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僕とキミとの15センチ

作者: みーたんと忍者タナカーズ

2015年の夏。

世界陸上の決勝の舞台に立っていたのはウサイン・ボルト。

向かうところ敵なしのボルトに挑んだのが、アメリカのジャスティン・ガトリン。

ゴールライン上を駆け抜ける二人。

ほぼ同時に見えたその勝負を征したのはウサイン・ボルトだった。

ボルト9秒79に対して、ガトリンは9秒80。

わずか0.01秒差であった。

実に10センチ差の僅差である。

その10センチ差が金と銀を分けた。

その日、ツィッターに出回った上から撮ったゴールシーンの写真を今もスマホの待ち受けにしている僕は、話の流れでも分かるだろう。

「荒川飛鳥、陸上選手さ」

小6の頃14秒をきり、中学時代は陸上部。

中学生で12秒をきれたのは、ある意味自慢であった。

高校に入ると陸上の強い高校から誘いを受けた。

しかし高校に入ると記録は伸び悩み、常に11秒台後半をさ迷うことになった。

回りには10秒台が溢れ、僕に向けられていた期待が少しずつ消えていくのを肌で感じていた。

そして代表選手にさえ選ばれなくなっていった。

2年生になると100メートルを諦めて、別の競技を目指した方がいいのではと、コーチの助言を受けるようになる。

そんな2015年の夏。僕はボルトとガトリンの試合を見た。

ガトリンと言えばそれまでのイメージはドーピングの人というイメージしかなかった。

とは言えアテネオリンピックの金メダリスト。

ドーピング問題からの北京オリンピックでの銅メダル。

そして今回のボルトとの死闘。

諦めてはダメだ。

そう自分を奮い立てた夏。


やがて冬が来て僕は所詮能力のない人間の努力は、天才の努力には叶わないということに気付かされる。

ガトリンと自分を一緒にすること自体無謀なことなのだ。

相手は腐っても天才。

未だ日本人の誰もきったことのない10秒の壁を超越して走る生まれながらの天才なのだ。

天才が努力したら、凡人がその上の努力を続けたとしても太刀打ちできやしないのだ。


無駄な努力だったのだ。

やはりいつまでも100メートルに拘り続けてしまったこと事態が自分の奢りなのだ。

確かにこの学校に入学してすぐなら、日本記録に最も近い選手とさえ言い切れたかもしれない。でもメッキは剝がれたのだ。

日本記録どころか中学時代の記録と日々戦っているだけで、後ろから来た選手に次々に追い越されてしまったではないか。

そう、努力を怠ったわけじゃない。

努力をしてもこの記録なのだ。

怠けていたのなら、伸び代もあるかもしれない。

しかしここが限界なのだろう。

あとはそれを認めたくない自分の心の問題なのだ。

僕は待ち受け画面を消した。

そして他の競技を模索する日々となった。


正月、実家に帰ると、いつものように両親に、身内に、ご近所さんに、そして中学時代の同級生たちに、「どうだ、調子は?」という質問が繰り返される。

活躍などしていない。

それは分かってるだろうと言いたいが、本当に知らないのかもしれない。

そもそも陸上の記録事態、大きな大会でさえ新聞に載ることは稀だし、ネットで調べたとしても記録が出てこない。調べるのが大変なのだ。

名前が出ないのは記録が出てないからとは思わないようで、みんな記録が気になって結果を聞きたがっているだけなのだ。

周囲の期待はいまだ継続中である。

陸上競技の名門校にスポーツ推薦で選ばれたのだ。

期待されるのはしょうがない。

それでも素直になれず、見栄も晴れない。

作り笑いで、「どうにかついていってます」と答えていた。

帰郷してもどうも友達に会いにくい。

陸上の話題になるのが面倒くさいのだ。


それでも僕は中学時代の陸上部の顧問の坂本に会いに行った。


「伸び悩んでるそうだな」

さすがに先生には高校の陸上部情報が入ってるらしい。

「俺もあの高校が母校なんだ」

「そろそろ限界でしょうか」

「それを決めるのは俺じゃない。荒川が決めることだよ」


いつも走って行った校庭に出た。

「懐かしいだろう。後輩の走る姿を見ていってくれ」

僕の姿に気がついたのか、一部の生徒たちがヒソヒソ話を始めた。

3年の頃、1年だった生徒がすでに陸上部を去っていた。

だから誰一人知らない。

それでも僕のこと聞きつけて後輩の3年生が集まってきた。

「先輩久しぶり」

次々に声を掛けられた。

「みんな集まってくれ」

先生は陸上部の生徒を集めた。


と、一人だけ遅れて女子がやってきた。

「覚えてるか、3年生の品川だ」


僕は中3の卒業の日を思い出していた。

男子と女子は別々に練習するせいか、同じ部活なのに知らない女子もいる。

とは言え、品川のことはよく覚えてる。

