101:秋の天皇賞 前編
ヒヨリと併せ馬をして秋の天皇賞へ向けて最後の調整に入っています。
ただ、何かヒヨリの末脚が以前に比べて鋭くなってきています? 油断すると普通に追い付かれそうになるんです。ただ、姉としてはやはり早々負けてあげる事など出来ませんから、表情には出しませんが必死に走りましたよ!
「ブフフフン」(ヒヨリ、速くなりましたね)
「キュヒヒン」
私の褒め言葉に、ヒヨリは体全体で喜びを表現してくれます。
本音では、今のうちにヒヨリを牽制したい気持ちもあるのですが、私はヒヨリの姉ですから! 特にヒヨリは褒めて育つ子なのです。気をつけないといけないのは、増長しないように私がしっかり前を走り続けてあげれば良いのです。
なので、まずは今度のレースを頑張らないとなのです。ただ、ヒヨリにも出来ればタンポポチャさんみたいなお友達が出来てくれると私が楽になるんですけど。
「ブヒヒヒヒヒン」(仲の良くなったお友達は出来ました?)
「キュフン」
う~ん、何となくまだみたいです。ヒヨリは引っ込み思案ですからね。良く言う内弁慶というやつでしょうか? 中々に将来が心配です。
ヒヨリとの調教が済んで体を洗って貰っていると、どうやら明後日がレース本番みたいです。
鈴村さんは前日も騎乗するレースがあるそうで、今日の夕方から競馬場に宿泊するみたい。
「ベレディー、明日はしっかり休養するんだよ。明後日は牡馬混合のレースだから頑張らないとだよ」
「ブヒヒヒン」(うん、頑張る)
「あと、レースの日は桜花ちゃんも来てくれるからね。レースに勝って桜花ちゃんに褒めてもらおうね」
「ブフフフフン!」(桜花ちゃんが来るの? 絶対に頑張る!)
久しぶりの桜花ちゃんです。夏の放牧以来ですが、その放牧の時も桜花ちゃんは大学と行ったり来たりして忙しそうだったもんね。
「ベレディーは桜花ちゃん大好きだね」
途端に今まで以上にやる気を見せる私に、鈴村さんがそう言って笑います。
うん、そうですね。やっぱり記憶が戻った時に最初に見たのが桜花ちゃんだからかな? これも刷り込みでしょうか? ただ、別にお母さんとは思っていないのですが、あとは記憶の自分と同年代だからかな?
そう考えれば、桜花ちゃんももう女子大生ですね。時が流れるのは早いですね。
もしかしたら私も女子大生になったりする未来もあったのでしょうか? うん、全然実感が沸きません。
もう4年もお馬さんをやっていると、段々と意識がお馬さんになっていく気がします。といっても、お馬さんの意識ってどんなのかと言われると困るんですけどね。
なにせ、1番の楽しみがリンゴを食べる事ですから。リンゴはやっぱり格別なんです!
そんな事を考えている間に、私は馬房に戻されちゃいました。
「ブヒヒヒン」(リンゴくれても良いのよ?)
リンゴの事を考えていたらリンゴが食べたくなっちゃいました。
時期的に言っても今ってリンゴの美味しい時期ですよね?
◆◆◆
『長い歴史のあるこの秋の天皇賞、しかし今年は例年の天皇賞には無い、牝馬による天皇賞春秋制覇という一大イベントを前に、まさに全国の競馬ファンがこの東京競馬場に集結しております。
これまでも天皇賞を春秋制覇した馬は確かにいました。更には同一年度における制覇を成し遂げた馬も! しかし、そのどの馬も牡馬、牝馬にて天皇賞春を制したのはミナミベレディーただ一頭! そのミナミベレディーが天皇賞春秋制覇を成し遂げられるのか、まさにその歴史的瞬間を期待して20万人近い競馬ファンがここ東京競馬場に集まっています!』
テレビで天皇賞の実況が始まっている。近年の競馬人気の陰りを払拭させるが如く、競馬協会はこの天皇賞をテレビコマーシャルで大々的に行ってきた。また、競馬関係の番組のみならず、スポーツ番組においても異例の特集が組まれ、ミナミベレディーの知名度が爆発的に全国に広まったのだ。
そして、その結果がこの東京競馬場の収容人数190000人に近いほどの入場者となって表れていた。
「これは凄いな。ここまでの観客数は久しく見ていないぞ」
まさに競馬全盛期と言われた20年以上前の光景を思い出し、立山は思わず感動の声をもらす。
「いやあ、1番人気じゃ無くて良かったですよ。これで1番人気の馬に騎乗するなんてどれだけのプレッシャーになるか」
