10
「わざ、わい?」
オウム返しする。
アリアは無意識に、神様、と呼びかけていた。
それは、死の恐怖を抑え、心の平静と均衡を保とうとする防衛機制であっただろう。
呪詛以外で、その存在にすがったのは、実に十数年ぶりだった。
商売繁盛"ガ"のつく女神ならともかく、アリアが祈ったのは、前世でいう、"困ったときの神頼み"の神だ。
神など、唾棄すべきものでしかなかったはずなのに、咄嗟に呼びかけてしまった。そうせざるを得ないほど、目の前の『災い』を織り込んだ村の姿は、異常な光景に映った。
アリアはどうにか、死に対する恐怖を抑え込むと、ユーリーに尋ねた。
「お、おい、さっき、叩きつけられていた、のは、仲間の魔法使いの子だろう? 助けに行かなくていいのか」
動揺から、思わず舌がもつれる。
自分は動かずに、幼馴染を促すのも卑怯というか情けない話である。しかし現状、適任はユーリーしかいなかった。
聖騎士は背後で救急処置に忙しい。代わりにアリアが単身飛び込んだとして……スプラッタな展開しか思い浮かばない。
せっかくユーリーの手で真っ赤なトマトの刑執行を逃れ得たというのに、それはないだろう。
(いや、とりあえず……勇者一行のバトルというものに関して……仮にどんなクソゲーだろうが、チームプレイが基本なんじゃあ……ないか?)
違うのか? と変な汗が出てくる。
普通後衛の魔法使いが、ボスと肉弾戦闘というのは、まずない。
どんな縛りプレイなら、そうなるのか。
命がかかっているので、妙な縛りは止めた方がいいとすら思う。
一方、助けに行かなくていいのか、と問われたユーリーは、少し首を傾げる。薄闇に場違いなフローラルフェロモンのする微笑を浮かべた。
「どうして?」
と、一言だ。
(え?)
一瞬、アリアの中に真っ白な豆腐的空白が生じた。
(あ、は――?)
現実に頭が追いつかない。
この応えは想定していなかった。昼間、あの魔法使いの女の子は、目の前のユーリーを「リーダー」と呼んでいた。彼女は今、家の外で戦闘している。
アリアは「……」と意図せず無言になり、背中に嫌な汗が流れるのを感じた。
(何だ……この宇宙人ぶりは……言葉が通じない……ん、だが……)
いや、ここは、日中の遺恨はあれど、できることはしておかなければなるまい。
もはや義務感で、必死に口を動かした。
「どうしてもこうしてもないだろう。彼女は魔法使いなんだよな?」
うん、とユーリーが頷くのを確認して、アリアは言葉を続けた。
「後衛が一人で前衛するのが、お前らの戦闘スタイルでなければ、前衛なしに孤立させるのはまずいんじゃあないか? いや、素人意見ではあるが……」
誰でも疑問を呈するところだぞ、と言いかけて、飲み込んだ。
(それは主体が曖昧かつ……姿の見えない、他者の圧を借りる言葉か……)
せめて、自分を主語にした言葉で言うべきことだ。そう判断した。
ユーリーは、アリアの言葉を噛み砕くように少しばかり沈黙した後、やはり首を傾げた。
「あーちゃんはいいの?」
再び脳内に白い絹豆腐が飛ぶ。今日はよく豆腐が空を飛ぶ日だ。
(なぜ、私に許可をとる)
そもそも彼らのチームプレイに口をはさむ権利がない。今、魔法使いに加勢しないのか尋ねたのですら、越権行為だとアリアは負荷を感じている。そのストレスを圧して問うたのは、魔法使いの少女が、明らかに劣勢に見えたからだ。それにもかかわらず、ユーリーは助力するけはいもなく、不信に感じられたことによる。
しかし、ユーリーは今度こそはっきり暗い笑みを浮かべた。
「だって、あいつ、昼間」
(それか。今それなのか!)
アリアは顔面から血の気が下がり、絶叫したくなった。
(うっそだろ……!?)
開いた口がふさがらないとはこのことだ。
(そんな理由で、仲間を切らんでくれ……! お仲間の彼女の命、凄くかかっているから……! 本当に、うっそだろ……!?)
頭を抱えたい。そもそも彼女はユーリーの仲間である。彼らの冒険譚を歌ったあの数々の吟遊歌は、全部嘘だったのか。
(いや、それは今はどうでもいい……!)
