僕がここにいる理由
もともとそこに永住するつもりで決めたわけじゃないマンションに住んで数年が経った頃になって、ずっと空き家だったお隣に誰かが引っ越してきた。ファミリー向けの分譲マンションに引っ越して来るんだからきっとファミリーか、そろそろ子供でもと考えている夫婦者だろう。そう勝手に決めつける。律儀な人なら挨拶に来るだろうし、挨拶に来ないのならこちらとしてもあまりかかわらずに過ごせばいいだけのことだ。
僕の第一印象はそんなもので、隣人が出来るからといって特別緊張したり身構えたりなんてことは一切なかった。ただその日の天気が雨か晴れかといったくらいにしか興味はわかず、変な勘ぐりにも興味はなかった。
そんな出来事をすっかりと忘れていた頃になって、僕は玄関近くに座り込んでいる小学生らしき少年を発見して固まった。珍しくもこの階には子供のいる家庭がなく、角部屋の僕の部屋の近くに子供が座り込むなんて事態は今までに発生したことがなかった。階を間違えたかと思わず反射的に表札に目をやったが、それは三度見ても自分の家を示していた。
仕方なしに事実を認め、僕は鍵を回して部屋に入った。だけど部屋の中に入っても脳裏には先程の少年の姿が残っていて、荷物を下ろしながら玄関を振り返った。
見た感じ、ああやって座り込んでそれなりに時間が経っているように見えた。恐らく、家の鍵を忘れてしまって中に入れないとかそういう状況なのだろう。まさか迷子になって座り込んでいるとかいうことはないだろうし、何かをやらかして廊下で反省中なんてことは学校じゃないんだから有り得ない。何かしらの事情があるのだろう。
だけどこの時、僕はあまりにもその少年のことが気になりすぎて、あまり物事を深く考えないようにした。荷物を置いて、そのままの足で再び玄関へと舞い戻る。サンダルを引っ掛け、外へ出た。
「きみっ」
少年はさっき見たところからぴくりとも動いていなかった。ただ僕の声に反応して首を動かす。
「そこで何してるの? 家に入らないの?」
とりあえず何も考えず、隣の子供だと決めつけて尋ねた。相手が子供でも怯むことなかったのは、仕事でも小学生に関わる機会があるからだろう。それに、子供は好きだ。下手な大人より付き合いやすい。
「カギ、忘れたから」
「家の人は? いつ帰ってくるの?」
この少年にしてみたら、初対面の怪しい男に見えたかも知れないけど、こちらとしても困っている様子の少年を放っておくほど無関心にはなれなかった。それに、少年の方は少し警戒はしている様子だけど、怯えているような感じではなかった。
「分かんない。でも、遅いと思う」
両親共に帰りが遅いという意味と解釈して、僕はどうしようかと頭をひねった。だけどすぐに結論は出る。この寒さの中、子供を独りで屋外に放置なんて出来るはずもない。それがたとえ赤の他人だとしても、だ。
「じゃ、うちに来なよ。外じゃ寒いでしょ」
相手を疑うことは知っているらしい少年はものすごく胡乱げに僕を見上げたけど、表札と僕とを見比べて、とりあえず僕がお隣の住人であることは納得したらしい。
「でも……」
「子供は遠慮しなくていいんだから。ドアには隣にいるってメモ貼っとけば大丈夫だよ」
ご両親の教育の賜物かまだ少し悩んでいるらしかったけど、寒さには勝てなかったらしい。ゆっくりと立ち上がってこっちにやってきた。間近に見ると、第一印象よりも少しだけ幼く見えた。
「お邪魔します」
子供らしくない律儀さだなと思った。だけどこうして小さい頃から鍵っ子で独りが多ければ、必然とこうなってしまうのかも知れない。そんなことを考えながら、僕は少年に同情した。
「どうぞ。あ、そうだ。名前聞いていいかな?」
「中島 直高」
それが僕と中島家とのファースト・コンタクトだった。
* * *
「おはようございまーす」
近所に小学校がある他には見事なまでに住宅しかない立地にある昔ながらのパン屋さん、それが僕の職場だ。パンは前日の夜に簡単に仕込んだものを朝焼き上げ、そして販売している。パン屋として販売を行うスペースよりも奥のキッチンのほうが広くて、従業員もほとんどがパン職人だ。
パン屋の朝は早い。朝一番早くてまだ日の入り前に出勤。その分終わりは早いんだけど、一番忙しいのは朝だ。それに、パンを作るのはかなり体力がいる。五時や三時に仕事が終わっても、正直その後どこかへ繰り出す元気はあまりない。たいていは家でぐったりして過ごすことになるのがオチだ。
「ヒロシくん、今日川原小までおつかい行ってくれる?」
僕の働いている「ウチキパン」の従業員平均年齢は四十代。そのほとんどが僕より年上の人、それも下手をすれば僕の親ぐらいの年代の人ばかりだ。中でも一番若い僕が使い走りにされるのは当然のことなのだろう。
「え? 何の用ですか?」
「あれよ、今度のお弁当日の」
店から最寄りの小学校、川原小学校は敷地内に給食室を持つ小学校だ。そこは月に一度ぐらいの割合で「お弁当持参日」というものが設定されている。その日は給食がお休みで、お弁当を持ってこないとお昼ごはんがないという状況になる。だけど中には親御さんが忙しくてお弁当を用意することが出来ないという家庭もある。そういう子のために、うちのパン屋でお弁当の注文を受け付けるのだ。
お弁当日以外にもクリスマスやバレンタインデーなどの特別イベントの日には給食用のパンが発注されたりする。それ以外にも職員が行きがけや帰りがけに寄って買っていってくれたりする。そうした付き合いが昔から続いているのだそうだ。
イベント用のパンの打ち合わせやらお弁当日やらで川原小まで出向くのも、最近ではもっぱら僕の仕事と化している。今ではもはや「パンのお兄さん」として小学生たちに有名になってしまったぐらいだ。子供は嫌いじゃないというか好きだからいいんだけど、何かくれとたかられるのは正直勘弁して欲しいところだ。
「お弁当日っていつでしたっけ?」
地元の不動産屋から毎年もらっている大きな表示の壁掛けカレンダーを見ながら尋ねる。お弁当日は決まって毎月中頃だ。カレンダーには赤ペンで大きく丸が書かれ、これ見よがしに「弁当」と記入されていた。
「今週末ね」
毎月のことだから前もって準備はされているし、日付を失念していたからといって何か問題が起きるわけではない。一番忙しいのは前日や朝のことだし、今週末と迫っていても特別焦る理由はなかった。
「分かりました。放課後に行ってきます」
「お願いね」
僕がこうして出向くようになる以前、川原小への打ち合わせにはこのパン屋の店長の奥さんである加奈江さんがやっていた。だけどいつの間にか引継ぎされていて、僕が行くのが当たり前のような状況になっていた。加奈江さんは年齢的にもう表に出る仕事をせず、奥の事務所に引っ込んで仕事をしている。だけど店を支えているのは彼女に他ならない。
この店は開店してから長いが、いろいろあって今まできている。店長を含め従業員全体の年齢も上がってしまって、これからどうなるのかは僕にはあずかり知らないところだ。一番若い僕がこの店を継ぐと考えている人もいるみたいだけど、こればっかりは店長義光さんが決めることだ。
時々無駄口を叩きながらいつもどおりに生地をこねて成形して焼いてと作業をこなしていると、あっという間に時間は過ぎる。三時頃には明日の準備をしているし、僕の場合は店のレジ当番を任されることもある。基本的に僕は何でもこなす何でも屋の立ち位置だ。
店にやってくるお客さんは近所の方々がほとんどで、時々雑誌に取り上げられて遠方から来る方もいることにはいるけど、そういうことはそう滅多にない。小学校が終わる時間になると、川原小の子供たちがパンの耳欲しさにやってくる。いまどきのませた子供でもこういうものを欲しがるのだと思うと、多少生意気でも可愛く見えてくる不思議だ。
「ヒロシくん、もう行っていいわよ」
犬の散歩ついでに買い物に寄ってくれていた奥さんを見送っている背中に声をかけられ、ふっと我に返った。時計を見ると時刻は自分の中の予定時刻を過ぎていた。思いっきり素で「あっ!」という声がこぼれた。
「すみません、行ってきます」
小学校の授業は遅くとも三時には終わっている。先生や職員に用があって小学校を訪れる際は五時を過ぎないように気を付けないと、彼らは五時が定時だ。少なくとも三時にはここを出て川原小へ向かおうと思っていたのに、うっかりしていた。
直帰するつもりで荷物を持って慌てて店を出ると、先生方に持って行きなさいとパンを渡される。いつもこうやって差し入れなんか持って行くから子供たちに「パンの人」呼ばわりされるんだろう。
放課後とあって人気が少ないが、まだ遊んでいる子供たちが見える川原小は、もう勝手知ったる土地だ。職員用玄関に向かう途中で数人の小学生たちとすれ違っても怪しまれることもない。もう既に知っている人というくくりに入っているんだろうか。
「あれ? ウチキパンの小倅じゃねえの」
職員玄関でスリッパに履き替えている途中で声をかけられ、反射的に営業用の笑顔を浮かべて振り返った。そこには古参の教師である渡辺先生が自分の靴を持った状態でこっちを指さしていた。この近距離で指をさす必要はないだろうけど、そういうことをわざとするのが渡辺先生だ。
渡辺先生は僕のことをまだ一度も名前で呼ばずにこうした変な呼び方をするから少し苦手だ。「ウチキパンの跡取り」というのだけはやめてもらったけど、どうもそうした呼び方が好きらしい。
「こんにちは、渡辺先生」
「なになに、何の用? あ、お弁当日か」
五十代ぐらいなのだろう渡辺先生はちょっと昭和のノリだ。個性的だからか子供たちからは好かれる半分、嫌われる半分ぐらいの割合だ。親御さんから何度か苦情をもらっているらしいのだけど、教育に対する熱心さでは他の先生たちから頭一個出ているという印象だ。僕個人的にはこういう先生は面白いから好きだけど、嫌いだという子の気持ちも理解出来る。
「そうです。マミ先生どこにいました?」
僕が小学校に通っていた時代は、何て言うかもっと頭の硬い面倒くさい教師が多かった印象が残っている。とは言え僕はこの川原小の出身じゃないし、もっと難物の多い学校だった。僕の中で最悪の記憶は高校の時だから、余計ここが平和に見えるのかも知れない。
「中川か? どうせ職員室だろ」
定時前にそそくさと帰ろうとする渡辺先生と相反するように、僕が今日会いにきたマミ先生こと中川先生は、いつ来ても校内にいるようなタイプだ。若い独身女性なのに既に結婚する気はないと公言するゲームオタクで、休日はゲーム三昧だと胸を張って自慢げに言われたことがある。それ、自慢になってないけど。
マミ先生は気さくすぎるその性格から生徒たちにも好かれていて、中でもゲームオタクの知識が男子生徒との交流に役だっているらしい。それでも校内でのゲーム禁止令を出したのは彼女らしい。それには当然自分も含まれるから、もしかしたら自制も含まれていたのかも知れない。
「渡辺先生はもうお帰りですか?」
「おう。中川によろしく」
厭味のつもりが嫌な返し方をされてしまった。微妙な表情をしていると、渡辺先生はそそくさと帰って行ってしまった。時計はどう考えても五時前を示していたけど、そこを指摘するのは僕の仕事ではない。
自由すぎる校風というのもやや困ったものだなと感慨にふけりつつ、勝手知ったる何たらで職員室を目指す。さすがに校舎内にはもう生徒の姿もなく、どこもかしこも子供サイズに作られている物を何となしに眺める。
川原小の職員室のドアは基本的に開けっ放しで、そういう状態の時は必ず中に誰かしらがいる。僕の顔はほとんどの職員に割れているから、遠慮することなく職員室に踏み込んだ。
「マミ先生いますか?」
定時の五時まで残すところあとわずかという時であっても、そうでない時でも閑散としている職員室には、見慣れたメンツだけが残っているようだった。その中の一人がマミ先生だ。
「はいはい。そこの空いてる席使うから」
マミ先生は若いし、別に立派な肩書きがあるわけでもないのだが、やけにその発言に力がある。というのも、彼女は普通に考えれば誰もやりたがらない面倒ごとを進んで引き受ける。それが幸いして、彼女の意見は優先されやすくなっているらしい。こうした土台作りが上手いから好き勝手していても怒られないのだと彼女を見ていると勉強になる。
マミ先生は女子を捨てたなと思わず口をつきそうになるような、ジーパンにパーカ姿だった。思わず反射的にじろじろと見てしまってから、失礼にならないよう努めて自然に視線を逸らした。マミ先生は僕に見られているのが分かったのか、肩を竦めて持っていた書類を机に置いた。
「今日は校庭掃除やったの。いつもこういう格好してるわけじゃないの知ってるでしょ」
このあたりで働いている中で、マミ先生と僕は唯一の同世代だ。このあたりで働く場所がどれだけあるのかと訊かれたら数えるぐらいしかないから、唯一といってもかなり限定された地域での話ではあるのだけど。それでも周囲が四、五十代で固められていれば、ぎりぎりで二十代の二人が仲良くなるのは当然の結果だろう。
「いや、マミ先生ならやりかねない……」