足が速くてとにかく目立っていた。

しかも可愛い。

ただ遠くで眺めることはあっても、話しかけたことはなかった。


「品川瑠香と言います」

子供っぽい顔立ちで、赤ちゃんみたいな見た目だ。

それも年令のせいだろうが、可愛い顔をしている。

「背、高いね」

「160センチです」

それだけじゃない。

すらっと伸びた足。


足の長さは歩幅の点で有利に働くだろう。


「荒川先輩、最後に100メートル走、勝負してください」

品川は言った。

「ああ、いいよ」

そして一度だけ勝負をすることになった。

とは言え、これは送別会を盛り上げるための先生の計らいだろう。

用意、スタート。ほぼ同時。ずっと並走。

そして最後の10メートルで大差をつけて勝った。

「やっぱ、負けたか。まだ先輩には勝てないや」

「まだ一年だからね」

と言いながら、僕は品川の早さに驚いていた。


「陸上続けてるんだろう?」

先生が聞く。

「はい、一応…」

どうしても声が小さくなる。

胸を張って言えることじゃなくなっているからだ。

先生は知っているのだろう。

あの高校で負け組がどんな扱いを受けるかを。

「俺が陸上同好会をつくったんだ」

「えっ、そうだったんですか」

「落ちこぼれだよ。だから今では中学講師さ」

陸上の選手は引退すると何をするんだろう。

大学で教えるのかな?


先生は品川を呼び寄せた。

「今からこの品川さんと走ってくれよ」

100メートル走の再戦だ。

「いいですよ」

品川は少し大人になっていた。

「背伸びた?」

「5センチ伸びて165センチになりました」

相変わらず足が長い。


僕が伸び悩んでるとは言え、相手は2つ下のしかも女子である。

僕の走りは中学生女子の日本記録にはまだ負けていない。

あの勝負から2年しかたっていない。

まだ負ける気はしない。


「真剣に走らないと、私勝っちゃうかもよ」

品川は2年で自信をつけたのか、挑発してきた。

「そうだね、全力で走るよ」

スタートラインに手を置くと、気持ちが高揚した。

なんか、こんな気持ち久しぶりだ。


「用意、スタート」

スタートが少し遅れた。

いや、遅れたんじゃない。

品川のスタートが良すぎるのだ。

だから出遅れたように見えるだけだ。

いきなり5メートルくらいの差をつけられた。

僕の心に灯がともった。

僕は必死に走り、ゴール5メートルのところで品川を抜き去った。

「品川さん、相変わらず早いね」

「瑠香でいいよ」

女子を呼び捨て。

これはいわゆるリア充どもが、何食わぬ顔でやってしまうあの高等テクニックだ。

「でも、やっぱ、早いわ、先輩」

「ありがとう、楽しかった…、瑠香…」

ぎこちないやり取りだ。

「どうですか、私の走り?」


後ろから眺めていた瑠香の走りは、教科書のお手本のような走りだった。

ストライドが広いのだろう。

一歩で稼ぐ距離が長い気がした。

ピューマのような走りは美しく、見とれてしまうほどだ。

勝ちはしたが、心は穏やかではなかった。

しかし自分の記録を聞いて驚いた。

参考記録だが、高校生になって一番早い記録であった。


「私の目標ができちゃった」

瑠香が言った。

「私、先輩と同じ高校に進学する。そして先輩を打ち負かす」

瑠香は相当勝気なようだ。

「だからまた一緒に走ってくれる?」

「僕の高校か…」

高校の陸上部に僕の居場所はない。

そんな姿を見られたくない。

「じゃあ先輩、今からもう一回勝負しましょう」

「今から?」

「そうよ、私が勝つまでね」


「出た、負けず嫌い」

男子の声。

瑠香は足が速すぎて女子との練習じゃ相手がいないため、いつも男子と練習をしていた。

男子の中には瑠香に勝てなくて、ショックを受けてる連中もいるらしい。

悪口が彼らの最後の抵抗なのかもしれない。

「勝負もしないで諦めるのは一番最低よ」

「出たよ、出た出た。気の強さも最悪だ」

瑠香は少し嫌われてるようだ。

みんなが僕に勝ってほしいと思ってるようだ。

だからと言って手は抜かない。

まだまだ瑠香は僕の敵ではない。

それから2度走った。

少しずつ距離が近付いていた。

僕がばてたからじゃない。

僕の記録は少しずつ良くなっていた。

僕は自分のタイムより瑠香のタイムが気になった。

12秒切ってる。

早い。中学記録が11秒61。

「11秒99か…。いつもより遅いや」

瑠香はため息を漏らしていた。

瑠香が一年生となって、入部してきた。

その時僕は一つの決心を固めていた。

高校女子の記録が11秒43。

この記録を僕がいるうちに瑠香に超えさせる。

それが僕の目的となった。

今の僕の記録は11秒40。

つまり、僕と走って勝てば高校記録なのだ。

とは言え、3年生。補欠にもなれない僕に瑠香のコーチを任せてもらえるのか?

