神子
これは、突然運命を捻じ曲げられた大勢の内の、ある一人の物語。
ある日突然、『彼女』はこの世界に投げ込まれた。
意味が分からず、わけも分からず、そこは戦場で、火の手があちこちに上がっていた。
怒声と悲鳴が聞こえ、女の金切り声、すすり泣きがし、恐ろしさにあとずさろうとした時、
「――女だ!」
その鋭い叫びに、発見された、ああ、もう終わったのだと。
本能的に理解した。
あとはお察しのとおり。彼女は人間として、女性として、あらん限りの苦痛を味わい、放り出された。
あとは坂道を転げるようにして酷い暮らしをし、梅毒らしき病で鼻がもげ、局部は壊疽して、うらびれた風のびゅうびゅう吹き抜ける裏路地にむしろひとつにくるまっていた。
涙ももう枯れ果てた。
なぜこうなったのだろう。どうして。あと二月で結婚式を挙げる予定だったのに。準備が本当に大変で、何度か彼とはけんかもした。
でも楽しくて、嬉しくて。自分にこんな未来が待ってるんだよって、中学の時の私に教えてあげたい。恋愛も、結婚も、自分には関係のない、無縁のものだと思っていた。
そうじゃない。私は私の人生の主役なんだよって。
友人たちが、ウェルカムボードを作成してくれた。手先の器用な友達がビーズでつくったティアラはきらきらしていてとてもきれいだった。花嫁の白いウェディングドレス。鶏がらみたいな体型がコンプレックスで似合わないよって言ったら、「みっちゃんはめちゃくちゃかわいい! 世界一!」って彼が言ってくれたんだよ。嬉しいのと同時に恥ずかしくて「そういうのいいよ」と言ったら、どれだけかわいいのか力説されてしまった。顔から火が出たけれど、嬉しかったなあ、と思い出して笑う。すぐ自分なんかって思ってしまう思考の癖があったけれど。別にこのままでいっか、って少しずつ重荷を外せるようになっていったと思う。お母さんは、「美津子がとうとう花嫁にねえ。あたしも年をとるわけだわあ」といって、お父さんは気に食わないのかむすっとしていて、でもお母さんが「あれはね、さびしいっていえないだけなのよ。頑固だからねえ」と笑って教えてくれたよね。姉さんは、「お父さん亭主関白流行らないから。むしろダサいし、あたしはパース!」と言ってて、地味にお父さんはショック受けてたよね。それから、マイペースな姉さんに、「しあわせになれよ!」って全身くすぐられた。「さびしいから、たまにはあたしと遊びなさいよ!」と、どっちが年上なんだか分からない。そのあとみんなでショッピング。帰りにおいしいものをいっぱい食べて、
しあわせな思い出が走馬灯のように脳裏をよぎり、彼女は声もなく、涙もなく泣く。
こんなところで。
一人。
誰にも知られずに。
死ぬの?
それとも、死ねないの?
どうしたらあの場所にもどれるんだろう。
ああ、でもきっと。もう戻れない。
だって、私、もうもとの私じゃない。
しあわせな花嫁さんになれないよね。
こんなに汚れてしまったもの。
ウェディングドレス、似合わないよ。
着られないよ。
世界一って言ってくれたあの人。私もそうかなって、思えるようになっていたのに。自分のことを好きになれる、そんな風に生きていく世界が開けていたのに。
哀しい。哀しい。哀しい気持ちの中に、うらみが、憎悪が、燠火のようにくすぶっている。
もう動く力もないけれど、彼女の中に確かに存在する。
その憎しみに惹かれるようにして、『それ』はやってきた。落ちてきた。
――よ。なんじの ぜつぼうが いとおしい。
――なんじ せんていを うけるか
もう動かない。
舌がもつれて言葉を告げることもできない。
それでも、確かに。
彼女は。
イエス、と受諾した。
それは、ずいぶん昔のお話。
千年以上も前の話。
彼女は、いまだに世界をさまよっている。
『 』を求めて。
大陸間盟主の環。
元々は、神々の代理戦争におけるlaw 〔ロー〕サイド陣営の協力体制を指す。
盟主には『英雄』がなるのであるが、今回この中心には、じょじょに人口膾炙されるようになったフェリュシオンの聖女、あるいは神子の影があった。
「次は、いよいよ白き竜の山脈ね」
外の風を感じたい、と馬車の外に出ていた神子ミチルが呟くと、御者を務めていた青年が肩越しに、
「ああ。神子よ。彼らは気難しいというけれど、きっと君なら大丈夫だよ」
