9
宴もたけなわ、ぐだぐだとアリアとリリーベルが、寝台上で昔話という名の相互拷問に花を咲かせていた時だ。
もう今日はこれまでと思った非日常が、本日二度目の開幕ベルを鳴らした。
『HIIIiiiiiiiiiIIIIIIIIIIIIiiiiiiiiiiiiAAAAAAAAAAAAAaaaaaAAAAAAAAAAAAAAAAAA!』
がしゃん、とリリーベルの手からボトルとグラスが落ちる。酒瓶は床上をごろごろと転がっていき、机の脚にぶつかって動きを止めた。
「な、何、今の」
外柔内剛な彼女をして青ざめさせ、手元を不如意にさせる凶声。
それは、戸外から殷々(いんいん)と響き渡った。
ひいああううう、と絹を裂くような、それとも身を捩って狂乱するような、とうてい人のものとも思えぬ悲鳴。絶叫。あるいは嬌声か。
高価な酒が白いシーツに琥珀色の水たまりを作り、あっという間に吸い込まれて行く。
『NnnnnnnnnnnnnnnnnnHiiiiiiiiiiiiiiiIIIIIIIIIiiiiiiiiiiiiiiAAAaaaaaaaaoooooOOOOOOOOOOOOooooooOOOOOuuuuuuu!』
第二波。
耐えきれずに、リリーベルが上半身を折り曲げ、寝台に嘔吐する。
アリアは慌てて膝をつき、リリーベルの様子を確認した。
彼女はえづきが治まらないものの、からまりもつれる白金糸の下、片目をつぶってみせた。
「だいじょうぶ」
リリーベルは言いかけて、再び寝台脇にもどす。
同時に、ふらつく状態ながら必死に立ち上がろうとし、
「――子供達が」
と不明瞭な声でうなった。
アリアは、とっさに自分を恥じた。
大人は。大人というのは、年を重ねたから大人ではない。
アリアは確かに、年齢をただ積み上げたばかりで、大人になりきれない自分を自覚している。だが、形だけの大人だろうと、社会的責任があるのだ。
(つまり、大人が子供を守らないでどうする)
そこまで責任を放棄したら、正真正銘ドクズになってしまう。アリアは厳しい顔で、リリーベルに声をかけた。
「すまん、辛いだろうが。子どもたちの様子をみてくるよ。大丈夫か?」
嘔吐する彼女の丸まった背中をさすり、囁くと、
「うん。うん。お願い」
あの子たちを。
続かぬ台詞を確かに聞いた。
「――任された」
アリアは強張りそうになる表情を平静に取り繕い、なんとか頷いてみせた。
きっと彼女には看破されていただろうけれども、そこはそれ、幼馴染だから仕方ない。
夫婦の寝室を後にし、五人の子どもが寝ている子供部屋に、転げそうになりながら辿り着く。
ドアノブに手をかけたが、指が滑って回らない。
「……っおい!」
――静かだ。
嫌に静かだ。
一切音がしない。不謹慎だが、悲鳴でも泣き声でも聞こえた方がまだいい。これだけ騒いでいるのに、無音なのは――嫌な予感がした。
(無事なのか)
打ち消すように祈る。
(無事でいてくれ。頼む)
汗で指が滑る。
(くそっ)
ガチャリとノブが回る。もどかしさを覚えながら、乱暴に扉を開け放った。
子供達は寝台の上だった。
しかし。
喉元を押さえ、目を限界まで見開き、ひゅうひゅうと忙しない呼吸を繰り返す。
ショック状態なのか。
尋常ではない。
上は一二歳から下は四歳、五人とも同じような状態だ。
子ども五人に、こちらの身体は一つ。半ば切れながら、アリアは自分の指を噛み切った。
(いっ――たいな。不衛生だが、命には代えられない。許してくれよ)
涙目で血が止まらない内に、子どもたちの額に『元気回復』のマークを手早く書いていく。これも気休めだ。それでも、しないよりはずっといい類の応急処置になる。
こうした術の各適性値SS、S(この辺はサーガ級と言われる)、A~Gによる+-評価――アリア自身は、以下である。
魔力値E+(天災人災起こせるよ的エネルギィ値)、
霊力値E+(精神値。カルマと密接な関係。精霊・霊的なものとの交信適性)、
神力値G-と最低値(神との交信適性)、
