20
告白しよう。
実におかしなことだが。
目の前に憎悪の象徴がいて、それにうらみつらみを吐き出しておきながら、アリアは酷い気分の悪さに襲われていた。
神に、異世界――物語の世界に連れて行って欲しいと願った彼女は。
アリアの頭の中で何度も何度も惨殺された彼女は。
アリアの憎んだ以上に、あまりにも。
あまりにも、こども、だった。
明確な悪意などない。
ただただ、浅はかなのだ。
もっと冷徹で、もっとはっきりと誰にも分かる『悪』であったなら、こんな消化不良の自己嫌悪するかのような思いにさいなまれはしなかっただろう。
だが、現実に、彼女はあまりにも子供だった。
震え、泣きつくその姿は、愚かで思慮のない十代の少女でしかない。
ただ愚か。ただ想像力がない。それだけなら、日本のどこにでも溢れていただろう。そのことをもって、その結果をもって、これを責め立て、なぶり殺す?
どれほどとち狂っていようが、悪意のない子供を、ただただ怒りの赴くままに痛めつけたいと思えるほど、この世界で歳を重ねた――重ねてしまったアリアは、もう、若くなかった。
単純に、彼女を悪だと断じられる。無邪気なまでの盲目でいられれば。
そうすれば、どんなにか良かっただろう。どんなにか楽だっただろう。
でも、きっと、それは、アリアの唾棄する無邪気さだった。
その浅はかさと愚かさが、現実にもたらした惨禍と、とても等価ではないのだと。
私は、最初から。
分かっていたのに。
そう、分かって、いた、のに――
現実に、彼女を目にするまで、きっとアリアは信じたくなかった。
もっと全身全霊をかけて恨むことができる酷い存在なのだと。信じていたかった。
そう。
アリアは恨みたかった。憎みたかった。
この怒りをぶつけ、ぐちゃぐちゃに彼女を痛めつけたかった。
でも、その対象が、こんなにもこどもだなんて。
憎むにすら値しない存在だなんて。
それこそ、神は残酷に過ぎるだろう。
だが、もう賽は投げられてしまった。
その責任を。
アリアは、取らなければならない。
彼女が死ぬさまを、見なければならない。
大人が、よってたかって、無知でどうしようもない、でもいつ変わるかもしれない可能性を持った、その愚かな子供を嬲り殺す光景を、アリアは見なければならない。
アリアは善人ではないし、聖人でもないから、彼女を救う手立てなど探しはしない。一番簡単で、確実な方法をとる。まして、これ以上、同胞たちに、待て、と言う権利など、一番最後の方にやって来たアリアは何一つ持っていないのだ。
何より、アリアは、やっぱり恨んでいる。そのことを否定しない。ただ、今は、その恨みも怒りも、苦くて。
後味が悪くて、きっと、一生その後味の悪さを抱えて生きなければならない。そのことに尻込みすらしている。
だが、もう、決めた。
救わない。救えないのではない。救わない。
そうすることを、許した。
アリアは、あやふやな選択ではなく、賛同した。選んだ。
だから。
自分は手を下していないから、関係ないなどと、は。
絶対にそんな言い分は許されない。
見たくないから。嫌だから。そんな理由で、自らの責任、その結果から目をそらすことを、『大人』は許されていないのだから。
そして多分、アリアは、ずっと。子供のままでいようとしていたのだと。大人になりたくない。ずっと、ずっと、そうやって世界を拒絶し続けて、恨み言を内に繰り返して、進むこともできず。戻ることもできず。
『彼女』にすがり続けて、それを免罪符に、じっとうずくまり続けていた。
ある意味、今の生の責任を、彼女に転嫁し続けていた。それは、自分が自分の責任を負うより、ずっと楽だったから。