僕の軽口に容赦のない蹴りが飛んでくるのはいつものやり取りだ。マミ先生とは男女というよりは姉弟や悪友のような感覚だから、この手のスキンシップは日常茶飯事だ。さすがに僕の方からマミ先生に手を上げることはないけど。
「お弁当日の件だったっけ?」
男に甲斐甲斐しく尽くして女子力を上げるよりも、家でゲームをしていたほうがよっぽど有意義だと宣言しているだけあって、マミ先生には女子力のかけらもない。前にマミ先生の買い出しに付き合った時にも、男と二人で出かけるっていうのに普段と大差ない動きやすさを重視したシンプルな格好でやってきたことがあった。その時たまたまマミ先生のお友達に出くわした時でさえ、見栄を張るでもなく馬鹿正直に「取引先の人」とかつまらない返答をしていた。そういう時ぐらい僕を利用すればいいのに。
「今回も前と同じ条件でいいんだよね?」
ウチキパンと川原小は一蓮托生気味なところがあって、うちのパン屋の収入で川原小から入ってきているものの割合はかなり大きな割合を占めている。川原小としてもこうしてお弁当日やその他のイベントが成り立っているのも、うちの協力あってこそだ。
「あんまり気合い入れないでくれると助かる。前回ウチキパンのお弁当が食べたいってダダこねた子がいて大変だったんだから。その子のお弁当、見事に冷食ばっかりでさ」
「って言われても……」
うちからお弁当日に提供しているお弁当は、コロッケパンとメロンパンという若干ショボめのセットだ。月によってパンの種類は変えているものの、お世辞にも豪華とは言い難いラインナップのはずだ。お弁当は一人前三百円が予算。川原小が保護者から徴収して払ってくれている。
「それと、今回から職員の分も生徒と同じでいいから」
お弁当日は給食室自体お休みになってしまうため、職員全員もお弁当だ。いつもなら職員分のお弁当をうちで用意している。生徒の分と違って、職員用のお弁当の予算は五百円。偏りがちな栄養を配慮して野菜多めのサンドイッチを作ったりしている。
「どうして?」
「そのダダこねた子が、職員用のお弁当を見て言ったから」
そう言われたらこっちは大人しく従う他にない。言われてみれば確かに生徒は教師が食べているお弁当もウチキパンのものだと知っている。わがままを言えばそれが食べられるかも知れないと考えるのは当然だ。
「私としてはかなり不満だけどね。会議で決まったことだから仕方ないし」
マミ先生はうちのお得意様だ。朝と帰りにうちのパンを買っていくし、週末には買い込みさえしていくこともある。彼女曰く、コンビニでパンを買うぐらいならウチキパンで買っていくとのことだが、パンばかり食べているマミ先生の身体が心配だ。
「ああ、でもね、その代わりに来月から新しくおやつの日っていうの作ろうと思ってて」
初耳のイベントに思わず顔をしかめる。川原小はさほど大きな学校ではないにしろ、小さくもない規模の公立学校だ。ウチキパンみたいな個人経営のパン屋が全生徒分のパンを納めるのにはそれなりの苦労があってのことだ。一回のイベントで作る量は一日分よりも多いことだってある。
現時点で川原小からの注文は月二回のペースだ。一つはお弁当日で、もう一つはパンの日。あとは季節の行事もあわせて時々あるだけだ。
「それ毎月?」
「まだ会議通してないから確定じゃないんだけど、一応毎月ってことにしてる。でももしかしたら隔月になるかもね」
純粋に収入が増えるのは良いことだとは思うけど、その分従業員の負担がかかるというのなら、断らざるを得ない。川原小も同じようなものだけど、うちのほうが平均年齢が高いのだからなおさらだ。
「毎月ってのはきついかも。こっちも相談してみるけど、出来れば隔月がいいかな」
「ハングリー精神に欠けるわね」
「ハングリー精神で倒れたりしたら洒落にならないから」
首を振りながら肩を竦めたマミ先生だってこっちの現状を理解しているのは確かだ。お互い口にはしないものの、お互いの職場の抱える問題はほとんど同じだ。
「あ、そういえばサナん家のマンションに越してきた子いたでしょ」
唐突に話題がかわっても動ずることはなかったけど、一瞬何を言われているのか分からず、言葉に詰まった。しかしすぐに理解が追いついてきて、何とか頷いた。
「直高くん?」
「いや、私名前まで覚えてない」
「中島さん?」
「そうそう」
自分で振った話題なのに随分と適当な記憶だ。そう思っても口にしないのが大人のマナー。というよりはマミ先生との上手い付き合い方だ。
「あの子、友だち作らないんだか作れないんだかで、まだ一人でいることが多いんだよね」
時期も半端な頃合いに引越しをすると、友だちを作るのは難しい。特に直高くんの場合はクラス持ち上がりの二年生だ。よほど人見知りしない物怖じしない子じゃないとすぐに溶け込むのは難しいだろう。
「うーん、中島さんところ、お父さんの帰り遅いみたいだしね」
玄関先で座り込んでいた直高くんを家に上げて以来、直高くんはほとんど毎日のようにうちに来ている。特に何をするわけでもなく本を読んでいる直高くんの姿は、いつもこうして時間を潰しているんだろうなと思わせる。何となく話しかけにくくて詳しいことはあまり聞いていないけど、昔からずっとこんな感じだったんだろうなということは想像に難くない。
「あそこのお父さん、夜勤もあるらしいのよ。それでシングルファーザーだってんだから、少し可哀想よね」
僕の住んでいるマンションは三LDKファミリー向けだ。そんなところに引っ越してくるのだから、中島家はてっきり家族三人なのかと思っていたけど、その内訳はお父さんと直高くんのふたりきり。それを知ったのは一番初めに直高くんをうちに上げたときだ。
どうやら母親はかなり前に亡くなっているらしいのだけど、直高くんはその年令の割に冷静にそれを受け止めている様子だった。未だ両親健在の僕としては早くに母親に旅立たれ、父親も仕事が忙しくてほとんど独りで過ごすということが想像さえもつかなかった。
「僕も直高くん預かることあるけど、あまりお父さんには会ったことないんだよね」
心配だよね、と続けようとして、はたとマミ先生がこっちを疑うような目で見ていることに気付いて、つい首を傾げる。
「あんた、まさかとは思うけど……」
まるで犯罪者を見るかのような目つきで見られては黙っちゃいられない。僕は慌てて首を横に振った。
「ただ純粋に預かっただけだよ? 僕を何だと思ってるんだよ」
自惚れているわけではないけど、自分のルックスは悪くないと自覚がある。学生の頃からそれなりにモテたし、告白されたのも片手じゃすまない。それに、人より頭一つ分飛び出る長身は高得点だろう。
そんな僕を捕まえて、マミ先生は未だに犯罪者や汚物を見るような顔つきのままじとーっとこっちを見ている。たしかに彼女は僕のことをよく知っているが故に疑いたくなる気持ちは分からなくはない。だけどそれにしたって酷い。
「だってあんた、別れたって言ってたから今フリーよね」
「直高くんは小学生だよ? ちょっと信じらんないんだけど」
マミ先生がこっちの事情に通じているのは、結局のところ近場にいる親しい友人がお互いしかいないからだろう。ほぼ毎日顔をあわせているし、お互い性別を意識していないせいで相談も気軽にしている。そのせいで嫌でも事情通だ。
「ほんと、僕のこと何だと思ってるの?」
「ホモ」
どきっぱりと言い捨てたマミ先生の口を叩く勢いで塞ぐ。それでも不安は拭いきれず、今の会話を聞いていた人がいないかどうか職員室内を見渡した。そこには僕らの他に副校長先生ぐらいしか姿は見えず、そしていつものように副校長先生は寝ているのか起きているのかやや微妙な様子だ。
「マミ先生ぇ……」
「大丈夫だって。私が言いふらすように見えんの?」
「見えるから言ってるんだよ……」
とどのつまり、僕とマミ先生とでは恋愛観どころか恋愛対象が違うからそういう関係にはならないのだ。僕はかなり以前から自覚している同性愛者だし、マミ先生は恋愛よりもゲームをこよなく愛する人だ。だからこそ友情が成り立つというわけだ。だけど事情が事情なだけに公言は出来ず、誤解されるわけなんだけど。
「それに、今は恋愛とか考えたくないし」
言い訳にしか聞こえないかも知れないけど、今言ったことは真実だ。マミ先生の指摘通りついちょっと前にほぼ同棲状態にあった奴と別れたばっかりだし、仕事にも集中したい。
「まあ、そのあたりは信用してるんだけどさ」
信用しているならその笑えない冗談はやめてくれと切実に思ったけど、マミ先生がこのネタを手放さないことはわかっているからため息がこぼれる。
「でもね、本当に中島くんとこは心配なんだよね。お迎え日もお父さん来れないみたいだし」
お迎え日というのは正式名称「お迎え下校日」といって、その名の通り、保護者が子供を迎えに来て一緒に帰るというだけのイベントだ。たった一日のことでも、それが出来ないという保護者は意外と多いらしい。最近は両親共働きという家庭が多いからだろう。
お弁当日だお迎え日だと何かとつけて保護者を巻き込みたがる行事の発案者はたいていマミ先生だ。いまどきの小学校は出来る限り保護者と関わり合いになりたくないという姿勢のところが多いけど、マミ先生の考えは違う。自分の子供のことぐらい把握しておけ、というのが彼女の考えだ。
「そしたら直高くんは僕が迎えに来ようか?」
「委任状」
言っている本人が一番面倒くさそうな顔をしているのが何とも言えない気分になる。だけど今のご時世、口約束では何も出来ないのだから仕方がない。何をするにしても書面における保護者の同意が必要となる。その一手間を省いて何かをすれば、PTAだ教育委員会だが出てきて面倒な事態に発展することになる。
「……相談してみる。用紙もらっていい? 最悪当日でもいいだろ?」
面倒くさそうながらもちゃんと教師の顔をして、マミ先生は僕を品定めするかのようにじろりと見る。それから渋々といった様子で頷いた。面倒くさいのはお互い様だ。
* * *
僕の帰宅時間に合わせて学校を出るようにしたらしい直高くんを家にあげて、いつものように夕飯を作っていると、珍しくも直高くんがソファで眠ってしまっていた。声をかけても起きる気配はなくて、僕は仕方なしに自分のベッドに直高くんを運んだ。大の大人でも広すぎるベッドに直高くんを下ろす。
直高くんの分も作ってしまっていた夕飯の始末をどうしたものかと考えながらぼんやりしていると、インターホンが来客を知らせた。その呼び出し音にはっと我に返り、慌てて玄関へと向かう。
「こんばんは。毎日毎日すみません」
玄関扉を開けたところにいたのは、元は精悍な顔つきなのだろうが疲労でやつれてしまっている直高くんのお父さん、直也さんだ。既に直高くんと知り合ってしまっているから、彼のことを中島さんと呼ぶ機会は一度もなく、下の名前で呼ばせてもらっている。
「今日直高くん疲れていたみたいで、眠っちゃってるんですよ」
いつもなら直也さんが迎えに来ると直高くんがやや不愛想に自宅へ戻っていって話は終わる。今まで僕の家にいる間に直高くんが眠ってしまうようなことはなくて、対応に困った。しかしそれに困ったのはどうやら僕だけではなかったようだ。
「え……? 直高、寝てるんですか?」
その反応だけでも充分に今回のことが異例なのだということが伝わった。でも確かに直高くんは大人びて落ち着いている子だから、どこでもかしこでも眠ってしまうようなタイプではないだろう。自分のテリトリーというか安全圏でない限り、警戒を怠らないようにしているように見える。
ということはつまり、直高くんは僕に対して少しは気を許してくれたということになるのだろうか。これは嬉しい誤算だ。頑なな少年に認められたというのは、どこかなかなか懐かない猫を撫でさせてもらえた時のような達成感がある。
「夕食前にソファで寝ちゃって。一応ベッドに移動はさせたんですけど、それでも起きる様子はなかったです」
いつもなら玄関でさようならをするはずだったけど、今日はそうもいかなくて、僕は直也さんに中にはいるように言って奥に引っ込んだ。寝ている直高くんをそのまま連れて帰るのかどうかはお父さんである直也さんが判断するところだ。僕が口出しするところではないだろう。
「お邪魔します」
何の変哲もないただの挨拶だったのに、それが改めて自分の家に他人を上げるということを意識させた。今まで自分の家というプラベートな空間に誰か他人を上げたのは、そういう目的でのみだった。
そう考えた途端に何だか急に恥ずかしくなってきて、思わず視線を彷徨わせた。この人はそういう相手じゃないんだと自分に言い聞かせてから振り返り、少しだけ後悔した。
「何か本当にすみません」
言い訳のようにしか聞こえないかも知れないが、本当に今まで直也さんのことは「直高くんの父親」として付き合っていて、そういう目で見たことはなかった。だけど今こうして改めて見てみると、彼が意外と自分の好みのタイプだということに気がつく。
精悍な顔立ちに大きめの口、小難しげそうな眉に、ごつくて長い指。痩せてるけど筋肉のついているしっかりとした身体。そしてお父さんといった優しげな表情。意識するまいと考えれば考えるほど意識してしまう。
「あ、いや、別に……」
「直高、連れて帰りますね」
直也さんの声にはっとして反射的にその進路に立ちふさがる、そこまでしてから自分がしたことを認識して、いったい何がしたかったのかと我に返る。
