28話
──私は、物心ついた頃からずっとこの部屋にいる。
この少女──ミリアにとっての世界とは、三十年以上過ごしたこの狭い部屋の中だった。
本も服も食べ物も、何一つ不自由はない。
ただ──ミリアの両親は、ミリアが外に出る事を許してくれなかった。
理由はわかっている。
ミリアが『黒森精族』だからだ。
窓の外を見て、ミリアは今日も羨望のため息を吐く。
……外で遊べて、羨ましいな。
だけど、自分には許されない。
わかっている。『黒森精族』である自分は、生かしてもらえるだけありがたいのだ。
両親が自分を殺さないで、隠して育ててくれているだけで贅沢なのだ。
そう──ミリアは、これ以上は何も望まない。望めない。望んではいけない。
だから、今日も外に目を向ける。
元気に外で遊ぶ『森精族』の子どもたちに、自分の姿を重ねながら。
「ここに『黒森精族』がいるのはわかっているんだ! 大人しく出せ!」
──とうとう、ミリアの存在がバレた。
ミリアを差し出せば、両親の命は助かる。
……ああ。私、死んでしまうのか。
不思議と、ミリアは自分の死を受け入れた。
さすがの両親も、私を捨てるだろう。だって、私を捨てないと自分たちまで殺されてしまうのだから。
だから──両親の事は恨まない。恨む事なんてできない。
三十年以上も自分を生かしてくれたのだ。感謝はあったとしても、恨む気持ちなんてない。
「──自分の娘を差し出すわけがないだろうッ!」
──だけど、それでも両親は自分を見捨てなかった。
父は玄関に置いてあった剣を持ち、母はミリアの手を引いて家を飛び出た。
父は『森精族』の中でも指折りの剣士だ。母は『森精族』の中でも名高い魔法使いだ。
『黒森精族』を狙う『森精族』を切り抜ける事は簡単だった。
「……なんで……ですか?」
「何がだ?」
「なんで、私を見捨てないんですか……? 私が『黒森精族』として生まれてしまったから悪いんですよね? 私が悪いんですよね? 私が普通に生まれなかったから悪いんですよね? なのに、なんで──」
「ミリア」
ふっと、柔らかな感覚。
母がミリアを抱き寄せ、その白髪を優しく撫でていた。
「あなたは、何もわかっていないわ」
「何も……ですか……?」
「えぇ。あなたは『黒森精族』である以前に、私たちの娘なのよ?」
「その通りだ。娘を救う理由はあったとしても、捨てる理由なんてどこにもない」
ポンポンと、ミリアの頭に軽い感覚。
父がミリアの頭を軽く撫で、心からの笑みを浮かべていた。
「こういう形になってしまったのは残念だが、ようやくミリアを外に連れ出す事もできたからな!」
「本当ね。どう? 初めての外は?」
上から降り照らす太陽の光を見上げる。
──眩しい。けど……目の前の二人の方が、もっと眩しい。
「……私は……お父様とお母様に、迷惑しか掛けていません……何も、できてません……」
「あら。まだ私の三分の一も生きていないのに、親孝行なんて早すぎるわよ?」
「あのな、ミリア」
ガシッと肩を掴まれ、父がミリアの顔を正面から見据える。
「俺たちはな、ミリアに何かをして欲しくて産んだんじゃないんだぞ?」
「……じゃあ、なんでですか……?」
「──俺たちが、お前を愛したかったからだ」
父がニカッと笑い、ミリアの頭に手を置いた。
「お前を愛したいんだ。『黒森精族』だから自分の娘じゃない、なんて絶対に言わない。お前は、俺たちの娘だ。それ以外の何者でもない」
じわっと、視界が滲んだ。
よくわからない感情が込み上げてくる。鼻の奥がツンと痛い。目が熱い。今すぐ父に抱き付きたい。大声を上げたい。
そんなミリアの様子に気づいたのか、父が優しくミリアを抱き締めた。
「……ぅ、あ……!」
ミリアは泣いた。
父に抱き付き、喉が潰れるほどの泣き声を上げた。
「ごめっ、なざい……! 私がっ、私がぁっ……!」
「お前は何も悪くない。大丈夫だ」
その日から、少女は父と母から様々な事を教わった。
母は魔眼の持ち主で、ミリアにも魔眼が宿っていた。
母に習って料理を作ったが、全然上手くできなかった。