それから僕は瑠香のために本を読み漁った。

それは自分の時より熱心だった。


当然部にはコーチがいる。男子には児島。女子には松田。

そして監督は鬼と恐れられた宮崎である。

3人とも部外者で陸上専任で雇われ、陸上部を強くすることだけを目標に置いていた。


その鬼監督宮崎と瑠香がどうも相性が悪く、いちいち口答えをする瑠香に、宮崎は嫌悪すら感じ、コーチの松田に指導を丸投げした。

松田も松田でいい加減なところがあり、仕事としてコーチはするけど、適当にやってと、よく言えば放任主義的なところがあった。

それ故期待の星で入部してきた瑠香は責任が重すぎて誰かに変わってほしいと思っていた。

だから「品川瑠香さんの指導をさせてください」と言う僕の申し出は願ったり叶ったりだった。

松田コーチはいい加減で、よく居眠りをしていた。

監督の宮崎は瑠香が嫌いで、女子陸上部と距離を置いていたため、僕のことに気がついてもいないようだった。

僕は瑠香のフォームを検証し、改善を加えていく。

付きっきりのコーチは、陸上部内でも当然噂になった。

瑠香は男子に人気があったからだ。

とは言え僕はそんなことは全然気にならなかった。

僕に恋愛感情は微塵もなかったからだ。

僕は瑠香のためにいろんなコーチに助言をもらったりした。

そんな姿を見て口を挟む人はいなかった。

代表選手でない僕を監督に推したのは松田だった。

あくびをしながら松田はたまに声を掛けてきた。

そして短期間で瑠香の記録はみるみる伸びていった。

それが松田コーチの評価に繋がっていた。


僕が陸上部にいる理由。

それは瑠香を強い選手に育てること。

できればこの1年の大会で優勝を手に入れる。

そうすれば僕が同好会へ行かず、部活を続けた意味がうまれる。

僕は全ての時間を瑠香のために捧げた。


そして夏休み。

僕が瑠香にしてあげられるのはこれで最後かもしれない。

選手の僕を欲しがる大学の陸上部はどこにもなかった。

つまり僕は自力で大学に行くために、受験勉強という未知の経験をしなければいけなくなった。


とは言え陸上は捨てられない。

体育大学を一応目指していた。

僕はコーチ紛いのことを続ける中、一つの自信をつけることができた。

それは僕は指導者に向いてるという確信だ。


夏の一番のイベント。

全国高校陸上選手権大会前日になった。

全国から予選を勝ち上がってきた選手が一堂に会し、全国一を競う大会であった。

これは僕の高校生最後の大会である。

とは言え代表選手に選ばれるはずもなく、補欠にすらなれなかった。


いよいよだ。明日の瑠香のレースが俺の高校最後のレースになる。


「先輩、最後に一度レースをしてください」

瑠香は言った。

もちろんそのつもりだった。

瑠香は本当に早くなっている。

でもまだ負けないだろう。


瑠香との最後のレースに僕は入念にストレッチをする。

よし体は温まった。

僕は松田コーチをよんで、タイムを計ってほしいと言った。

松田は面倒臭いなあと愚痴りながら、数人の一年を連れてきた。

そして僕らはスタートラインに並んだ。

スタート。いつだってスタートは瑠香がいい。

後半で抜き返すのがいつものパターンだ。

しかしいつまでたっても瑠香に追いつけない。

並走すらできない。

追い付いたと思った時には、僕はゴールを駆け抜けていた。

僕と瑠香はほぼ同時にゴールした。

「早いよ、先輩」

それは驚き以外の何ものでもない。

出来は悪くなかった。

だとしたら、一体記録は何秒だ。


「ごめんー…」と松田が笑いながら言った。

ストップウォッチ、止めるの忘れちゃった。

「今の記録よく分かんない…」

結局タイムは分からなかった。

しかし、今年の頭にあった僕との差はすっかりなくなっていた。

だとしたら…。

僕の記録が悪かったのかもしれない…。

しかしもし普通に走ることができていれば…。

瑠香の記録は日本一だろう。


「コーチ…、ちゃんとしてくださいよ。先輩、もう一度勝負しましょ」

そして二走目。

またしても接戦、今度は一年にゴール間際をスマホで写真を撮ってもらった。

僕の方がわずかに早い。

その距離、約15センチくらい。

あの10センチ差を競ったボルトとガトリンみたいではないか。


僕はかなり正確にちゃんと走れた気がしていた。

僕はコーチのストップウォッチを見た。

「ごめんね…。また失敗」

「コーチ、ちゃんとしてください」


と、一年の廣川さんがストップウォッチを手に近寄ってきた。

そしてストップウォッチを見せてくれた。

11秒33。

デジタルは間違いなく、そう数字を刻んでいた。

「これは僕の記録?」

「いえ、瑠香ちゃんの記録です」


誤差はあるだろう。

しかしこの記録が本当なら、それは…。

つまり瑠香が日本一早い女子高校生ということになる。

「これって早いんですか?」

廣川は無邪気にそう聞いた。

「早いよ、とんでもなくね」

非公式記録とは言え、それは高校女子新記録だった。


