第二話 風
今日は朝ご飯を食べたら、とかりとお散歩がてらのパトロールに行く。天気は曇りのち晴れ、ちょっと風強め。2人より早く服も洗濯して屋上に干したらわたしの気持ちも曇りのち晴れになった。また気分が落ちないように、今日はくれぐれも油断するなよ、ウーロン。
「何着ようかな」
昨日雨降っていたからレインブーツ履いて、それに合わせた格好がいいだろうか。でも一応パトロールだし動きやすい靴の方が…うーん。とりあえず部屋着のままで朝ご飯食べて、そのあと決めようかな。
リビングに出るためにシルクリボンを巻こうとして、左手が止まる。右手首にある新しめの傷跡は、注射器が邪魔で切りづらかったのを覚えているから、確かに注射器が現れたちょっとあとに切った傷であった。昨日の朝はまだかさぶただったから、注射器がついでに治してくれたと思うんだけど少し不思議に感じる。注射器が刺さった原因の傷はきれいさっぱり治ってたのに、ここは跡。治すまでに時間が経つと跡になるのかな。なんて考えてたらふと思い至る。
「なんでこの傷をつけたときに注射器はうんともすんとも言わなかったんだ?」
しまった。至らなさにぞっとする。やっぱりわたしは力不足。そうか、注射器が発動するには条件があるんだ。昨日の話し合いの時には手首の傷のことを忘れてて、これは傷を治すとだけ考えていた。どうしようどうしよう、また考えないとな、ばかウーロン。どんな傷なら刺さってくれるんだ?条件はなんだろう?敵対時?加害者依存?傷の程度依存?どうすればわかるんだろう…どうしよう。
あ!思いついた!
「あのね、悪いんだけど…今日のパトロールの前に、注射器の検証をしていい?」
わたしは朝ご飯のトーストにマーガリンを塗りながら話す。4人用のテーブルの、正面に座ってるとかりとカラはピンときてないような顔で先にトーストを食べている。もしかしたらいちごジャムトーストのカラには悪いことをするかもしれない。
「検証って?」
先に口の中のトーストを飲み込んだカラが聞く。わざわざ聞いてくれてありがたい。パコっとマーガリンの蓋を閉めて言う。
「昨日は思い至らなかったんだけど、これはどれくらいの、どんな傷に反応するのかなって思ってね、だから後でちょっとぶん殴ってくれたらわかると思うの!」
あ、ふたりともすごい嫌そうな顔をする。食事中に傷の話して、赤いジャムを食べてるカラ、特にごめんね。嫌な顔されるのは困るけど、そんな素直な表情をすることは素敵だね。ともかくわたしは自分でつけた傷と人からつけてもらった傷で違いがあるのか知る必要があると思うのだ。ブルーベリージャムをスプーンでひとすくい、トーストに塗って続ける。
「この家トンカチあったでしょ?あれでぶっ叩いてくれれば」
「嫌だよ」
あら、とかりに言われてしまった。わたしは使い終わった甘いスプーンを舐める。検証の合理性を話そうかと思ったけど、気持ちは大事だと思ったので訊ねる。
「そんなに友達殴るの嫌かな?」
するとカラが口を開く。わたしはきれいに端まで塗ったブルーベリージャムマーガリントーストをひとかじり。
「うん…頼まれたらするけど気分は良くない」
「そんな危険なことしなくても、いずれわかってくるんじゃない?」
カラに続いてとかりが言う。嫌なら仕方ないね。わたしはトーストを飲み込む。
「そっかあ、じゃあなんでもない!」
「お散歩お散歩〜」
両手に持ったシャボン玉スティックを掲げて歌いながら高校の隣にある小さな神社をお参りする。ここは道の幅のほとんどをガードパイプで塞がれた狭い通路から入ると行ける。わたしが知らないだけでもしかしたら他の入口があるのかもしれない。その敷地を表す金網と、似つかわしくない結構立派な朱色の鳥居に、つくりは適当に見えるけど広い池。なんの神様かは知らないけど、この空間は結構好き。