子供のまま、誰かのせいにし続けることは。
全て、誰かが悪いのだと、思うことは。
きっと、楽だったから。
もう、それを止めなければいけないのだと。
そんなみっともないことは、いい加減、終止符を打たねばならないのだと。
あの日、癇癪をおこして、母に「大嫌い!」と叫んで飛び出した。
あの日のまま、成長したくないと拒み続けてきた。その幼い自分に、さよならを告げねばならないのだと。
人間だから、怨んだっていい。憎んだって仕方ない。
でも、彼女の犯した責任と。私の自分自身の責任は、別の問題なのだから。
いつまでも、いっしょくたにはしておけない。
そう、痛いほど、感じていた。
――しかし、自分で選んだとはいえ、とんだ通過儀礼もあったものだ。
「あーちゃん」
肩口に、ユーリーの指が食い込む。
「いいんだよ、あーちゃん。見たくなかったら、眼を瞑ってたらいい」
戦く私に、ユーリーは、柔らかな微笑を浮かべて言い聞かせた。
「汚いの、俺だけでいいもの」
ユーリーは穏やかに笑っていたと思う。咄嗟に返す言葉を失って、馬鹿野郎と怒鳴りつける前に、しびれを切らした賢者が、浅はかにもこの狭い室内で攻撃魔法を放つ。
それをユーリーは剣の一閃で叩き落し、いや消滅させ、
「弱いもの苛め、あんまり好きじゃないんだけれど」
恬淡とした口調で一言呟き、敵陣営の短気な連中の理性の糸をぶった切ることに成功していた。
「――なめるなあああああっ」
血管が明らかに数本ぶち切れたらしいライオン男が飛び出す。
魔法使いが焦った声で、「馬鹿者どもめが! 通常空間で戦術級は止めろ! くそ、致し方ない!」と何か印を切って、叫んだ。
――英雄と。呪われし者がここに集った! 彼らにふさわしき舞台を! 選定者アズールが、神々に要請する!
――選定者アズールの要請を許可する。
恐ろしい、地を這うかに思える声が聞こえた。
その時。
濾紙の端を火であぶったかのように、めらめらと世界は端より青白い炎で燃え上がった。
一瞬にして、全ての色が反転した。昼間は夜へと書き換わり、質感は平面へと。
めくりあがり、現れた世界は、
「――ここは⁉」
もとの下宿ではない。のっぺりとした荒野。地平線は遠く、どこまでもどこまでも果てしない無限の虚空。
黒く、灰色にねじれ、原色の絵の具で塗りつぶしたかのような厚塗りの空。
異様な大きさの月が、今にも落ちてきそうに世界を覆う。
寂しくて、荒々しくて、何もない。同時に荒野がねじれるように身悶え、ごうっと突風が吹きつけた。
「古来より、神々の代理戦争の最終決戦はこの地にて行うのが決まり! いかなる破壊も世界に影響は与えん! 思う存分やるがいい!」
やけくそのような叫びとともに、魔法使いは精神力を使い果たしたかのようにどっと荒地へと座り込んだ。
「ああ、よかった。俺、加減するの苦手なんだ」
ユーリーの声が遠く聞こえたか、聞こえないか。
鼓膜がおかしくなるかと思うほどの大音響がし、巨人の足跡のような穴がいくつもいくつも大地に穿たれる。
ばっ と、二つの影が後方へと飛ぶ。
ライオン男は、全身の毛を逆立て、その腕に賢者の少年を抱きかかえている。
白髪頭の爬虫類男は、信じられない、と馬鹿のように繰り返した。
「なんだっ、お前! お前はなんなんだっ」
その面は紙のように白く血の気を失って、傍目にもびっしょりと汗をかいている。ぎょろぎょろと爬虫類じみた目が焦点を失いながら、
「ありえないっ、僕は! 白竜族なんだぞ! ぼくはっ 誰よりもつよいんだっ」
そう狂ったように叫び、彼は絶叫しながら飛び掛った。