僕と瑠香の距離は今15センチ。

写真判定でしか分からない紙一重の差。


そして全国高校陸上選手権大会。

補欠ですらない僕はベンチから瑠香を応援していた。

瑠香のことをまだ誰も知らない。

もし昨日と同じ走りができたなら、明日の新聞に載るに違いない。

瑠香は僕の方を見て微笑んだ。そして手を大きく左右に振った。

あんだけ余裕があれば大丈夫だろう。


それは快挙だった。

圧倒的大差で瑠香は駆け抜けていった。

そして正式な記録が表示された。

11秒29。

間違いなく高校女子新記録。

日本新記録にもせまる記録だった。


そして僕は大学の合格通知をもらった。

これでまだ陸上を続けられる。

瑠香は言った。

「先輩、私、2年後先輩の後を追って同じ大学に行くね」


「うちは陸上の名門じゃないからな…」

「もっといいところから推薦が来るよ」

「大丈夫、あと2年もあるし、先輩が私のためにその大学の陸上部を一流の陸上部に変えてくれるから」

先輩の背中を追いかけて、私ここまで来れた気がするの。

だからいつまでも先輩には私の前を走っててほしい。


今度はそれが僕の新たなる目標となった。


そして大学に入ると、僕はいきなりレギュラーに選ばれた。

11秒台でいきなりのレギュラー入り。

それはこの大学の陸上部のレベルを表していた。

とは言え、僕自身瑠香を教えることで、記録が伸びていることは間違いなかった。

速く走るための理論。それが自分にも備わっていたのだ。


「レギュラーに選ばれたって?」

瑠香とのグループライン。

高校時代瑠香を指導する時によく使っていた。

今じゃ、たまにしか使ってない。

「陸上が強い大学じゃないからね」

「でもすごいよ」

そうだ、落ち込んで打ちのめされていた頃から比べると、奇跡のカムバックだ。

とは言えまだ11秒台。

僕が成長したからとは言い難い。

中学記録10秒56さえ超えていないのだ。

最低でも10秒台前半をコンスタントに出せないと、話にならない。

「先輩、今度戦うときは私が勝ちますからね」

「そうやすやすと抜かせないよ」

「了解」と書いたスタンプが送られてきた。

僕は「ありがとう」とスタンプを送った。

そこに深い意味はない。

そう、今の僕があるのは瑠香のおかげなのだ。

少なくとも瑠香に関わっていなければ陸上はもう辞めていたろう。

まして10秒台に挑むこともなかったはずだ。


コーチは本来そう言った技術を教えるためにあるのに、走れる選手と走れない選手を選別し、リストラするためにあるかのようだ。

走りの技術は結局自分で探し出し、実践するしかなかった。

だからできそうにないことは、すぐに諦めてしまった。


しかしそれらを着実に熟していく瑠香を見ていると、自分にもできるんじゃないかという希望が生まれてくる。

希望はやがて、可能性になり、努力の末に道が開かれていくのだ。

瑠香の頑張りが僕を支えてくれたことは間違いない。

瑠香に走りで追い越されたことはない。

それでもいつか追い抜いてほしいと思ってる。


もしそんな日が来れば、瑠香はオリンピックに出ているに違いない。

いや瑠香はもう日本代表候補なのだ。

比較するのはおかしいかもしれない。

でも、僕はオリンピックまでは瑠香の前を走っていたい。

それは瑠香のためであり、僕のためでもある。

今の僕の目標は11秒の壁を切ること。

そして瑠香がこの学校を選んで入学してきたとしたら、その時は10秒台の前半で常に走れる選手になって、瑠香を迎えることだ。


そして今、僕の待ち受けはあのボルトとガトリンの写真に戻っていた。


「二人は付き合ってるのかと思いました」

よく言われるセリフだ。

そう見えたのも仕方ない。

瑠香が僕を好きなことは薄々感じていた。

しかし僕は瑠香を恋愛対象として見たことは一度もない。

「あくまでコーチで、ライバルなんだ」

一つ確かなことがある。

瑠香を教えてきたから僕の記録も伸びて、今では10秒台で走ってるってこと。

瑠香に負けないために僕もまた進化してるってこと。

「嫌いじゃないんでしょ」

「そりゃそうさ」

「じゃあ、付き合えばいいのに」

何度となく同じことを言われる。

そのたびに拒絶してるのはいつだって僕だ。

「だって、瑠香はタイプじゃないし」

どうして素直になれないんだろう。

瑠香は可愛い。

高校生になってさらに可愛さに磨きがかかってきた。

2個下だけど、気にするような年齢差じゃない。

3年生と1年生が付き合ってるのを何人も見てきた。

付き合えばきっとうまくいくだろう。

でも、僕は踏み出せずにいた。

「瑠香は恋愛対象にはしたくないんだ」

「つまり脈ありってことですか。デートなら俺らが企画しますよ」

「いいって、遠慮する」


大学生と高校生だからじゃない。

僕には自信がないのだ。

女子とどう接していいのか、分からない。

デートとかってどこに行けばいいのか。

そもそも二人っきりで何をして過ごせばいいのか。

陸上の話でもする?

