして先頭に立ったことだ。
「サクラヒヨリを押さえるつもりか?」
その動きに追従することなく、サクラヒヨリは2番手へにつける。しかし、プリンセスフラウはそのまま加速を続け3馬身、4馬身と後続との距離を広げていく。
「まさか逃げるのか!」
ミナミベレディー不在のエリザベス女王杯、その為、まさか逃げる馬が居るとは想定外だった。
そして、サクラヒヨリはプリンセスフラウに追従することなく2番手に控えるようだった。
芝3200Mを経験しているプリンセスフラウが逃げるか。向こう正面で息を入れるとして、持つのか?
ミナミベレディーであれば警戒するであろう逃げだ。しかし、相手はGⅠ未勝利、しかし春の天皇賞では2着に入っている。紫苑ステークス、ダイヤモンドステークスと重賞を2勝している実力馬だ。
「せめてサクラヒヨリが競りかけて行ってくれれば違うのだろうが」
最後の直線で捉えきれるか。タンポポチャの位置取りに悩む鷹騎手であった。




