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アリアは、十分堪能したというより、十分精神的疲労を味わったので、早々に退散することにした。
周囲の狂乱を肌で感じるにつけ、なるほどな、という思いになる。
全くの別人ぶりだったが、面影は残っている気もするし、おそらく本人だ。
本当にそういう存在になったのだな、という現実みは沸いて来た。
風の噂も、全部が全部まるきり虚構というわけでもないのだろう。
群衆をかき分けて後にしながら、アリアは後ろ髪引かれるよう振り返って確認した。
ユーリーからは、ただの村人オーラは完全に払拭されている。
吃音癖がある痩せぎすの青白い少年の面影など、遠目にも全くうかがえなかった。
時の力は偉大なものだな、とアリアは内心驚嘆していた。
彼女の耳かき一杯ほどの貴重な信仰心の奉納先に、これまでは幸運と商売の神を信心してはきた。しかし、今後は時空神に帰依した方がよいのかもしれないな。そう打算じみた考えが浮かび、失笑する。
検討の余地について検討しておこう。つまり、検討しないことと同義だ。
やる気も根気も、中々芽が出ない。
その上、ユーリーの様子を振り返って確認したのは、なつかしさからではなかった。
子供の時分にこづき回していた彼が、半端ない力と社会的地位とをもって凱旋したのを肌身に感じて、まずいかもな、と保身の芽だけは出たからである。
アリア・ウィルドは、こういう人間だ。
人を見る目は全くないし、自己保身のために、回避行動を真っ先にとる。
正直、血の気が下がる思いで退散してきた。
というのが、正確なところであった。
ユーリーは、アリアとはかけ離れた日々の中にいる。彼の歩いた後に、数々のサーガを生み出すような日常離れしたそれだ。子供時代における汚点の一つや二つをいつまでも覚えているとは思えない。しかし、それはそう思いたいアリアの希望的観測である。
やったやられたで言うと、やられた方は覚えているだろう。何より、彼はあれで……相当粘着質なタイプだ。総じて根に持つ。仮にも、大陸の英雄とあろうものが、との思いも去来するが、だからこそだ。
勇者というのも、初志貫徹とか鋼の意志といえば聞こえがいいものの、どうなんだとアリアは思う。絶対やると決めたら、粘性の執着をもって、我が意志を通す。そういう人種である最高証明ということではないか。
わが身に降りかかって来たかもしれない現在、何それ怖い、と言わせていただくよりない。
特別な血筋でもなんでもない人間が、勇者や英雄と名声を得るまでに、どれだけの努力と犠牲を払ったのか。
アリアが言いたいのは、つまり、それって努力でどうにかなるものなのか? という疑問提示だった。
ならないだろう、普通。
出自が普通の奴が、普通でない勇者になるまでに、努力、根性、勇気のまともな使い回しで凡人の限界を突き抜けられるものか? 一本どころか、まとめて三本、四本といわず、景気よく十本以上は線をぶった切ったとして、それでも足りるのか分からない。
ユーリーの場合、勇者として背景なぞないない尽くしだったのだ。
血筋や門地といった壁をぶち破り、自身の限界値を、何度も引き上げねばならなかったはずである。
では、あの痩せぎすの子供が、平民の頂点を登り詰められた要因として、アリアはたった一つしか思い浮かばないのだ。
ユーリー・ジャバウォックの――粘着性だ。
意固地とか、偏執性とか頑固さとかの語彙より、粘着質という言葉が的確過ぎる。
特別な血筋などの背景もない彼が、勇者などという概念になった。それによって、そのありようの証明がなされてしまったような気がする。アリアは、悪い方に想像が及んで、うっ、と胸をおさえ、顔色を失った。
(うーん……まずい気がする……)
控え目に言っても、よくない状況だ。
アリアが幼さに任せて、彼をいじめた思い出……を、爽やかに水に流してくれるとはお天道様でも思うまい。
ああ、嫌になる。
アリアは足を動かしながら、再び失笑した。
過去の行いが、わが身を追いかけてくる足音がする。
なるようになるだろうが、できれば回避したい。
ユーリーが現在の栄光に、過去の胡乱な思い出を埋没させてくれていることを祈るしかあるまい。身勝手に願いながら、アリアは店舗兼工房兼自宅を目指し帰路についた。