そんなのいつもしてる。

むしろ二人から陸上の話をなくしたら、会話が成立しない。

二人とも黙ったままだろう。

映画?

映画見てどうするの?

終わったら、現地解散。

カフェに行って何話す?

陸上の話?


ディズニーランド?

楽しいのかな。

なんか恋人とかになると意識しちゃって、ギクシャクしそうだし、今のままでいい。

別に手なんか握りたいとは思わないし、キスをするのもなんか大変そう。

なんか変な汗かきそうだし。

やっぱ、無理。

性格も相性もきっといい。


それは分かってる。

でも付き合ってどうすればいいのか、分からない。

かっこ悪い僕、見せたくない。

リードできない先輩なんて。


「先輩ってプライドが高いんですよ。

かっこ悪くたって、恋人なら受け入れてくれますよ」


スポーツ女子特有の気の強さ。

がさつさ。

そういったものが気になるかもしれないし。

それきっかけで嫌いになるかもしれないし。

今のままなら嫌いになるなんてありえないし。

ドキドキは陸上のスタートラインで嫌になるほど経験してる。

あんな緊張がずっと続くなんて、そんなの罰ゲームだって。

いくらなんでもありえないよ。

「先輩たち、ほんとお似合いなのに」

「瑠香は胸、小さいし」

僕はみんなの前で瑠香のあら捜しをしていた。

「風の抵抗がないからいいじゃないの」


「100歩譲って100メートルで、瑠香に追い抜かれたら、付き合ってもいいよ」

「ずいぶん上からですね」

「でも、僕はもう10秒台だから、日本記録でも抜けないだろうけどね」


「先輩は胸が大きい方が好きなの?」

瑠香が突然切り出した。

みんなとした話。誰かが漏らしたに違いない。

「ないよりはあった方がいいのかな…

よくわかんないや。

あんまり気にして見たことないって言うか。

別に気にもならないんだよね。

まあ、大きい子はさすがに目がいくけどね」


「いやらしい」

「そうじゃないよ。

逆だよ。大きいと、胸を見られなくて、目のやり場に困るんだよな。

目を見て話すの、得意じゃないし、そうすると、なんか横見て話しちゃうって言うか」

「へえ、私とはちゃんと目を見て話してるのにね」

瑠香は頬を膨らませた。


ゴールデンウィーク中、5月初頭。

高校時代の陸上部の後輩メンディが訪ねてきた。

陸上部を引退してから、陸上部員と会うのは初めてだった。

いわゆるエリート揃いの陸上部員たちは全国各地に散らばり、すでにレギュラーとして活躍しているものもいる。

普通なら部員同士は仲良しで、各々連絡を取り合ったりしてるのだろうが、それはエリートたちだけの話で、カースト制度の末端にいた僕にとっては遠い存在になっていた。

入部したての頃仲良くしてた友達がいつしか口をきかなくなるのは珍しくもなく、僕は1年の半ば頃には完全に浮く存在になっていた。

「スポーツ推薦なんだって、この学費泥棒が!!」

そう言って罵られ、部活を去るものも多く、スポーツ推薦が取り消され、別の高校に転校するものも多かった。

レギュラーじゃない選手は、先輩であっても、なんとなく見下されている。

まして足の速い生徒はかなり自意識が高くなっている。

上下関係より実力主義。

それがなんとなく蔓延していた。


実際陸上同好会という別の部活があり、陸上部は2つ存在していた。

そもそもなぜそんな同好会があるのか。

それは落ちこぼれたちが上級生になって、居場所をなくした時、辞めてからも陸上を続けるための同好会だった。

一見手厚い福利厚生のようにも見えるが、部をやめた時点で、学費の免除が打ち切られるのだから、我慢して陸上部に残る先輩もいっぱいいた。

ただ部をやめて、同好会に行かないと、後輩のシューズを磨いたり、白線をひいたりという雑務をさせられるためプライドは傷つけられてしまう。

ましてレギュラーが家に帰るまで、走ることを許されないのは、陸上をやめろと言われるようなものであった。

そうして追い詰められてしまうのだ。

そのためほとんど辞めてしまう。

僕が陸上部に留まることができたのは、そう言ったことを嫌がらずに続けたからだ。


瑠香が入部すると、僕の部活に意味が生まれた。

松田コーチが僕に任せてくれたのは、幸いだった。

今でも思う、スター候補生の瑠香の指導をよく僕なんかにと。

考えられることと言えば、瑠香が僕以外から指導をうけたくないと申し出たとしか考えられない。


雑務ばかりしていた僕を慕ってくれる後輩は少ない。

ただ落ちこぼれ組の後輩とはよく口をきいた。

池野メンディもその中の一人だ。

彼から一度相談を受けたことがある。

彼も追い詰められて、しかも雑用係に苛立っていた一人だった。

彼は部を辞めて、同好会に入るかどうかを悩んでいた。

そこでいつまでも辞めない僕に相談したのだ。


「先輩はどうして辞めて同好会に入んないですか?

