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ふしあわせになろうよ  作者: 鈴木寿実
1/4

第一話 夢

追記

一話だけ長いけどそれ以降は3000字程度で更新していく予定です バランス悪くて申し訳ないです

気持ちのいい朝、カーテンを開いて窓を開ける。朝の独特の匂いの、少し湿った空気を吸い込んで空に右腕を伸ばせば、きらきら、きらきら、今日も白い右手首にブレスレットが輝いている。この、輝く液体が詰まった計7色の小さな注射器のブレスレットは、夢をはっきりと自覚したあの日からずっと見えている大好きで特別な幻覚である。つるりとそのプラスチックをなぞる。と、その奥に担任の先生が歩いているのを見つけて声をかける。

「おはようございます!」

今日はもうそんなに早い時間じゃないから先生が顧問をしている野球部の朝練はないみたい。

「おはよう、今日もリストバンドがおしゃれだな」

いきなり声をかけた生徒に返事してくれるなんていい人。

「シルクリボンです!ありがとうございます!また学校で!」

「おう」

先生を見送って窓を閉じる。でも、先生はいい人なのに、こんなにおしゃれな手首がちゃんと見えないなんてちょっともったいないなと思う。

左の鏡を見る。ひとつに結んだ烏色の髪、紺ベストで分断される眩しい白の半袖ブラウスの首元、第二ボタンの上に乗る緑の制服のリボン、同じ緑のスカート。そしてアクセント、注射器の下、右手首に巻かれたシルクリボン。注射器と同じ色合いの、新しくおろした虹模様。うん、注射器とシルクリボンのこの最高の組み合わせがみんなにわからないなんて超惜しい!

まあでも、わたしウーロン、都分(みやこわけ)高校一年生生徒会会計!若者らしく前向きに、

「今日も夢の実現向けて頑張ろー!」

手をグーにして空中に勢いよく突き出した、その勢いを使ってくるり、回ってカーテンを閉めた。


通学用の重たいリュックを持って部屋の外へ出る。ここは生徒会寮であるから、ちょうど正面の部屋から一年生生徒会会長のとかりが出てくることも不思議ではないのだ。挨拶をする。

「おはよ!」

「おはよー」

彼は音楽家で、昨日SNSで配信をしていたからか少し眠たげである。彼について階段を降りてリビングに行く、と一年生書記のカラが先にパンを焼いていたので挨拶を交わす。

「おはよう」

「おはよ」「おはよ!」

ちょっとの期待を込めて右手を上げて挨拶を返す。今日の彼女は、肩までのザクロみたいな真っ赤な髪の、左の耳の上を金のピンで留めていた。いつものようにカールした前髪も今日のヘアアレンジもこちらを見たヘーゼルの目と雰囲気が合って最高に美しい!そしてこちらを見て開ける口元もかわいい。

「あ、ウーロンの今日の手首好き〜!」

「ああそういえば、二重の虹って感じでいいね」

やった、カラに続きとかりも褒めてくれた。二重の虹。そう、2人は数少ない、わたしのファッションが完璧に見えるお友達なのだ。この幻覚は、同じような幻覚を持っている人には見えるらしい。

「ありがとう、今日のこだわりわかってくれてとっても嬉しい!好き!」

2人は以前、この幻覚はわたしの夢のお手伝いをしてくれるんだって言ってた。同じような幻覚を持ってる人はいっぱいいて、みんなそれぞれ色んな夢のお手伝いを受けてるんだって。わたしの夢のお手伝いがどんなものなのか早くわかるといいな、なんて思いながらわたしは冷蔵庫を開け、ゆっくり水出ししたこだわりのウーロン茶を水筒に入れる。

夢のお手伝いで早くわたしもみんなの役に立ちたいな。


放課後、ここは寮からちょっと歩いたところにある都分(みやこわけ)高校の管理棟3F生徒会室。

今日も3人の人間がたくさんの仕事をしていた。

生徒会室入って右奥のデスクに会長とかり、右手前に仕事の所作まで美しい書記カラ、左手前にわたし会計ウーロンが居る。左奥の物置と化しているデスクから書類を探す。下の方を探すのに持ち上げた書類の山は現実味のある重さである。ああ、就任式までは居なくなった先輩役員達の代理という形なのに、わたしたちにこんなに仕事をさせていいんだろうか。