こぢんまりしたアリアの自宅玄関口には、こう看板がかかっている。
ウィルド工房~呪物下請けします!~
『呪物』とはあるが、残念ながら、魔法の道具を作成しているところではない。
魔法の道具を作成できるのは、錬金術師か魔法使いか聖職者か。
とにかくその道々を極めた職種だけである。
だが、そういった特殊技能を持つ人々が、呪物の生成を一から十までやるかというと、そうではない。
全ての工程を一人で行おうとすれば、そのコストは膨大なものとなる。
例えば、札一枚にしても、綿密な図形を原版から模写していくだけで、とんでもない時間と労力がかかってしまう。
手習いとして、未熟な職能階級がそれを身につけることも大切なのだが、修練と商売は別問題だ。
見習いにやらせるにしても精度が問題、マスター級の魔術師がやるにしても時間と労力が問題となる。
一定の品質を保証しつつ、量産するには、どうしたらよいのか。
そこで、アリアのような代行下請けが需要として出てくるのだ。ひたすら原版のとおりに図を写し続けるという単純作業の担い手である。
需要はかなり高い。しかし薄利多売である。
アリアは、下請け業者に当たる。
そして、彼女の工房は、自転車操業だ。
アリアは鍵を取り出すと、店じまいしていた工房を開けた。
入ってすぐ応接室兼居住空間で、奥に作業部屋兼書斎もどき兼寝室があり、あと原始的な台所がある。厠は外だ。
書斎もどきというのは、図画集や刊行版の研究誌などを揃えているため、そう呼称しているだけだが、しっかり機能はしている。技術の勉強は、アリアにとってさほど苦ではなかった。向いてはいるのだろう。
札にも用途に合わせて色んな図案がある。あるいは、オーダーメイドで原案が届くこともあるが、まあ基本は大事だ、という考えだった。
なお、手描きの生産性は決して高いとは言えないが、アリアのような下請けが版画などにとって代られることは当分なさそうではある。
版画は、どうも呪物系とは相性が悪いらしい。一カ所かすれがあっただけで、大爆発とかありえるしな、とアリアは他人事のように考えている。
特に魔導書は危ない。魔法陣の文字が一カ所とんだだけで、どうなるか……防衛機能を果たさなくなるから、下手すると召喚即死亡というのも、現実にありえるわけだ。
同業者のネットワークというものもあるので、どこそこのマスタークラスが陣構築にミスがあって、召喚した大悪魔に八つ裂きにされた、など噂には暇がない。しかも、その話の怖いところは、弟子が故意に陣の表記を消したとかなんとか、魔術の徒弟世界怖い。
もっと怖いのは、その弟子が師匠に懸想していたというところだ。
何で殺したんだ、とアリアは驚いたものだ。
もしかすると、その師匠とやらは、死んでないのかもしれないが……生きているとしたら……逆にもっと恐ろしい気もするが、考えない方がよさそうだ
弟子が師匠を殺す下剋上が推奨されている魔術系統もあると聞くし、軟弱な私にはついていけん世界だ、と思う。
今日はあまり働く気にもなれず、アリアは書斎の本を手に、ぱらぱらとページをめくった。
基本解説である。
呪物や流派の作法について、目を通していく。
少しでも魔法陣をかじれば、手書きの必要性は疑いようもない。
そもそも基本図案に沿って、描き順や作法など細かいルールもあるのだ。筆に魔力を乗せた方が、効果が上がるなどという側面もある。
暴発の可能性のある版画は、玄人の間では使われない。というか、術者がまず加工しない。危険すぎる。何より、あまりにも強力なものは、術者自ら全ての工程に携わるものだ。
そういう意味で、アリアのような下請け業者は、最悪死亡する術者に比べ、リスクの低い安心安全な仕事をしていると言える。
何かあるとすれば、せいぜいクレームがついて、仕事を干されるリスクがあるくらいだろう。とはいえ、そうなれば明日の飯の種も欠く死活問題なのは間違いない。結局、欠陥品納品イコール社会的死。他に仕事にありつけなければ、行く先は、肉体の死ではあるのだが……
糊口を凌ぐ為には労働あるのみだと、アリアはむなしくも悟った。
真理を確認できて、有意義な思考であった。
図案と呪紙、顔料を作業台に準備する。精神を集中して、筆を紙に滑らせようとした時だ。来客のベルが鳴った。
――なんだ?