「あっと、その、良かったらこの残っちゃた夕飯、食べていかれませんか?」
まさかそんな提案をするとは思っていなかったのだろう。直也さんの表情は微妙だ。たしかにいきなりそんなこと言われても困るだろう。第一、もしかしたら直也さんはもう夕飯を済ませている可能性だってある。それを確認もせず誘うなんて馬鹿げている。
「でもご迷惑じゃ……」
むしろ直也さんに迷惑をかけたような状況になってしまったことに気付かされたけど、言ってしまったあとでは遅い。どうしていいのか分からずに視線が泳いでいると、直也さんの側から助け舟を出してくれた。
「直高の分ですよね。まだ夕飯食べてないので、いただいていいですか?」
自分から言い出したことなのに自分が情けなくて恥ずかしかった。穴があったら入りたいとは今まさにこの状況のことだ。仕事帰りで疲れているだろうに、こんなくだらないことで気を遣わせてしまって本当に申し訳ない。
「夕方に寝たんなら、もう少ししたら起きてきますよ」
まるで慰めるかのように微笑まれて、僕は恥ずかしさのあまり料理を温め直すのを口実にその場から逃げ出した。それでもオープンなカウンターキッチンでは不自然に顔を背けない限り直也さんの姿が視界に入る。さすがにそのあたりは諦めてぐるぐると電子レンジの中で回る皿をじっと見つめた。
「すみません。適当に座っててください」
言ったもの、うちには座るものはリビングとダイニングをそのまま続けで使っている空間にあるソファしかない。机もそのソファにあわせておいてあるローテブルだけで、一般的な家から考えたら驚くほど生活空間として使いにくいだろう。ソファは大の大人が横になって寝られるほどの大きさだが、そこに座ってご飯を食べるには些か食べづらい。一人なら気にしないだろうけど、二人だと若干微妙な雰囲気になることは間違いない。
おまけとばかりにこの家にはテレビがなくて、あるのは音楽コンポだけだ。プレイヤーも楽曲をデータ化している関係でものすごく小型のものがちょこんとアンプの上にあるだけで、使い方を知らなければいじるのも難しいだろう。家具に関しては完全に自分のためだけにセットしたものだけあって、お客さんのことなど一切考慮していないということを今さらながら思い知らされる。
「良かったらそれ、いじってて大丈夫ですよ」
興味があるのかそれとも他に見るものがないからか、直也さんはぶらぶらとその音楽コンポに近寄って眺めていた。特別面倒くさいセッティングをしているわけでもないが、わかりやすい構造をしているわけでもないそれをいじれるかどうかは分からなかったけど、一応声をかけておく。
引っ越す前はレコードやCDなんかも結構持っていたんだけど、引越しを機にすべてデータ化してしまったから今じゃ逆にスペースが空いちゃって少し虚しい。データはデータでいいところは多いんだけど、時々無性にレコードのノイズ混じりの音が聴きたくなる。
電子レンジを見つめながら感慨にふけっていると、スピーカーから静かに音楽が流れ始めた。その音に反応して直也さんに目をやると、彼は何やら興味深そうにコンポ周りをいじっている。
「あ、そういえば直也さんって技術系のお仕事でしたっけ?」
思い出したままを口に出すと、機器をいじっていた直也さんが虚を衝かれたようにこっちを振り返った。
「言いましたっけ? 俺の仕事」
直也さんについては直接本人からよりもその周囲からの情報がほとんどだ。直也さんとこうしてゆっくり話すのは今回がほとんど初めてで、向こうからしてみればほとんど情報がない状態なのだろう。僕は失敗したかなと思いながら笑ってごまかす。
「直高くんから、少しだけ聞いて」
温まった料理を運んでいくと、直也さんはソファに躊躇いがちに座った。真ん中ではなく端っこに座ったのは遠慮してというよりは習性っぽい動きだ。
「本当に懐いてるんですね。直高が外で寝るのも珍しいんですよ」
父親からそういう風に言われるのは何だか少し恐縮だ。だけどその反面、少しだけ嬉しい気もする。
「せっかくこうしてお隣に住んでるんですから、遠慮しないでください。料理の方も遠慮なく」
直也さんはテーブルの上に広がった洋食メニューを感心しているのか呆れているのか微妙な表情で見やってから、躊躇いがちにフォークに手を伸ばした。もしかして嫌いな食べ物でもあったのか、それとも全体的に苦手な料理だったかと不安にかられる。
「こんなに面倒見が良くて料理上手じゃ、モテるでしょう? 俺は料理がほんと苦手で。尊敬します」
中島家の食事事情が悲惨だということは直高くんに聞いて知っていた。帰りの遅い直也さんが惣菜やお弁当に走る気持ちは分からなくはないけど、育ち盛りの直高くんにそればっかり与えるのはあまり良くない。差し出がましくも直高くんの夕食を作ると言い出したのは、その話を聞いてからだ。
「直也さんはいつもどうなさってるんですか?」
直高くんの食生活は僕の家で夕食を食べ始めてから格段と良くなっただろう。だけど、直也さんがどうなのかは分からない。きっと会社に行っている間は外食だろうし、夕食だって外で食べてきているのがほとんどだろう。
「恥ずかしながら外食と店屋物ばかりですよ」
想像通りだとは言っても、あまりよろしくない食事環境に思わず顔をしかめる。完全に仕事モードだ。僕は一応栄養士の資格も持っているから、あまりにも身体によくない食生活を聞くと黙っていられない。
どうせなら直也さんの食事も僕が作れば食生活は段違いに改善されるだろう。お弁当でも作ってあげたいなと考えてから、そのアイデアに目を見開く。
「そうだ! よかったら直也さんのお弁当、作りましょうか?」
ぽかんとした直也さんを置いてけぼりにして、僕の妄想は広がり続ける。
「僕朝早いし、作るのは好きなんで迷惑とかじゃないですから。ただ和食はあまり作らないので洋食中心にはなっちゃうと思うんですけど」
いきなりまくし立てた僕をあっけに取られた様子で見つめる直也さん。その気持は分からなくはないけど、僕の中ではこのアイデアがあまりにも画期的で、今から既にどんなお弁当にしようかなんて考えている始末だ。直也さんによく思われたいという下心と、彼の体調を本気で心配しているのと、ただ弁当を作りたいという欲望が三対四対三ぐらいの割合でせめぎ合っている。
直也さんにしてみたらただの隣人が何故そんなに面倒を見てくれるのかと不思議に思うかも知れない。普通に考えたら子供を預かるだけでも相当なお節介だろう。その上お弁当だ。これで申し出をしているのが女性なら自分に好意があるんじゃないかと疑うところだろうけど、生憎とこっちの性癖はまだバレてない。
「直也さんが倒れたら直高くんが大変じゃないですか。頼ってください」
子供を引き合いに出すのは卑怯かと思ったけど、こうでも言わない限り頷きそうもない雰囲気に、咎める良心を無視することに決め込む。直也さんは苦虫を噛み潰したような顔をして渋々頷かされているかのようにこちらの提案を受け入れる。
「食費は出すから」
きっとそう言うだろうと思ったし、そこは断れないだろうと思い、素直にその条件を受け入れる。直也さんのことだから、きっと必要な金額よりも多く渡してくるだろうことは分かっていたけど、そこは大人しく受け取ることにしようと思う。貯めといて、そのうち直高くんのために使って還元すればいい。
隣人のちょっと好みの人に毎朝お弁当を作る。そんな小さなことに浮かれている自分には気がついていたけど、これ以上浮かれて勘違いしないようにしないといけない。ことある度に直高くんのことを考えよう。そうすれば大丈夫だろうと心に決める。
* * *
「先生さよーならー」
子供が生意気だというのは本当だけど、川原小の子供たちは比較的素直な子が多い気がする。と思うのはまだ僕が部外者という立ち位置だからか、あるいは贔屓目に見ているからだろうか。
「はいはい、さよーなら」
昇降口でやる気なさそうに手を振っているマミ先生は今日が保護者が子供たちを迎えに来るお迎え下校日だからか、いつもよりオシャレしているように見える。その割には態度が伴っていないけど、それがマミ先生だ。
「マミ先生」
「サナ?」
ひらひらと手を振ると、まるで不審者が近寄ってきたかのように警戒を露わにするマミ先生。だけど僕は動ずることなく三つ折りにした所定の用紙を差し出した。
「今日は直高くんのお迎え」
マミ先生は僕の手から同意書をひったくって、その中身を確認する。彼女は僕の筆跡を知っているから、その同意書が捏造偽造の類ではないことは見れば分かるはずだ。でもその同意書はちゃんと直也さんに書いてもらったものなんだけど。
「あんた、本当に大丈夫?」
「それ、どういう意味?」
流石に白昼堂々と露骨な詮索をする気はなかったのか、マミ先生は不満そうな顔を隠そうともせず同意書をファイルの中にしまい込む。こういうとき、信頼されてるんだかされてないんだか、本当に疑わしくなる。
「心配しなくても、小学生は圏外だって」
「分かってる」
何だか複雑な表情をしているマミ先生の肩を慰めるように軽く叩いて通り過ぎると、彼女は容赦なくこっちの脇腹を突いてきた。思わず変な声が出たけど、構わず校舎に向かった。
お迎え日は放課後、保護者が教室に子供を迎えに行くというだけのイベントだ。それだけなんだけど、迎えを待っている子供たちは楽しそうだ。そわそわと教室内で自分の番を待っている。廊下に出ている子も少なくはないが、ほとんどの子が教室内で待っている。
ちょっと迷ってからようやくのことで見つけた二年生の教室を覗き込むと、どこも同じように生徒たちがわきゃわきゃしていた。その中の何人かが僕のことに気がついて指をさす。
「パンの人だ!」
まるで何かのテレビコマーシャルみたいな反応に思わず笑みがこぼれた。迎えまでのヒマを持て余していた生徒たちは見知った顔にわらわらと近寄ってくる。流石にもう警戒されたりはしない。
「何しに来たの?」
「パンはー?」
確かにいつも来るときは何かしらのパンを持ってくるから子供たちがそう思うのは無理もないけど、それだけだと思われるのも何だか寂しいものがある。でもこうして無邪気に慕ってくれるというのは何だか嬉しい。
教室内を見回すと、こっちを見ていながら動かずに座っている直高くんと目が合った。僕のことには気付いていたのだろうが、他の生徒たちに気兼ねして動かずにいたようだ。そういう気遣いは小学二年生がするものじゃないだろう。
「はいはい、ごめんねー。今日は何もないよ」
目が合ったまま頷いてみせると、直高くんは黙って帰る支度をし始めた。群がる子供たちを邪険にしないように退かせて直高くんの方へ向かう。
「お待たせ」
「ん」
子供たちが何で転校生を迎えに僕が来るのかと大して小さくもない声で囁き合っているのが聞こえる。失敗したかと思って直高くんを見遣るけど、彼はそれに気付いている様子で小さく首を振っている。気にするなということなんだろうけど、それをこんな小さな子にさせる僕って一体どれだけ馬鹿なんだろうかとちょっと呆れる。
「帰ろ」
僕が躊躇っていたせいか、直高くんの方から僕の手を引いて教室を出ていく。妙な注目を集めながら教室を後にして、何となく心につかえが残る。これが原因でもし直高くんがいじめにでもあったらと思うと直也さんに合わせる顔がない。
「今日の夕飯、なに?」
いつもは訊いてこないのに、一体どんな風の吹き回しかと訝しんでから、それが直高くんの気遣いだと気付く。僕が彼ぐらいの年頃のときはそんな気遣いなんて出来なかっただろう。僕はあまりにも情けなくて恥ずかしかったけど、これ以上彼に気を遣わせないよう努めて明るく振舞った。
「職場でパンもらってきたから、一緒にパンプディング作ろうか。今日は直也さんも一緒に食べるって」
「ほんと?」
何だか直高くんの面倒を見ているつもりだったけど、直高くんにも直也さんにもいろんな面で助けられているような気がする。マミ先生が心配するのも無理はない。以前の僕だったらこんな甲斐甲斐しく他人の世話なんて焼かなかっただろう。
「さようなら、先生」
校門にはまだマミ先生が立っていて、直高くんと手をつないでいる僕に彼女は厳しい目を向けていたけど、僕はそれに気付かないふりを決め込む。このつないだ手には何もやらしい気持ちはない。それに、これは直高くんからつないだ手だ。
「さようなら、マミ先生」
「……さようなら」
マミ先生は僕のことも直高くんのことも、友人として、教師として心配しているのだろうことは分かっていた。それだけにちょっとした罪悪感は残るから、今度甘いものでも差し入れしようと心のメモに留める。そうすればきっと分かってもらえるはずだ。
* * *
朝は少し早く起きて直也さんのお弁当を作る。それをお隣に届けてから出勤して、早番で店に入る。三時頃には仕事が一段落ついて、四時前には上がることが出来る。時々直高くんと一緒に帰ることもあるけど、友だちが出来たらしい直高くんは最近帰るのが少し遅い。だから僕はたいてい一人で帰る。
家に帰ると夕食の準備をして、直高くんや直也さんの帰りを待つ。それらが当たり前になりすぎてしまい、中島家が隣に越してくる前はどうしていたんだったかもう分からなくなっている。ついちょっと前まで同棲していた奴がいたなんてことすら忘れかけている。
