第三話 嘘
「救急箱持ってきたよ」
河川敷でカルキの匂いを感じた後、わたしたちは脚の傷を理由に早々に寮に帰った。今はようやく落ち着いて、手当てをしようと救急箱をとかりが持ってきてくれたところである。
「ありがとう、もう大丈夫…」
わたしは庭で傷を洗ってついた水やら血やらの汁を床に零さないようにティッシュで拭いて椅子に座る。
「そう?じゃあ部屋に戻ってるけどなんかあったら呼んでね」
とかりはそう言うと少し気にした素振りをしながら、テーブルの上に救急箱を置いて去っていった。
パタン
ああ、カルキのことで気が動転して様子がおかしいわたしに、ただ心配してくれた彼には申し訳ないと思う。カルキ…のことを考えるよりまず、処置をしようと改めて傷を見る。傷は結構深く、周りが赤く腫れていた。どんなもので切ったのかわからないからアルコールの消毒液を使おう。太ももの下、椅子の上に敷いたティッシュは、2度ほどアルコールを吹きかけると薄赤色に染まった。まだちょっと血が出てるみたいだけどよく水分を拭き取ってガーゼを当てる。その上から包帯を巻いてヨシ、処置終わり。少し包帯の圧迫感とじくじくとした痛みがあるけどまあいい、さっさと部屋に戻ろう。ゆっくりリビングを出て、壁をつたって階段の手すりに掴まる。手すりは金属だからひんやり冷たい。階段もゆっくり上っていくとカラが下りてきた。
「あれ?パトロールもう終わり?」
「うん」
階段の外側、右に避けてすれ違う、とカラが聞いてきた。
「ご飯食べる?」
「いや…大丈夫」
わたしはやっぱり余裕がないみたい。適当な返事をして終わる。
2階の奥、わたしの部屋。ドアを開けてベッドに向かうと途中にある机に患部をぶつけた。
「いっっっ!!」
神経をぶつけたときのような痺れと傷の痛み。なんとかよろけてベッドに倒れ込む。頭が軽く白む中、とにかく、わたしは先程の出来事について考えなければならなかった。それならやっぱり、起きて机に向かった方がいいかな。と思ったけど足を動かそうとするとピリついて上手く立ち上がれない。よくよく感覚を巡らせてみると右脚全体が痺れている。うーん、さっきので悪化したのかな?まあいい、仕方ないからそのまま横になった状態で考える。
「どういうことなんだろう」
あのとき、わたしはあの方の姿を見た。匂いを感じた。幻覚という線もあるけど、同時に幻臭まで感じたことがあっただろうか。少し考えて、自分が過去経験した幻覚の状態と照らし合わせる、けどあんなことは一度もなかった。あれは本物のカルキだと考えていいと思う。でも一瞬で消えたのはどうして?
「もしかして…」
頭の中の知識のドアをいくつも叩いて、しばらくして思い当たったのは、夢のお手伝いさんの力。でもわたしは、あの方の、お手伝いさんが現れるほどの強い夢なんて、知らない。そう思うとわたしは苦しくなる。鼻がつんとして、顔が勝手に悲しい形になる。カルキ、カルキ、カルキ。どうして時を経て、どんどんわたしの知らないあなたになっていくの。あの方との思い出をなぞっては、現実に凍える。いつだって現実は痛い。もう思い出に縋って、眠ってずっと夢を見たい。痛みが体の芯を貫いて、縮こまる。知らないということに恐怖を感じる。今、わたしはあの方が何をしてるか知らない。どんな夢を持っているのか、知らない。わたしのことをどう思っているのか、知らない。
「わたし、どうすればいいの」
カルキ…あのとき、すごく近くにあなたの匂いを感じた。もしかして、わたしを切ったのはカルキなの?そうなら、あなたはわたしに何を望んでいるの?わたしを殺してくれるの?目を瞑ると温かい涙が頬を撫でた。
「わからない、わからないよ」
生徒会としては敵対してるような方がいるなら報告すべき。要注意対象としてマークしてみんなの安全を確保すべき。ただ、夢を叶えるにはきっと…
あの方の存在を隠しておくべき。