後輩たちと混じって、雑務して、辞めろって言われてるような環境で、

どうして続けられるのかなって」

「なんだろうね」

「意地ですか?」

「意地だけじゃ続かないね。まあ陸上が好きなんだね、きっと」

「後輩のスター選手を応援するのも結構楽しいよ」

メンディは首を捻ってる。

「だってマネージャーなんてそうだろう。ずっと洗濯して、雑務をして、何が楽しいんだろうって思ったことない」

「でも彼女たちはスター選手を側で見たいからじゃないのかな」

全国優勝もする有名校なのだ。

陸上界じゃ、有名人ばかりの部活である。

「ただのミーハーでしょ」

女子マネージャーは二人。

一人は平凡で、根暗。

みんな、「いの」と呼んでいた。

それは名前が猪俣だからだ。

もう一人は瀬川。

ブサイクだが、胸が大きかった。


メンディは背が高くてまあまあのイケメン。

だから人気があったのだが、レギュラーから外されて、大会にも出れない日々。

そもそもスポーツ推薦で入ってくるくらいだから、他の学校にいれば足の速いかっこいい男子だったんだろうに。

一年、二年と学年が上がるごとに人気がなくなっていった。

ハーフだったからか、入部してきた頃は、キャーキャー言われてたのを覚えてる。

部の片隅追いやられると少しずつ声援が消えていった。


そんなメンディが大学を訪ねてきた。

「彼女ができたんです」

相手は陸上部のマネージャーだった女の子。

雑務をする機会もあったから、顔見知りの女子である。

メンディはどちらを選んだのか。

根暗か、巨乳か?