業徳ポイント0(極端にどちらかが+-数値を振り切るとデンジャラスな人生を送れます。幸運・悪運他奇跡にも関係。人為的に比率を歪めることも可能)
――以上
もう我がことながら、悪戯小妖精が指さしてゲラゲラ笑うレベルに低い。
Eは呪物下請け業ができるぎりぎりのラインである。アリア・ウィルドは、適性からいえば質量ともに最低の呪物下請け業者だ。
(まあ、それでも、腐ってもプロの技だ)
プロなのだと鼓舞することで、自分の不安を払拭する。指が震えていては、成功するものを成功しない。素早く緻密にだが正確に! これでアリアは糊口をしのいでいるのだ。卑下したところで、いいことなど一つもない。
(自信を持て)
今、自分にやれることをするのだ。
『元気回復』のマークは呪印教本でも基本中の基本。そして初期に、繰り返し描かされるマークだ。
各適性が低い分、アリアは基本をおろそかにしてはこなかった。毎日、基本練習を欠かさず行ってきて、目をつぶったって、正確に描ける自信がある。それが今、力になるはずだ。
簡単、速い、そして――低魔力値の者でも、入門に適したその伝導性・確実性。
これは、本来人体が持っている回復の泉の効果を引き出すもの。大事な幼馴染の彼女の子供たち。彼らの命の泉を信じる。彼らの生命力を信じる。
(扉を開ける。そうだ、自分の魔力総量よりも、よっぽど子どもたちの生命力は信じられる――)
血が止まると、もう一度食い破る。
(よし、五人目……息が止まっている!?)
一番後に回した一二歳長女である。
(なぜ四歳児ではなく、一二歳が?)
アリアは顔面が引きつった。判断ミスか。どちらにせよ、呼吸停止は、いきなりハードル高すぎる。
ふーーーっとアリアは深く息を吸って吐いた。
(落ち着け)
今ここに、どうにかできる大人は自分しかいない。助けを呼びたいところだが、先ほどの異音を考えると、大声を出すのは悪手だ。あれはどう考えても、ここに呼び寄せてはまずいものだと分かる。村医者の次に、こうした対応に向いているのは、呪符を専門にやっているアリアのはずだ。ここまで、判断を間違えていないか。一度自分に問う。外を徘徊している可能性のある化け物のことを考えれば、おそらく妥当なはずだ。優先順位を冷静につけていく必要がある。それが大事だ。応急処置をして、それから周囲の助けを呼ぼう。
長女の額に、手早くマークを描き――、ああ、駄目だ。アリアは呼吸が乱れる。
全く改善されない。息を吹き返さない。
焦って、指が震えてきた。汗でぬるぬるする。
どうしよう、どうしよう、と今は向き合うべきでない不安が増大していく。
(落ち着け)
もう一度、深呼吸をする。
脳に酸素が行かない状態が続くのはまずい。
気道を確保し、摘み、そして口を覆う、とそこで、
「あーちゃん」
暗雲立ち込める呼びかけに、アリアはぎくりと身をすくませた。
「な、おまっ、驚かすな!」
ユーリーである。いつの間に背後に立っていたのか。アリアは全くけはいを感じなかった。あと、不法侵入だと思う。気になってこのあたりをうろうろしていたと言うユーリーに、若干どころかかなり、「ストーカーか」という言葉が口元まで出かかったが、飲み下す。
「なんでもいい」
アリアは、ぶるぶるとみっともなく震える指を必死に止めながら、額をぬぐった。
もう一回、浅く呼吸。
(気づかれるな、気づかれるな)
「お前、回復系の法術は使えるか? この子の息が止まっているみたいなんだ」
ユーリーは、目を僅かに見開き、謝った。
「ごめん。俺、自分自身の超回復はできるけれど、他人は癒せない。聖騎士のゴンザレスならできると思う」
顎先に垂れてくる滴を手の甲で再びぬぐう。
「そうか。聖騎士殿はいまどこにおられる? 助力を……お願いしたいんだが、至急こちらに、来てもらえないだろうか。その、対価は、できる限りのことはするつもりだ……あまり今は手持ちがないけれど……きちんと払う」