村人達は今表に出払っているし、わざわざ村の中心部から外れたこの工房に足を運ぶとは思えない。では流通業者か? とアリアは首をひねる。
この間、教会向けの聖布の完成品を回収しに来たばかりなのに、もしやクレームだろうか。
恐ろしいな、と素でテンションと眉が下がった。
不良品回収は、大赤字で死んでしまう。
アリアは、『マーチャント&アドベンチャラーズ商会』傘下の呪物下請けギルドに入っていて、そこから依頼を回してもらい、期日までに納品している。
ここ田舎だからな、と特に思うところもない。そうしないと、こんな鄙びたところでは需要がなくて稼げないのは、分かり切ったことだ。
しかし次の納期はまだ先だろう。
それなら誰だ。ただでさえ上がらないモチベーションが、地すべりのように失せていく。アリアは、のろのろと立ち上がった。
「今あけ」
ます。
来客用に取り繕った声が、不自然に凍りついた。
何もかもが動きを止め、一枚の止め絵となる。落ちる影は長く、南中する太陽に背後から薄い金糸がこぼれ落ちた。磨き上げられた白い鎧は豪奢というより限界まで無駄を削ぎ落とした仕様で、身体にぴったりとまとう伸縮自在な仕様だろう。特殊付属効果が幾重にも施されていそうな代物だ。古代技術か異界の技によって作られたものか、少なくともサーガ級のものに間違いない。
青い目は憂いすら帯びてなお深い青、長い睫が目元に濃い影を作る。
まつげが、長いんじゃないか、とアリアは馬鹿のように考えた。
他にもっとある。
おそらく、思考停止していたのだろう。
目の前のやたらきらきらした男がゆっくりと口元を笑みの形に綻ばせた。
「ひさしぶり」
死んだ。
アリアの目も死んだ。
なんで今人生の晴れ舞台(トンレミ村はあまりにも小さいが)を演じているはずの男がここにいるのだ。まとわりつく村人ふりきってここに来たのかと思うと、とても強い意志を感じる。心臓が嫌な感じに不整脈となり、胃のあたりが痛んだ。
生命の危機を感じる。
よくない流れだ。
回避したい。
一般人だぞ。村人だぞ。英雄の軽い一撃でもくらってみろ、本気で死ぬ。死ぬに稚気も本気もないのでは? 死ぬ。アリアは更に目が死んだ。
伝聞では、黒竜の固い装甲すら切り裂き、貫通させてぶちのめしたとかいう御仁である。レベル1の村人なんて……はじけ飛ぶだろ! と無駄に今度はテンションが上がった。
洒落にならん。
世界の大舞台に羽ばたいたからには、古巣なんて戻って来なくてよかったのでは? 過去は振り返らず未来だけ見つめることが大事ではないのか。
アリアが回避したい一心で、無表情になっていくのとは裏腹に、ユーリーはずかずかとおずおずの間の微妙な空気で家に入ってくる。
「あの……入ってもいい?」
入った後でお伺いを立てられても、それは虚礼というのでは?
「……」
アリアは内心悪い方に想像を広げながら、目を合わせないよう顔を伏せ、わずかにうなずくと、戸を閉めた。
人類最強に逆らうという発想ができない。できたらそれこそどんな勇者だと思う。
ユーリーは、はにかみがちに恐ろしいせりふを吐いた。
「ずっと会いたかったんだ」
私は会いたくなかった。
口にはせず、内心答えた。
ユーリーの活躍により、彼の出奔を止めなかった罪悪感と疎遠になっていくと同時に、恐怖が育っていった。
お前のありえない風の噂をきくたびに、戦慄が身の内を走ってた。仕返しされたら怪我するかもなあという予測から、骨折るかもなあ、筋肉断裂するかもなあ、いや頭潰されるかも、死ぬな、の結論までは割と短かった。
内心鬱々通り越して戦々恐々とするアリアの斜め上で、緩んだ顔が心底嬉しそうに笑うから、こいつの頭の中で自分はどんな惨劇にあっているんだろうと全身から脂汗がふき出た。
目の前の問題をどうにかすることが先決だ。
アリア・ウィルドは、人を見る目がない。
ユーリー・ジャバウォックが、大陸の英雄になるなんて想像もしなかった。彼の出奔には、みすみす野垂れ死にさせるようなものでは、と罪悪感まで覚えていた。
まして、ユーリーが、彼を冷笑していた故郷に帰ってくるなど。
そして、アリア・ウィルドの家に、一番に足を運ぶなど。
誤算がどうこうではなく、単純にアリア・ウィルドには、人を見る目がなかった。