父に受け身の取り方や回避の仕方を習った。
母に魔法の使い方を教えてもらった。
複重詠唱の仕方を覚えた。
食べられる草と食べられない草を教えてもらった。
モンスターの解体の仕方を習った。
この世界で暮らす種族について知った。
それ以外にも、たくさん学んだ。
──少女の日常は、それだけで幸せだった。
そんなある日の事だった。
──全身の痛みで目が覚める。
「ミリア……! 大丈夫?!」
「お母、様……?」
「ああ良かった。あなたにもしもの事があったら……!」
涙目の母から目を逸らし、ミリアは──化物を見た。
灰色の髪。四本の腕。四つの幾何学的な瞳を輝かせ、雄叫びを上げる化物を見た。
「お父さんが戦っている間に、遠くまで逃げるわよ!」
「な、なんでですか?! 私だって戦えます! もう何も知らない弱い子どもじゃないんです!」
手を引く母を振り払い、父と戦う化物に向けて両手を向けた。
「はぁ──! 『蒼龍の咆哮』っ!」
蒼い魔法陣が浮かび上がり、そこから蒼炎の龍が──
「……あ、れ……?」
出てこない。というか、魔法陣すら浮かび上がらない。
呆然とするミリアの手を、母が強く握って駆け出した。
「魔法が使えないの! 多分、あの化物の力だわ!」
「そんな……!」
化物が暴れ回る音を聞きながら、ミリアと母親は森の中を駆け抜け──母が、ミリアの手を離した。
「お母様……?」
「ミリア。ここから先は、あなた一人で行きなさい」
「……え……?」
「私は今から、お父さんの所に行くわ」
「そ、そんな!」
化物の元へ行こうとする母を、ミリアが必死になって止める。
「行かないでください! お母様!」
「大丈夫よ、ミリア。すぐに戻ってくるから」
「いやっ、いや! お母様が行くなら、私も──」
「ミリア」
母が背負っていたバックパックを下ろし、ミリアに手渡した。
まるで──戦いの邪魔になると言わんばかりに。
「いやっ、ダメ! お願いっ、行かないで!」
「私とお父さんは、『森精族の里』を守らないといけないの。あそこは、私たちが生まれ育った場所だから……ごめんね、ミリア」
ゆっくりと母が手を動かした。
首元を飾っていた綺麗なペンダントを外し、ミリアの首にかける。
「このペンダントを、あなたにあげるわ。いつか大きくなったら渡そうと思ってたけど……今渡すわ」
「これって……」
「お父さんとお母さんで、あなたのために作ったの。受け取って」
首元にかけたペンダントとミリアの顔を見て、母がうっとりしたように声を溢した。
「キレイよ、ミリア。世界の誰よりも。そして──愛してるわ、ミリア。世界の誰よりも」
「お母、様ぁ……!」
「さあ行って!」
クルリと体を回転させられ、背中をドンッと押し飛ばされる。
バッと振り返った時には──母の姿はなかった。
追いかけたい気持ちをグッと押し殺し、ミリアは走った。
──どうすればいい。
このまま逃げていいのか? 本当にいいのか? 父を置いて行っていいのか? 母を見捨てていいのか?
いいわけ──ないッ!
父は私を置いて行かなかった! 母は私を見捨てなかった! 二人は私を愛してくれた!
「はあっ、はあっ……!」
ひたすらに走った先は──『森精族の里』だった。
もちろん、ミリアの姿を見つけた瞬間に、門番として立っていた『森精族』が武器を向けるが──それに怯まず、ミリアは地面に頭を擦り付けた。
「お願いしますっ、お父様とお母様を助けてくださいっ!」
──数秒の沈黙。
門番の二人が顔を見合わせ……やがて、バカにしたように大声で笑い始めた。
「お前はバカか? なんで裏切り者を助けなきゃいけねぇ?」
「で、でも! 今、森の中に凶悪な化物が! お父様とお母様が、あなたたちを守るために──」
「おい聞いたか? 俺たちを守るために、だってよ」
「はっ、そんなの頼んじゃいねぇ。失せろクソガキ。これ以上口を開くなら、殺すぞ?」
──なんで。
自分は差別されても仕方がない。だって、そういう種族に生まれてしまったのだから。
でも──父と母は、違うだろう?