そう励ましの言葉をかける。彼はハイエルフのディランバーク氏族であり、その王子でもあるジーク。その氏族はすでに同盟に参加の意思を示し、ジーク自らミチルたちのパーティに参加して協力することを申し出ていた。
「あんまり無理はするんじゃねえぞ! ミチル! いざってときは、俺が守ってやるけどな!」
これは獣人族のゴルドー。大型猫科の獣人で、朱金の鬣のような豪奢な頭髪に、金色に近い虹彩の目で、ほとんどライオンを想起させる人物だ。彼らの一族もすでに協力を約束してくれている。
「ふう、これから交渉にいくっていうのに、獣人は野蛮で嫌になっちゃうな。神子、いざというときは僕に相談してね」
魔法の発展著しいエレボスで最年少の賢者オルカ。やや小柄だが、毒吐きでその存在感はパーティでも随一である。
「てめえっ、くそがきっ、ぶっ殺すぞ!!」
気炎を上げて今にも飛び掛りそうなゴルドーに、ミチルは「もうっ」と怒った顔で仲裁に入る。
「二人とも、けんかは止めなさいっ ほら、ヨナスだってあきれてるわよ!」
北方のドゥーガ、武断の国であるが、その精鋭たる黒騎士団団長であったヨナス。
国王命令ほか、本人の強い希望もあって、ミチルたちのパーティに同行してくれることとなった。
話をふられたヨナスは、馬車に平行させるように馬を走らせていたが、
「聖女殿のいうとおりです。皆、少し気を引き締めるべきでしょう」
そう同意する。
「っち」
「ふーんだ」
注意された二人はかなり大人げない対応だ。それを幌の中から黙って観察していた黒髪の少年が頭の後ろで手を組み、からかうように口を開く。
「ミチルも苦労するよなー」
「タクマったら」
そう彼女が再度たしなめようとした時、
『HIIIiiiiiiiiiIIIIIIIIIIIIiiiiiiiiiiiiAAAAAAAAAAAAAaaaaaAAAAAAAAAAAAAAAAAA!!!!』
その恐ろしい絶叫は聞こえてきた。
全員戦闘体勢に入る。
「ミチルっ 馬車の中に!!」
ハイエルフのジークが叫び、背中の矢筒から精霊の矢を抜くと、ぎりっとつがえた。
「くっ、魔族め!」
各人憎憎しげに吐き捨て、それぞれの得物を構える。
薄暗い森の深奥より、それは姿を現した。
半透明の袋につまった血と臓物。かろうじて人の形をしている。巨大で残酷な醜悪の限りを尽くしたそのオブジェ。
「魔族のやつら、とんでもないもん放ちやがって!」
「デメルテを壊滅させた原因です。皆さん、気を引き締めて」
「分かってるよ! ×××××火球!!」
圧縮言語による専制攻撃の魔法を放ったのは、最年少賢者のオルカだ。
彼らは一人一人が人外の領域にある一騎当千。
デメルテを蹂躙し、壊滅に追い込んだそれも、連携して追い詰め、
「ミチルっ 浄化の力を!!」
「ええ、分かったわ!」
ミチルは馬車を飛び出し、神から授かった『浄化』の力を使う。
あたたかく優しい光が巨人を包み、やがて光は小さく収束していく。
そこには、一人の傷だらけの女性が倒れていた。
ミチルは近寄り、「危険だ!」との声も聞かぬふりで、彼女のそばにひざをつく。
そして、そっと抱き起こし、彼女を抱きしめた。
「辛かったね。苦しかったね。もう大丈夫だよ」
やがて目を覚ました女性は、虚ろだった目に次第に理性の光を取り戻すと、ぽろぽろと涙を流し、震える手を必死にミチルへ伸ばそうとする。その指先を、しっかりミチルは握り返してやった。
「大丈夫。もう辛くないよ。大丈夫だから」
女性は極度の疲労のためか、再び気を失った。
ミチルもまた涙を流しながら、「ゆるせない」と下唇をかむ。
「どうしてこんなこと。私、まだまだ力が足りないよ。くやしい」
タクマが進み出て、その頭をぽん、と叩いた。
「ばーか、ミチルはよくやってるって! こんなことする奴がおかしいんだよ。白いトカゲちゃんが何か知ってるかもしんねーし、だからこうして急いでるんだろ」
「うん。タクマ、ごめん。あと、ありがとう」
ミチルは心を奮い立たせ、泣くなんて恥ずかしいな、と笑顔になる。
「がんばる。みんなの力がないとだめだもの。あと、できれば」
そう、できれば。
ユーリーが仲間になってくれたらいいのに。
どこにいるのかな?
そう彼女は呟いた。
【神さまメモ】
EXスキル。『浄化』
――神官職、巫覡職専用のスキル。
――異界の神の神子、聖女における場合、隠しEXスキル『洗脳』が併用発動。