103:秋の天皇賞 実況と桜花ちゃん
『各馬、順調にゲートへと入りました。ゲートが開き、スタートしました! 5番ミナミベレディー好スタート! 3番ブラックスパロウも良いスタートだ。外から14番オーガブラザー出鞭が入って先頭へ躍り出るか! 2コーナーへ向けて先頭争いが熾烈を極めます。
ここでやはり先頭に立つのはミナミベレディー! コーナーを回って向こう正面に入りますが、前3頭は未だに競り合っている。前3頭から2馬身程遅れて4番手にオーガブラザー、そのすぐ後ろにキタノシンセイ、コニシルンバ、その更に半馬身ほど離れてファイアスピリットが此処にいました。そのすぐ後ろにシニカルムール、ダンプレンと続き、更に後方にトカチマジック、その後方に・・・・・・。
例年早いレースになる秋の天皇賞、今年も先頭に立つミナミベレディーがレースを引っ張る。
逃げ馬不利と言われるこのレース、果たしてミナミベレディーこのまま逃げれるのか! 1000Mの通過タイムは57.9、これは早い! このペースで逃げ残れるのか! ここでオーガブラザーが再度先頭を窺うが、内のミナミベレディー内へ入れさせない。2頭並走のまま3コーナーへ!
先頭は変わらずミナミベレディー、そのすぐ後ろにオーガブラザー、やや遅れてキタノシンセイ、3コーナー過ぎて4コーナーから間もなく直線へ向かう所で後続の馬も動く。
ファイアスピリットが上がって来た、合わせるようにトカチマジックも上がって来る!2頭に釣られるようにキタノシンセイ、ダンプレンにも鞭が入った!
東京競馬場の最後の坂が牙を剥く、オーガブラザーここで足が止まった。ブラックスパローも伸びない。しかしキタノシンセイ必死にミナミベレディーに追いすがる!
ここで伸びて来たのはトカチマジックだ! 末脚の切れが違う、前を走るファイアスピリットを交わし、ここでミナミベレディーを捉えた!
あっという間に半馬身の差をつけ坂を上り切る! しかし、ミナミベレディー粘る! あっさり交わされ勝負が決まるかと思われたレース、ここでミナミベレディーが再度スパートした!
トカチマジックに離されるどころかジワジワと差を詰めている!
並んだ! ここで2頭が並んだ! 残りは100M、ミナミベレディーとトカチマジックどちらが勝つのか!
なんとゴール前で更にミナミベレディーが加速! 抜けた! 突き抜けた! 首、いや、半馬身差をつけてゴール!
最後の直線、一旦交わされたミナミベレディーが再度差し返し、半馬身の差をつけてゴール!
牝馬による天皇賞春秋初制覇! それも、逃げ馬が最後に差し返しての壮絶なレース! 凄まじい末脚! まさに記憶に残る一戦で間違いは無い! 私達は歴史的な・・・・・・』
実況が行われている中、ミナミベレディーに騎乗していた香織は、必死にミナミベレディーの首を撫でながら呼びかけていた。
ミナミベレディーの最後の加速、そしてゴールを抜けた瞬間、香織は必死に手綱を引き絞った。
なぜなら、最後の加速は今まで香織が経験したことの無い程の加速だった。ハッキリ言って普通の加速では無かった! それ故に早くミナミベレディーを止める為に、この加速がミナミベレディーの命を削っているような気がした。無事だとしても、この後の競走馬としてミナミベレディーに与える影響を考えると決して良い事は無い。そんな予感に背筋が凍るような気持ちになる。
「ベレディー、ベレディー」
普段であればすぐに返事を返してくれるミナミベレディーは、必死に酸素を取り入れようと鼻で呼吸をしている。その音が鞍上の香織に迄聞こえてくる。ただ、ミナミベレディーは何処か意識が無いような様子で、頭をふらつかせ、香織が呼びかけても反応が全くない。
反応の無いミナミベレディーに対し、聞こえてくる呼吸音だけがミナミベレディーの生きている事の証明のように思えた。
「ベレディー、ベレディー、大丈夫?」
私が必死に呼びかけると、漸く少し呼吸が整ったのか、ベレディーがキョロキョロと周りを見回す様に視線を動かしていた。
その意図が判らず、私は下馬してミナミベレディーの正面に回り顔と瞳の様子を見る。
「ブフフフン」
ここで漸くベレディーが返事を返してくれるけど、未だに何か挙動がおかしい。
「ベレディー? 本当に大丈夫?」
首をトントンと叩きながらベレディーの様子を窺う、しかしベレディーは先程から凄い勢いで呼吸を行っていて未だに何処かおかしい気がする。
「ブヒュヒュヒュン」
それでも、更に返事を返してくれるベレディー、ただ明らかに先程とは嘶きがおかしい。
呼吸が整っていないから?
