17
踊る怪魚と奇運の道化亭。
宿泊客用の扉を叩く音がする。
固い寝台に寝転がっていた私は、むくりと起き上がり、嘆息交じりに「どうぞ」と言い放った。
「ぬ、邪魔をするぞ」
赤い頭髪の身長ニメルトル(メートル)の大男が扉を開ける。見事を通り越して圧倒される体躯の持ち主だ。存在するだけで、まず映画のモーゼの十戒がリアル再現される光景を何度も見た。赤子は火がついたように泣き出すし、大人の男でも腰を抜かす。炎のような頭髪が、あまりの気迫にうねうねと蠢くかにすら見える。多分背中に、筋肉の『鬼』の顔を背負っているに間違いない。しかし、慣れとは恐ろしい。
「アズールが用があるそうだ」
はあ、とアリアは曖昧にうなずいた。
この人物の正体はすでに聞いている。
魔界の皇太子だそうだ。それを顎でこきつかう魔法使い。
さすがに鈴木のお師匠様なだけある。あの弟子にして師匠あり、というところだ。逆かもしれないが。
アリアはゆっくりと立ち上がる。
そう。私は。
ここから動かない。動けない。
まだ、決め手が。
それとも。
何か事態が進展したのか。
予感がする。
嵐が来る。
そして、嵐の前は、静かなのだ。
今は、その静けさだった。きっと。
魔法使いの滞在する部屋の前。
「入るぞ」
魔界の皇太子がノックもせずに、扉を開け放つと、
「ご苦労」
下宿先の隣人は、背中を向けたまま魔界の皇太子を適当にねぎらう。
皇太子はさっさと入室すると、我関せずとばかり、どっかとカウチに腰を下ろしてしまう。今床ごとたわんだが、私は何も見ていない。
アリアもその後に続くべきかどうか迷っていると、魔法使いは、「呼びたててしまったな、入ってくれ」と促した。
「ああ、いや、何か進展でも?」
そう応じながら、アリアは隣人の部屋へと一歩足を踏み入れた。
薄絹一枚を通すかのような違和感があり、それもすぐに突き抜けた。
人払いの魔法だと隣人はいう。
「ふむ。二人とも、この星図をみるがいい」
魔法使いの隣人――古トリエステの大罪人。邪悪な魔法使いアズール・ココが、卓上を指し示す。
なぜこのような歴史上の大物が私の下宿先の隣に部屋を借りているのだろう、と時々なんともいえぬ気持ちになるが、事態はこの世界に投げ込まれた時より動き出してしまっている。
魔法使いが指差す先には、漆黒の平面図がある。よく見れば、その暗黒に、無数の点がさんざめく煌いている。その様は、息を呑むほどに荘厳で美しい。
その点とは、『星』である。にわか社長の私が『選定』と呼ばれる入社式及び面通しの儀式をした人々たちのきらめきだ。
時に瞬き、時に消失する。
その消滅を目にすると、ぞっとする。
神々の代理戦争における、『星』たちの勢力図であった。
「この星図において、動くブラックホールのような軌跡がある。見よ、星ぼしが消えていく」
言われるとおり、光を放つ星ぼしは、宇宙に無数に広がりながら、まるで悪食の怪物が通ったかのように黒い道筋となっている部分がある。
アリアは息を呑んだ。
「異界の神の陣営、その星は分からぬ。が、この軌跡を見れば、異界側の王将の動きが読める」
魔法使いは金の指し棒で星図の黒い道を辿っていく。
「フェリュシオン聖都を起点とし、ディランバークの森、エレボス、トリエステ、ステップ草原、ドゥーガ、白き竜の峰」
くくく、と魔法使いはむしろ愉快そうに喉を鳴らした。
「まるで、星ぼしを食い荒らす怪物の通り道を見るようではないか」
「……勇者たちはどうなんだ?」
「案ずるな。奴らの輝き、この俺でも目が痛い。この赤き巨星、青き炎、白き輝き、翠の瞬き、奴らは無事だ」
星を棒の先でなぞると、その名前が浮き上がる。
赤の星――勇者、ユーリー・ジャバウォック。
青の星――魔法使い、エルマ・ワーロック。
白の星――聖騎士、ガブリエル・ゴンザレス。
翠の星――僧侶、白雪
エルマとは誰のことかと一瞬思ったが、鈴木のこちらの世界の名前である。
彼女は、この名前を捨てた。
しかし、この世界のルールで代理戦争を行う以上、その『星』として列挙される名前は彼女が捨て去ったものとなる。
彼女の意に添わぬ名前を無理やり与えた存在、かの陣営と戦うための『名』。
実に皮肉な話だ。
それでも今は、皆の健在が嬉しい。嬉しいと同時に怖い。得るということは、喪失とつながっている。この光が失われたら――手の内側にじっとりと嫌な汗をかく。
「まずは、自分の身を考えることだな。ウィルドよ、お前が敵にとられては、代理戦争も終了のお知らせだ」
アリアは苦い気持ちで椅子を借り受ける。
「私が王将といわれても、やはり納得いかんのだが」
はじめ、鈴木の師匠だというこの魔法使いが現れて、一切の事情を説明した時、王将が自分だと聞かされて、アリアはパニックになった。まだ記憶に新しい。
しかし、鈴木に、私は約束したのだ。
力になる、と。ともに立ち向かうと。
その言葉を嘘にするわけにはいかなかった。
力がない。
能力がない。
だから、そのことを言い訳に全てから逃げるのか?