僕は今までまともに恋愛をした覚えがない。同棲していた奴も、同棲というよりは相手の方がここへ通って来ているような状況で、平たく言ってしまえば愛人のような立場だった。多少の好意はあったのかも知れないけど、そんなものよりも奴に対しては義務感のほうが強かった。
この土地に引っ越してきた理由は、マミ先生にも本当のところを言っていなかった。人様に気軽に言えるようなものではなかったということもあるけど、知らなくていいことだと思ったから言わなかった。たぶんこのあたりの事情はマミ先生よりもウチキパンの店長である義光さんやその奥さんである加奈江さんの方が詳しいだろう。
そう言えば、と考えたところでケイタイの着信が鳴って、思考が中断される。僕のケイタイにはそう滅多に着信なんてない。何だろうと画面を見遣った瞬間、嫌な予感に背筋がゾッとした。
「はい、真田です」
画面に表示されていたのは、僕の勤め先であるウチキパンだ。店から電話が来ることなんてそうない。何もなければ連絡なんて来ないはずなのだから、こうして連絡が来たということは何かトラブルが起きたという可能性が高い。
『ヒロシくん、落ち着いて聞いてくれる?』
スピーカー越しに聞こえた声は加奈江さんのものだ。電話越しには落ち着いているように聞こえるけど、気のせいか少し緊張しているようにも聞こえなくはない。
「どうしたんですか?」
今日、店は定休日だ。店で何かトラブルがあったというよりは、内木家で何かが起こったのだろう。今あの家には義光さんと加奈江さんの二人が暮らしている。加奈江さんがこうして連絡を寄越したということは、義光さんの身に何かが起こったと考えるのが妥当だろう。もっと様々な可能性もあるけど、思いつくところだとこうして連絡がということはその思い当たる節もいくつか削られる。
『うちの人が倒れたの。熱が出ているだけで他に異常はないみたいなんだけど……』
「今から行きます。落ち着いて」
義光さんはもう六十を超える。普通に会社勤めをしていれば定年もすぎる頃なのに、今でも現役でウチキパンを経営している。経営が安定していれば何の問題もないだろうし、負担になるようなことでもない。だけど、あの店は僕が知っているだけでも一度、大きな問題に直面したことがある。
『ヒロシくん……』
「大丈夫ですから、落ち着いて。じゃ、またあとで」
僕の声は落ち着いて聞こえただろうか。傍目には冷静に対処しているように見えたかも知れないけど、今僕は自分でも笑っちゃうくらい動揺していた。もしかしたら実の親が倒れたと聞かされるよりも遥かに動揺しているかも知れない。
僕はこの土地に引っ越してきてからというもの、内木家にはいろんな面でとてもお世話になっていた。義光さんたちのことは実の親よりもよっぽど親のような気がするほどだ。
ふと見下ろすと手が震えていた。思わず声に出して「大丈夫」と繰り返し自分に言い聞かせる。つい視線が助けを求めて隣の家に向いた。だけどこれはお隣とは一切関係がない。僕個人的なことだ。そんなことに彼らを巻き込むわけにはいかない。
どうやって内木家までやって来たのかは自分でも記憶がなかった。でも毎日通って来ているところだし、同じルートをいつもと同じように歩いてきたのだろう。ポケットの中にはケイタイも財布もあったし、家の鍵もあった。鍵を閉めたかどうかは記憶にないけど、閉めたということにしておく。
我が家のように知り尽くしている内気家へと入るのに数秒躊躇ってから、意を決して足を踏み入れる。何となしに静かにしなくてはならないような気がして、なるべく音を立てないように気をつける。
「加奈江さん?」
加奈江さんは義光さんの眠っているらしい布団の横にじっと座っていた。声をかけるのを躊躇ったせいか出した声は小さかった。加奈江さんはその声に呼応するかのように小さな声で僕の名前を呼んだ。彼女はそのまま立ち上がると、身振りで部屋の外へ出るように示した。
「それで? 義光さんの様子は?」
「平気。きっと明日には元気になってるわ」
僕を安心させようとしているのは明白だったけど、その声にもその姿にも元気があるようには見えなくて、僕は咄嗟に彼女に腕を伸ばした。加奈江さんは抵抗もせず、大人しく僕の腕の中に納まった。そのままぎゅっと彼女を抱きしめる。
加奈江さんと義光さんは僕にとって両親のようなものだけど、二人にとっても僕は子供のようなものだった。内木夫婦には僕じゃなくて本当の息子がいたけど、もう何年もこの家に帰ってきていない。今後も戻るつもりはないだろう。
「それでね、ヒロシくん。あなたに言っておくことがあるの」
加奈江さんが言うだろうことは想像がついた。だけど僕はそれを口にはせず、彼女が黙ってリビングへ移動するのについて行った。その話題はきっと明るい雰囲気で話すようなことではないだろうし、出来れば何事もなかったかのようにさらっと言ってしまいたいような部類のものだろう。
こんな状況下でも働こうとする加奈江さんを座らせて、僕は勝手知ったる他人のキッチンを借りて彼女のためにお茶を入れた。加奈江さんは僕の入れたお茶を静かに飲んでから、ふうと湯呑みの中にため息をついた。
「私たち夫婦はあなたに本当に感謝しているの。こう言っては何だけど、赤の他人であるあなたが私たちのためにしてくれたことはいくら感謝しても足りないくらい」
「それは……」
加奈江さんは僕の言葉を遮って静かに首を振る。
「私たちももう若くはない。だから、この店を閉めるか、それともあなたに譲るかしようって考えているのよ」
その申し出には返す言葉が思いつかなかった。喜ぶべきシチュエーションではなかった。そもそも僕個人としてはこの店を譲ってもらったとしても正直いってあまり嬉しくはなかった。内木夫婦がいなければ、僕はここに留まる理由はない。店を閉めるというのならそれに従うまでだ。
「でもいつまでもあなたをここへ縛りつけてはおけない。だから、あなたが決めて欲しいの」
僕はこのあたりの出身じゃない。ここへ来たのは内木家の一人息子、義博がいたからだ。
当時僕は学生時代に出会った義博に惚れていて、実家がパン屋でそこを継ぐとか継がないとかいう話を聞いて初めてこの地を訪れた。長年義博とは友人関係だったけど、僕は自分が同性愛者であることも、彼を好きだということも伝えてはいなかった。
友人としてご両親である内木夫婦に紹介されて、義博が店を継いだら一緒に手伝うなんて口約束をしていた。
だけどある日、何の前触れもなく内木夫婦から連絡をもらった。義博が行方不明だという。そのニュースはあまりにも寝耳に水で、僕は慌ててこの店にやって来た。詳しい事情を聞き出すと、どうやら義博はこのウチキパンの店舗を抵当に入れ、多額の借入をしていたらしい。それも銀行からではなく、暴力団につながりのある金融会社から。その事実に気がついた時には時既に遅く、義博とは連絡が取れない状態になっていたらしい。
どうしていいのか分からなくなって混乱していた夫妻は、直接面識のある僕に連絡をした。そして僕はその期待に応えざるを得なかった。今思えば無謀もいいところだが、当時の僕は碌な考えもなく、一人暴力団の事務所に乗り込んでいったのだ。
それがきっかけになって僕はこの街に住むようになった。そしてこのウチキパンで働き始めた。
幸いにして、義博が多額の借金をした暴力団である菅谷組の組長は話しの分かる人で、単身乗り込んだ、それも赤の他人の借金のために乗り込んでいった僕を気に入り、ある条件を飲めばその借金を帳消しにしてくれると約束してくれた。提示された金額を返す当てもなかった僕はそれに飛びついて、義博の借入金を肩代わりした。
その契約が切れたのはつい数年前のことだ。書類上僕の肩代わりした借金は完済。晴れて僕は自由の身、そしてウチキパンもマイナスはなくなった。だけどその頃になって義博から連絡があった。彼は僕に声が枯れるまで謝った。泣いて縋って言い訳をしていた。僕はそれを妙に冷めた気持ちで聞いていた気がする。その頃にはもう、義博を想う気持ちはなくなっていたからだろうか。もういいよと言うしか出来なかった。
義光さんと加奈江さんには本当のところは言っていない。彼らには無駄な心配をかけたくなかった。だから義博は姿を消している間に借金をすべて完済したのだと伝えていた。義博本人にもそう言っておいた。そういうことにしておけば、義博が帰ってくることが出来るだろうと思ったからだ。それに、僕がしたことを他人に知られたくはなかった。
菅谷組の組長である政雄さんは僕に無理難題を押し付けたりはしなかった。ただ彼は息子である隆政の我侭に付き合ってくれとだけ言った。その期間は三年間。その期間、僕はヤクザの息子の愛人だったわけだ。隆政は僕のマンションの部屋に頻度よく通っては僕をまるで玩具のように扱った。僕は奴のことを同棲相手だと誤魔化した。そう思っているうちは我慢出来たからだ。
「でも店は……」
そんなことがあってから、義博は一度も実家に連絡をしたことがなければ顔を見せたこともなかった。何かあった場合や伝えたい場合もすべて僕経由だ。何度も実家に帰れと説得を試みたけど、合わせる顔がないと拒否し続けている。ここ最近じゃもう連絡さえない。
加奈江さんは静かに否定する。加奈江さんも義光さんも、もう義博が戻って来ないと分かっているのかも知れない。
「あなたがいらないのなら、閉める」
内木夫妻が決めたことなら僕はただ大人しく従うだけだ。だけど、その判断を僕に任せるという判断は即答出来るものではなかった。
「……考えさせて下さい」
「すぐに決めろというわけじゃないわ。ゆっくり考えて」
テーブルの上で握った手にそっと暖かな手が重ねられた。こんなに優しくされているのに、僕は正直な自分の気持ちを誰一人として打ち明けていない。内木夫婦にも、マミ先生にも、義博にも。でもきっと彼らには正直に全てを話すことはないだろう。将来的に、そんなことをする相手が出来るとも思えなかった。
* * *
ソファに座って何も考えずに音楽を流していると、インターホンが来客を知らせた。いつの間にか閉じていたらしい目を開いて時計を見る。この時間帯にうちを訪問して来るような人物は一人しか思い当たらず、訪問者を確かめようともせずに玄関へと向かった。
「こんばんは」
予想通り、そこにいたのは直也さんだ。ここ最近、直也さんは仕事帰りに直接家に帰らず、うちに寄るようになった。とは言っても何か特別なことをしているというわけじゃない。ただ僕は彼が夕食を食べていなければそれを用意して、そうでなければ酒と肴を準備して他愛ない会話をするだけだ。
直也さんは僕のことを本当にただの良き隣人だと思っているようだ。僕は真実を隠すのには慣れていたし、わざわざカミングアウトして直也さんとのこの心地良い関係を崩す気など更々なかった。
「毎日すみません」
「気にしないで下さい。こちらこそ付き合って頂いて感謝してるぐらいですから」
彼は全国区に支店を構える某大企業の技術部に所属していて、肩書きは課長。一ヶ月に何回か夜勤のある厳しい現場らしいけど、その分やりがいはあるらしい。全国に支店があるだけに転勤もあって、今までも何回か転々としてきているらしい。
僕が彼の弁当を作ると申し出てから、直也さんは僕のことを家族同然に迎え入れてくれていた。休みの日には声を掛けてくれるし、こうして何かとつけて話し相手になってくれていた。直也さんにとって僕は弟か甥っ子か、とにかくそんな感覚なのだろう。
「こんな時間に押しかけたりしてさ、邪魔じゃない?」
直也さんのために用意した酒と肴。他の誰かと付き合っていた時だってこんなに用意周到に準備したりしなかった。何だかおかしな感じだ。
「邪魔だなんてどうして思うんです?」
「俺や直高がこうして毎日来てたら彼女とデートも出来ないだろ?」
直也さんはこうして時間を共有するようになってから、個人的なことを話してくれるようになった。聞き出すではなく自分から言ってくれるというのは、心を開いてくれているような気がして気分が良かった。
だけどその反面、僕は自分についてのことをあまり話してはいなかった。職場のことや差し障りのないところは話しても、それ以上突っ込んだところは何一つ具体的に教えてはいなかった。それが僕の人付き合いの仕方で、それを直也さんだからといって変えるつもりはなかった。これは僕の身を守る術だから。
「彼女なんていませんよ」
直也さんは大人なひとだから、僕が言わないことを無理に聞き出そうとはしなかった。時々気を遣わせてしまったかなと思うときはあるけど、譲歩出来ない範囲であれば甘えてしまっていた。それも大人の付き合い方だと思うことにした。
「小学校の先生と付き合ってるんじゃなかった?」
「……え?」
やんわり断ればそれ以上突っ込まないかと思いきや変な方向に切りこまれて、思わず変な声が漏れる。マミ先生と僕がただの友人関係だというのは周知の事実だ。まあ一部の人には付き合っていると誤解されているようだったけど、二人ともあまり噂を気にしない性格が幸いしてかそのまま放っておいている。もしかしてその噂を耳にしたのだろうか?
