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今この時も、異界の神と戦う四人を異なる時に置き去りにして。
アリアたちの前に顕現したのは、これもまた――『神』であった。
――礼を言おう。
タクマと呼ばれていた少年。その彼の中に潜んでいたもの、いやそのものは、視認できない、大きな存在だった。
見えない。見えないというより、色、形、実体を認識できない。しかし、そこに『在る』。
その圧倒的なプレッシャーに、気をやって倒れる者すら続出した。
――私は、お前達のいう異界の神に封じられていたまた同じく異界の神。
――いわば、この世界の、law 〔ロー〕サイドにもchaos 〔カオス〕サイド各陣営の神々の立場に似た関係にある。
その『声』に敵意はなく、むしろ私たちに理解すら示す語調であった。
――この世界のlaw 〔ロー〕サイドにもchaos 〔カオス〕サイドが互いに争うのは、もっとも近い意味で言えば、お前達の世界でいう『揚棄』のためである。
――あるいは、止揚、独語で、aufheben。ヘーゲル哲学における弁証法的否定である。
――対立する定立と反定立の合において、高い段階へ上昇する認識と運動の仕組みを指す。
――例えばAという事象を認識する時、Aは蕾であるという古い前段階認識と、やがてものごとは変動することから、蕾が花となれば、Aは花であるという新しい現段階認識が対立する。
――この時、蕾は花によって消えるから、蕾は花に否定されるといえる。
――しかし、やがて花は果実となり、反定立であった花という現段階認識ですらも偽であったとされる。
――植物のこれらの諸形態は、蕾と花という形態をとる時、互いに否定するが、それすらも否定して植物の真理としてその果実があらわれる時、どの諸形態もこの有機的統一に必然であったと総合にいたる。
――定立と反定立は互いを排斥しながらも、より高い段階での総合に至り、またそれが定立となって反定立と対立し、更に総合へ至り、らせん的に発展していく。
――因縁果のごとく、途切れることはない。
――花は直接原因(因)である種と周囲の環境など間接条件(縁)によって、その果が生じていく。そして、その果もまた新たな因縁となって別の果を生ずる。
――存在とは、それ自体によって独立に存在しない。実体は存在せず、ただ相依相関する関係性のみがあるだけなのである。
――それを、自性がない、無自性という。
――縁起とは、存在のその相依存性を指す。
――存在は互いに依存するために、それ自体、自性を持たぬ。自性を持たぬゆえに、それ固有の実体を持たぬ『空』である。
――自我もまた、同じ。
――それのみによって自我はあるわけではない。
――我によって汝があり、汝によって我がある。
――今のお前達に、この意味が分かるだろうか?
――この世界もまた、同じであると。
――つらなりであると。
次々と投げかけられる言葉は、途中から『神』なのか、自分の思考なのか境がつかなくなる。
頭が割れるように痛い。
――この生成消滅する宇宙において、我々『神』もまた一つの前段階であり、対立する現段階から合へといたろうとする。
――その認識と運動。
分からない。意味が分からない。そんなこと知るか。そんな壮大な話なんぞどうでもいい。
いま、今――!!!!!!
私たちは苦しい。辛い。
自分自身と、その大切な人と、その周囲だけでもう両手がいっぱいなんだ。
それすらも取りこぼして、取りこぼさせられて。
そんなことを許せと。
それを我慢しろと。
お前は。お前達は――!!!!
――お前達の苦しみは、理解している。
――対立する運動において、私もまたお前達の位相に落とされ、望まぬ業をとることを強要された。
――しかし、対立において、定立を否定し、私は一部を保存して、合一へいたる。ゆえに。
――お前達を。
――もとの世界に戻すこと、可能である。
――もとの時間軸へ戻すこと、可能である。
――選択せよ。
急に投げられたその言葉に、アリアたちは、アリアは、呆然とし、
「か、かえれるの?」
誰かが震える声で呟いた。
「……か、帰れるのか」
ふらふらと前に進み出る者、その場でがくんと、膝をつき、滂沱の涙を流す者。
「……帰りたい」
かえりたい。
「――元の、時間に? 元の場所に、あの日に、帰してくれるのなら!」
帰してくれ。
どうか。
誰かの言葉だったのか。それとも私の声だったのか。
一人、ぱちんと弾けて消えた。
また一人、弾けて消える。
かえっていく。
人々は、選択し、己の時代へと。場所へと。
鈴木が立ち上がり、ゆっくりと歩き出す。ふと、その背後を振り返って、アリアには見えぬ誰かを見つけたのか、目を見開き、眼球が溶けて消えるかと思うほど涙を流しながら、ぺこりと頭を下げた。
そして彼女も消える。
皆選択して行く。
そうだ。雪江は⁉ 雪江はどうなる⁉ それにユーリーたちは⁉
――あんずるな。皆それぞれに選択していく。お前の案じるものもまたすでに選んだ。異界の神と呼ばれるもの、戦う彼らもまたいまこの時、すでに終結しておるのだ。しかし、いま時間の流れは一定ではない。
よく分からないが、皆無事なのだな。
そうか。
雪江。
ユーリー。
アリアはもう枯れたと思った涙が再びあふれてくるのを感じた。
すでに、ほとんど人影はない。
皆、選んでいく。選んだのだ。
私は。
私は。
身体の感覚がない。
指先が、氷水に漬かったように冷たい。
帰りたい。
帰らなければ。
ここは、私の世界じゃない。夢の世界にはいられない。
でも、ここは、この世界は、
――戻らぬこともまた選択。会いたいものに会いにゆき、決めるがよい。
そう聞こえるか聞こえぬかの内、白い空間の先に、ユーリーが目を見開き、立っていた。
あまりにも唐突な出現、しかし、アリアは「ひ、」と喉が鳴り、熱い塊を呑み込んだ。
その姿は酷いものだ。
鎧は砕け、再生し続ける肉体はまだ血と肉が弾けている。ところどころ剥き出しの骨。
アリアの目にどっと熱いものが溢れた。もう見えない。見ることもできない。
視界がぼやけて、奴が見えない。
「……リー」
声が、出ない。彼が何か言う。しかし聞こえない。
すまない。
ユーリー。ユーリー。
帰りたいんだ。
まだ、何も、何も成してなくて。
まだ、何も、言えてなくて。
後悔して、ただ憎くて。辛くて。否定して。でも否定しきれなくて。
怖かった。
この世界を。
お前を認めるのが。
本当はもう。
ずっと前からもう。
でも、帰らなくちゃいけない。
何もかも放り出してきた。
きっと、多分、
お前に告げたい言葉がある。
でも、もう声が、どうしても声が出ないんだ。
すまない。すまない。
卑怯だ。
私は最低だ。
それでも、私は、
私は、選択した。
そして、願う。
かえ、
ぼやける視界、
最期に、ユーリーが、
笑うのが見えた。
その笑みは。
その口元が。
「――『 』」