カタカタ、カリカリ、カチカチ

書類を見つけ一息、水筒を煽るついでに見回すと今日はそれぞれがそれぞれの仕事を、おしゃべりも程々にこなしている。きっと頭の中に今日の夕飯を浮かべてやる気を出してるんだろう。

そう、今日の夕飯はみんな大好き焼肉。

今朝食材配達サービスで家の前に届けられたクーラーボックスの中を見たらたくさんのお肉が入っていたので、みんなで焼肉にしようと決めたのだった。わたしたちはそれぞれ好きな野菜が違うから早く帰って野菜を切って野菜材料用意戦争に勝たないといけない。わたしも頑張って、必ずやかの大好きな茄子を勝ち取らねばならぬ。

正面の壁にある時計を見ると、今は16時55分。5分以内にこの書類を終わらせて監査してくれる先生に渡しに行けば17時の定時で帰れる。なお、山をつくる書類は今日ばかりは見なかったことにする予定である。

わたしが書類の仕上げに入ったのに気づいたのか、総務2人は少し焦ってるよう。どうやらまだ仕事が終わりそうにないらしい。この調子でいけば勝てる。少し疲れた左手でサインをして、よし、ぐるりと力を入れてしっかり判子を押した。

カチ

「監査お願いしに先生のとこ行ってきます!」

ガラララと、他の棟に比べ新しめの管理棟ならではの白くて軽い引き戸を開け、生徒会室出て右手にある時計を見るとあと4分、この時間に先生がいるのは…体育館!急げば間に合う。

制服のスカートとポニーテールを翻しながら廊下と青空廊下を通る。もしゃり、真ん中で分けた前髪が曇りのぬるい風で口の中に入る。朝は晴れてたのにな。生徒会連絡黒板を横目に見ながら教室棟を抜け、もうひとつの青空廊下を通る。なんだか右腕がくすぐったいと思ったら、はらり、風で手首のシルクリボンが解けていた。急ぎたいからするりと取ってスカートのポッケに仕舞う。特別棟に入って中央階段の少しぺたっとした木の手すりを左手で触った時。

カチ

階段の下の方から時計のような音が聞こえた。なんとなく気になって手すりの中央の隙間から下の階を覗き見ると、おや黒いワイシャツに赤いネクタイ、隣の(すべる)高校の生徒が階段を上ってくるじゃないか。入校制限かけてるのに首に入校証下げてないし疑ってかかる。

よく見ると、なにかがおかしいと思った。怪しいだけじゃない、なにか、足音が聞こえてこない。あれは、足が動いてないのに近づいてきている?

あ!わかった、わたしたちと幻覚を共有している人だ!

(走れ、ジョエイ、走れ)

なんて頭の中だけは呑気に曲が流れる。逃げなきゃ。2人が言ってた、生徒会の先輩役員が居なくなったのは、攻撃的な夢のお手伝いさんを持つ人が…

階段から離れ、できるだけ遠くへと特別棟の廊下を走る。書類はとりあえず右手に持ったまま逃げる。ごめんね、くしゃくしゃになっちゃったけど、わたしのこの注射器のお手伝いが戦えるものかもまだわからないのに出会うのは得策じゃない。その人が敵かもわからないけど、みんなの役に立ちたいけど、その人に殺されるのはいやだ。

恐怖で出る嫌な汗を、時々飛ぶ心臓の音を喉元で感じながら走る。

わたしの大切な死をその人には渡せない!