焦りからか、声が上ずった。相変わらず、指の震えが止まらない。ユーリーは猫のように目を大きく見開き、瞳の青色を濃くした。何を考えているのかさっぱり分からない。
先ほどの恐ろしい絶叫、悲鳴。あの正体も気になるが、優先事項は人命救助だ。
「……分かった」
ユーリーは親指と人差し指をくわえると、何やら口笛を吹いた。かに見えた。というのも、アリアには音が聞こえなかったのだ。
「何を……?」
「犬笛。ゴンザレスなら聞こえる」
反応に困る回答である。
しばらくして、窓の外に何か――
「リーダー、呼んだっ?」
窓から巨体の影だった。アリアは絶句した。早すぎる。ありがたくはあるが、ついていけないことばかりだ。
撫でつけた栗色の髪に、はちきれんばかりの肉体美を誇るのは、日中顔合わせだけしていた聖騎士殿である。
「治療しろ」
特に居丈高でもなく、淡々と一言告げるユーリーに、アリアの方が焦る。しかし、一目で現状を把握したのか、聖騎士はばちん! と音のしそうなウインクをくれた。
「あたしに任せて!」
何も聞かずに請け負ってくれた。順序は逆になるが、礼となる対価の話は、子どもの容態が安定してからにさせてもらおう。そう考え、アリアはひとまず邪魔にならぬ位置取りをする。
「ううん、これは……中てられているわね。オーケイ。あたしの得意分野よ」
彼は跪くと、両手を祈りの形に結ぶ。
聖騎士の横顔は、静謐で敬虔な真摯さに包まれた。
「ハーリーハーリーハーリー! あたしの願いを聞いてっ」
神を急かす祈りの言葉とともに、不可思議なあたたかい空気と淡い光が広がる。見えざる大きな手が、まるで場をその手の中に包むかのようなそれだ。
「!?」
十二歳長女がげほげほと息を吹き返すのを見て、アリアは情けないことに、ずるり、としゃがみこんだ。
死ぬほど緊張した。よかった。幼馴染に顔向けができなくなるところだった。
「ありが」
言いかけた言葉を、非日常に遮られたのは本日二度目だった。
ばん! と窓ガラスが蜘蛛の巣状に割れる。
叩きつけられたのは、魔法使いの少女。
半透明な触手が高速度で彼女を襲う。
「――なっ」
アリアが青ざめた瞬間、地中から魔剣が飛び出した。
叩きつけられた反動を利用し、再び虚空に飛び出す魔法使いの姿に、そしてその戦う相手の姿に、アリアは言葉を失った。
「あれは……なんなん……だ……」
魔族。それは知っている。獣のような姿をしていることが多い。
魔神。本日知りたくもないものを知った。やたらめったら美形だというが、そのとおりだろう。
だが、彼らもまたこの世界の生態系を担う一つの種である。野生の動物の特徴をキメラ的に備えているか、多少でこぼこ突起があるものの、近似の形状、容姿をしている。
しかし、これは違うだろう。
これは。
この世界の生き物なのか?
『HiiiiIIIIIIIIIIIIIiiiiiiiAAAooooooooooooooouuuuuuuuUUUUUUUUUUU!!!』
悩ましく、狂おしく、哀しい、その悲鳴のような声。
それは、人だった。
人だったかに思えるもの。
内臓を剥き出しにし、震え、顔面をあわ立たせ、身体は半ば溶解してゲル状、肥大化した泣き叫ぶ女の姿。
その声はこう言っているのではないか。
わたしを、たすけて、と。
なぜそう思ったのか、アリアには分からない。ただ、それを見て、そう、思ったのだ。間抜けに口を開けて、震え、怯え、ただ感じるままに、アリアは――
呆然とする私の肩を、ユーリーの手が触れた。
払うこともできなかった。
震えている。
ユーリーの手?
違う。アリアの全身が。
「あれが、『災い』。俺達が追っているもの」
ほとんど独り言のようにして言われた言葉が、右から左に通り抜けていく。
もう一度言おう。
こんな厄日はもうないと思った。
だが、二度あることは、きっと三度あるだろう。
前回より、お気に入り100ありがとうございます。また読んでいただけてとても嬉しいです。新規の方にもありがとうございます(いらっしゃるのかわからないんですが)