「あれ…?」
いつの間にか夢を見ていた。夢という感覚があるため、これは明晰夢である。いつ寝たんだろう、目の前にカルキがいる。河川敷で見たカルキと同じ服装のカルキ。黒髪の中に見える白髪も変わらない。でも中学の時よりだいぶ白髪が増えたかな。ああ、そういえばこんな空色だったか、カルキの虹彩は。褐色の肌に空色の目、やっぱり不思議な配色。美しい方。こちらを表情もなく見下ろすカルキを夢だからとじろじろ見つめていると彼が言う。
「明日、朝の5時にあの河川敷に来い。時間外は高いんだ、ぴったりに来い。」
声も懐かしい。青空みたいな素敵な声。残念ながら横暴な態度だけどそれも記憶のまま。ただ夢の中だしとわたしだけは少し反抗的な態度をとる。
「どうして?行ったらあなたに会えるの?」
聞くとカルキは眉をひそめため息をついて、面倒くさそうな顔でどこかに消えた。どきり、動悸がして、それなら素直に従えばよかったと少しの後悔を思いながら呟く。
「夢でくらい、優しくしてくれてもいいのに…」
「いてててて…」
昼寝から目覚めたあと、夕方6時。寝てる間にとかりから送られていたメッセージによると、夕飯のわたしの分担はお米を炊くだけらしい。他はとかりが代わってくれるんだって。ほんとにとかりは優しい方。気を使ってくれてありがたい。廊下に誰もいないことを確認してから、痺れて痛い脚を庇いつつリビングに向かい、釜を持ったら食料庫へ。ざらざら、ざらざら、カップを4回お米にぐぐらせる。さて、どうやって明日河川敷に向かうか。考えながらわたしは少し重くなった釜を持っていき、流しでお米を研ぐ。起きた直後まではただの夢だと思ったけど、あれはどうもできすぎている気がする。カルキと遭遇したあとに夢の中のカルキからあんなふうに指示されるなんて。わたしは釜の内側の、4合を示す線まで水を入れてお米をならしながら、どきどき、作業に似つかわしくない動悸をする。あれがもし夢なら夢でいい。ただ、夢じゃないなら、もしも明日行ってほんとうにカルキが居たのなら、みんなに言おう。釜の外側を拭いて炊飯器にセットして炊飯ボタンを押し、わたしは腹を括った。みんな、それまでは、確信が持てるまでは、どうか夢を追わせて。
「37.5度…」
米をセットしたあと健康状態は悪化の一途を辿り、脚は痺れっぱなしで感覚は無くなったし少し熱が出始めていた。体温計を見つめながらしばらくぼーっとしてるとそろそろできるよと下から声をかけられたので体温計を拭いて仕舞って、部屋の中で歩く練習をしてからリビングに行く。するとカレーの匂い。米は炊いたし今日の夕飯はカレーのようだ。手を洗ってから自分の分の用意をしに行く。さぁ、悪い嘘つきウーロンで乗り切らねば。にこりと笑顔を浮べる。
「明日の朝、ちょっと忘れ物取りに行くから居ないかもだけど気にしないで」
幸い傷は食欲に影響しなかったし、昼寝なんかしてお昼ご飯を食べ損ねていたことも考慮して多めに皿に盛りながら話す。
「どこへ?」
カラが聞いてくる。なんだかちょっと訝しげだけどわたしは目を見て堂々と嘘をつく。
「たぶん神社かな、ちっちゃいシャボン液とかも持ってったはずなんだけど、落としちゃったみたいで」
不調に気づかれないように足元に気をつけて座る。まるでたくさん盛ったカレーを気遣うように、脚から注目を逸らすように動く。
「あれ?気づかなかったよ、傷は平気?歩ける?」
とかりも訝しげ、怪訝な顔。ちょっと分が悪いかな?でもおくびにも出さずに乗り切る。
「あ!ごめんね、ご迷惑とご心配おかけしました、もう大丈夫!食欲も旺盛!」
堂々と大盛りのお皿を見せつけて笑うと、安心したような顔でとかりは笑う。大食いは不健康を誤魔化すいいスパイスである。
「じゃあいただきますしようか」
「いただきます!!!」
やっぱりわたしは自己中心的だね、みんな、ごめんね。