大体は逃げる。それが賢い生き方だ。
だが、逃げていい時と、絶対に。どんなに無様でも。情けなくても。みっともなくても。
逃げてはいけない時がある。
恐ろしいと思う。今にも全て投げ出したいとすら思う。まして納得はしていない。していないが、私は『選定』を受けた。今、一番の強敵は、恐怖心に折れそうになる自分自身である。
「納得するものではない。何、至上最低最弱の王将と自覚して、動かずにいてくれるのは、こちらとしてありがたいことだ」
けなされているのであろうか。まあ、前線で一騎当千の働きをせよといわれても、しり込みして辞退するのが関の山なのでありがたくはある。
「代理戦争における駒のとりあいは、主に魂の屈服、場の制圧にある。星の寝返りは、まさに魂の屈服の最たるもの。だが、この動き、本来ありえん」
魔法使いは星図の黒い道筋を指し、声を低くした。
「英雄、呪われし者。確かに絶大なるカリスマを発揮しようが、この食い荒らし方。おそらく、『洗脳』系のスキルを持っているのかもしれん」
洗脳、とは少々ただごとではない。魔法使いも同じ見解らしい。厳しい表情をしている。
「本来はありえぬことだ。そのようなスキルが代理戦争において許されれば、魂の屈服が勝利条件の一つである以上、ルール無用の無双状態となる。これまでの代理戦争においては禁じ手とされていたこと」
「その禁じ手を、異界の神が守るとでも?」
何も知らぬアリアでも、そう尋ねずにはいられなかった。魔法使いはうなずく。
「で、あるな。ゆえに、こちらの星の敵王将への接触は厳禁とし、各方面には通達してある。時遅く、時期を逸してしまった面もあるがな」
その時、黙って聞いていた皇太子が口を開いた。
「聖女は強いのか⁉」
「黙れ」
一蹴された。魔法使いが大変冷たい目で皇太子を見やる。
「脳筋は口を閉じているがいい。安心しろ、マッシモ殿下。お前は最終兵器だ。いずれ、ふさわしい局面のふさわしい時を選び、世界最強の存在に近いお前をして、もう無理だかんべんしてくださいと弱音泣き言を吐くまで、延々強敵と戦わせてやるわ」
「なにぃっ」
マッシモは物凄い形相で立ち上がる。びびった私が椅子ごと思わず後退すると、
「必ずだぞ!! 約束だぞ!!! 俺より強い奴と、必ず戦わせろ!!!!」
目を爛々と輝かせ、皇太子は耳まで裂けんばかりに口端を吊り上げながら喜び勇んで魔法使いに飛びつこうとする。
しかし、何か障壁のようなものに阻まれて、「あがっ」と顎を空中にそらし、再び椅子にどすんとしりもちをついた。
アリアは……とても生温かい気持ちになった。
「あれは放っておけ、話を戻すぞ」
魔法使いはいつもクールだ。特に皇太子に対してクールだ。うん、何だろう、この気持ち。
「今回の『大陸間盟主の環』の発動において、フェリュシオンの聖女が立役者になったという。おそらく、このパーティ内に誰か王将がいる」
アリアは少し考えて発言した。
「可能性として高いのは、要となる聖女もしくは神子と呼ばれる存在ではないのか? 私達の……」
すでに魔法使いには、鈴木よりアリア達の異世界拉致事件の全容、事情を話してある。魔法使いは察したのか、うなずいた。
「異界の神へ願ったという少女。いかにも条件に一致する」
「……」
アリアは複雑だった。無言のアリアに魔法使いは推測を説明する。
「おそらくは、聖女――というより、異界の神子と称すべきであろうが、そやつが王将の可能性が一番高い。勇者たちには、この存在との接触は特に避けるように告げてあるが、そろそろ事態収拾の時だ」
異界の神子が、聖都に帰ってくる。
魔法使いの言葉に、アリアは背中に冷たい汗が流れるのを感じた。
「本当に……私のスキルは役に立つのか? 今日は、呪札を納入する際、買取額の交渉をしたのだが、ことごとく笑顔でかわされた」
「その手の類のスキルなのではないだろう」
魔法使いはあっさり否定した。
「商人職に見られる『交渉』と似たスキルかと思ったが、名称も異なるし、実際交渉有利になる効果はないようだな。妙なEXスキルだ。各陣営王将――過去の英雄、呪われし者ともに、その選定を受けて、特殊スキルを手にするのが通例だが、今回の戦闘系スキルとはかけはなれたEXスキル。俺にもその実態がよく分からんのだが、ある程度推測を――」
その時。
扉をノックする音がした。
人払いの魔法は、味方には効果がない。
アリアは思わず立ち上がった。
扉が開く。
「あーちゃん」
ユーリーが、立っていた。長い旅路でもっと薄汚れてしかるべきところ、相変わらずの清涼感満載な姿。
「ただいま」
その指には、銀色の指輪が光っていた。