「瀬川さん」

巨乳だ。


「巨乳好きじゃないですよ」

メンディはいきなりそう言った。

いつもそう言われてるんだろう。

「キャンパスライフ、どうですか?」

「別に普通だよ。ただ今は瑠香を一流の選手に育てたいって思ってるんだ」

「品川さんっていつも先輩と練習してた子ですよね」

「そう、中学の後輩なんだ、一応ね」

「もう教えてないんですよね」

「うん。今どうしてる?誰が教えてる?」

今は松田がコーチをしているらしい。


メンディは今も同好会に入らず、頑張っているらしい。

というより、4月に瀬川と付き合い始めてから、メキメキ記録が伸び、今は補欠選手に選ばれたらしい。

そのせいかすっかり瀬川に入れ揚げていた。

瀬川の励ましとおっぱいで。

じゃないとおかしい。瀬川は誰が見てもブスだし。

瀬川によると、メンディは競争を嫌う優しい性格で、自信を失くし記録が落ちただけだったらしい。

「もしあの時同好会に移っていたら、きっと記録は今も燻ってたはず」

すべて先輩のおかげです。

それが僕にはすべてオッパイのおかげですと聴こえた。


で、彼の本当の目的というのが、一緒にディズニーランドに行きましょうと言うのだ。

「僕、彼女いないよ」

「知ってます。だから品川さんも誘って四人で行きましょう」


Wデートじゃないか。

やばい、どうしよう。

一応僕が一番年上なわけだし、リードしなきゃいけないだろうし。

だからってデートの経験はないし、いきなりディズニーランドはハードル高すぎ。

モタついたら、カッコ悪いし。


「そうそう、先輩、私、年パス持ってるから、安心して」

瀬川は僕の心を見透かしているようだった。

「ちゃんと案内するから、何の心配もいらないよ」

ナイス!ナイスだ、瀬川さん。

さすが、敏腕マネージャー。

僕はコーディネーターに任せっきりで、夢の国を満喫した。

正確にはずっと心配でかっこ悪いとこ見せられないと、気をはっていた。

そのせいか、瑠香と一緒なのに疲れしか残らなかった。

そんな一年の夏休みに練習を見てくれないかと松田コーチから誘われた。

断れる理由はない。ずっと瑠香の記録のことが気になっていた。


そして夏合宿。

「陸上のことはしばし忘れて楽しんでね」

松田はそう言って、部員を送り出した。

星空の下で二人っきりで放置されたり、お化け屋敷に二人でペア組まされたり。

暗闇の中、腕に抱きついてきた時はドキドキが止まらなくて、お化けどころじゃなかった。

何の合宿だよ。

食事がすむと、みんなは温泉卓球で盛り上がる。

僕は一人外に出た。

そして10キロのランニングを始めた。

ルーティンだ。

途中、僕の肩を誰かが叩く、

「お化け…」

恐る恐る振り返ると瑠香。

「一緒に走りましょ」

これはもしかしてマラソンデートではないか。

翌朝、早めに起きて走っていると、また瑠香にあった。

「やっぱこれだけはやんないとね」

そしてそれは合宿中の日課になった。


どうしてビキニがないんだよ。夏合宿と言えばビキニだろ。

帰るころには2泊3日の合宿に陸上の練習がないことが気にもならなくなっていた。


合宿から帰ると、続いて花火大会。


急に瑠香と二人っきり。

あいつら…と心の中でガッツポーズをしていた。

しかしどこまでダメなんだ。恋愛初心者。

ボルトの話をずっとしてしまった。

陸上バカのアホ。

それでも花火はきれいで瑠香の浴衣姿を見れたことは最高の夏の思い出になった。


結局進展はないまま夏も終わろうとしていた。


そして瑠香たちは夏休み最後の大会を迎えようとしていた。


瑠香は例によって僕にレースを挑んできた。

これでも練習は欠かしたことはないんだ。

負けるわけにはいかない。

「この前みたいにはいかないよ」

僕は瑠香に追い付けなかった。

そしてゴール。

負けた。ついに負けてしまった。

瑠香は笑顔でこちらを振り返った。


そして僕は瑠香を思わず抱きしめた。

何の躊躇いもなかった。

ただ僕を追い抜いた瑠香を祝福したかった。


ふと我に戻ると、急に恥ずかしくなった。

瑠香が先に僕を押しのけた。

しばしの沈黙、「やったな」


「ついに勝ったよ、」瑠香は笑った。


そして陸上大会。

「なんだ、お前も出るのか?」

高校時代の友達だ。

「ああ」

「お前がレギュラーなんて」

「ビリになっても許される学校なんだろう」

「そうだね」


僕は予選で彼と当たる。

高校時代は勝てる気がしないほど、いつも彼の背中を見続けた。

ただスタートした時に分かった。

今は彼の背中が見えない。

なぜなら、僕が先頭を走ってるからだ。

そしてそのままゴールした。

彼は放心状態になっていた。

高校時代では考えられない。

「僕が2番なんて。

やつが最下位じゃないのか」


準決勝。もう一度彼と戦うことになった。

そしてかつての同級生たちがさらに二人。

僕は3位。

しかし1位と2位はみんな上級生。

つまり決勝に進んだのは僕だけだった。

「あんな無名の大学に負けるなんて」

どういうことだ。高校の監督宮崎は思った。

うちの生徒…。覚えてない。

彼は元々才能があったに違いない。

それを伸ばしてやることができなかったのは、俺のせいだ。


瑠香の番が回ってきた。

記録だけで考えると、決勝進出は間違いない。

「先輩、二人で決勝進出だね」

「瑠香、あとは優勝だけだな」

「先輩、もし一番になったらお願いきいて」

「オッケー」


僕は決勝7位。

瑠香の走りを見るためにトラックを走った。

瑠香が走ってる。

僕に向かって走ってくる。

そして瑠香は一番で駆け抜けた。

そのまま瑠香は一番の旗をもって、僕のもとへ駆け寄った。

「約束は果たしたよ」

僕は瑠香を抱きしめた。

「よくやった」


「出ました、大会記録。日本記録にはあともう少しでしたね」


「やったな。ほんと嬉しいよ」

「私も嬉しい。先輩の願いを叶えられて」


「恋する力を得た勇者は夢を叶えました」

コーチの松田は小声でそう言った。


「なあ、あれホントに落ちこぼれの荒川かよ」

「いいコーチがいるのかもな」

僕は高校の監督宮崎に握手を求められた。

「ご無沙汰してます」

「すごいじゃないか」

「監督が許してくれたからですよ、瑠香のコーチをすることを」

「えっ?」

「有難うございます」

こんな才能のあるランナーがいたなんて。