立山の横で笑いながらそう話すのは、宝塚記念に引き続き5番人気キタノシンセイに騎乗する鷹騎手。前走の宝塚記念にミナミベレディーにあっさりと逃げ切られた故に、今日どういったレースを行うのが良いか考えていた。
「鈴村ちゃんの様子はどうよ? それこそ前みたいにガチガチになってるんじゃねぇ?」
立山騎手の言葉に、苦笑を浮かべて鷹騎手が顔を向ける先には、立山騎手の言葉通りに顔を引き攣らせて実況を聞いている鈴村騎手の姿があった。
「こんな時は、実況なんか見ない方が良いのですけどね。ただ、ここまで圧倒的に1番人気になるとどうしても気になるんですよね」
今日のミナミベレディーの単勝オッズは1.1倍。まさに誰もが儲けようと言う思いではなく、この歴史的な場面を待ち望んでの馬券購入だった。そして、それ故に騎手に掛かるプレッシャーは凄まじい物となる。
「こりゃ、今日は貰ったかな」
そう言ってニヤリと笑う立山騎手は、今回2番人気のファイアスピリット、とはいっても3番人気のシニカルムールとの差は僅かであり、投票締め切り時には逆転しているかもしれない。
「ここ最近、シルバーコレクターと言われていますから、ここは勝ちたい所なんですがね」
そう言いながらも秋華賞ではわずかに届かず3着になった。審議においてタートルラビットより前にいたサクラヒヨリとカラフルフルーツは対象外となり、2着はそのままカラフルフルーツとなっていた。
「こうなってくると注意しないとならないのは、なあ?」
「何が、なあですか、まあファイアスピリットは十二分に注意させて貰いますけどね」
苦笑を浮かべて答える鷹騎手、その鷹騎手にニヤリと人の悪い笑みを見せる立山騎手。そしてそのすぐ後、騎手達は係員に呼ばれパドックへと向かうのだった。
◆◆◆
なんか何時もより凄い人だなぁ。
思わずそう思ってしまう程に、パドックの周りにも人が溢れていた。そして、驚いたのは、パドックに掲げられた応援の横断幕。なんと私の応援が5か所もありました。
「ブフフフン」(私って人気者?)
まだ競走馬としてデビューする前に、最悪はアイドル馬とかでも良いかな? と考えた事を思い出しました。
そんな私の引綱を手にした調教師のおじさんと、厩務員のおじさんは何時もと違い緊張しているのが判ります。何でしょう? 人の多さに驚いているんでしょうか?
「ベレディーはいつもと変わらないな」
「まあ、馬ですから。ただ、雰囲気に呑まれてる馬もいますね」
「ブヒヒヒン」(鈍感みたいに言わないで!)
二人に抗議しながらパドックを回るお馬さん達を見ていると、確かにイライラしているお馬さんがチラホラ。うん、やっぱり周りにこれだけ人が居ると気になるのでしょう。お馬さんは繊細ですからね。
止まれの合図で騎手さん達がゾロゾロと現れましたが、此処にも繊細な人が居ましたね。
「ブルルルン」(鈴村さん大丈夫?)
いつぞやのレースを彷彿させるような、もう顔色は真っ白で手足が震えているのが判ります。
「鈴村騎手、大丈夫か?」
「は、はい。頑張ります」
「う~ん、緊張するなと言うしかないんだが、ベレディーを見てみなさい。普段のレースと何ら変わりが無いよ」
調教師のおじさんにそう言われるんですが、まあ持久走でなくなったのは大きいのです。もしこれが持久走だったら絶対にテンションが落ちてました。そこは自信がありますよ!
「トッコ~頑張って~」
周りの人達の声に紛れて、私を呼ぶ声が聞こえて来ます。
「キュヒヒーーン」(桜花ちゃんだ~!)
声のした方向を見ると、私の応援横断幕の所に桜花ちゃんとお母さんの姿が見えます。
ブンブンと頭を振ってお返事しますよ!
「桜花ちゃんが応援に来てくれてるね。頑張らないとだね」
「ブフフフン」(うん、頑張る!)
私の鼻先を何時もの様に撫でてくれた鈴村さんも、桜花ちゃんの御蔭で少し落ち着いた感じです。
「うん、鈴村騎手。ベレディーを信じて頑張りなさい」
「はい、前のようなミスはしません」
鈴村騎手は私に騎乗して、トンネルを通って本馬場へと向かいます。
その間にも、鈴村さんは自分を落ち着けるかのように私の首をトントンと叩きながら話しかけて来ました。
「ブフフフン」(大丈夫だよ)
此処まで緊張している鈴村さんを見るのは久しぶりだなあ。