「マミ先生とはただの友だちですよ。年が近いので」
いつまでも独身で付き合っている人もいないという状況が続くと、あれこれ噂をされてしまったり、厄介なのはお節介な人に親戚の子だとかを紹介されたりする。そういうのが面倒だと偽装結婚する人も中にはいるけど、僕はそこまでしたいとは思ったことはなかった。
「そうか。それはすまなかった。でもちょっと安心したかな」
何のことかと訝しむと、直也さんは一人で笑って、それを誤魔化すようにつまみを口に放った。妙な期待をする前に説明が欲しくて、じっと続きを待った。
「いや、直高のこと。すごく助かってるから」
そうであって欲しいと思う回答に安心した。だけどそのほっとした顔がバレないように手元のグラスに残った日本酒を飲み干す。
「そこまで言ってもらえると嬉しいです。けど……」
信頼されるのは純粋に嬉しい。でもそれが僕には辛かった。こんなにも直也さんに傾倒している状態でこんな優しい言葉を掛けられると、勘違いしそうになる。彼も僕のことが好きなのだと―――。
「けど? 何かあるのか?」
だけどそれは間違いだ。彼は僕のことをそういう対象に見ていないし、そもそも直也さんは僕と同じカテゴリには含まれない。彼にはかつて奥さんがいて、子供がいる。何も隠し立てしなくてはならないことはない。
尋ねられても答えられるようなことは何もなくて、僕は曖昧に答えをにごすしかなかった。後ろめたいことばかりで、僕に正直に話せることなんてほとんどない。
「ヒロ。少しは話してくれてもいいのに」
優しくされればされるほど不安になる。どうして僕はこうして報われない相手ばっかりを好きになるのだろう。義博のときも、こいつは絶対に隣に立つ同性の友人を好きになったりしないって分かっていた。だから言わなかった。言えば確実に元の関係に戻ることは叶わない。だから黙っていた。
「ヒロから見て、俺ってそんなに頼りないか? 少しも気が許せない?」
隠しごとがあるから物事をはっきり言わないで曖昧に誤魔化す。誰に対してもそんな態度を維持し続けていたから、きっと僕には親しい友人がいなかったのだろうと思う。今みたいに信用されていないと感じて離れていく人も過去にいなかったわけじゃない。
だけど僕は阿呆みたいに学習せず、こんな場面でも曖昧な笑みを浮かべて回答をにごすしかなかった。
「そういうわけじゃないんです。ただ、直也さんは直高くんのことで手一杯だから」
やんわりとした拒絶。他人は顔を突っ込むなと言っているも同然。こんなことを言えば相手を怒らせるかも知れない可能性には気付いていた。でも僕はいつもこういうときに相手よりも自分の身の安全を、秘密を守ることを優先してきた。だから相手が直也さんであっても、僕は態度を変えなかった。
「……そう? ヒロにはそう見えるんだな」
直也さんはグラスに残っていた少なくはない量の酒をぐいっと一気に飲み干した。そしてわざとだろう。部屋に響くような高い音を立ててグラスをテーブルに置いた。音がすると分かっていたのに、僕はビクッと肩を震わせた。
「迷惑になったら嫌だし……」
「もう、いい。言いたいことは分かった」
吐き捨てるようなその言葉は、確実に彼が腹を立てているのが伝わった。僕に信用されていないのが悔しいのか、あるいは曖昧な態度に怒っているのか。そのどちらにしても、直也さんが悲しげな表情をしている理由には繋がらなかった。
「じゃあおやすみ。ごちそうさま。残して悪かったな」
はっきりと言ってくれないと分からない。だけどそれは彼もそうなんだろう。僕はいつでも誰に対してもはっきりと言わなかった。それが他人を怒らせる結果になると分かっていても。
だけどもうそこに直也さんの姿はなくて、僕はただ一人、疑問と後悔、そして罪悪感と一緒に取り残された。
* * *
以来、直也さんと僕の距離感はやや微妙だ。直高くんを間に挟まないと空気が気まずい。それが原因かどうかは分からないけど、彼は僕に近づかなくなった。それでも僕は直也さんのお弁当を作り続けたし、直高くんの面倒を見続けた。
あれから僕なりに色々と考えてはみた。どうして直也さんがあんなことを言ったのかとか、どういう気持ちで言ったのか、とか。結局どの問いにも答えが出ることはなかったんだけど、自分なりの反省点はいくつか発見することが出来た。
やはりあのときは自分が悪かった。何か隠しているといった思わせぶりな態度をとったし、そのあとの繕い方も馬鹿もいいところだった。彼を信用していないと口外したも同然。あれじゃ怒るのも無理はない。もう少しやりようがあっただろう。そう思っても既に過ぎ去った過去のことだ。今は後悔することしか出来ない。
「はあ……」
考えごとがあるときはエレベーターを使わずに階段を登るようにしている。登り切ったところでため息のように切れた行きを吐き出していると、廊下の先に直高くんの姿が見えた。瞬間的におかしいな、と考える。直高くんには既にうちの合鍵の隠し場所を教えているから、僕よりも早くに帰宅したなら、中には入っているはずだ。
直高くんはひざを抱えるように地べたに座って、まるで泣いているかのように顔をうつむかせていた。僕は階段を昇って疲れているのも忘れて、彼に駆け寄った。
「直高くん! どうかしたの?」
マミ先生からの情報によると、直高くんは順調にクラスに溶け込んで、友だちも出来たらしい。日々明るくなっていて、今ではクラスにすっかり馴染んでいるとか。いじめもないし、喧嘩もない。いい兆候だ。
だけど近付いた直高くんの目許は赤く腫れていて、彼が泣いていたのだろうことがすぐに分かった。眉は苦しそうに歪められていて、どこか痛いか苦しいかを我慢しているといった様子だ。
「怪我してるの? 大丈夫?」
よく見ると直高くんの左頬が赤くなっていた。混乱する頭で考えても、それは何者かによって叩かれた痕だ。頭が真っ白になった。その叩き方は子供のするような類のものじゃない。大人が子供に対してするようなやり方だ。
「誰が……」
この時間帯、直也さんが帰っているはずがない。そもそも直也さんは直高くんに手を上げない。では一体誰が、ということになる。とは言え思い当たる節などなくて、きょろきょろと辺りを見回した。そこでふと自分の家のドアが目に入ってきた。
どうして直高くんは廊下に座っているんだろうか。もし外から何者かがやってきて彼を叩いたのなら、直高くんは家の中に逃げ込んだはずだ。ということはつまり、犯人は僕あるいは中島家のどちらかの家の中にいるということかも知れない。
ぞわっと嫌な予感が背筋を駆け抜けた。見上げた自分の家のドアノブは、奴を追い出した時に鍵ごと取り替えた。あいつに関わるものは何から何まで、小さなものまですべて捨てて、もう関わらないと決めた。契約は終わって書類上ももう何の関係もないはずだ。
僕は口の中に溜まったつばを飲み込んで、直高くんを安心させるために無理矢理笑みを浮かべた。
「ごめん、直高くん。もう大丈夫だから、家に入ってくれる?」
もしかしたら直高くんは頬以外にもどこか殴られているのかも分からない。離れるべきではないのかも知れないけど、もし誰かが僕の家にいるのなら、このまま放っておくわけにはいかない。それにその犯人が奴なら、しっかりと話をつけなくちゃならない。これは僕の責任だ。
正直に言えば怖くないわけではなかった。だけど、ただ侵入者に怯えて震えているだけの臆病者にはなりたくなかった。僕は女々しい考え方をするけど生物学上男だし、それなりに腕に覚えだってある。だけど僕はシロウトだし、無茶をする役目じゃないのも分かってる。
直高くんが自分の家に入るのを見守ってから、僕は音を立てないようにして自分の家に近付いた。まるで映画かドラマのようなシチュエーションに場をわきまえず少しだけ笑いそうになったのを何とか飲み込む。
ドアノブは何の音も立てずに回転して、油をさしていないにも関わらず玄関扉は音を立てずに開いた。出掛ける際には間違いなく施錠したはずなのに、鍵はかかっていない。でもそれは予想がついていた。もし何者かが中にいるのなら、鍵は開いていて当然だ。直高くんが殴られたのは、もしかしたら鍵の在り処を聞き出したからなのかも知れない。あるいは、家の中にいる彼を追い出すためか。
「どうして俺を追い出した?」
侵入者は僕に背を向けた姿で、堂々としていた。上等なスーツに撫で付けた髪も記憶にあるまま変わっていない。水泳とジム通いが趣味で、周囲が自分の言うことに従うのが当然だと考えるナルシストな性格も変わっていないのだろう。
「隆政……」
鋭利な印象のその男は、僕がついこないだ追い出した。こいつのことは何でも知っている。それも、身体のことなら特に。それくらい、こいつとはいろんなことをしてきた。それが嫌々じゃなかったから嫌な記憶だ。
隆政は菅谷組の正当な一人息子だ。政雄さんはこの外見もよく頭も切れるがどこか偏った息子の我侭を比較的おおらかに受け止めている。だからこいつが僕を欲しがったとき、承諾した。だけど政雄さんは隆政の横暴っぷりには少し手を焼いていて、なぜか僕にそれを愚痴ったことがあった。
「どうしてだ?」
政雄さんは隆政に組長の座を譲る時期を決めていて、それまでは自由にさせてやるのだと言っていた。だから多少の我侭にも目をつぶっているし、横暴な要求をされても寛容にしていた。隆政が菅谷組を継げば、奴に自由はなくなる。当然のようにどこかの令嬢と結婚させられ、跡継ぎを作ることを要求される。
政雄さんにとって僕は都合のいい存在だったのだろう。隆政が手当たり次第に女性に手を出し、子供でも出来てしまえば後々問題になりかねない。だけど僕は男で、子供が出来る心配はなかった。だから火遊び相手としては文句のつけようがなかった。
もしかしたら本人は気付いていて黙っていたのかも知れないけど、隆政にはそういった事情は聞かせていなかったはずだ。表面上は政雄さんが息子の我侭を寛容に受け入れただけのように見えただろう。僕が借金のカタに身体を差し出してヤクザの息子の愛人をしていた。きっとそう見えたほうが都合が良かったのだろう。
僕が隆政を追い出したのは、契約が切れたということもあったけど、政雄さんから奴がもうすぐ結婚するという情報を聞いたからだ。例え政略結婚だとはいえ、僕みたいな男が愛人をしている状態で結婚するというのはいくら何でも相手の女性に失礼だ。それに、僕だっていつまでもヤクザの愛人をしていたいわけじゃない。
僕にとっては隆政の相手をするのは一時的な契約があってのもので、奴自体に何か特別な感情を持っていたからではなかった。正直なところを言えば、政雄さんからは肩代わりした借金以上の報酬をもらっていた。だから奴の相手をしていた。
でも隆政にとってはそれだけのものではなかったらしい。追い出したときも今も、どこか僕に執着を見せている。でもそれはただ自分が捨てるのではなく捨てられたという事実が気に食わないだけなのかも知れない。
「もう契約は終わったんだ」
隆政は頭が切れるくせに我侭で子供っぽい。その上かなり飽きっぽい。だからこいつが僕を指定して遊びはじめたのも気まぐれだと思った。いずれは結婚して菅谷組を継がなくてはならない立場だ。この関係が始まった当初、僕はすぐに捨てるだろうと思っていた。だけどその予想を裏切って隆政は僕に固執した。
本来なら隆政と僕の関係は愛人で、僕の家に隆政が通ってくるという設定だった。それなのに隆政は間を開けずに僕の所にやってきて、しまいには同棲状態にあった。それは僕の計画と違う。だから僕はこいつを追い出した。これ以上深入りされてはお互いに困ったことになるに違いないと思ったから。
「俺のことが好きなんだろう? なのに何故」
本当にこいつのことが嫌いだったら、借金を完済した直後に追い出したはずだ。だけどそうせず少しの期間一緒にいたのは、ほんの少しでも隆政に好意を感じていたからだろう。でも愛していたわけじゃない。これだけの期間身体を重ねていれば、嫌でも好意は湧く。僕が隆政に抱いていた気持ちはそういった類の言わば情だ。
「好きじゃない。だって僕らの関係はそういうものじゃないだろ」
もしかしたら隆政とこういう特殊な出会い方じゃなくて、普通に出会っていれば、こいつがこんな肩書きじゃなくてただの一般人だったら、ちゃんと好きになっていたかも分からない。スタイルもよくて頭もいい。性格はあまりよくはないけど、それだって付き合っていればどうにか出来たかも知れない。
でももうそんなことは起き得ない。有り得ない可能性を議論したところで時間の無駄だ。僕はしがないパン屋の従業員で、こいつはヤクザの息子だ。
「関係?」
しかめられた眉には露骨なまでの嫌悪感がにじみ出ている。隆政はいつも自分を特別扱いしてきた人間だ。誰かと一緒にされることを嫌っていて、人に命令するのが当然だと思い込んでいる。
「そうだ。隆政と僕。もう終わったことだ。あんたはもう結婚する。僕は用済みだろ?」
「それがお前と何の関係がある」
僕と隆政とでは育ってきた環境があまりにも違いすぎる。考え方は元より、倫理観も違う。解り合おうなんていうのは到底無理な話だ。そもそも向こうが僕を理解しようなんて考えるはずもない。それなのに今僕は隆政に僕が考えていることを理解してもらわなきゃいけない。
「俺を拒否してお前に何が残る? 今の生活があるのも俺のおかげだろう」
言っていることは否定のしようのない事実だ。僕が今真っ当に働いて稼いでいるだけの給料じゃ今の生活は維持することが出来ない。こんなに広い部屋の家賃は馬鹿にならないし、何より給与そのものが微々たるものだ。今の生活は、契約満了後に政雄さんから個人的に振り込まれた蓄えがあるから成り立っている。
それらもあって、僕はここに留まることに躊躇いがあった。ここにいる限り菅谷組とは縁が切れない。暴力団とつながりがあれば、今は良くてもいずれ何か問題になることだってあり得るだろう。
「何と言われても僕はもう戻らない」
隆政は僕を甘く考えている。彼はいつでも僕のことを力でねじ伏せることの出来る弱い男だと思っていたようだ。だけどそれは僕が今まで奴に対してろくな抵抗をしてこなかったからにすぎない。本気を出せば僕だって隆政を撃退することぐらい出来る。奴は実践を積んでいるかも知れないけど、直接手を下すようなキャラじゃない。
「親父に何か言われたのか?」
「いいや。僕が決めたんだ」
隆政は引き下がらない。当然だ。奴にとっては自分の前に立ちふさがる人間は等しく膝を折る。抵抗するなんて考えもしない。それがこいつの最大の欠点だ。
僕は力尽くでも追い出す気持ちで一歩踏み出した。だけど奴は動かない。
「何を言ってる」
頭はいいし回転もいい。それなのに自分の都合がいいようにしか物事を考えられない。自分を過信するあまりに他人を甘く見る。これは後々命取りになるほどの欠点だろう。政雄さんはこの欠点をひどく嘆いていた。いっそ馬鹿ならそうと諦めがつくのに。
僕と付き合うことで隆政が成長すればと政雄さんは考えていたようだった。僕は頭がいいわけでもないけど、周囲の空気を読むことには長けていた。いかにして注目されず、自分のすごしやすいように出来るかという点においては素早かった。その能力の十分の一でも隆政にあれば、奴がトップに立ったときに役に立っただろう。