父は、小さな子どもたちに剣を教えていた。
父と母は、違うだろう?!
母は、里にモンスターが寄って来る度に、その力で撃退していた。
父と母は違うだろうッ?!
なんで誰も助けてくれない?! 私を匿ったから?! 私が『黒森精族』だから?! その親だから?!
「うっ、うぅぅぅぅ……!」
気がつけば、ミリアはまた走っていた。
どこにも行く場所なんてない。ミリアの居場所は、両親だったのだから。
だから、向かう場所は──自分の居場所。
父と母と一緒に生きる。それができないなら、一緒に死ぬ。
その決意と共に、ミリアは全力で走り続け──
「ォォォォォ……! ガァァァァァァァァァァァアアアアアアアアアアアアッッ!!」
──見つけた。
雄叫びを上げる化物──の、足元。
そこに横たわる、二人の男女を。
「お父、様……? お母様……?」
ミリアの喉から、掠れた声が漏れる。
返事はない。いや、返事がないのは当然だ。
──四肢をもぎ取られた両親を見て、生きていると思う方が異常なのだから。
「……ぁ……ああ…………」
プツン、と。自分の中で、何かが切れた。
多分それは、正気の糸だったのだろう。
死体となった両親の姿に、今度は絶叫を上げた。
「いやぁああぁああああああぁああああああああああああああッッ!!」
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「──あぁああああッッ!! ああッ! ああああああああッッ?!」
──自分の絶叫で目を覚ます。
布団を跳ね除け、ベッドから勢いよく上体を起こした。
「おいどうした?! 大丈夫か?!」
「はあー……! はあー……!」
隣のベッドから大声で問い掛けてくる聡太を無視して、胸に手を当てて深い呼吸を繰り返す。
……少しずつ、気持ちが落ち着いてきた。
すると今度は──夢の内容を思い出して、涙が溢れてくる。
「ぅ、ああ……!」
「ミリア? おいミリア!」
目の前に聡太がいる事に気付いていないのか、泣きながら虚空に向かって手を伸ばす。
「お父、様……! お母様ぁ……!」
虚空に伸ばす手は、両親には届かない。
それでも、ミリアは手を伸ばし続ける。
──ふと、空を切り続ける手に暖かな感覚。
そこでようやく、ミリアの手を握る聡太に気が付いた。
「……ソータ、様ぁぁぁ……!」
「な、何だよおいどうしたんだ?」
聡太の体に抱き付き、涙を流し続ける。
何だかよくわからないが──とりあえず聡太は、ミリアの頭を優しく撫でた。
「ソータ様っ、いなくならないでっ、くださいぃぃ……!」
「さっきから何言ってんだよお前……どこにも行かないから安心しろ」
その言葉を聞いて落ち着いたのか、ミリアが聡太からゆっくりと離れた。
「クソ……またインナー洗う事になったじゃねぇか……」
「ぁ……す、すみません……」
「……それで、どうしたんだ? 何かあったのか?」
ミリアを気遣っているのか、いつもより優しく問い掛ける。
「……いえ……少し、両親の夢を見まして……」
「そうか……ああ、そういえば」
聡太が何かを手に取り、ミリアに差し出した。
──葉っぱのペンダントトップが付いた、ペンダントだ。
「昼間、俺に見せてくれた時に、気になる所があってな……少し調べてたんだ」
「気になる所……?」
「ああ。ペンダントの裏側、色が違う所があるだろ?」
クルリと、葉っぱの形のペンダントトップを裏返し──美しい銀色の中に、黒い部分がある。
ミリアはてっきり、こういう模様なのだと思っていたが……どうやら聡太は何かに気づいたらしい。
「その黒い所、爪か何かで押してみろ」
言われるがまま、ミリアは黒い部分をグッと押し──ぱかっと銀色の葉っぱが開いた。どうやら、ロケットペンダントだったらしい。
その中に書かれていた文字を見て──ミリアは、再び涙を流し始めた。
──お前は世界一の娘だ。
そう、ロケットの中に書かれていた。
「……ぁ……あ、ぅ…………!」
「……良い親を持ったな」
「ああっ、ぁぁぁ……!」
聡太の胸に抱き付き、嗚咽を殺して泣き続ける。
その白髪の頭を、聡太は再び優しく撫でた。
何度も、何度も──