12
トンレミ村の夜はしんしんと深まろうとしていた。
魔法使いのスズキと村の男たちが対立し、長老が仲裁した後である。
村人たちが解散すると、アリアも含めた勇者一行は、村長宅で一泊することとなった。
「じゃあ、おやすみ」
各自村長宅の寝室へと案内され、仲間に向かってナチュラルに就寝の挨拶をかまそうとするユーリーに、
「待て」
アリアは服の裾を引っ張って止めた。きょとんとした風情のユーリーに、こちらも目が据わってくる。
「何を当然のように、人と同じ寝室に入ろうとしている。お前はあっち、聖騎士殿と同じ部屋だ」
「――そんな……」
何を思いもかけぬことを言われたとばかり、絶望に染まるユーリーの顔。
こいつ、本当に殴ってもいいか? とアリアはうっすら思ってしまう。返り討ちにあうのは自分の方だな、とすぐに考え直したが、一体ユーリーはどうしてしまったのか。昔から粘着質なところはあったが、こういう勘違いなことはしなかったような……気がする。いや、気のせいかもしれない。分からなかった。
ユーリーがどういうやつか、などアリアにはさっぱり分からない。分からないことだけが、分かっている。
納得のいかなさそうな煩悶の表情を浮かべるユーリーに、聖騎士ゴンザレスが人差し指を振る。
「そうよう、リーダー。未婚の男女が野宿でもないのに、寝室を一緒にするのはハレンチなことよ。こういうことは、きちんと手順を踏まなくっちゃ!」
そこまで言って、ゴンザレスはアリアにも優しく言い聞かせるように告げた。
「あと、アリアさん? あたしが言うのもなんではあるんだけれど、あたしたち、場合によってはその……非常時には、一部屋にぎゅうぎゅうづめとか、野宿もあるから、ついそういう日常の感覚忘れちゃうのよね。ほんと、その感覚で言われたら、びっくりしちゃうわよねえ。あと、今夜は敵襲もあったし」
それ以上は言わなかったが、アリアもさすがに悟らされる。
言外に、まだ非常時下であると認識していること。そして、ユーリーが心配して番犬をしようとしている旨だ。
アリアが理解したのを察したのだろう。下まつげの印象も深いウィンクをもらってしまう。
(あー……)
結局、ユーリーの『心配性』に助けられた形ではあるのだ。
いや、それとこれとは別だろう、という気持ちもあるが、恩は恩である。とりあえず相殺で手打ちするかとアリアは矛をおさめた。
アリアが折り合いをつけている間、ユーリーは聖騎士殿の言葉に何か感じ入るところがあったのか、無表情に「……手順」と反芻した。
――怖い。
アリアは若干どころか、ドン引いてユーリーと心の距離ならぬ現実の距離を広げた。
やはり、ユーリーの情緒が、出奔する前よりおかしくなっているような気がする。ゴンザレスはそれを見て、思うところがあったらしい。
「でも……」
と恥らうように彼は、身体をかき抱く。
「あたしも、心は乙女……リーダーと同じ寝室だなんて、本当はハレンチよね。きゃっ」
ユーリーはにじり寄る動きを止め、無言で廊下の暗がりへときびすを返した。
「すみません」
アリアは、ゴンザレスがユーリーの言い訳をした代わりに、こうやって譲ってくれたのを感じた。泥をかぶってもらった形だ。しかし、再度ウィンクと、オーケーの指サインをもらって、アリアは苦笑する。自分は年を重ねたところで、この境地になれるものだろうか。
「おい」
ゴンザレスの影響を受けたものか。アリアは、ユーリーの背に声をかけた。
ぱっと振り返るその頭に犬耳と臀部にぶぶぶぶぶと高速で振れる尻尾が見えた気がしたが、おそらく目が悪くなったか、幻想だ。こちらがいたたまれないから、切実に止めて欲しいと思う。