だけど残念ながら結果はこのとおりだ。僕はわがままな隆政の性格を改善することは出来なかった。しようとも考えなかったし、僕にしてみればどうでもよかった。
「出ていけ、隆政」
他人に指示されることを嫌う隆政は嫌な顔をするだけで動こうともしない。他人の家なのに我が物顔で居座っている。長い期間ではないとは言ってもこの家に住んでいたような生活をしていたから他人の家とは思っていないのかも知れないけど、少しは遠慮してほしいものだ。
僕は奴に手を伸ばした。僕が何もすることが出来ないと思い込んでいる隆政は動こうともしなかった。
勝負は一瞬のことだった。僕が隆政の腕を掴んだ次の瞬間、奴は床とキスしていた。女性の痴漢撃退にも使われている柔道の技だ。腕を捻るだけでどんな大男だって引き倒すことが出来る。対するこっちには大した力も必要としない。
「きさまっ……!」
プライドが天より高い隆政は自分よりも弱いと思っていた僕にねじ伏せられたことに激怒している。だけど僕は怯むことも容赦することもなく、体重をかけて更に強く床に押し付けた。
「隆政、僕はあんたとのセックスは好きだった。だけど、それだけだ」
格下の僕からこれだけの屈辱を与えれば、こいつは二度と僕の顔を見たいとは思わなくなるだろう。報復を考えるかも知れないけど、こいつだって馬鹿じゃない。僕が彼の父親の保護下にあることは知っているだろうし、その可能性は低いだろう。
もがく隆政を放して立ち上がると、奴は僕を振り払うような勢いで立ち上がって乱れた衣類を正した。
隆政がいつも完璧であろうとするのは他人に舐められないようにするためだ。彼がこうなったのもすべて環境のせいだ。そう思って同情していた時期もある。だけど今思えば、好きでこうなったとしか思えないときも多い。
「さようなら、隆政」
恐らくこれが最後だ。もう二度と会うことはないだろう。そう感じて自然と口から出た言葉だった。だけど奴は何も言わずに出ていった。きっと僕のことは忌まわしい過去の汚点だとでも考えているだろう。
問題が一つ解決してほっとしたのも束の間、僕は隣の家に走って駆けつけた。直高くんが怪我をしているのを忘れたわけじゃない。
幸いにして直高くんの怪我はさほどたいしたものではなく、シップを貼っておけば数日で腫れも引くだろう。子供相手に全力でかかるほど隆政も鬼じゃなかったということだ。
滅多に起きない事件に怯えてしまっていた直高くんは手当が終わると安心したように眠りについた。もし何か不慮の事態が起きたときのために、僕は中島家に留まることに決めた。
直高くんが起きたときのことを考えて簡単な食事を作ってから、ダイニングテーブルに突っ伏していると、気が付けば寝ていたらしい。はっと目を覚ましたときには陽も暮れていて、部屋の中は真っ暗になっていた。あまりにもびっくりして机の脚に足の指をぶつけて、思わず呻く。
直高くんが起きたという様子もなければ、直也さんが帰ってきたという気配もない。時間を確認しようとして改めて部屋の暗さに気がつく。今度は手足をぶつけないように気を遣いながら部屋の照明をつけた。
部屋が明るくなるのと同時に、玄関からガチャガチャと鍵を開ける音が聞こえてきた。ここに居座ると決めてから施錠をしておいたはずだから、玄関にいるのは直也さんだろう。出迎えるべきなのか迷っていると、玄関で僕の靴を発見したらしい戸惑った声が聞こえてきた。
「ヒロ? いるのか?」
「おかえりなさい、直也さん」
隣に住んでいるという油断からか、僕は直也さんの職場の連絡先もケイタイの番号さえも知らなかった。だからすぐに連絡することが出来なくて、こうして家で待っているしかなかった。本当なら直高くんが怪我をしたと分かった時点で連絡しなくてはいけなかったのだろう。
「直高は? どうしてここに?」
今回の件は全面的に僕のせいだ。何をどう言い訳したところでその事実は変わりようがない。どこをどうやったら柔らかく聞こえるだろうかと思案しながら、とりあえず時間を稼ごうと直也さんに座るよう促す。
「直高くんは今眠ってます。その、夕方にちょっと問題があって……」
誤解されずに事態を説明するには、すべてとはいかずとも今まで隠していたことをいくつか言わなくてはならないだろう。出来れば知られたくなかったことだけど、言わなくちゃきっと信じてもらえない。
「その、直高くんが怪我をしてしまって。その怪我の原因が僕にあって……」
「何が……?」
言おう。そう覚悟を決めてしまうと、思ったよりも冷静でいられた。言う必要のあることとないことをより分けて、出来る限り差し障りのない言葉を選ぶ。
「少し前に付き合ってた人が今日うちに来たんです。別れてから全然連絡とかもとってなくて、もう関係ないって思ってたんですけど、今日、突然。その、彼は少し暴力的なタイプで」
流石に暴力団関係者だとは言えない。特に言わなくても問題はないだろうし、そこは追求せずさらりと流す。だけどたぶん、僕が同性愛者であることは言わなくちゃならないだろう。実際、「彼」という単語に直也さんの眉が動くのが分かった。
「別れたときに鍵を変えたんです。それで中に入るのにきっと直高くんに手を出したんだと思います。でも手加減してたし、大した怪我じゃないんです」
言いながら、自分のことが本当に嫌いになりそうだった。純粋に慕ってくれていた直高くんに怪我を負わせたということが、口にすることで重みを増した気がした。命に関わる怪我ではなかったけど、トラウマになる可能性だってある。そうなったら全て僕の責任だ。
「ごめんなさい」
謝った声は泣きそうに震えていた。自分で思った以上に動揺しているらしい。今更になって震えがくるなんて思いもしなかった。
「直高は大丈夫なんだな?」
「だと、思います。ご、ごめんなさい……!」
いつの間にか俯いていたらしい。気付けば机を見つめていた。顔を上げて直也さんの顔を直視する度胸がなかった。自分を責める気持ちが収まらない。
「ヒロ、ヒロ!」
強く名前を呼ばれて、ビクッと身体が震えた。緊張した身体でゆっくりと顔を上げていく。直也さんの視線が責めるような色を含んでいたら耐えられない。こっちに向けられる視線から逃げる手段はないかと反射的に目が泳ぐ。
「落ち着いてくれ、ヒロ」
その声はびっくりするほど優しげで、僕は取り繕うヒマもなく情けない顔を上げた。
「何がそんなに不安なんだ? 直高に怪我をさせたことか? それとも他の何かか?」
一瞬何を言われているのか分からなかった。僕が不安になるとはどういう意味だろうか。
疑問でいっぱいの顔で見上げると、直也さんは困ったような苦笑を浮かべていた。
「直高くんが」
「直高が無事ならそれでいい。ヒロは? きみも怪我をしているのか?」
責められると思った。子供に怪我をさせて、直接的でないにしろ僕に責任がある。どうしてちゃんと見ていなかったのか。どうしてそんな危険な男を近づけさせたのか。僕が心配されるなど露も思わなかった。だから、どう反応していいのか分からない。ただ怪我がないことだけは確かだったから、首を横に振った。
「良かった。そいつはもういないのか? もう大丈夫なのか?」
直也さんがお人好しなのか、それとも僕が人を疑い過ぎなのか分からなくなってきた。それにしても疑ってばかりの自分が恥ずかしくなるほどの優しさだ。こんなの今まで自分に向けられたことがないから、すごくうれしい半面、恥ずかしい。どうしていいのか分からない。
僕が戸惑っているのが伝わったのか、直也さんはまるで子供を相手にするかのように無害そうに微笑んだ。
「……どうしてそんな優しいんですか? 僕は同性愛者なんですよ? そんなのが自分の子供の傍にいて、不安じゃないんですか?」
身体が緊張で凝り固まっていたのがふっと力が抜けたような感覚だった。安心したような。どこか拍子抜けしたようなそんな感覚。だけどまだ完全に油断することは出来なかった。それなのに、直也さんは首を傾げるだけだ。
「きみが幼児性愛者って言うなら殴り倒してたかも知れないけど、そうじゃないだろう? それぐらい気にしないさ」
直也さんは身近に僕みたいなのがいなかったんだろなと思った。偏見はないのかも知れないけど、同性愛者がどういうものなのかを知らない。どうしてここまで頑なになるのかも、秘密を持とうとするのかも分かっていない。
以前、ゲイの友人が近所の子供を預かっていたことがあった。だけどある日彼の性癖がバレ、そのとき彼はその子供の両親からかなり酷く罵られたらしい。その話を聞いてから、僕は自分のことが周囲にばれないように気を付けるようになった。理解のない人にばれたらおしまいだ。その考え方は今でも変わっていない。
「でも……」
「でも、もだって、もないだろう。悪いのはその元恋人で、ヒロじゃない」
全人類がそういうポジティブな考え方をしてくれたら、僕だってこんなビクついて日陰を歩いたりしないで陽のあたる場所を歩けたのに。
「まだ何かあるのか? 何が原因だ?」
納得していない曖昧な態度をしていたせいか、直也さんは心配しているように尋ねた。ここで会話を終わりにしておけばお互い不快感を抱かずにいられる。それが分かっていたのに、不安のせいか動揺のせいか、自分を抑えることが出来なかった。
「僕が」
言ってしまったあとで、ものすごく後悔した。直也さんの顔が疑問で歪むのが見え、誤魔化すわけにはいかないことを悟る。
「どういう……」
「僕が何故直高くんの面倒をみると思います? 何故お弁当を作ると思います? 普通の人ならそこまでしないでしょう?」
前回これを訊かれたときは曖昧ににごして誤魔化した。その理由を言えば確実に直也さんが僕から離れていくことが分かっていたから、言えなかった。言いたくなかった。
だけどもうどうでもいいような気分だった。ここまできたらもうどうにでもなれ。嫌われたり遠巻きにされたりするのは嫌だ。だけど、それさえどうでもよく思えるほどやけっぱちな気分になっていた。酒を飲んだってこんな気分にはならない。つまり今僕は正常に物事を考えられてないということだろう。
「あなたが好きだからですよ。気を引きたいから、少しでもよく思われたいから」
泣きそうだった。だけど無理に笑った。変な顔をしていたかも知れないけど、鏡を見たわけじゃないからどんな顔をしているかなんて分からなかった。それに今となってはもうどうでもいい。
直也さんは表情を変えなかった。ただ少しだけ、それと分かる程度にだけ目を見開いたからきっと驚きはしたんだろう。そりゃそうだ。ゲイだとカミングアウトした男に告白されたら誰だって驚く。そして次に来るのは拒絶か。
「気持ち悪いでしょう? でも安心して下さい。僕はいなくなりますから」
今のは完全に鼻声だった。涙こそこぼれてはいないけど、泣いているのは明らかだった。僕は無意識に鼻をすすって、口を手で覆い隠した。
「ヒロ、落ち着いてくれないか」
「落ち着いてますよ」
思考は動いていたけど、それが正常稼働かどうかは自分でも疑わしかった。テンションが上がっているし、自棄になっている。正常な状態だったらこんなことは言わないということまでぺろっと口にしていた。これでマトモだなんて口が裂けても言えないような状態だ。
「どうしてそうなるんだ? ヒロが俺を好き? それが今回の件とどう関係してくるんだ?」
こうやって繰り返して尋ねられると、本当に心から言わなければよかったと思う。そのすべてを説明するのは骨だし、何より僕自身さえわからないことが多すぎる。だけどもう口にしてしまったことを撤回など出来ない。
「もう僕のことは放っておいてください。何するか分かりませんよ」
自分でさえ自分が何をするのか皆目見当がつかない状況だ。言っていることは間違ってない。だけどそれが何の説得力もない無意味な台詞だということも自覚していた。直也さんだってこれじゃ納得出来ないだろう。僕が言われる立場であったとしても何言ってんだこいつと思ったに違いない。
「ヒロ……」
何か言いかけたのだろう。僕は答える気など更々ないといった態度だったが、むこうにしてみれば謎は謎のままで疑問は山積みだ。だけど直也さんが答えのない質問を口にする前に、背後でドアの開く音が聞こえてきた。二人揃ってそちらを振り向く。
「父さん? 帰って来たの?」
寝ぼけているようなその声は直高くんだ。当事者でさえ自覚はなかったけど、口論していた声が大きかったのかも知れない。起こしてしまったようだ。
「直高……」
直也さんの注意が逸れた隙に、僕は脱兎のごとく玄関へと逃げた。直也さんがしまったといった顔で振り返ったけど、僕はそれに気が付かないふりをして笑顔を浮かべた。
「冷蔵庫の中に食べるもの入ってますから。それじゃ、おやすみなさい」
直也さんの呼び止める声も、直高くんの疑問に満ちた声も頭からシャットアウトして、僕は素早く中島家を飛び出た。隣へ走って玄関を入るまで、まるで背後を直也さんが追いかけてくるのではないかというありもしない恐怖に追い立てられていた。
こんなことをして、直也さんは怒っているか呆れているかそのどちらかだろう。いきなり感情的になってわけのわからないことをまくし立てて、そして逃げた。あんなにいい人なのに、僕は彼を困らせたり傷つけたりすることしか出来ない。どうして優しさに優しさで返すことが出来ないのだろうかと不器用な自分を呪った。
僕がここを去るまでの間、直也さんから逃げ切れるだろうか。真っ暗な部屋でぼんやりとそう思った。だけど幸いにして直也さんと僕の生活時間帯にはずれがある。きっと逃げ隠れするには好都合だろう。
僕は卑怯だと分かっていながら、インターホンの電源を切った。そして部屋の電気をつけもせず、そのまま寝室へと向かった。
* * *
「ヒロシくん、今日は少し早めに来てってマミ先生から電話があったわよ」
義光さんが倒れた一件がまるでなかったことのように毎日は変わりなく続いていた。僕はと言えば、ほぼ毎日のように顔を合わせていたお隣さんを避けていることを除けば、彼らが引っ越してくる以前と大差ない生活に戻っていた。ただ、早朝に直也さんのお弁当を作ることだけは続けていた。とは言っても、これもいつまで続けるか分からない。
僕がこの生まれ育ったわけでもない土地にやって来てから、随分と長い年月が過ぎた。僕より後に川原小へ赴任してきた先生の中には、僕がここの生まれだと思っている人もいるくらいだ。狭いコミュニティだけど、いい人たちに恵まれたいい街だ。
加奈江さんは店のことをあれからちらりとも口にしていなかった。恐らく僕が決断して言い出すのを待っているのだろう。彼らは僕がこの地を離れるなんてことは思いつきもしないのだろうか。それとも、店の権利を渡すことで僕がここに残ることを願っているのか。
そう考えると、改めて僕がここにいる理由とは何だろうかと思う。義博はもう戻ってこないし、菅谷組には用がない。マミ先生や川原小のみんなと会えなくなるのは寂しいかも知れないけど、大した未練はなかった。元来僕はひとつのところに長く留まるような人間じゃない。執着心が薄いのだろう。
「分かりました」
実家を除いて、僕が一番長く居着いたのはここだけかも知れない。いろんな事情が複雑に交差していたとはいえ、本当にここは居心地がよかった。マミ先生という友人を得られたのも大きい。彼女にはお世話になりっぱなしだ。悩み相談にもよく乗ってもらった。
