電話にでんわ
「も、もうかんべん、ハッ……ッ‼︎」
窓から差し込む朝日に顔を焼かれて虎に襲われる夢から覚めた俺の身体は、ベッドの上に転がっていた。ここに至るまでの記憶はおぼろげだが、確か屋上に着地した衝撃で目を覚ました俺はシェリに支えられて何とかホテルの自室に辿り着いた、といった感じだったか。
視線を右に向けると、纏っていた衣をシーツ代わりにして床で眠る、安らかな顔のシェリが眠っていた。どうやら疲れ切った俺は、少女にベッドを譲ってやる余力も無かったようだ。
少しだけ罪悪感を感じながらも、床に放り投げられていたバッグから資料とPCを取り出し、一先ずこれからの事を考えることにした。
兎にも角にも、日本に帰るのが先決だろう。大して馴染みもないロシアの地に、いつまでも留まっていては危険だ。
日本ならば、できれば頼りたくは無いが頼る相手もいる。
移動手段は、個人のセスナをチャーターするなどすればどうにかなるだろう。ただしイルクーツクの空港は使えない、韓国中国辺りに行く必要がある。
金さえ積めば仕事を受ける人間はいくらでもいる。
これは車さえ手に入れられれば、明日や明後日にでもできる事だ。道路を封鎖される可能性を考慮すれば、荒地でも構わず飛ばせるタイプの車が好ましい。『戒式魔導』の力を使えばそれらの突破は容易いだろうが、それはあくまで最終手段とする。何よりもう昨夜みたいなのはゴメンだ。思い出しただけで目眩がする。
今すぐにできることは、とりあえずシェリの機械の身体を隠す為の衣服の入手と情報収集、そして移動手段の確保だ。研究所の消滅がどのように報じられているかを知る必要がある。
そう考えて早速テレビをつけるが、どの局もそんな報道はしていない。インターネットで調べてもみるが、こちらも不発だ。
そうであれば、施設の事は政府の重要機密として扱われていると考えるのが妥当だろうか。何故それをマフィアが知り得た上に強奪しようとしたのかはさておき。
(今更だが、とんでもない仕事引き受けちまったかなこりゃ)
一瞬湧き上がった後悔の念を抑えつけ、シェリを起こそうと彼女の傍によって肩を叩こうとして、やめた。
……こいつのパワーではたかれてでもしたら、骨折しちまうかもな、慎重に行こう。
「おーい、起きろー……」
コートかけを棒代わりに持って、頰に近づける。
「んぅ……?」
バリィッ‼︎
「ん、サカマキ」
「…………ああ、おはよう」
無意識に放たれた手刀により哀れにも砕かれた棒を放り投げ、俺は彼女と共に街へ繰り出す事にした。
「うーん、ちょっと変な感じだね」
午後1時、俺たちはタクシーで移動していた。行先は『最寄りの服屋』と告げている。
色々迷ったが、シェリには俺の予備のコートを着せた。あのボロボロの衣を着せて外に出るのは無理がある上、何より彼女の機械の身体を隠せない。
本人はブカブカの袖と裾を引き摺るのが不満だったようだが、これしかないのだから仕方ない。
「まあ、我慢してくれ。これしかないんだ」
「しょうがないね……あ、あれが海だね、ウミ!」
「いや、あれはバイカル湖だ、湖だなミズウミ」
「湖?」
「あー、何つーか、湖も広いけど、海はもっと広い、みたいな?」
「ふーん、服買ったら行ってみたい!」
「ああ、いいな。船は……ダメか、続きタクシーだな」
目的地にタクシーが停車する。
「30分もすれば戻る、カフェで時間でも潰して待っててくれ」
料金と一緒にチップを渡して降車し、湖から目を離したがらないシェリを引きずって店に入ると、どういうわけかすぐに女性店員が引っ付いてきた。
「お客様、本日はどのようなものをおさ、が、し……」
ロシア人らしからぬ、明るい接客が瞬く間に凍りついた。原因はシェリのコートの裾から覗く足か、俺に握られた手かは分からないが、まあ一般人なら驚いて黙るのも無理はない。むしろ声をあげなかっただけ偉いというものだ。
「ああすまない。見ての通り、娘は身体が特殊でね。本人もあまり晒したがらないのだが、御誂え向きの衣服を用意してもらえないかな? コート、ブーツ、手袋などあるといい」
「か、かしこまりました」
「ありがとう」
店員はバツの悪そうな顔で、そそくさと駆け出していく。
ほっと一息ついてシェリの方を見ると、次は大量に並べられた衣服たちに目を輝かせていた。
「自分で選びたいなら、あの人についていいくか?」
「え、うん! そうだね」
えへへ、と嬉しそうに笑うシェリは、コートを吟味する店員に接近していった。
店全体を見渡すと、売り場に出ている店員は彼女と、レジにもう一人だけ。
大事になる心配もないだろう。