いくつかの教室を過ぎ、特別棟の端まで来た。他の階の様子が見えないようなコンクリートの古い階段がある。上るか下りるか。

生徒会室のある管理棟まで廊下が直接繋がってる二階に下りたいけど簡単に2人の元へ逃がしてくれるとも思えない。とはいえ上っても中央階段まで行ってまた下りることになる。でも下りすぎて一階まで行っちゃうと生徒会倉庫に繋がっているだけで行き止まりだから逃げられなくなるしなあ。

カチ

うんうん考えていると音が聞こえてハッとする、と同時にびっくりして階段を飛び降りてしまった。時計のような音はさっきの人を確認した時に聞こえた音だ。近くなっている。

ぴょん、ぴょんと、ほとんど飛び降りるように二階まで下りてさあ廊下へ、方向を変えようという所であれ?視界の右端になにかが見えた。

ガゴン

とても痛い。丸い金属の球だった。球は右頭部に直撃した。頭から倒れた、脳みそが揺れたお陰で混乱して涙が止まらなくなる。脳震盪だ。横向きに倒れたまま動けない。顔に温かい血の流れる感触がして、やば、書類が血で汚れていく。胸がぎゅっと圧迫される感覚がする、血が足りない。これはちょっと思ってもみなかったよ。ああ!こんなんだからいつまでもみんなの足を引っ張ってるんだ、ウーロン!


涙で揺れる視界のなか右手首を見ると、ブレスレットのように円を描く、きらきらした液体の詰まった7本の注射器が見える。今まで何をしてもうんともすんとも言わなかったのに、ちくり、1本赤色の注射器が手首に刺さってきらきらを静脈に流し込んだ。

ちょっと冷たいものが血管の内側から腕を上ってくすぐる。すぐぬるくなって、心臓まで行ったら痛いほどの精一杯の拍動がどくり、全身へ広がった。ああ、ああ、知ってる、これは安心感。リストカットしたときのようにほんわりと安らかな気持ちが訪れる。攻撃された所があたたかいものに支えられた感覚がする。

これは、注射器の、夢のお手伝い?

書類を血から遠ざけて頭を触る。ぬるり、血の感触はするけれど痛くない。殺されてない!

ありがとう、ありがとう、左手で空になった注射器を撫でる。ごめん血がついてしまったね、つるりプラスチック。

すると後ろから足音がした。すかさず転がって廊下に逃げ、階段を正面、壁を背に立ち上がる。攻撃されてもなんとかなるとわかったからか、謎の自信が出てきた。今なら向き合える気がする。逃げずに見つめる。

「なんだあんた」

ちょっと驚いたような声。なかなか若い声だった。一年かな、スラックスがちょっと余ってる。階段を歩いて下りてくる。あ、この人校内なのに靴のままじゃん。

カチ

その人から音がした。

「ああ、あと1分で17時だ」

そう言ってその人はわたしを攻撃した金属の球を拾う。やはりあの音は時計の音だったようだ。音大きいな。わたしは生徒会で教わったマニュアルを思い出す。夢のお手伝いさんがいる人と敵対したらまず最初は夢の特定、次に共存の交渉をするんだっけか。声をかける。

「ねえ、あなたの夢ってなに?他の人との共存はできないの?」

聞くと、その人は球を指の上で回しながら話す。

「そうだな、まあ、凡庸なものだよ、多様性ってのとの共存は難しいな」

そして球をハンドボール投げのようにわたしに向けて腰の辺りで投げた。見た目の重さと一致しないように見える、真っ直ぐで不思議な軌道だった。

「うわっ」

中央階段のある方向に避けそのまま走る。あれ?今ちょっとわたしすごいかも。

ガゴン

なんて思ってたらすぐに背骨をやられた。またか、ウーロン。両足に強いしびれが来て膝から倒れ込む。床に手をつく。息ができない。

「ふむ」

ふむじゃないよ!けほり、精一杯浅くて苦しい咳をする。右手首を見ると橙色の注射器が刺さっていた。時計回り、虹の外側から内側にかけての順なんだね、かわいい注射器。

また安心感と支えられる感覚が来て、ふー、しっかり息をする。廊下は空気が湿っているようだ。さて、まだまだいけるよ。今ならなんでもできるよ!かかってこい!