思い出した、いつも雑務をしてた男子だ。

指導方法に間違いがあったんだろうか。

「彼は落ちこぼれたちの希望の星かもしれないな」

「かもしれませんね」松田は笑った。

「もしかしたら大化けするかもしれんな」

「ええ。彼は恋をして本当に強くなりました」

「ロマンチストだな、君は」

「本当のことですよ。彼を復活させたのはうちの瑠香なんですから」

「見る目があるね。君だろ、彼に指導を任せたのは」


「いえ、彼はみんなが帰った後いつも走り込み、朝も早く来て走り込んでたんですよ。ただそれだけのことです」



「日本記録、惜しかったな。今度こそ日本新だな」

「任せてよ。同じ大学になったら先輩にコーチ頼むから」


「そ、そうだな。僕がついてる」

「だから先輩、責任とってね」

「ああ、大丈夫だよ」

「違うよ、先輩、私にいきなり抱き着いた責任だよ」

「えっ」何、これはセクハラ、コーチだからパワハラ。

「どうやって責任をとれば…」

「私と付き合って」

「どこに?」

「先輩。私、告ってるんだよ。ライクじゃなくてラブなんだよ」

「…無理だ」

「…先輩…、男の子は頑張んないといけない時があるんだよ」

「…恥ずかしい」

「今好きって言わないで、いつ言うの?」


「だって、僕、デートなんてどこへ行けばいいか分からないし」

「大丈夫だよ。先輩。私は先輩と一緒だったら、どこでも」

「マラソンデートしかできないし」

「先輩、私たち、まだ付き合ってないし、私はマラソンデートでも気にしないよ」

「やっぱ無理」

「先輩、そういうのってドラマとかなら、「意気地なし」って罵られるパターンだよ」


「何ジャレあってるんですか、先輩」

「ジャレあってなんかいないよ」


「先輩日本記録出したら、キスしていいですか?」

「ダメだろ、そんなの」

「先輩のケチ」

「キスしてやんなよ、減るもんじゃなし」

「減るんだよ、僕のファーストキスがなくなるんだよ」

みんなが僕の煮え切らない態度に苛立っていた。

「僕はな、自慢じゃないがキスしたことないんだからな。どうやってやっていいのか、分かんないんだよ」

メンディが僕にキスをした。

「何すんだよ」

「キスですよ。これでやり方わかったでしょ」

「お前、男とファーストキスしたじゃん」

「僕はファーストキスじゃないから大丈夫ですよ、先輩」

「どうせ瀬川とキスしたんだろ、このブス専」

「ひどい、今の」

「なんだよ、みんなで僕を責めるなよ」

「先輩が私をいじめるから」

瑠香はすっかり被害者面だ。

「分かったよ、キスしてやるよ」

僕は瑠香の両肩を手で押さえた。

そして目をつぶって、キスをしようとした。


僕はいきなり瑠香に平手打ちをされた。

「嫌だ、先輩、みんなの前で」

「痛た」

なんだよ、なんで叩かれるんだよ。

「デリカシー無さすぎ」

「これだからスポーツ男子は」


「あのさ、どうすればいいわけ」

「私が日本記録で勝つまでお預けです」



「それにデートはもう何度もしてるじゃないですか、私たちと」

「そう、ダブルデート」

「奥手の先輩のために僕らがサポートしてるんですよ」

「嘘つけ」

「やたらと二人きりになったでしょ」

「あとは先輩の頑張りだけなんですよ」


こうして瑠香はあっさり日本新を出してしまった。

「恋の力だ」メンディは瀬川の肩を抱いたまま、そう言った。

「ほんと、恋の力ね」メンディと瀬川は人前で憚ることなく、見つめあい、キスをした。

どこだと思ってんだ、ここを。

神聖なるスタジアムだぞ。

「今度は先輩の番ですよ」

メンディは言った。

そして早々に次の日曜に4人でデートをすることになった。

もう逃げ道はなくなった。

どうせ、途中でいなくなるんだ。

そして二人きりにされ、僕はキスを奪われるのだ。

女子とする初めてのキスを。


大会のあと、瑠香はどこかよそよそしかった。

「おめでとう」と言っても顔を強張らせていた。

「先輩、可愛いじゃないですか、緊張してるんですよ」


なるほど…。

何か悪いことでも言ったのかと心配した。

そして帰り道。

気がつくと、瑠香と二人きりになっていた。

おいおい!

心の準備が…。

今度の日曜日じゃなかったのかよ。

月明りの下、瑠香の顔がはっきりと見えた。

無口のまま僕は瑠香の家まで送って行った。

ああ、何もできなかった。

瑠香は待ってたんだろうか?

「先輩、私、嬉しいんだ。先輩の願いを叶えられて」

「ああ」

「でも明日からどうしよう。なんか目標がなくなっちゃった」

「そんなことないさ。もっと上をめざすんだよ。瑠香ならまだまだ伸びるよ」

「うん、頑張る」

可愛い。

「じゃあ、おやすみ」

「あの…」

そう言って、僕は瑠香を引き寄せた。

急に瑠香が身を任せてきた。

僕は瑠香を恐る恐る抱きしめた。

ぎこちない。

それでいて添えるだけの手はガチガチだ。

これこそキスのタイミング。

今しなくていつする。

僕は目をつむって思い切りくちびるを押し当てた。

目を開けると、瑠香は目線をそらして俯いていた。

とても長い時間が過ぎたような気がした。


「じゃあ、またね」と瑠香は振り払うように、大急ぎに家に駆け込んだ。


しばしその場に立ち尽くしていたがじわじわと喜びが湧いてきた。

ついにやった。

僕は頑張った。

家路についてからも顔がニヤついて仕方ない。

とにかく次の日曜日には逢えるのだ。

ホント有難う、メンディ。


そのあと瑠香とずっとラインでやり取りした。

なんかさっきキスしたことが夢か何かのように感じられた。

普通の会話のやり取りが続いた。


日曜日、二人きりになると僕にスイッチが入った。

キスしたい。

兎にも角にもキスしたい。

するとなぜか瑠香はキスを求める僕を拒み続けた。

「嫌いになったの」

「ううん、大好き」

「じゃあ、キスしようよ」

「ダメ」

「どうして?」

「どうしても…」


僕はじっと瑠香の唇を見ていた。

「先輩…、何?」

「キスしたい…」

「次の私の願いは先輩が決勝で一番で走り抜けることです」

無茶言うなよ。

「それまではキスはお預けです」

おいおい。

それはないよ。


こうして僕の長い長い戦いがまた始まったのでした。



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