12話・その頃、イディア公国では
イディア公国の宮殿内部。亜麻色の髪に灰色の瞳をした美女が、お気に入りの男を部屋に招き入れていた。彼女を溺愛している夫は、彼女が異性と一緒にいることを嫌う。幸い夫は公務で領地視察に出ている為、今日は夕刻まで帰らない。
大公と共に夫は出かけているので、夫のいない間に秘密の愛人との逢瀬に彼女は勤しんでいた。
「あら。もう帰るの? まだ良いじゃない?」
「そろそろ夕刻ですよ」
「えっ? もうそんな時間? あなたといる時間はあっという間に過ぎてしまうから残念だわ。あーあ、夫なんて一生、帰って来なければ良いのに」
「そんな事を言ってはいけませんよ。誰が聞いているか分からないのですから」
「大丈夫よ。人払いしているから。あの人が帰ってくるまでこの部屋には誰も近づかないわ」
寝台から抜け出そうとした男を引き止めようとした腕が、するりと抜け出していく。何度か体を重ねた仲なのにその時ばかりは、相手に一線を引かれているように思えて彼女はせつなくなった。
相手の男はやることをやった後は、淡々とした表情で今までの自分達の事など何も無かったような顔をして、自分の屋敷に帰っていくのだ。男には両親はいないが年の離れた妹がいると聞いていた。その妹の為に帰宅を急いでいるような気がしてならなかった。
「あなたも大変よね。盲目の妹さんの面倒を見なくてはならないなんて」
鍛えているようには思えないのに、引き締まった体がブラウスに覆われて行くのを、勿体ない思いで見つめていれば、潤んだ黒い瞳と目があった。男は大層、麗しかった。名残惜しく思う彼女に男は微笑んだ。
「別に大変ではありませんよ」
「でも何かと手がかかるのではなくて?」
「仕方ありませんよ。当主になったからには妹が嫁ぐ日まで面倒を見ないと」
男の言葉に彼女はいくら高位貴族の娘とはいえ、盲目の娘を娶ってくれそうな先を探し出すのは難しいのではないかと思ったが、口には出さなかった。そうねと頷くのに留めた。
彼女にとって夫とは、もはやどうでも良い存在になっていた。もともと特に好きでもなかった相手だ。ただ、いけ好かない姪が自分よりも先に婚姻するのが許せなくて、相手の男に近づいて誘いをかけたらすぐに靡いた。
そのうち許婚である姪よりも夢中になって「責任を取るよ」なんて言いながらプロポーズしてくれた。それからは姪から夫を奪ったことへの優越感に浸っていられたのに、一緒に暮らし始めたら色々と粗が見えてきて嫌になってきた。
思い込みが激しいし、自分が良いと思ったら相手にも強要してくる部分や、何より女とは男より三歩下がって付いてくるものと信じ込んでいる。いつの時代の男? と、思うくらい頭が固い。
しかも閨では勝手に盛り上がって終わってしまうし、彼女的にはいつも不発で終わっていた。テクニックもムードも何も無い。まるで野獣が欲望をむき出しにのし掛かってくるだけ。学習がない。経験を積んでいる彼女に言わせれば夫は超ド下手だった。
その点、男は違った。女性慣れしている点は気になったが、いつも甘く酔わせてくれる。彼女としては夫といる時間よりも男といる方が充実していた。
身支度を調えた男が、ふと思い出したように言った。
「しばらく会えなくなるかも知れません」
「どうして?」
「海賊が騒がしいのですよ。大公から討伐を命じられたので明日から公子と共に参ります」
「聞いたわ。確かドイア王国行きの船を襲っている海賊がいるのよね? あなたも行ってしまうの? 危険だわ。行かないで」
「大丈夫ですよ。無事に帰ってきます」
「約束して」
「必ず」
夫に男が同行すると聞かされて彼女は平静でいられなくなった。男はベッドに近づき、シーツを裸体に巻き付け身を起こした彼女を抱きしめた。
「無事を祈っているわ」
「安心して下さい。もしかしたら私が帰ってきた時にはあなたの懸念が払われているかもしれませんよ」
「……?」
「だから笑顔で見送って下さい」
彼女は男の言葉に一抹の不安を覚えたが、それを振り払うように頷いた。
男は彼女の前を辞して廊下に出ると、瞬時に姿を消した。そして次に姿を見せたのは海底にある宮殿だった。