立ち上がり振り返る。おや?球が来た方向に帰っていっている。わかったぞ!これがその人の夢のお手伝いしてくれる幻覚だ!わかった!わかった!!わたしは走る。その人の元へ走ってみる。球に追いつけない。


カチ

その人がいる階段が見えた時、時計の音がした。

「終業時刻だ、帰るよ」

「…えっ!」

そして、言うやいなやコートを羽織り足元にあった球の上に乗って、つま先をトントンした。わたしはどうやら、突然のことに弱い。臨機応変に対応するのが苦手なようだ。立ち止まり、どうするか少し考える。球がいきなり速く動き出すのをぼんやり見つめる。人を乗せて動いているとどれくらいの速度かわかりやすいと思った。原付くらいの速度である。わたしの横を通り過ぎた。ようやくハッとして急いで追うもやっぱり追いつけない。廊下を滑るように帰っていく。

「あー!!!!!」

間抜けな声が出る、してやられたのだ。学校の外にあるスピーカーからは市の17時のお知らせの蛍の光が流れ始めていた。完全に見失うとわたしは諦めて立ち止まり、自分の中に溢れていた衝動を抑え、その背中を思い出し体幹に感心した。そしてバイクジャケットという高性能な防寒着を思い出す。

「そりゃコート要りますわ」


持っていたポケットティッシュでとりあえず血を拭いて、血塗れの書類と共に生徒会室に持ち帰る。おっと、シルクリボンを手首に巻き直してから扉をカラカラ開けると、とかりとカラと顧問の先生がいた。

「戻りましたー、この書類どうしたらいいですかね、あとその…不審者逃がしました」

顔をあげた2人はぎょっとした顔。つられてわたしもぎょっとする。

「えっなに!」「ウーロン大丈夫!?」

それぞれ心配そうに近づいてくる。あっ、書類の血でびっくりさせちゃったのか。申し訳ないな。

「ああ、それか、よかったねハッハッハ」

2つ空になった注射器を見て、いち早く察した顧問は笑う。流石の観察力。いや笑い事か?

「夢のお手伝いが治してくれたの、心配ありがとう、書類をどうしましょう、不審者は…」

「よかった〜」「びっくりしたよ」

2人は安心した様子でそう言ってくれた。カラが筆を胸ポケットから取り出す。

「ブラシは掃除もできるよ〜、とりま書類やるよ」

この筆は彼女の夢のお手伝いさんであり、筆を使うようなことは大体なんでもできる大変便利なものである。そして書類からわたしの血をゴミ箱に払い落としていく。強く握ってできたシワまでのびてる。それを見てわたしはどきりとした。わたしの注射器はカラやとかりのように人の役に立てるものじゃなかった。どうしよう、わたしはこのまま2人に守られてるままなんて申し訳ない。すっと顔から血が降りていく。こんな時、わたしは自分の自己中心的なたちを感じる。2人のこと大好きなのに、なにもできない。顔がつめたい。

カラが書類の汚れを落とし終わった。わたしは得意な咄嗟の笑顔をして言う。

「流石です!ありがとう」

そしてとかりが言った。

「注射器と不審者については緊急報告会だね」

どうしよう、みんな楽しみにしてたのに、今日は焼肉できるくらいの時間は余るだろうか。


あれから簡単な報告会、掃除をなんとか19時までに終わらせ、詳しい話や対策は夕飯時に話し合うことになった。寮に帰り2人がご飯を用意してくれてる間に報告書を書く。申し訳ない。

この報告書は団体に送られて、然るべき対策が取られる。団体というのは、わたしたちのように夢のお手伝いさんを持つ人の中で、共生できる人が必ず所属する事務所のようなものである。さっきのような他と共生できない人が殺しに来たりするから、子どもなら防犯の支援を手厚くしてくれたりする。わたしや2人をひとかたまりにこの寮に住まわせてくれているのも、食材を持ってきてくれてるのもその団体だったりするのだ。どうしよう、わたしは役立たずだったから本部の期待を裏切ってしまわないだろうか。

不審者情報も乏しい、わたし同様役に立たなそうなスカスカ書類をようやく書き終えてFAXに入れた。リビングに行くと、焼肉の準備はだいぶ終わってしまっているようだった。急いで手を洗って手伝う。そして申し訳なさから、気持ちが声になって溢れる。

