19
「会いたかった! ユーリー!」
頬をばら色に上気させ、彼女は駆け寄ってくる。その長くみどりなす黒髪は、天使の輪をきらきらと放つかのようだ。
細く華奢な指先を祈りの形に組み、大きく零れ落ちそうな潤む瞳で、ユーリーを見上げる。
「ずっと、ずっと……探していたの!」
感激で言葉にならない、そんな感じだ。
アリア達が恐ろしいほどの緊張と警戒で動けず、口をつぐみ事態を静観する中、彼女はいてもたってもいられないとばかり喋り始めた。
「あ、ごめんなさいっ 私は、ミチル。フェリュシオン国王の要請を受けて、今活動しています。えっと、一応聖女とか、神子って呼ばれているの。あ、これは周りが勝手に……全然そんなんじゃないの。ただ、悪いものを払う力があるだけ。あ、ごめんなさい。私あなたにずっと会いたくて、探していて、嬉しくって、うまく言えない」
ユーリーは黙って聞いている。
その目には何の感情の揺らぎも見えない。
何を思い、何を感じているのか。
傍目に伺うことはできない。
そのことが、ぞっとするほど恐ろしい。
アリアこそ、うまく言えない。時々、アリアは、ユーリーの目に、『人』が人に見えていないのではないかと思うことがある。
今まさに、そんな風に思えた。
それを思い出してしまったことが、たまらなく恐ろしかった。
だが、もし魔法使いの推測が真実であれば、この恐ろしい生き物が、『敵』になってしまうかもしれない。
あの目で、自分が見られたら。
その時、私は――
「私達、魔族との戦いを本当は望んでいません。でも、たくさんの人が傷ついて、私はそのことを許せないの。本当は哀しいことだと思っているけれど、どうしようもないから。せめてこれ以上傷つく人を見たくないから。でも、私ひとりじゃ、力が足りない。だから、お願いです。大陸の勇者よ、私達の仲間になって。力を貸してください!!」
彼女は勢いよく頭を下げた。
説明下手だと思うし、独りよがりに突っ走っていると思う。だが、真摯な態度だ。
迷いのない、全身全霊で平和を願い、その実現のために、人々の力を借りようとしている。
一切の躊躇もなく。
一切の。
なんだこれは。
茶番か?
全身、氷水に浸かったように、痛みと寒気が私を襲う。おこりのように、全身が震えてくる。喉が痛い。ひりひりと、焼け付く怒りで血反吐を吐きそうだ。
姿かたちが変わっていても、アリアには分かった。『あの女』だ。
神よ。
答えろ。
お前の。
神子とやらは。
何の迷いも。
何の後悔も。
なにひとつとして。
わたしたち(いけにえ)のことなんて。
なにひとつ。
覚えても。
いないのか?
たくさんのひとが。
傷ついた。
たくさんのひとが。
悲しんだ。
本来、その咎を、負うべきでなかったひとびとが、その負債を背負ってくれた。
私は、彼らに。
なにひとつ、報いていないというのに。
「……な」
熱の塊が喉を突き抜ける。
警戒に、異界の神子、ミチルのパーティの連中が、ざっと布陣を引く。その中に、一人女性も混じっている。
彼らは、皆『洗脳』されているかもしれないし、あるいは自分の意思で神子に共感したのかもしれない。
その彼らは、アリアに敵対意思ありと見て、いつでも攻撃できるような態勢に移行している。
アリアは弱い。最弱だ。だが、知ったことか、と思った。
「ふざけるなと言った。そこの考えなしの神子様とやらにな」
淡々と、呪詛を飛ばしたアリアに、ライオンに似た朱金の髪の男が形相を変えた。
「クソあま。てめえ今なんつった⁉ 殺すぞ!!」
あまりの殺気に、しり込みしそうになるが、殺されたっていい。今言わずして、いつ、と。
「部外者は黙ってろ!」
一喝した。
アリアのあまりの剣幕にか、ライオン男は一瞬息を呑んで、何か言い返そうとしたところを、仲間の金髪の男に制される。
「君は、勇者のパーティのメンバーかね? ああ、先にこちらが名乗るべきだったか。私はフェリュシオン第一王子のアーサー・フェリュシオン。聖女の後見人でもある。君が聖女をいわれなき誹謗中傷で貶めるようなら、こちらも黙ってはいない」
アリアは緩慢に、その男に視線を向ける。深呼吸した。頭に血がのぼっているのを自覚していた。
「ならば私も名乗りましょう。私はアリア・ウィルド。トンレミ村出身、ただの村人です。でも、本当の私の名前は大沢明日香」
何を言っているんだ、この女は、という露骨な雰囲気が蔓延する中、神子だけが、その大きな目を更に見開く。
「え、あなた」
「黙れ。今、私は、そこの殿下と話している」
ひっ、と神子が悲鳴を飲み込むと、男達は彼女を引き戻し、殺気交じりに円陣を組んだ。
「ねえ、こいつ、殺していい⁉」
小柄なエレボスの賢者の服装をした少年がいうが、やはりフェリュシオンの第一王子がそれを止めた。
「待て。今、話をしているところだ」
「殿下。感謝いたします」
「感謝するか否かは、話の後だ。まずは聞こう」
理性的な人で助かった。しかし、彼の目にも間違いなく敵意が浮かんでいる。
同様に、アリアは今、怒りで目がくらんでいる。冷静じゃない。しかし、言葉と礼を尽くさねば、伝わるものも伝えられない。息を吸った。
「信じがたいかもしれませんが――」
