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短いです
気のせいだと思いたかったが、気のせいではなかった。
幼なじみは、明らかに様子がおかしい。
現実を認めよう。目つきが、尋常なそれではないのである。
見たくない。見たくないのだが、目を逸らしたら、余計に恐ろしいことになりそうだった。なので、見てしまう。
底なしの沼のような青い目だ。
その濃淡は、青みを深くし、コールタールのような黒い透明度を湛えている。そうして、アリアは気づいてしまった。目の奥に、天地開闢の汚泥のような、ぐるぐるした不明のものが渦巻いて見える。
(あっ、これあかんやつ……)
アリアは瞬時に保身へとレバーを切り替えた。刺激しないように、視界にユーリーをおさめつつも、可能な限り視線を逸らしたのだ。
無理。
どこで間違えたのか。
いや、そもそもルートの選択肢すらなかった。
さきほど、話が表面上ついたと思ったのに、いきなり正気度喪失しているの理不尽すぎないか。
もうずっと。
この世界に連れてこられてから、ずっと。
ずっとずっとずっとずっと、理不尽だ。
「ちょ、 近い、近い近い近い!」
目を合わせないようにしつつ、アリアは早口に唱え、顔面を押し返そうとした。だが無理やり目が合う。
ユーリーは何か言いたいことがあるようで、
「……ちゃ、ん」
彼は、血を吐くような声でうめいた。アリアは目を見開く。それは、彼女の幼少時のあだ名だった。アリアの尾てい骨から背骨を、悪寒よりも酷い産毛の逆立ちが走る。冷めた金糸の間から、ユーリーの目が見えていた。塗り込められた真っ黒にも見える青い目。
見たくなかった。
その時、アリアは。
ぞっとした。
同時にざあっと血の気が下がる音を聞いた。
人は。
自分の物差しでは測れない、理解の枠の限界を超えたものを見た時、許容できずに拒絶する。
中身が大して変わっていないと判断し、なんとかなるだろうと思ったが、そんなわけなかった。
ユーリーは、もう、昔とは違う。痩せぎすで、つまはじきにされていた少年などではない。
今、ここにあるのは、生物としての『差』だ。
アリアは、ユーリーの異生物ぶりに、ほとんど生理的嫌悪を催していたのだろう。うなじの辺りが、酷く冷たくなっていた。
何も変わってないなどというのは、アリアの物差しでは、ユーリーをはかれなかっただけだ。
蟻は、象の巨大さを、本当に理解できるだろうか。
アリアは、ちっぽけな蟻だった。
この世界に放り込まれた日から、ずっとそういう存在だった。両足を振り回して威嚇しようが、怒ろうが、あまりにも徒手空拳で、なぜこんな目にあっているのか、なにひとつ現状すら理解が及ばない。
だが、少しだけ、アリアにも分かったことがある。つまり、目の前のユーリーは、自分の手になど、絶対に負えないということだ。
そうだろう。
でたらめな生き物にならなければ、そうでなければ、彼を英雄とうたうサーガが、この村まで何度も届くわけがなかったのだ。
「っ、ひ!」
その後、アリアは少し記憶が抜けている。
ユーリーは、自分がどう戦ってきたのか、途切れ途切れに訴え、何度もアリアのあだなを繰り返した。
恐ろしくて、アリアはその間固まっていた。
象が、蟻相手に、こうだったのだ、ああだったのだ、と足を上げながら、誉めてほしい、いっぱい誉めてほしい、と話しているわけだ。
相手が好意的であろうと、そんなものはただのパワハラだ。
いつ踏みつぶされたっておかしくない。
潰れたトマトだ。対応を間違えたら、それである。
うわ言のように繰り返しながら震え、次第にそれは嗚咽に取って代わった。
「……あーちゃん……あいたかった、あいたかった……あーちゃん……あーちゃん……あーちゃん……」
しん、と針の音さえ聞こえそうな静寂の中、ユーリーのすすり泣きだけが室内に響く。
誉めてくれと。
子どもが泣いている。
そういう混沌とした状況で、「触りたい」などと言い出されて、また揉めることになるわけだが、了承するわけがない。トマトが脳裏で壁に叩きつけられる。
あー、ほんとうに理不尽だな、とアリアは思った。
しかし、事態は次の段階へ。
本当の崩壊が、高らかに足音を立て、近づいていた。