「準備ありがとう。ごめんね、わたしみんなみたいに役に立てそうにないや」

すると2人は顔を見合わせてから笑って言う。

「そんなことないよ、ウーロンは生きてまだ夢を追えてるでしょ、あたしはそれだけで嬉しい」

「俺らのはブーメランで、ウーロンのは妖精、どっちもすごいと思うぜ」

とかりはゲームで宝箱を開ける時に流れる音階を歌って流しに向かう。

「今日はよく頑張ったね」

そしてボウルの中の水からたくさんの輪切りの茄子を出す。わたしの大好きな野菜。

「ウーロンの素晴らしい注射器に乾杯しましょ」

カラも冷蔵庫からカラ秘蔵の花びらジャムを出す。前に分けてもらってお茶に入れたらすごく美味しかったやつ。

ああ、2人とも、とてもわたしを気遣ってくれている。またかウーロン。未熟なわたしはいつも2人に気遣ってもらうばかりだ。申し訳ない、申し訳ないけど、そう思うのはきっともっと失礼。だからそっとしまって言う。

「ありがとう、2人とも、大好き!じゃあとっておきのお茶を出しましょう!」


スリッパで廊下をパスコン鳴らして歩く。ご飯とお風呂が終わって今は22時。さっきまでみんなと話していてわからなかったけれど、外から雨の音が聞こえる。帰ってきた時より増した湿り気、暗い窓にほんのりとつく結露、少しの暑さ。ああ梅雨である。窓を開けると土の匂いがして…さっきの焼肉の匂いもする。

窓を閉じて自分の部屋に入ると、打って変わってお香と洗剤とほのかに自分の匂い。やっぱり、ちょっとこの部屋は素敵すぎてわたしには勿体ないや。さてと、勉強机の引き出しから線香を出す。バイトして買ってみた香り線香は、箱を開けるとさくらの匂いがする。ライターで火をつけて机の端の線香立てに立てると、ちょっぴり煙の匂いが鼻にくる。どこかの宗教では線香は死者の食べ物となるらしい。少しばかり手を合わせて目を閉じ、母に、よかったらどうぞ、香りを楽しむついでですがと念を送る。顔を上げたら丁度、伸びた線香の灰が崩れた。灰が線香立てからはみ出ずに落ちたことを確認した後、線香に背を向ける。さて、体操でもするか!

「いち、にい、さん、し!」

ちょっと早いけど寝る前の体操をしっかり行う。よし!机に戻りまだ新品の匂いの宿題を開く。しばらくして大方完成させたらリュックに入れる。残りはこの土日に。

明日は洗濯機を回す日だし携帯のアラームを早めにかけて枕元に置いた。間接照明をつけてメインの照明を消す。ベッドに入ってタオルケットを被る。少しづつ呼吸を浅くしていくと雨の打つ音だけが聞こえる。窓の方に顔を向ける。ああ。

「今日は会えるかな、カルキ」

ぽつり、誰にも聞かれぬよう小さくあの方の呼び名を零す。雨音に消える、大好きで恐ろしくて、親友だった人。わたしにウーロンというあだ名と夢を与えてくれた人。夢で会えたらいいのにと思うと同時に、あの方への後悔と恐怖が溢れた。きゅっと胸が苦しくなって、全身がこわばる。ごめんなさい。

ハッとする、しまった。ウーロン、今日はずっと大丈夫だったのに、最後に油断してしまうなんて間抜けだな。螺旋階段を踏み外して、真ん中の空洞を落ちるように、気持ちが落ちてく。深呼吸するも間に合わない。

目を瞑るとカルキの軽蔑した顔があった。ああ、あれは去年、珍しく晴れた梅雨の日の休み時間だったか。教室が暑くてうっかりジャージの袖をまくったんだ。あの方はわたしの右手首、自傷の傷を見ていた。そんな目で見ないで!どうしようという気持ちと油断するんじゃなかったという後悔が体を支配する。その目が、わたしは悲しくて、ピエロの仮面を被っていられなくなる。そして親友ならわたしを大切にしてよ!なんて言った浅はかで愚かなわたしが現れた。あの方は、そんな価値観の押し付けなんて酷い行いをしたわたしの首を絞めた。

それは毎日、毎日、事ある事に繰り返された。ある日は自傷の傷を晒し、ある日は言うことを聞かず、きっかけは些細なことでも馬鹿なわたしはあの方の機嫌を損ね首を絞められた。最初にわたしの愚かさが露わになってしまった日から数ヶ月、繰り返すうちに、わたしはどんどん思考がうまくできなくなって、あの日、たまたま頭を殴られた直後で混乱していたあの時、ふとあの方はわたしの首を抱きしめてくれているのだと思い至った。