出だしはそんな言葉だった。
「私を含め、無数の異界人が、この世界に望まずして放り込まれました」
ぴくり、とフェリュシオン第一王子は身動きを止める。アリアはそのまま淡々と続けた。
「中には、望んで来た者もいると聞いています。その際たるものが、そこの神子です。彼女が、ここに来るために、私達の世界では犠牲を強いられました。望まない者まで、全て一緒くたに、時代も、場所も、ばらばらに、この世界に投げ込まれたのです」
「……」
王子は眉根を寄せた。その手は帯剣にかかっている。しかし彼は黙って最後まで聞く気があるようだ。ありがたいと素でアリアは感謝し、更に続ける。
「放り込まれた人間の末路は悲惨でした。彼女に与えられた特別な力。どこから来ていると思いますか? 一人の人間の絶対なる幸福、特別に恵まれた容姿、力。全て無から生み出されるものではありません。代わりに供物が、犠牲が強いられました。彼女以外の異界人から、幸福をすべて搾り取り、捧げる。そして、捧げた人間はどうなるか分かりますか?」
アリアは笑いたくもないのに片頬で笑ってしまう。
「——不幸になります」
笑うしかない。
「恐ろしいまでの業を背負い、死んでも、彼女へ幸福を供給するために、安らぎである死すら剥奪される。そんな歪んだ方程式で、あなたたちの聖女は作られている。そして、そのことを彼女は知っているはずだった!」
ほとんど最後、絶叫するかのようにアリアは怒鳴りつけた。
この言葉が、憎悪が、少しでも彼女に伝わるのか。
伝えるべきなのか。
本当は、分かっている。
もう取り戻せない。
帰れるのか分からない。
でも、伝えずには、言わずにはいられない! 悪手であり、非生産的であり、アリアの自己満足――それすらにもならない、馬鹿な恨みつらみの吐露。分かっているのに。
分かっているのに!
涙が勝手に盛り上がる。
愚かな私は、吐き出さずには、いられない。
「皆を守りたい⁉ 救いたい⁉ お前は馬鹿か! この世界のことはっ この世界のことは! この世界の人々に任せたらいい!」
喉が裂けるか、それほどまでに私は吐き出す。
「私達は、私は! せいいっぱい生きていた! 私達の世界で! 私の生活があった! なぜ! お前はそれが、そのせいいっぱいを享受しなかった⁉ まっとうしなかった⁉ いや、逃避したければすればいい!! せめて、私達を巻き込まずにいてくれたら、どうするでもよかったさ! くだらない! あまりにもくだらない! 幼稚な理由で! 全てを奪った! 帰せ! 私を帰してくれ!」
青ざめた神子が口元を両指でおおい、震える足であとずさる。
「だって、私、皆を、守りたくて、だから。救いたくて、」
もういい、と彼女の仲間たちがその肩に手を置く。
「そこの女、ぶち殺すよ。自分のことしか考えていない。みんなのことを考えているミチルとはぜんぜん違うよ」
賢者が言う。
「おう、珍しく俺も同意見だ、坊やよ」
ライオン男が言う。
他にも、それぞれが、怒りを表明し、手に手に武器を構える。
実に異常だ。
辛辣ながら、脳みそが腐っているとしか思えない。ああ、今同類なのは、ぶちまけた私もか。それでも、言葉による対話を放棄したら、人間『様』としては終わりだよ。
「ミチルは悪くない」
「タクマっ」
うわあっと彼女は黒髪の少年にすがる。
そうか。
謝りもしないか。
アリアは怒りが一転して冷えていくのを感じた。
責めたい自分とは裏腹に、酷く冷めた自分が、アリア自身を見下ろしている。
――分かっている。
本当は、分かっている。
認めたくない、とあの日の幼いアリアが喚いている。理不尽だ、許せない、と彼女は顔を真っ赤にして泣き喚く。
そう、許せぬのは、あの日の私だ。あの日の私は、怒り続けている。怒りを忘れるなと。変わるなと。そんなことは許さぬと。
でも、怒りを吐き出してしまったアリアは、もう、気づいている。
目を閉ざして、むりやり捻じ曲げ続けて、だが、もう限界だ。
恨み続けた存在が、目の前にいる。
彼女を見ろ。
ああ。現物だ。生だ。想像の彼女じゃない。本物。
嫌でも分かる。分かってしまった。
――無理だ。
アリアは苦さで顔面を歪めそうになる。片腕を、爪を立てるほどにぎりぎりとつかんだ。いっそ笑うところか。
「自分勝手で、人に責任をなすりつける。どうしようもうない人間だ。僕も転生者だけれど、君のことは醜いと思う」
一人の白髪の男が進み出て、告げた。その目は爬虫類を思わせる金色だ。
「理解が得られなかったことを、残念に思います」
アリアはそう告げ、後ろに下がった。アリアにはアリアの仲間がいる。
彼らが、下がれ、と合図してくれた。鈴木は黙ってアリアに譲ってくれた。長い間を彷徨い続けた彼女の方がよっぽど言いたいことがあっただろうに。
新参者のアリアに、彼女は託してくれた。
気がつくと、足が震えすぎて、平衡感覚がおかしい。
そう自ら仕向けたとはいえ、たくさんの人間の悪意と殺気を真正面から受けて、アリアは今更心臓がきりきりと絞られ、吐き気と眩暈を催していた。
ふと、そのアリアの肩に手がおかれる。
「あーちゃん」
奴は笑っていた。
どこまでも、暗く、光のない目で。