(つまり……吊り合ってないんだ、色々と)
アリアは一呼吸して、一気に吐き出した。
「今日は私の大事な幼馴染を助けてくれてありがとう」
ぽかん、と廊下の暗がりにも印象的な青い目を見開くユーリーに、アリアの顔面に血が昇る。慣れない台詞に、動機とめまいがしてきた。
それでも羞恥心に勢い蓋をして、半ば早口に続けた。
「それと、化け物に向かってこいなんて無責任にけしかけてすまなかったな」
頭を下げ、顔を上げた時、ユーリーの目を見る。
「忘れないでくれ。お前も、私の大切な幼馴染だ」
恥ずかしさで死にそうだった。
偉そうな台詞だが、今更口調も変えられない。
(言わないと、伝わりはしない。言えるうちに言っとかないと、な……)
そうは思うが、
(あー、駄目だ、震えて来た。消えたい)
内心七転八倒してしまう。
しかし、もっと恥ずかしいことを知っている。もっと苦しいことを知っている。
素直に感謝できないこと。
素直に謝れないこと。
そして、大切な人に、大切な言葉を言えずに、二度と言う機会もなくしてしまうこと。
どれだけ後悔しても、もう二度と、伝えることができない。いつでも言葉を伝えられるなんて、それはただの傲慢だ。いつその機会が奪われるのか、誰にも分からない。自分だけは関係ないなどありえない。もう今日と同じ明日が来ないなど、信じられないのに、それは嘘みたいな現実だ。
伝えたいのに二度と伝えられない。
その苦しみは、羞恥心など遥かに凌駕して、なお続いていくのだ。
ユーリーへの感謝は、言葉額面通りに綺麗なものじゃなかった。
後悔と代償行為。
だが、ユーリーは闇の中、不意に笑み崩れた。
こちらがぎょっとするほどに、鮮やかな笑みだった。
思わず、肩がびくっとしてしまう。
何かとんでもないリアクションを起こすかと身構えたアリアに、ユーリーは静かに「おやすみ」とだけ言って寝室に消えた。
沈黙がその場を満たし、緊張に強張っていた肩からじわりと力が抜け行くと同時に、
「っきゃああああああああああ!」
ゴンザレスの器用にも黄色く野太い悲鳴が上がる。時刻が時刻のため、小さな悲鳴であったが、興奮が如実に表れてており、音量を超えて、現実のダメージ倍増となる悲鳴であった。
アリアは完全に硬直していた。驚く前に、ゴンザレスが騒ぐ形になって、どう感情を逃がしたらいいのか分からなくなっていた。
ゴンザレスは身を捩りまくって、
「すてきっ、はあん! 貴女はヒーローなのねっ、聞いていたとおりなのよ! 応援してるわっ、ぐ!」
こちらに親指を突き立ると、乙女走りで同じく寝室に消える彼を、アリアは死んだ魚の目で見送った。
騒々しい彼が去り、ほんの一瞬、アリアは自分の爪先に視線を落とした。
贅沢に明かりを灯せる現代と違って、夜は本当の夜だ。ひたひたと寄せる闇の中に、何もかも飲み込まれてしまいそうだ。
でも、自分の足元だけは見失わぬように。
目の前のことだけでいっぱいだ。
(ユーリーは……私の手には余る)
寒気に似たそれが背筋を走った。
(そういえば、心的疲労のあまり、聖騎士殿へきちんと礼が言えていなかったな。まあ、明日でいいか。改めてきちんと筋は通そう。もう私のライフはゼロだ)
「では、我々もそろそろ寝室へ行きましょう」
スズキのスルースキルはかなりのものがあるようだ。完全に他人事で、けはいを消していた。あの二人と旅をしているのだから、当然なのかもしれない。
自我境界は大事である。
客室には、簡素なベッドが二つ。それぞれ腰をかけ、そうしてようやく。
「スズキさん。いえ、鈴木さん。話を聞かせてほしい」
そう、ようやくアリアは切り出したのだった。