焦って、アリアはユーリーの胸倉をつかもうと幻視する。だが、その一歩手前で、踏みとどまった。自分が原因の一端になっているのなら、無視できない。だからこそ、一線は超えずに、と深呼吸する。
アリアが結局浮かべたのは、半笑いだ。
「私を理由にするのは、謹んで辞退させてもらうよ」
努めて、淡々と言う。
「そんなくだらん理由なら、とっとと助けに行ってくれ。普段ならどうしてるんだ」
「……行く、と思う」
アリアは、本当は言いたくなかった。だけれど、と唇を強く噛む。
「仲間だろうが!」
空いた方の手で外を指差し、思わず怒鳴りつけていた。ユーリーは理解不能とばかり目を見開いて、
「……あーちゃんがそういうなら」
アリアの指を、嫌な握り方をして外す。
その顔に、焦りは一切ない。仲間を信頼しているから? それもあるかもしれない。だが、違う。決定的に違う、とアリアには分かる。
(なぜなら、私は――)
気持ち悪い。心底ユーリーの笑顔が気持ち悪い。というよりも、怖い、とはっきり感じていた。ユーリーは、仲間を自主的に助けに行くことに、何一つ納得していない。おそらく、その発想がない。加勢に行くとは言わなかった。ただ、「行く」と言ったのだ。ばらばらに、ただ個人個人が戦闘に参加しているに過ぎないということなのか。魔法使いもそれで納得しているのかもしれない。
彼らがそれで合意しているのなら構わなかった。だが、自分を理由にされるのは我慢がならない。そんなものに加担させられるのはごめんだった。
何一つ、何一つとして、こいつは変わっていない、と再度思い知る。
言葉が通じない恐怖とは、これほど精神を削るものなのか。
幼いころに感じた違和感を、今もまた肌身で感じている。ユーリーは、昔も今も、確かに群居性社会における異物だった。彼一人が、およそ異なる倫理と価値観で動いている。だから、疎外される。アリアは加担したくない。したくないのに、擦り合わせるようにして握られた指の根本から先までが、怪物にふれられた痕のように震えている。
(差別心だ――)
明白にアリアは理解していた。目を逸らしたい排他性だ。確かに、アリアの中にも、昔から息づいている。ないことにする方が、もっと最悪だ。
「行ってくるね」
窓枠に手をかけると、ふわり、とまるで体重を感じさせない軽さで戸外へと飛び降りる。
身体の軌跡に白いエフェクトが尾を引き、アリアは窓枠に身を寄せた。夜の闇に、その姿は燐光を吹きこぼすかのようにして浮かび上がる。
アリアは見送る傍ら、表情が歪むのを感じた。
口だけ出してしまった。助けに行けなど、仲間を持ち出して、よく言ったものである。 他人にその命を差し出して、戦えと口にする。
道徳は最大の武器だ。良心に付け込んで、逆らえなくする。そのずるいやり方を、嫌っていたはずなのに、アリアは振りかざした。
身の保身が先走った結果に過ぎない。アリアは、魔法使いを見捨てる罪悪感を背負いたくなかっただけだ。
それでも、同じ場面が繰り返されたところで、アリアは同じ選択をするだろう。
ずるずる座り込みそうになったが、自己嫌悪に気持ちよくひたるのは、最大の無責任だ。自分を叱咤して、邪魔にならない位置で見届けようと窓に近寄る。背後では、聖騎士が治療を続行してくれており、せめて見張りくらいにはなるだろうとも思った。
アリアは戦闘のプロフェッショナルではないし、これもただの自己満足でしかない。罪悪感を感じる自分自身に、折り合いをつける行為でしかないと分かっている。
カーテンの傍に身を隠して、再度外を覗いた。
肥大化し溶解した女のような『災い』は、頭部と手がイソギンチャク状に揺らめいている。
(とっても触手です……本当にありがとうございました……)
アリアの顔面から血の気が引いて行く。遠近感がおかしくなければ、樹木並みに巨大だ。足が、がくがくしてきた。
(や、ユーリーは、本当に、大丈夫なの、か?)
いまさら、その疑問はアリアを恐慌状態に陥らせかけた。
(仲間の魔法使いのピンチとはいえ、けしかけて、行かせて、本当によかったのか?)
自分の言動で、人の命が左右される。その結果を見たくない。
恐ろしいのだ。
だが、吐きそうになりながら、カーテンをぎゅっと握りしめた。
『災い』は魔法使いに差し向けていた触手を不意に止め、一瞬の空白の後、ぎゅるり、と方向転換する。
敵性をよりユーリーに感じたのだろう。
突然現れたユーリーの方へ、無数の触手を恐ろしいスピードで放った。
カエルの卵を見たことがあるだろうか?
半透明な管に、ごろごろとぎょろ目のような卵が無数に詰まっている。
あるいは、
(透明な皮袋に、血と臓物をぶち込んでシェイクしたらこんな風か?)
アリアは口の端を引きつらせた。
生理的嫌悪を催さずにはいられない触手が、ユーリーを四方八方から襲う。
しかし、ユーリーは構えることすらせずにただ泰然と突っ立っている。
動かぬユーリーに、「馬鹿っ、よけろっ」と思わず喉を突いて出かけた時、
時間が。
飴細工のように間延びする。
違う。
ぎしり。
確かに、音を聞いた。ユーリーの動きに、鎧が悲鳴を上げる。
腰に佩いた剣にユーリーが手をかける。
抜き払うその一瞬。
世界は無音になった。
――ドン!!!!!
