入店
ロシアは広大な国だ。一口にロシアと呼んでも、地域毎の文化には差異がある。
しかし、真っ当に生きている人間、増してや観光目的の旅行者などは知る由もないが、この国のレストランには共通している点一つある。
それは、どの店にも、奥や地下に窓のない部屋を持っている事。
その風習が生み出されたのは18世紀とも19世紀とも言われているが、その事実を知る者は少数だ。
ーーまぁ、俺は知ってるがね。
そう一人で呟いていると、
「 どうした、シェリ痛い、痛いって!」
「ごめんごめん、ちょっと緊張してるかなって」
見た目は華奢な少女だが、その両腕は金属だ。いつ何の弾みで俺の指が折れてしまうか分からないから極力手は繋ぎたくなかったが、そうじゃないと嫌らしいし仕方ない。それに万が一はぐれでもしたら大変な事になる。
時刻は午後4時58分。俺たちは今、向こうが改めて指定してきたバイカル湖沿いのレストランの前に立っている。
彼女が退屈しないように、と思ったが、よく考えたらマフィアとの会談をする部屋に窓があるはずもないな。
「シェリ。身の危険を感じたら、俺の安全なぞ考えなくていい。君の力をブッ放せ! いいな?」
「う、うん……」
「……まあ、そうならないようにするのが俺の仕事だがね。後はそうだな、俺は今から君を欺くような発言をする事になるかもしれないが、それはあくまで相手を納得させる為であって、真に君を裏切る訳ではない事を理解しておいてくれ。そこは約束する……じゃ、行くぞ」
「!……ねぇサカマキ」
「済まないが今は時間がない、行くぞ」
半ば無理矢理手を引いて、その扉を開く。指定された時間、5時ジャストの入店だ。
店内に客はいなかったが、代わりに大量の黒服の男たちが席に座っていた。そしてその視線は、全てこちらに向かっている。
初めてこれに晒された時には胃液が逆流しかけたものだが、今は大した恐怖は感じなかった。
視線も気にせずズカズカ店内を進むと、黒服の一人が立ち上がり、軽く礼をする。
「お待ちしておりました坂巻様。奥でボスがお待ちしております。どうぞ」
「ああ、ありがとう」
「ああああぇ、ありがとぉ」
シェリがこの様子では少し心配だが、今更どうこう言っても仕方ない。そもそもカシュとの会談は俺の戦いだ。
心配するな、という意思を込めてシェリの手を強く握り返すと、その意思が伝わったのか、少しだけ彼女の表情は和らいだ。
「ボス、坂巻様をお連れしました」
「通せ」
短いやり取りの後、扉が開かれる。
そこに居たのは2人の男。
1人は黒のコートを纏った巨漢だ。直立不動の姿勢でシェリを睨み据えている。こいつは知らない顔だが、大した威圧感だ。会談の場でボディーガードを務めるだけある。
だが、こちらは重要ではない。もう1人。
「……この異能が蔓延り、人外どもが世界各地で跳梁跋扈する時代においても、裏社会に生きる人間たちは、自分の治る町の、お気に入りのレストランの奥の一室が、この世で一番安全な場所だと考えている。私も含めてね……何故だろうなぁ? 単に居心地がいいからなのか。それとも伝統の持つ重みを無意識の内に尊重するのか……まあ分からんが、ここの料理は美味い。このペリメニなど最高だぞ」
濃紺のスーツを着こなす齢30程の男は、テーブルに並べられた料理に楽しんでいた。
蝶番の軋む音と共に扉が閉まると、俺は彼の食事の邪魔をする目的で、わざと粗暴な動作で椅子に座る。
椅子は二つ用意されていた。最初からこの子を連れてくるのはお見通しと言うわけだ。まあ当たり前か。
シェリが座ると、その時を待ち構えていたかのように、ナイフとフォークが置かれる。
それは、この場における始まりの合図でもあった。
「時刻は指定した5時ジャスト……流石だ我が友よ」
「あんたこそ、お変わりなく。俺はあんたの友人じゃないがね」
鋭く放った言葉に微笑みで返すその忌々しい男こそ、カシュファミリーのボス。カシュ・ドラフスキである。