はじめてのえがお
ユーリー・ジャバウォック。
前回代理戦争時における、chaos 〔カオス〕サイドの王将である。
本人はあずかり知らぬことではあるが、その業は、今生においても尾を引く。
彼は、幼少時より、喜怒哀楽が理解できない。
「私は母親失格よね。私、あの子が、あの子が怖い。怖いのよ」
すすり泣きしながら、自分を生んだという人が、一緒に暮らす身体の大きな人に訴える。
身体の大きな人が、その背中を撫でる。
「気にするな。あまり自分を責めるものじゃない。お腹の子に差しさわりがある」
幼いユーリーは手洗いにベッドを出て、その夫婦の会話を扉の隙間から聞いていた。
でも、なんとも思わない。
あの人がなぜ泣いているのか分からない。
冷たいのも熱いのも分からない。
どうして胸にぽっかり穴があいて、ずっとふさがらないのか分からない。その穴はずっとずっと昔からあって、生まれた時からあって、多分もう自分の一部なのだろう。もしかしたら、その穴はどんどん大きくなって、真っ黒い穴が自分になるのかもしれないとすら思う。
不気味だといわれ、村の子供たちからも、日々殴ったり蹴られたりする。
でもどうでもいい。
どうだっていい。
そう思っていた。
「おら、ちょっとは泣けよ!」
翌日、道を歩いていると、村の子供につかまった。からまれ、無言でいると、突き倒された。
あとはいつもどおりの暴行だ。腹と頭は守ったほうがいい。まるまって、彼は耐える。
「きっみわりぃな! ほらっ、泣けったら! 泣いてごめんなさいって言ったら、許してやんぞ!」
年長の子供三人は、笑いながら彼を蹴り続ける。
どうでもいい、どうだっていい。
飽きたらその内去る。へたな抵抗はかえって暴行を長引かせる。
「おい」
その時、×××の声が聞こえた。
「お前ら、道の往来塞ぐな。邪魔なんだよ、どけ」
まるで、地獄の底から、響くような、酷く暗くて熱くてうねるような怒りを孕むその声に、彼は必死に守っていたはずの面を上げようとした。
「あー、なんだよ、お前。生意気なチビだな」
年長の一人がうるさそうに言えば、
「ああ、こいつ。ウィルドさんとこの」
「マジか? ふーん……」
もう一人がいいことを思いついたと笑う。
「おい、チビ。てめえ、こいつに蹴りいれろ。交通税だ。そしたらとおっていいぜ」
屈託のない笑みで、やれ、と促す。
そうしたら、ざわり、と空気が揺らめくようなけはいがして、咄嗟に頭を腹の方に押し込めた。
「――下種が」
とてもとても。暗い、今度は冷たい。その声が呪詛を呟いて、あとは怒声と悲鳴が聞こえた。
「なんだこいつきみわりぃ! おい、放せっ、放せよっ」
鈍い音。何度も何度も人が殴ったり蹴られたりする音。他人が殴られると、こういう音がするのか。
彼は、変に感心した。
長いのか短いのか分からない時間が過ぎて、気がつくと、あたりはしんっと静まり返っていた。
彼はゆっくりと立ち上がり、×××が地面に倒れているのを見て、首をかしげた。
そろそろと近寄って、しゃがみこみ、観察する。
話しかけようとして、舌がもつれたが、人と長らくしゃべっていないので、仕方ない。
「ね、え、い、いた、い?」
×××は、地中に顔を半分突っ込んでいたが、ひどく緩慢に仰向けへと転がって、ぺっと土を吐き出した。口中が切れていたのか、血痰まじり、鼻血も出ている。人の顔に思えないありさまだ。髪の毛は血と泥でぐちゃぐちゃに顔面に張り付き、痙攣する腕を持ち上げて、髪を払った。
「失せろ」
一言だ。
「い、い、たい?」
「会話のキャッチボールもできないのか。糞がき、失せろ。とっととどっかいけ。行かないならぶっ飛ばすぞ」
ぶっ飛ばされたのは×××の方だと思う。
×××は何度か立ち上がろうとして失敗しながら、それでもよろよろ立ち上がると、びっこを引きずり歩き出した。
彼が手を伸ばすと、汚いものみたいにはねのけられた。
行き場をなくした手が空中を彷徨い、彼は頭がぼうっとする。
しかし、×××は行ってしまう。
そのあとをとことこと追いかける。
ついてくるなと怒鳴りつけられたが、聞かずにただひたすらあとを追う。
×××は、どんどん村の中心から遠ざかり、森の中へと分け入っていく。
「……ど、こ。いく、?」
ようやくなんとか声を絞り出す。これまで一か月分しゃべったような気がするが、無視される。彼はしゃべるのがあまり得意ではない。
言葉がうまく喋れない。
村の子供はそれをからかう。彼は喋れないのではなく、喋りたくなくなる。しかし、×××に邪険にされても、なぜか喋りたくなくなるのではなく、もっとうまく喋れたらいいのにともどかしく思う。
×××は森の少し開けた場所にたどり着くと、腰を下ろした。何かをじっと射殺しそうに睨みつけているけれど、ただ目の前には森が広がるばかりだ。
わからなくて、理解不能で、彼も少し距離をとって座る。
お互い喋らない。どうして×××が気になるのかと彼は不思議に思う。
×××なんかどうでもいい。
でも、こんな目は見たことがない。なに、これは? 彼はひどく懐かしいような、それとも汚らわしいような、目がそらせない。
知るはずもない溶岩のようにうねる何か。
灰色の世界に、それはあまりにも眩しく、醜く、ああ、そうだ。
誰か、彼に昔囁いた。
――よ。教えてやろう。
――それは、『 』というのだ。
――汝、選定を受けるか。
そうだ。
なんでもいい。
なんだっていいんだ。
誰もいない。ひとりぼっち。嬉しいのも哀しいのもない。そんなもの感じたくない。でないと、心が耐えられない。
ここは暗い。寒い。誰の声もしない。僕の声もない。だって僕には舌がない。
手もない。足もない。
どこだろう。
どこだったっけ?
ここはどこ?
まだ僕はあそこにいるのかな?
これは夢なのかな?
どっちが現実なのかな?
誰かいる? どこ?
皆同じにみえる。皆生きてるの?
僕の夢なの?
ああ。でも。
×××は。
その目は。
その怒りは。
僕のじゃない。僕はからっぽだから、これは、僕じゃない。
これは、別のものだ。じゃあ、ここは現実だ。
僕はあの場所にいない。
ここは、あの、土のなかじゃ、ない。
手の冷たいこわばりがとけ、彼は引きつるような笑みを浮かべた。
ようやく。はじめて。