川原小へ打ち合わせに向かいながら、マミ先生には本音を打ち明けようと決意する。すべてを話すことは出来ないけど、彼女には知っておいて欲しかった。僕がここを去るとなれば理由を知りたがるだろうし、彼女には知る権利がある気がした。
いつもより少し早めに川原小に着くと、いつもより多くの小学生に声をかけられた。彼らは無邪気に「パンの人だ!」なんて寄ってきては、今日何があっただの週末にどこに行っただのという話をしてくれる。「僕みたいな馬鹿な大人になるなよ」なんて心の中で呟いて、ちょっと落ち込む。
「マミ先生ー! パンの人来たよー!」
職員室まで僕の腕を引っ張ってきた女の子が大声でマミ先生を呼ぶ声が響く。まだ職員室に残っていた数人の先生方がくすくすと笑っているのが見えて、思わず恥ずかしくなって顔を伏せる。ふと見ると女の子は腕を引っ張るというか腕を組んでいて、まるで恋人同士のようだった。
「サナ、あんたうちの生徒に手を……」
「出してないし、わかってて言ってるよね。マミ先生」
こういうやり取りを公然とやるからマミ先生と僕が付き合ってるだなんて嘘がまかり通るのは二人とも分かっていることだ。でも本人たちの気持ち的には友人とじゃれてるだけなんだけど。
「はいはい。浅田は帰りなさい。サナと私は仕事だよ」
僕の腕に絡み付いて「えー」と文句を言う女の子を一言で引き離すマミ先生の腕はさすがだ。普段はただのゲームオタクなんだけど、やっぱりちゃんと教師なんだなと思わせる瞬間だ。それがあまりないからこうして時々妙に感心する。これを本人に言ったら何をされるか分かったものじゃないから黙ってるけど。
「今日はどうしたの? 早く来いなんて珍しい」
「ちょっと話があるんだよね。あっちの教室使うから」
いつもなら職員室の隅っこでちょこっと打ち合わせをして終わるのに、今日の物々しい態度に若干緊張する。だけど心当たりがあり過ぎて、どれのせいで呼び出しを食らったんだか分からないなんてまるで高校生に戻ったような気分だ。そう考えると少し笑えた。
マミ先生はいつもなら数秒と続かない若干難しい表情をしたまま、黙って空き教室に入った。そして珍しくも黙々と机を動かして、面談形式に机を寄せた。その光景は真剣に学生時代に戻ったような気分にさせた。
「サナ。あんた最近何かトラブル起こした?」
オブラートに包むなんて芸の細かいことはマミ先生には出来ないことは知っていたけど、これはさすがにストレートすぎる質問だった。そんな風に訊かれたら、返答は恐らくこうなる。
「いや? 何で?」
他人に話せることなら、マミ先生にはさっさと話している。そうしていないということは、マミ先生にも話せないということだ。そんなことは彼女も分かっているはずだ。だけどこうして尋ねてきたということは、彼女側にも影響を及ぼす何かがおきたということだ。それで顔が浮かぶのは二人。
「あんたと私が仲いいってのはみんな知ってることだし、あんたのことを私に聞くってのは分からなくはないんだよね」
僕は余計な口を挟まず、マミ先生が続けるように頷いて先を促した。
「ただね、あんたは自分のセクシャリティを誰それ構わず言う奴じゃないって私は知ってる。だからさ、どうして言ったのか分からなくて」
マミ先生が何を示しているのかを悟って、僕はひっそりとため息をついた。僕がこの街で自分の性癖について告白したのは二人だけだ。一人は目の前にいるマミ先生で、もう一人は直也さん。ということはつまり、マミ先生のところへ直也さんがやって来て、僕のことを相談したのだろう。
今ここが自宅で、他人の目がない状況だったら、僕は頭を抱えて叫びだしたい衝動に駆られていた。それくらいの後悔と混乱が押し寄せてきた。
「あんた、うちの生徒じゃなくてうちの生徒の保護者のこと好きになったわけ?」
恋愛に興味ないとか言うくせに、こういうことだけは頭の回転が早いんだから、マミ先生って本当に厄介だ。いっそ気付いてくれなければ舌先三寸で丸め込めたのに。ここまで状況を把握されていたら、正直に話すしかない。
僕は上を向いてため息をついた。降参するように両手を上げて見せると、マミ先生は「それで?」とばかりに首をかしげた。
「確かに、僕は彼のことが好きだし、ちょっとした勢いで告白もした。だけどこれだけは言わせてくれ。もうこれ以上どうこうするつもりはないよ」
本心本音から言ったつもりだったのに、マミ先生はさっぱりと信じていない様子だ。しかし彼女が一筋縄ではいかないのは最初から分かっていたことだ。それでも彼女を味方につけることが出来れば心強いことも知っている。彼女は最初に攻略すべき難関だ。
「本当だから。告白してからは会わないようにしてるし、近いうちに引っ越すし」
さすがにこれは想定外だったらしく、マミ先生は驚いた様子で僕を凝視した。この反応には苦笑するしかない。
「え? 引っ越す? ほんとに?」
僕としてもこの住み慣れた土地を離れるのは辛い。だけどここにいることで問題が発生するのならば、移動せざるを得ない。仕方のないことだ。今までもそうしてきたのだから、今回だって出来る。しなきゃならない。
ゆっくりと、まるで自分を納得させるように頷いて考えをまとめる時間を稼いだ。言うべきこともやるべきことも分かっていたけど、それを口にする覚悟を決める時間が欲しかった。
「僕がいつまでもここにいたら迷惑だろ。問題は僕にある。だから僕が消える。正しい判断だよ」
マミ先生は反射的に首を振って僕の台詞を否定してみせたが、言葉はついて来なかったようだ。彼女の今の状態を一言で言うなら、混乱しているといった様子だ。
「マミ先生にまで迷惑かけちゃったなら尚更だね」
「でも……。いや、このことについては私がとやかく言う立場じゃないよね」
彼女は異性に限らず、人付き合いが面倒くさいと言い切るだけあってか、考えや決断を他人任せにしないで自分できっちりと決めるタイプだ。僕も似たような系統だから僕らはお互い仲良くなれたのだろう。だけど時々、こうして相談もなく結論だけを報告されると少しだけ寂しく感じることがある。僕が今マミ先生にそれをした。だけどそうする他に僕には方法が分からなかった。自分でも口にすることを躊躇うようなことを誰かに相談なんて出来るはずがなかった。
「マミ先生と会えなくなるのは寂しいけどね」
お世辞のつもりじゃなく言ったのに、彼女はこれでもかというほどに顔をしかめた。
「フェミニストなのもいい加減にしないと刺されるよ」
「されたことない」
僕の返答には見向きもせず、マミ先生は座っていたイスを立った。つられて立とうと身動きしたけど、マミ先生は先手を打って僕の前に静止の手を上げた。何事かとびっくりする。
「あんたに用があるのは私だけじゃないの。ちょっと待ってなさい」
「ちょ、ちょっと待って! もしかして直也さんがいるのっ?」
これだけ必死になって逃げているっていうのに、こうもあっさりと捕まってしまっては元も子もない。マミ先生の静止を振り切って立ち上がったけど、彼女はそう簡単に逃がしてくれそうになかった。
「逃げないの。あんたはちょっと卑怯すぎる。今日ぐらいは私の顔を立てて大人しくしてなさい」
「でも……」
「でもはなし。いい? 逃げたら酷いことになるから」
うろたえる僕を置いて、マミ先生はさっさと教室を出て行ってしまった。もちろん教室のドアはぴしゃりと閉めて行ったわけだけど、別に施錠されたわけじゃない。逃げようと思えばさっさと出ていける。だけどそうしなかったのは、マミ先生を裏切りたくなかったからだ。鍵をかけなかったのはマミ先生が僕は逃げないと信じたからだし、その信頼を捨てるような馬鹿な真似はしたくなかった。
他に誰もいない小学校の教室で一人、僕は力なくさっきまで座っていた小さな椅子に座り直した。誰のとも分からない机は、落書きで薄汚れていた。
マミ先生が出て行ったドアが再び開くまでの短い時間が、待っている僕には数十分間もあったかのように感じた。その途中では何度も何度もこの扉を開けて逃げ出してしまおうかと考えた。考えるたびにその考えを頭の隅に追いやって、その場にじっと釘付けになっていた。
いつの間に思考に没頭していたのか、ガラっという扉の開く音に驚いて身体がびくっと震えた。その反射で動いた視界に、勝手がわからないとばかりにきょろきょろしながら教室へ入って来る直也さんの姿が映る。
隣に住んでいるというのに、その顔を見るのはだいぶ久しぶりのことで、嫌でも身体が緊張するのが分かった。今すぐにでも逃げ出したいのに、マミ先生の言葉が僕をその場に縛り付けていた。
「ヒロ」
首の後ろがざわついた。恥も外聞もなく裸足で逃げ出したくなる衝動に駆られる。でも実際はぴくりとも身体を動かすことが出来なかった。直也さんはまるで僕が隙あらば逃げ出そうと考えているかのように、じっと僕から視線を外さずにこちらへやって来る。
「ヒロ。俺たちは話し合いをする必要がある」
どさ、と音を立てて直也さんが重たそうな荷物を机に置いた。そして先ほどまでマミ先生が座っていたイスに腰を下ろす。そこになってようやく直也さんの突き刺さるような視線が外れて、彼はぐるりと教室内を見渡した。
「……小さいな」
僕が一番初めに感じたことと同じことを呟く声に、全身を取り巻く緊張とは裏腹に胸が高鳴った。こんな些細なことでどきどきしている自分が情けない。
「ヒロ。きみが逃げたのは直高のためなのか? それとも、別の理由なのか?」
「それは……」
とっさに答えようとして思いとどまって口を閉じる。まるで犯罪者が取り調べを受けているときに自分の不利になると判断して口を閉じたかのような雰囲気だったかも知れない。実際、変なことを言って墓穴を掘るよりは黙っていたほうがいいかも知れないと思ったのは確かだ。
「……自分のため」
建前でも何でもなく、ここまではっきりと自分の思っていることを口にしたのは初めてかも知れなかった。今までは本音と言いつつもどこか建前や世間体を気にした言い訳が含まれていたような気がする。
「僕が、直高くんや直也さんに嫌われてまでここにいるのは辛いから、逃げた」
今までも自分のことがバレそうになったり、怪しい雲行きになると、その空気を呼んで先回りして逃げてきた。なるべくなら嫌われる前に、その姿を消してきた。まるで強迫性の精神病のようだと自分でも思う。もしかしたら医者にかかっていないだけで、何かご大層な病名がつくのかも知れないけど、あいにくと精神科医のお世話になったことはまだ一度もない。
「どうして嫌われると思った?」
「……同性愛者だから」
僕の頑なとも取れる主張に、直也さんはため息をつきながら首を横に振った。呆れてものも言えないといった態度に恐怖を感じた。
「ヒロ。俺はきみが同性愛者だからといって嫌いになったりしない」
偏見はないと言ってくれた人は今までも何人かいた。だけどそれでも彼らは僕がそうだと知った後と前では態度が違った。そのズレが最初は小さなものでも、いずれは大きなズレとなって、結局疎遠になる。
僕はたぶん笑いながら首を横に振っていた。今この精神状態で笑顔なんて器用な芸当が出来ているとは思えなかった。だけど気にしないことに決める。
「僕が直也さんのことを恋愛対象として見てるってこと、分かってる?」
直也さんは恐らく僕のことを同性の友人だと思っているから僕が逃げる理由が分からないのだろう。これがもし僕と直也さんのどちらかが女性だったら話はもっと簡単だったはずだ。同性というだけでいつも話がこじれる。
「どうしたら俺のことを信じてくれるんだ?」
言われている意味が分からなかった。今はそういう話をしているわけじゃない。何を言われているのか分からない。僕は口を閉じて顔をしかめた。
「きみの言っているのは、俺のことが好きで、俺と直高の迷惑になるのが嫌だから逃げるということだ。だけどそれは完全に一方的な主張だし、俺が話の要のはずなのに俺の意見は無視か?」
そんなこと言われても、ノーマルな性癖の人が同性愛者に好かれた時の反応は往々にして決まっている。だから今回もその例に則って行動しただけに過ぎない。素直に直也さんの気持ちを聞いて落ち込みたくなかったから、何も聞かずに逃げようとしただけのことだ。
そんなに僕のことを傷つけたいのかと逆ギレしそうになる。好きになった人に面と向かって罵られ、傷心のままここにとどまれと? そんなの耐えられない。
イスが動く音にはっとなって顔を上げる。うつむいている自覚がなかっただけに、顔を上げるという感覚にも驚いて、とっさに言葉が出てこなかった。
直也さんは一歩こちらに近づくと、今度は面談形式に合わせられていた机に座った。僕ら大人からすれば低すぎる机だけに、直也さんが座っても足が余る。その座った姿でさえ格好いいなんて思っちゃってるんだから本当にもうだめだ。
「きみのことが好きだからここにいてくれと言えばいいのか? きみのことが必要だと」
「嘘はやめてくれ!」
そうするつもりもした自覚もなかったのに、机に乱暴に手を打ちつける音が響いた。恐らく上げた声も自分で自覚しているよりも大きかったに違いない。
「どうして嘘だと決め付ける」
「だってそうだろ? どうしてそこまで僕に構うんだ? 嘘までついて」
こんな罵り合いをしているのが放課後とはいっても小学校だとは現実的じゃない。不健全だし、見苦しい。一刻も早くやめるべきなんだろう。
「僕がいなくなればすべて解決だろ。もうやめよう、この話は」
終わりにしたくて立ち上がろうとしたが、横から腕を掴まれる。振り返ると、予想よりも近くに直也さんがいて、僕は動揺して口を閉じた。
「どうしてきみはそんなに孤独になろうとしてるんだ? そんなに他人に好かれるのが怖い?」
直也さんの声が批判的だったら、もう構わないでくれと叫んで逃げ出すことが出来ただろう。だけどその声は小さくどこか悲しげで、僕には何も言い返すことが出来なかった。
「俺も直高の母親に死なれて、もう誰も愛さないとか一人で大丈夫だとか思ってた。直高のことだって、何とか出来ると思ってたよ」
今まで直高くんのお母さんのことは話題にしたことがなかった。いろんな事情が考えられたし、聞くことで二人に悲しいことを思い出させることになるのが嫌だった。だから気になっても口にしてこなかった話題だった。
僕の動揺はよそに、直也さんの独白は続く。
「だけどここに越して来てから、きみがずっとそばにいてくれた。便利だったことは認める。だけどそれ以上に、俺がそばにいてくれる人を求めてたんだってことに気がついた」
でもそれは僕じゃない他の女性でも構わないことだ。そう思ったのに声は出なくて、僕はただ黙って力なく首を振った。
「こっちを見ろ、ヒロ」
ぐいと腕を強く引かれて、渋々顔を向ける。
「どうしたら信じてくれる? キスでもすればいいのか?」
直也さんの顔にはいつもの少し余裕のある大人の表情がなくて、どこかもどかしくて焦れったくなっている男の顔をしていた。それが僕に直也さんという存在を強烈に意識させた。
もしかして本当に冗談なんかじゃなくて、彼は僕のことを好きなのだろうかという疑念。子供がいて、かつては女性と結婚までしていた人なのに、こんな穢れて汚いゲイの男を好きになるなんてことが現実にあり得るのだろうか?