ふーっと大きく息を吐き出した。衣服を揃えられれば、差し支えなく行動できるだろう。
だが今日一番の問題はーーーー。
その時、タイミングよくポケットの中のスマートフォンが音と共に振動を発する。
電話だ。相手が誰かはもう分かっている。だがそれでも……出たくない。このまま何事もなくロシアを脱出できたならどれほどよかったか。しかし、電話がかかってきたという事は、その願いはもう叶わぬものであるという事だ。
諦めて『応答』のボタンを押す。
『やあ、我が友よ』
「……どうも、ボス」
電話の相手は、俺に仕事を押し付けた張本人。
魔嵐による混乱を利用して急速に地位を高くしたカシュファミリーのボス、カシュ・ドラフスキ本人であった。
『心配したよ、無事かね?』
「いつ気づきました?」
『随分と性急だな。世間話を楽しむ気はないか?』
「そんな状況でもないでしょうに」
この男はいちいち冗談を言いたがる。それでいて性格が悪いのだ。だから、脅迫し無理矢理仕事に加担させた俺の事を友などと呼ぶ。
「……どの位まで知ってるんで?」
『襲撃に向かわせた施設が昨夜0時49分に跡形もなく消滅。その筈なのにホテルのフロントは君を見たと。それも、見たこともない少女と一緒に』
大体全部知っているようだ。
「で、私をどうするつもりで」
『それを決めるのは、君の口から状況を説明してもらってからだな……夜の予定は空いているね? いつものレストランに来たまえ、5時にな。遅刻は裏切りと見なすから、注意するように』
「了解しました……あーっと、それならバイカル湖沿いの店がいい。あいつが喜びます」
「? ……まあいい。ではまた」
通話は切れた。街中で唐突に拉致される事さえ想定していたが、思ったよりも聞き分けが良くて助かった。
とはいえ、説明を求められている状況が限りなく複雑なものであることは確かだ。半強制的とはいえシェリを擁している俺の立ち位置は間違いなく、彼らと対立する位置にある。
その上今は人の目を忍ばなければならぬ身。いくらシェリの力が強くとも、世間に素性がバレればその時点で終わりだ。
協力を得られればいいが、それは望めないだろう。気さくな態度を取るものの奴らはマフィアだ。利益になる事しかしないだろう。それにこれ以上、あの手の奴らと関わりたくない。弱みを見せれば確実につけ込んでくる。
『そちらの兵士が吹き飛んだのはこの子がやったからであって僕がしたからじゃありません、でも僕はこの子から仕事を依頼されたのでロシアを出ます、お元気で』とだけ言って、さっさとホテルに帰りたいが、無理だろうなぁ……。
「サカマキー! 」
シェリの声に思考を打ち切られ、彼女の方を見る。
「…………‼︎‼︎」
「えへへ、どう?」
俺の中に、強烈な衝撃が疾る。
顔を真っ赤にしてこちらに走り寄るシェリはまさに、誰もが思い描く『美少女』であった。
茶色のムートンブーツに短めのスカート、黒のレディースタイツに無機質なフォルムの足は見事に隠され、白い肌を引き立たせるコートはベージュ。下に赤のセーターを選択したのは、流石店員のコーディネート、といったところか。余裕のある生地のおかげで装甲の突起が目立たない。
「ああ、似合ってるよ」
「ありがと、えへへ」
「貴女もわざわざすまないな、お代は?」
鏡の前で楽しそうに自分の姿を見つめるシェリを見て、これまた嬉しそうな女店員に尋ねると、店員は、今にも泣き出しそうに真っ赤な顔で大げさに手を振った。
「い、いえいえ! こちらこそ、あ、お代はいいんです私店長ですから……娘さんを大事にしてあげてくださいねっ」
「えぇ……まあ、そう言うなら。シェリ、行くぞ」
「おねーさん、ありがとね」
「……‼︎ うん、また来てね」
俺たちは店の前で待たせておいたタクシーに、再び乗り込んだ。
「……お前、あの店員さんに何を吹き込んだんだ。ロシア人がお代をタダにするとか只事じゃないぞ」
「うーん、私は『雪の中右も左も分からないところをサカマキに助けてもらった』って事を言っただけかな、ちょっと脚色してね。あ、私の力がどうとかは言ってないから安心してね」
「ふーん……ま、助けたんじゃなくて助けろって命令されただけだけどな」
「ふふふふふふ」
「笑い事じゃないぜ、全く……」
「……サカマキ、怒ってる?」
「いいや、そんな事はない……まあ、今夜は頼りにしてるぜ」
「そ、そう? ふふふ、あ、バスだよバス!」
上機嫌なシェリは再び流れて行く景色に没入していった。
その笑顔を見て、俺も覚悟を決める。
こんな所で死ぬわけにはいかない。俺もこの子も。
その決意を確かめるように、上着の内側の拳銃を強く握り締めた。