「シャボン玉持ってきてるけどこれ一応パトロールだからね」
浮かれてたらとかりに注意された。確かにそうだ。気を引き締める。スティックを右手にまとめてしっかり足を上げて歩く。
「はあい。あっ!蚊!」
すると左足の太ももに蚊を見つけた。肌が白めだと日差しがつらいけど、蚊を見つけるときは便利だと思う。つまんで引き抜いて投げる。蚊が居たところの肌をちねって汁を抜く。結局スニーカー短パンにしたけど、ちょっと後悔。そういえば梅雨、蚊の時期だった。
「蚊にも注意だね」
ちょっと笑ったとかりに言われる。とかりを見ると彼も半袖。蚊に刺された跡はない。
「とかりもお気をつけて」
わたしは羨ましく思いながらとかりに言う。実はとかりは、注意すれば痒みのない生活ができるのだ。彼の夢のお手伝いさんは左耳にある便利なインカムで、聞きたい音、蚊の音さえも聞こうと思えばよく聞こえるらしい。またなんとBluetoothに対応していて、Bluetooth対応の機械ならハッキングして乗っ取ったりもできるのだ。とかりはちょっとインカムに手を当てて、それから言った。
「あ、今ウーロンの足にまた止まったよ」
「うわあ!」
すかさず足を激しく動かして蚊に諦めさせる。ところでわたしはダンスの才能がない。みんなに面妖と言われたステップしか踏めない。ばたばたする。
「ふぅ、ありがとう!」
しばらく動いてから蚊の居ない足を確認してお礼を言うととかりは笑っていた。笑われた!でも彼が楽しいなら嬉しいな。
「ウーロンの夢ってさ、どんなものなの?」
「殴らなくても、夢の手伝いなんだから夢から大体察しがつくかなって思って」
結局パトロールもそこそこに、河川敷でシャボン玉スティックを1人1本持って遊んでいると、とかりが聞いてきた。息が苦しい。わたしの夢。カルキに殺される夢。きっと、素敵なみんなの持つ夢とは比べ物にならないほど、自分勝手で欲望がむき出しの夢。今までのらりくらり、誰にも言わなかった夢。口にするのが恐ろしくて、動悸がする。音を出すのを躊躇して、口がぱくぱく。もたもたしてたら、シャボン玉が全部、弾けて消えた。
「言いづらいなら言わなくていいからね」
ああまた気を使ってもらってる。下を向く。とかりは、優しい。ひと息、吸って口を開く。
「あの、ごめんね…わたし、わたしの夢のことは恥ずかしくなくて、むしろ誇らしく思ってるんだけど」
「そんな夢をわたしが抱いてるってことが恥ずかしいの。だから、立派なみんなにはまだ…言えない」
恐る恐るとかりを見る。彼はいつものようにわたしを受け入れてくれる笑顔をしていた。
「そっか!それなら、いつか話したくなったら教えてよ」
「うん、ありがとう」
本当にありがたいな、いつか、自信をつけて言うからね、大切なお友だち。シャボン玉を一群作って、わたしも笑って喜びを表す。と、一瞬とかりの奥、河川敷の土手の上、歩道にカルキが見えた。心臓が止まる。チープな映画のように、スローモーションで時が流れる。柔い風で流れるシャボン玉が重なって、弾けると、あの方も消えた。わたしはこの距離で人を見分けられたことはないのに、幻覚か、本物か、それでも見えたものは直感で、カルキと思った。
「ちなみに俺の夢はね、」
とかりが話そうとすると突風が正面から吹く。目を開けてるのも辛いほどの風にシャボン玉がまた、全部弾ける。
「あ…」
「うわっそれ大丈夫?突風でなにか飛んできたのかな」
とかりが指さした右の太ももを見るとざっくり切り傷ができていた。血が流れて肌をくすぐる。
「大丈夫」
「それくらいの傷でも注射器は発動しないんだね」
「うん…」
心配してくれるとかりに対応しながら、わたしは内心それどころじゃなかった。
さっき、突風が、傷と一緒に運んできたもの。
懐かしい、カルキの匂い。