「前の、同棲してたって奴よりも俺は劣るのか?」
ぼそっと呟かれたその台詞にはさすがに目を丸くした。まさかここで隆政のことを引き合いに出されるとは思ってもみなかった。それに何より、僕が隆政と同棲していた理由は彼に話したはずだ。それでもそんなことを言うとは思いもしなかった。
「……だって、一緒にいるだけで直也さんだけでなく、直高くんまで非難されることだってあるのに」
周囲にバレていないうちはまだいい。だけど少しでも怪しまれれば、隠し通すのは難しいだろう。そうなれば、一番つらい立場にいるのは僕でも直也さんでもなく、無関係なのに一緒にいるだけで色々言われてしまう立場にいる直高くんだ。そうなれば、僕みたいなのが子供の近くにいるのはよくないことだと気付くはずだ。でもそうなってしまってからでは何もかもが遅い。
「それは」
僕はぐらついていた心を決めて、直也さんの開きかけた口の前に手を伸ばし、それを阻んだ。
「僕が臆病になっているのは分かってる。でもそうなるだけの理由があることは分かって欲しい」
見つめ合っていた直也さんの目が真剣なものを帯びる。それに気付くのとほぼ同じくして、掲げていた手を捕らえられる。腕を掴まれ手を捕まえられては身動きが取れない。
「前の男とは上手くやってたのに、俺とだと自信がない? それとも、直高がいるからいけないのか?」
何か反論しなくてはと思ったのに、何も言い返すことが出来なかったのは、その指摘が少しでも図星だと感じたからだろうか。言われてみれば確かに、隆政とは周囲に怪しまれることなく関係が続いた、でもそれは隆政がこのあたりの人間ではなかったということもあるし、何より奴とはほとんど部屋の中でしか会ってなかった。それに背後には菅谷組がいたから、下手な詮索もされることはなかった。
でも直也さんが相手となれば話は違ってくる。彼とは共通の知り合いもいるし、行動範囲も重なる。一緒に出掛けることだってあるだろう。そうなれば、たとえ隣人だといってもだんだんと怪しくなってくるものだ。
それと、直高くんの存在はたしかに大きい。僕がいることで僕から受ける影響は少なくないだろうし、それを考えると本当は関わるべきではなかった。もし周囲に僕の性癖がバレたら、直高くんは自分に一切非がないのに、非難されたりいわれのないいじめを受けたりする可能性がある。
「直高もヒロも俺が守る。それじゃ駄目なのか?」
一瞬、自分がものすごく自分に都合のいい夢を見ているのではないかと思った。いままでかつて、僕に対してここまで優しいことを言ってくれた人はいなかった。どちらかと言えば僕はいつも守る側で、それも相手に気付かれないようにそっと守ってきた。
泣きそうだった。誰にも言ったことはなかったけど、確かに僕は誰かにこういうことを言ってもらいたかった。一人で背負うものを共有出来る人をずっと探し求めていた。いつまでも逃げ続けるのではなく、一人の人のところにとどまっていることが出来たら、と今まで何度考えたことだろう。
でもそうした妄想をするたび、その一時的な夢の先にあるものを考えずにはいられなかった。僕のわがままのせいで、大切な人が傷つくのは耐えられない。そうなるくらいなら、僕は儚い夢なんか捨てても構わなかった。
僕は必死になって首を振った。
「僕は直也さんと直高くんが傷つくのを見たくない」
僕の言葉に腹を立てたように掴まれた手首を握る手に力が込められた。その痛みに眉を寄せる。
「傷つかないように努力するから一緒にいて欲しいとか言ってみろよ。誰かに深く関わるってのは、お互いに相互の関係になるってことを分かってるのか?」
こっちが意味を理解していないことに腹を立てている様子で直也さんは舌を打ち鳴らした。彼のこんな姿を見るのは初めてで、かなり戸惑う。
「一方が守る側で、一報が守られる側ってのは長続きしない。お互いのことを支えあって守りあう。それが正しい姿だろう? そうは考えられないのか?」
目から鱗が落ちるというのはまさにこういう状態を指すのだろう。どうしてそんな簡単なことに気が付かなかったのだろうかと疑問に感じるくらい、当然のことのように思えた。僕は今までかつて一度も誰かと対等な関係になったことはなかった。だからそういう風に考えることが出来なくなっているのだろう。
でも言われてみれば本当だ。僕も好きな人のことは守ってあげたいと思う。だけどその反面、守ってほしいとも思っていた。どちらかに偏っていれば、どうしても疲れてしまう。
「一人で背負うことはない。二人で考えてやっていけば必ずいい方向にいけるはずだ」
こんなことをもっと早くに言ってくれる人に出会えていたら、僕はこんなにも臆病にならなくてすんだかも知れない。だけど、これを言ってくれたのが他の誰でもなくて直也さんだったということに、今この瞬間ものすごく感謝した。だって、直也さんほど僕を気に掛けてくれ、そして僕が好きになった人はいないから。
「ほ、本当にいいの?」
「くどい」
ぱたりと自分の手が落ちて身体に当たった。直也さんが掴んでいた僕の手を放したということに気がつく。確かにもう捕まえられていなくても逃げる気は失せていた。机に座る直也さんを見ながら、呆然としているだけだ。
頭の中には僕がここにとどまることで起き得る様々なマイナス点を上げ連ねていたけど、それをかき消してしまいそうなほど、嬉しい気持ちが湧いてくる。
直也さんと二人で、直高くんの成長を見守っていくという幸せな将来。自分の性癖を自覚してからというもの、そんな一般的な幸福なんて自分には程遠い存在だと思っていた。実際に僕らのような人種は必ずどこかで妥協する必要があった。誰しも妥協がつきものだとはいえ、僕らの場合、それが多くてそしてその基準が低い。
「でも本当に直也さん、僕のこと好きなの?」
「人の好意を疑うな。俺が悩まなかったと思うのか? ヒロが女性なら話は簡単だけど、今回ばかりはプロポーズするような気分だったんだ」
全く意識していなかっただけに、プロポーズという単語の響きが妙に気恥ずかしかった。正直ものすごく憧れていたもののひとつだった。女性が堂々と左手の薬指につけているダイヤモンドの指輪は、本来の意味で僕がつけることはかなわない。それだけに憧れだけは人一倍あった。
「二回目だろ」
照れ隠しに不貞腐れて言う。子供みたいな反応だとはおもったけど、大人ぶっている余裕なんてなかった。
「で、返事は?」
「毎日きみの味噌汁が飲みたいって言ってくれたら頷く」
冗談のつもりで言うと、直也さんは近くにあった僕の頭を軽く小突いた。僕はわざと大げさに痛がって、これ幸いにと彼から離れて背を向けた。
「きみは味噌汁よりミネストローネのほうが得意だろ」
自分が今どんな顔をしているのか分からなかった。笑っているような気はしていたけど、気分的には感情が高ぶっていて泣き出しそうな感覚もあった。泣き笑い顔というのは、あまり他人に見せたい表情じゃない。
「ここに越して来てからどれだけヒロの手料理食べてると思ってるんだ? 得手不得手も好き嫌いも分かってる」
基本的に僕に出来ることは少ない。その数少ないものの中で一番得意な料理の腕を駆使して彼らに料理を作り続けたのは、少しでも気に入られたかったから。少しでもいい印象を与えたくて、毎日作ったお弁当は毎回力作ばかりだった。
「だからこれからも毎日作ってくれ。だけど出来れば、インゲンだけは抜いてくれると助かる」
その茶化した最後の台詞があまりにも面白くて、僕は泣くほど笑った。
お互いの誤解も解け、僕は結果的にここにとどまることになった。そのきっかけを作ってくれたマミ先生へは直也さんと二人で報告に行った。マミ先生はものすごく呆れた顔をして聞いていたけど、祝福してくれた。もちろん、いろいろと釘を刺すことも忘れなかった。
僕がこの街に残るならばすべきことはまだ他にもあって、それを直也さんに相談したところ、自分の好きにすればいいと言ってくれた。でも僕がウチキパンを継がなくとも、直也さんが僕を養うことだって出来ると言ってくれたのは少し嬉しかった。「本音を言えば、ヒロが昔好きだった男の実家で働いているのが気に食わない」なんて言われて、敵わないな、なんて思ったわけなんだけど。
たったこれだけの間で今までは知らなかった直也さんのいろんな面が見えてきて、僕は何度も驚かされている。だけどきっともっと彼のことを好きになる。
「直也さん。今日どうしてこんなに早いの?」
川原小を出て二人並んで家に帰る。まるで夫婦みたいな構図に密かに幸せを噛みしめた。直高くんは友だちと遊んでいるみたいだったから、そのまま二人だけで帰って来た。ただ家に歩いて帰るというだけのことなのに、馬鹿みたいに舞い上がっていた。
「午後休をとったんだ。どうしてもヒロと話したくて」
その一言でふと我に返る。僕はどれだけ直也さんに迷惑と心配をかけていたのだろうか。僕の一方的な誤解のせいで。
「ごめんなさい」
「逃げたことに関しては怒ってるけど、もういいから」
無意識のうちに暗い顔をしていたのか、まるで慰めるようにして肩を叩かれた。ぽんぽんと二回。それがあまりにも優しくて、思わず頬が緩んだ。
「今度逃げたら承知しないからな」
行動とは裏腹に厳しい言葉。不謹慎だけど、その束縛はちょっと嬉しかった。束縛は相手のことを思うがゆえの行為だ。無関心よりはよほどいい。
「直也さんって印象と違うよね」
思わず笑いながら言うと、直也さんは眉をひそめて不審げな顔でこっちを見た。どういう意味だと尋ねられているように首を傾げられ、僕は更に笑いを堪えるのが難しくなった。
「だってもっとクールかと思ってた。すごい縛るよね」
図星だったのか、直也さんはぐっと黙って口を真一文字に結んだ。もしかしたら以前に言われたことがあるのかも知れない。だとしたら悪いことをした。
「気をつける」
改まって言われると逆にこっちが焦った。慌てて首を振る。何もやめて欲しくて言ったわけじゃない。
「僕としては嬉しいからいいんだけど」
「嬉しい……のか?」
重ねて訊かれるとなんだか不安になる。なんたって僕は今まで誰かに行動を制限されるほど束縛されたことはない。似たような状況には立たされたことはあったけど、それとこれとでは状況が違う。契約と愛情ゆえじゃその性質は全く異なる。
「うん、まあ、だって、愛ゆえのことだし」
たじたじになって答えると、今度は直也さんが吹いて笑った。こういう笑い方をするのは初めて見た。
「愛?」
「愛」
夕方ちょっと前の明るい時間帯に男二人で並んで歩きながら語らうような内容ではない気がしたけど、そんなもの今更だ。傍から聞いていて寒い会話はもうさっきからずっと続いている。
丁度直也さんも同じことを思ったのか、二人揃って笑い声を上げる。どう考えてもおかしな光景だ。だけど、努めて気にしないようにする。気がついたら恥ずかしさのあまり穴に入りたくなってしまうから。
「これで直高くんに二人のお父さんが出来たわけだ」
冗談ついでにまるで海外ドラマや映画の様なシチュエーションを語ってみる。日本じゃほとんど見ない家庭環境だなと思う。日本じゃ同性同士で籍を入れることは出来ないし、その間に子供がいるというのも難しいだろう。
「どっちかって言うとお母さんだろ」
「えっ?」
言っちゃ悪いけど、僕は直也さんよりも背が高いし、たぶん体力もこっちのほうがあるだろう。それなのにお母さんと言われるのは少し心外だ。
「直高のこと、任せっきりだしな」
「それは僕が好きでやってることだから」
でも確かに僕のしていることと言えば、食事を作ったり子供の面倒をみたりしているのだから、母親的な立場だと言われればその通りかも知れない。直也さんは一家を支えるために夜も遅くまで働くお父さんってわけだ。そういう風に考えると、ひとつの家族になれたような気がしてちょっとだけ楽しくなった。
直也さんは本当に僕の欲しかったものを何でも与えてくれる。希望を口に出したこともないのに、気取ることなくごく自然に、さっと差し出してくれる。その何気ない行為がどれだけ僕の救いになっているかなんて、きっと本人は気付いていないだろう。
僕は電柱と電線に縁取られた空を振り仰いだ。少し暗くなってきた空の色は、赤の混じった青のグラデーションで、改めてその色をきれいだなと思った。毎日同じような色を見ているはずなのに、何だか今日は特別きれいな色に見えた。
「直也さんを好きになってよかった」
口に出してみてから、自分でその言葉の意味を噛みしめた。きっとそう感じる瞬間は、これから何度でも訪れるだろう。些細なことでもきっと何度もそう思うに違いない。
不意に指先に何かが触れて、それが何かと気付くよりも早くに手が握られていた。こんな往来で男二人が手をつないで歩いていたら怪しまれる。そう思って振り返ると、その手が逃げていった。人の温もりを知ってしまったその指は、その熱がなくなってその寒さに気がつく。
「俺も、きみでよかったよ」
ちょっとの距離で隔てられている手は寒かったけど、その言葉が心に染みて、胸が温かくなった気がした。
僕がここにいる理由は、きっとこんな瞬間があることを知っているからだろうと思う。
〈了〉