まさかと鼻から鮮血が出ていないかを確認するけど、幸いにしてその様な様子はなかった。
「大丈夫ですか? 故障ですか?」
協会の係員が慌てて駆けつけて来る。ただ、私は係員に返事を返すことなく、ベレディーの様子を調べる。
「ベレディーは大丈夫か!」
そこへ今度は馬見調教師が、引綱を手に慌てた様子で駆けつけて来た。
「歩かせていないので脚などの異常は判らないんですが、ベレディーの反応が変なんです。どこか視線が彷徨うような感じがして」
「移動は出来そうですか? 馬運車を呼びますか?」
協会の係員が尋ねてくる。その為、馬見調教師が引綱を付けて移動を促してみる。
「ベレディー、歩けるか?」
馬見調教師が優しく移動を促すけど、ベレディーは未だに凄い勢いで呼吸をしていて動く様子が無い。
「動きたくないみたいだが、どうだろうか?」
再度、引綱を引くと、そこで漸くゆっくりとではあるけど、ベレディーは歩き始めた。
「ブヒュン」
歩き出したベレディーが小さく嘶いた。
「ベレディー? 何処か痛い?」
私はベレディーの歩く様子を後ろから確認しながら声を掛けるけど、私の問いかけに返事は返ってこない。
「う~ん、これは拙いな。脚を今にも引き摺りそうな感じだ」
「何処かが痛いと言った様子ではないです。だから怪我ではないと思うのですが・・・・・・」
馬見調教師に、私は後ろから見た感想を述べる。
ベレディーの様子は、まるでとても重い荷物を背負っているかのような歩き方だった。
そして私達はゆっくりとミナミベレディーを検量室へと誘導していった。
◆◆◆
いつもは大騒ぎをする桜花の為に、恵美子は初めから一般の指定席を予約して貰っていた。
そして、レースが始まると自分の選択が間違っていなかったことを痛感する。
「え~~~、秋天で逃げる! マジで! うわ! うわ!」
天皇賞の秋は、逃げ馬は勝てないと言われていた。今までも多くの逃げ馬が走って来たが、ここ十数年勝てた馬はいなかった。先日のオールカマーではトッコが不利を受けながらも最後は差し切り勝ちを収めた。
この為、我が家では金鯱賞で馬群に沈んだ事はあったが、それでも先行差しを狙うのだろうと思っていた。それが、まさか逃げを打つとは桜花と同様に恵美子も驚いていた。
「逃げて勝てる自信があるのかしら?」
春の天皇賞とは違う。東京競馬場の芝2000Mはスピードが出やすく、ハイペースになった所で最後の直線の魔の坂が待ち構えている。その坂を越えても更に直線は300M続く。ここで今までも逃げ馬は捉えられ、追い抜かれてしまうのだ。
「う~~~ん、いくらトッコでも、無理じゃない?」
変な所は冷静な桜花は、既にレースは終わってしまったかのように椅子に凭れていた。
「うわぁ、前3頭絶対に残らないよ」
1000Mの通過タイムを見て大きな溜息を吐く桜花だが、走っているトッコと鈴村騎手は未だにレースを諦めた様子は無い。
「息を入れる場所も無いわね。このままゴールを目指すのかしら」
「う~~~、とにかく怪我さえしなければ。秋天は来年もあるんだし、トッコが無事に走り終えてくれればそれだけでいい。トッコって無理するから怖い」
普段の様子とガラリと変わり、桜花は祈る様にモニターを見つめている。
その間にも、レースは進んでトッコは4コーナーを回って最後の直線に入った。そこで、トッコは更に加速していく。ただ、危惧していたように追い込み馬達の勢いが凄い。
「うわぁ、トカチマジックとファイアスピリットの末脚が凄いよ」
それまで開いていた距離を一気に詰め、坂に差し掛かったところでトカチマジックがあっという間にトッコを追い抜く。それに続くようにファイアスピリットも上がって来るが、ここで恵美子も、桜花も予想のしていなかった展開が始まる。
「うそ! トッコがまた加速した!」
鋭い末脚と言われるトカチマジックに引けをとらない速度で、離されるどころか先頭に立ったトカチマジックに追い付き始めている。ここまで凄い末脚をトッコが持っているなんて今まで聞いた事も無かった。
「これ、差し返すんじゃない?」
「・・・・・・」
恵美子の問いに返事を返す事も無く、桜花は両手を握りしめてモニターを見続けている。
「あ、勝った!」
自身の言葉を裏付けするように、競馬場全体で凄まじい歓声が沸き上がっている。
この指定席のみならず、眼下に見えるスタンド全体がまるで揺れているかのような錯覚すら覚える。
最後の50Mくらい手前からだろうか、トッコが更に加速して半馬身程トカチマジックに差をつけてゴールへと駆け込んだ。
恵美子は、勝ったとしか言葉に出来なかった。
今まで見て来たトッコのレースはハナ差などもあり、厳しいレースも多かった。ただ、今日のレースは今までのレースと違い、トッコが苦しんでいるようにすら見えた。
トッコは無事よね? 大丈夫よね?
競馬場のターフビジョンにゴールの先で立ち止まっているトッコと、騎乗したままトッコを労っているような鈴村騎手の姿が映り恵美子はそこでやっと安心が出来た。
「桜花?」
普段なら大騒ぎをする桜花が静かな事に気が付き、まさか気絶してないでしょうねと思いながら恵美子が横を見ると、そこには涙をボロボロと流している桜花が居た。
「桜花、どうしたの?」
「トッコが、トッコが、死んじゃうかと、思った」
今のレースで何を感じたのか、桜花がボロボロと涙を流しながら、ゴールした先で立ち止まっているトッコをガラス越しに見つめていた。
「大丈夫よ、ほら、鈴村さんがまだ騎乗しているでしょ? モニターも見てみなさい、トッコは大丈夫よ」
「うん、うん」
ハンカチを取り出して自分の涙を拭き取る桜花を見ながら、恵美子は桜花の頭を撫でる。
「ほら、表彰式でトッコをいっぱい褒めてあげましょうね。いっぱいいっぱい頑張ったんだから」
コクコクと頷く桜花を連れて、恵美子は表彰式の会場へと向かうのだった。