「馬鹿っ 止めろ!」
ライオン男が焦って制止の声を上げるが、遅かった。
奴が、白竜族と名乗る白髪頭の剣を受け止め、それは全身全霊の力であったために、奴の剣を叩き割ることに成功する。
「みろっ やった、ざまあ」
みろ、と続けることはできなかった。
「いやああああああああああああああああああああああああ!」
神子の悲鳴が荒野に響き渡る。
白竜族の青年は、縦半分に裂かれていた。どう、っと地面に右半分と左半分が分かれて倒れ落ちる。
「な、何が起こった……」
参戦していなかったフェリュシオンの第一皇子が、動揺するまいといて、隠しきれぬ震える声で問う。
「剣は、折れていた。そうだろう」
自分に言い聞かせるかに彼が誰ともなく問うと、魔法使いが答えた。
「あれに、剣など意味がない。鉄の塊も勇者の剣も全ては力を加減するためのもの。剣は奴自身だ」
魔剣の定着、まさかここまで進んでいたとは、と魔法使いはむしろ苦々しげに吐き捨てた。
意味が分からない。
あれは、圧倒的というより、もう別の生き物だろう。
白竜の青年も、ライオン男も、決して弱くない。素人目にも、彼らが達人を通り越して、サーガ級の実力の持ち主であることは容易に推し量れる。
その彼らをして、あれほどたやすく蹂躙してみせる奴は、本当に人の精神状態を保っていられるものだろうか?
「止めてっ、ユーリー、止めて! それ以上力を使っちゃだめえっ!」
神子がライオン男達の前に身を投げ出し、両手を広げて彼らをかばう。
「私は、私はっ、皆を死の運命から救うためにきたのっ アーサーを死なせないっ ゴルドーも、オルカも! 何より、ユーリー! あなたを! あなたはこれ以上、その力を使っちゃ駄目なのっ 心が、心が飲み込まれてしまう! 魔剣に食い尽くされて死んでしまうのよ!」
彼女の必死の叫びは、嘘ではなかった。
その真摯さは、真実のものであった。
だが、相手が悪かった。
ユーリーは、不思議そうに、それこそ異物を見る眼で、彼女を視界に納め、
「ならないよ」
一言告げた。
「えっ」
勢い、ぽかん、とする彼女に、奴はいっそ無邪気にすら思える笑顔を浮かべる。
「魔剣に飲み込まれたりなんか、しないよ。だってあーちゃんがいるもの」
ざわっと全身に鳥肌が立つ。ユーリーの目は、笑っていない。アリアは、これまで何度も覚えて来た、ぞっとするような違和感が特大に警鐘を鳴らし、その得体の知れぬ何かがはっきり焦点を結んで形が見えるのを感じた。なんだあれ。なんだあれは。
「皆生きているのか死んでいるのか俺の妄想なのか分からないけれど、あーちゃんは生きているもの。あーちゃんは俺じゃないから、だから俺は大丈夫。飲み込まれたりなんかしない」
人形が不自然に笑っているかのようだった。断言するユーリーに、神子は次第に驚きから困惑へ、困惑から怒りへと顔色を変える。
「そんなはずないっ ユーリーは、ユーリーは、前世でとっても哀しい運命に翻弄された人なの!! 現世でも、その呪いの、魔剣の呪縛が断ち切れなくて、苦しんでいるのっ 全然大丈夫なんかじゃないのっ あなたは、感情がわからない。愛することを知らない。だから、私が、」
私が救ってみせるから!
彼女は迷いを断ち切り、決意に満ちた表情で、祈りの形に手指を組む。
「まずいっ」
魔法使いが声色を変えた。アリアもまた、何かを叫んだと思う。しかし、アリアには分からなかった。誰の叫びで、誰の悲鳴なのか。
「――『浄化』!!!!!!!」
薄暗くどこか絵本の中のような世界に、光が満ちる。
ユーリーの表情すら、アリアには見えなくなった。