抱きしめるとは、力を込めてしっかりと抱くことであり、抱くとは、腕を回してしっかりと抱えるように持つことである。腕と言うと肘から手首、手まで含めることもあるらしい。あの方は腕の一部である手を、首に回して力を込めて、力の抜けたわたしの首を抱えるように持っていたのだとわたしは気づいたのだ。そしてそこにはあの方の匂いがすぐ近くに、あの方の骨ばった手の温もりがそばにあった。大好きな人からもらえる、唯一のぬくもり。

そしてわたしは、大好きな人のぬくもりを感じながら大切に抱きしめられて死んでしまえたら、どんなにしあわせだろうと思うようになった。

それからは毎度、しあわせな気持ちであの方に首を抱きしめられた。あとちょっと、あとちょっとで死んでしまえる!とうとう朦朧としてきて、期待が高まって、温もりが気持ちよくて目を瞑る。なのに!あの方が手を離す。顔に上った血がすっと体に流れる。痛くて乾いた、現実の空気に咳き込む。

「首絞められて良がってんじゃねーよ」

なんて言われてわたしは咄嗟に誤魔化しながら、ときには涙も誤魔化して、大切に抱きしめられて死ぬことができずにそっと絶望した。それがまた、何度も何度も、何度も何度も繰り返されて、

ある日突然終わった。


新学期、目覚めるとわたしは洗濯をしてシャワーを浴びる。準備が終わったら急いで学校に向かう。まだ暑い太陽の下、微妙な丈のセーラー服のスカートをバサバサさせて、落ちているセミを避けながら歩く。夏に紺色の制服を着せる学校に恨み言を零しながら畑の脇を通って校門に出る。水泳部を辞めてから茶色くなくなった毛の根元を見て生徒指導のハゲが黒染めしろとか言うけど無視して靴を履き替える。あの方の靴箱を見ると空、まだ来ていない。わたしより遅いなんて珍しいなと思って、近くを探し回る。最後にダメ元で教室へ行ってみたら丁度チャイムが鳴った。やっぱりあの方は居なかった。登校したら制服を脱いで体操服にならないといけないのに、脱いでなかったから遅刻になった。別にいいけど。皆勤賞のあの方もいない、カバンも制服もない。公欠かと思って担任のハゲに聞いたら転校したと言った。

「え」


わたしはしばらく固まった。全く予想してない事態があると人は固まるらしいと思った。数秒か数分か、長い長い時を感じた後ハッとする。いや、うそだ、うそだ!学校を抜け出し、昇降口の辺りから堪えられなくなった涙を零しながら、急いであの方の家に走る。何も考えられない脳の麻痺のような感覚、息切れと気管のひりつき、湿った自分の息。

長い間走って、ようやく着いたそこは、パッと見ではなにも、変わらないように見えたけど、すっからかんだった。どの窓にもカーテンがかかっていなかった。ポストはなにも入れられないように透明なテープが貼ってあった。

受け入れたくない現実があった。どうして、どうして、どうして。

「ぁうぅ…は、あはは、はぁ」

絶望の中、体がわたしの口角を上げる。涙と鼻水と涎が垂れるけど、気にする余裕もない。ヒトはほんとに絶望すると、死なないために笑わせてバランスを取ろうとするんだね。なにが面白いのか。

ああやはりそうか。あの方はわたしを置いていった。


「あ、夢…」

目が覚めた。気がつくと早朝であった。カーテンの奥は薄ら明るく、アラームはまだ鳴っていない。目を瞑ってもう一度、夢をなぞる。あの日の夢。叶えたい夢。わたしの、みんなに比べるとすごく自分勝手な夢。でも、それでも大切で愛おしくて叶えたい。あの方には着信拒否されていて、2人で行った夏祭りを最後に会えていないし、転校してどこの学校へ行ったのか、どの県に居るのか、今、高校に行っているのかも知らない。価値観を押し付けたことも謝ることすらできていない。

でも、わたしはそんなあの方にまだ。

抱きしめられて殺されたいと願っている。

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