臓腑に重石を落とされたような、重圧を感じ、世界に再び音が戻って来た時、『災い』は二つに裂けていた。
そして無数の魔剣が地中から飛び出す。
『Hiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiii』
ものがなしい悲鳴とともに、『災い』は二つに、四つに、八つに、みじん切りにされて、ぼとぼとと肉片を大地に振りまき、水のように溶解して消えていった。
「はあんっ! リーダー、スズキちゃん、素敵な連携プレイよ!」
飛び上がって悲鳴を上げなかった自分に、アリアは胸を撫でおろした。背後に重圧を感じたと思った瞬間、聖騎士が隣から覗き込んでいたのだ。彼は、アリアに覆いかぶさるようにして窓枠に手をかけていた。
「お嬢さん、安心してね! あなたの応急処置がとってもエクセレントだったから、皆後遺症が残ることはないわよ!」
「っ、あ、ありがとうございます……あの、落ち着いたら、お礼は後ほど、」
ばちん! と本日二度目のウインクをいただいてしまう。
「ノープログレム! お代は、別のところからもらっているから、二重払いは懲戒ものよ!」
「あ……」
「それより、あたし、邪気払いはイケてるんだけれど、回復魔法はあんまり得意じゃないのよね。それで時間かかっちゃったわ」
そうは言うが、子どもたちの様子を見る限り、完璧な仕事をしてくれたようだ。
「うちには、スペシャリストな回復役の僧侶もいるんだけれどね。まだ前のクエストの処理が残っていて今日は不在なのよ。とにかく良かったわ!」
ああ、うん、とアリアは呆けた。
普通にいい人だ。『災い』に中てられているアリアの恐怖も和らげようとして、明るく話しかけてきてくれているのを感じる。本当に自分には、人物眼がないなと呆れてしまう。偏見と差別の目だ。色眼鏡で、聖騎士を見ていたのに、嫌というほど気づかされた。
「それにしても、びっくりよ! リーダーに言うことを聞かせるなんて、あなたが例のヒーローなのねっ」
「……あ、え?」
ヒーローとは。
何か大いなる勘違いが発生している気がして、アリアは固まった。
聖騎士は、アリアの混乱もほほえましいとばかり、ニコニコと温かい笑みで告げてきた。
「リーダー、いっつも鉄面皮であんまり自分の話をしないのだけれどね。幼馴染のヒーローさんの話だけは、もうこっちが勘弁して、はあん! ってくらいに、たま~に、ぶつぶつ無表情に延々語ってくれるのよ」
理解不能なりに、光景が目に浮かぶ。おそらく、周囲を想定しない、独り言の類だろう。
ユーリーは興味がないものには、本当に一切関心を払わないところがある。逆に一度執着したものには、周囲がドン引きするほど、ずっと構い続ける性質があった。
「あなたには色々聞きたいことも、話したいこともあるわ! でもまずは、スズキちゃんね。あのこ、また無理をしていないといいのだけれど」
「それはどういう?」
聞き返したアリアに、聖騎士は「うーん」と少し考えて、
「まあいいわ。スズキちゃん、実はとっても魔法の適性値が低いのよ」
それは自分が聞いてもいい話なのか。
アリアは止めるか一瞬悩んだが、聖騎士も考えがあって話しているようだ。
「つまりね、ほとんどGなの。よくてE-ってかんじね」
「えっ」
アリアが仰天したのも無理はない。
アリアのような呪物下請け業者ですら、平均はE。Gというのは、ほとんど適性なしということだ。
それがあんな物凄い魔法をぶっぱなしておきながら、どういうことだ、ともなる。
「量が足りなければ質で。質が足りなければ技で補えばいいのよ。技で補えなければ、何かを犠牲にして。あたし達は皆元は落ちこぼれ。でも人並み以上に努力してきた自負があるの」
だから、今こうしているのよ。
そうにっこり笑う聖騎士に、アリアは言葉を失った。
ときめいたなどといった、そういう類のことではない。
聖騎士がなぜこの話をしたのか。彼の意図は、口にされなければ分からない。
それでも、ただ、胸を打たれただけだ。
この夜、『災い』の一端を見たアリアが、部外者ではなく、禍中の人となるのは、戻って来たリーダーことユーリーが聖騎士殿に剣を向け、ひと悶着を起こした後のこと。
もめる二人をおいて、魔法使いの少女はぼろぼろの身体で杖をつきながらこちらまでやってくると、
「昼間はすみませんでした」
あっさり謝罪した。
面食らうアリアに、彼女は頭を下げ、強い、とても強い眼差しを向ける。
「私の名前はスズキ・ショーコ。字は、鈴に樹木の木。水晶の子と書きます。以前は日本人でした」
絶句するアリアをおいて。むしろ置き去りにして。
物語は幕をあけた。
切りのいいところなので、ここでいったん更新ハイペースストップかと思います。ありがとうございました。