88話
「しょーちゃんと私で第三校舎の第二職員室に来るように、だってさー」
「……第三なのに第二って、なんかややこしいよな」
「はいはい、つべこべ言わずに移動するー」
非常勤の講師が授業の準備をする場所として……ときには生徒別の個別面談や生活指導などでも利用される第二職員室は、この学校では職員室とは別にある。
今は第三校舎の一室が使われているものの、学校の規模が小さかった頃は第一校舎にあったらしい。
昨今の規模拡大に伴って、「授業する教室から近い方がいい」ということで移動することになったのはほんの数年ほど前の話だそうだが、生徒ですらなかった時期の話なんてものは、昌司には正直関係のないことだった。
――もう少しで大怪我をする……させる、ところだった。
心の内で反省会をするのはゲームのコンテンツを回した後の反省会と似ていて、けれど会話を交わすような相手は今はこの場にいない。
それでも、「極端すぎで、綱渡りすぎる!」「そうしなくちゃ無理だった」と、どやされたり言い返したりしたばかりなのだから、反省会というのもあながち間違ってはいないのかもしれない。
時間があるとすればそんなやり取りを続けたかったところだけれど……現実はゲームと違ってイベント時以外でも待ってはくれない問題がある。
「――部活動の内容上、こういった出来事が起こり得るということは分かります。けれど限度もあるでしょう? 『高泉先生を広辞苑で殴って気絶させた』『美術室の備品を持ち出して校内にぶちまけた』、というのは、やりすぎというか……」
「……」
「あのね守屋君。ちゃんと聞いて……反省してるんですか?」
「ええ、ああはい、聞いてます聞いてます」
「聞いてる人はそんな風におざなりな返事なんてしないでしょうに。まったく……」
目の前には女性教員……三年前、高泉先生と同じように教育実習でこの学校に研修に来て、そのまま大学卒業と同時にこの学校で教鞭を執る峰岸先生。
数いる教員の中でも一番若い彼女は、生徒に親身になれるからかこうした生徒のちょっとした問題に駆り出されることが多い。
――今回もその例に漏れず、意識を失った高泉を心配して職員室に駆け込んだ紫歩先輩によって呼ばれ……いろいろあって、第二職員室の面談室に呼ばれ、今に至るわけだが……昌司に彼女の言葉はほとんど届いていない様子で上の空だった。人間、物思いにふける時に、誰かの言葉ってものは中々頭に入ってこないものだ。
決してこの状況からの逃避なんかじゃあ、ない。多分。
「あの、峰岸先生。保健室……」
「あら里見さん、高泉さんが心配ですか?
――彼なら私が保健室に連れて行きましたけど、移動の途中ですぐに目を覚まされましたよ。軽い脳震盪みたいなものでしょうし心配はないと思いますが……」
「ああいえ、そうではなくて……しょ、守谷くんがその、怪我をしているんです」
「……怪我? 守屋君。それ、本当なの?」
「あ、ええと。はい、多分?」
「ならちょっと見せてみて」と言われたことで意識がそちらに向いたのか、ここにきてようやく昌司は自分の『状態』を目視で自覚する。
――ワイシャツとインナーシャツを脱いで左肩を露出させると……見るからに正常な位置にない肩と、肩の付け根から上腕部に掛けて青々と変色している様子があらわになり――先生は短く悲鳴を上げた。
「ちょ、これ、なにをしたらこんな」
「ちょっと……壁にぶつけまして。あーでも、あんまり痛くはないんで――」
「……はあ。痛いとか痛くないとかの問題じゃないでしょこれは。
――保健室。もういいから行きなさい。
脱臼しているかもしれませんから、柔道部の三沢先生にも向うよう伝えておきます」
「そんな大事じゃ……」
「つべこべ言わない!
こういうのは医療の立場とスポーツの立場、両方から見てもらった方がね、先生いいと思うんです。――万が一にも後遺症なんて残したくないでしょう?」
「は、はい」
事実痛みはほとんど感じられないのだが、改めてきつく言われることで痛みがぶり返してくるような気すらしてくる。昌司自身は怪我の状態を見てもさほど気に留めなかったが、傍から見ればそれほどに「ひどい」状態なのだろう。
――鈍痛がDoTダメージよろしく継続的に感じられる程度かな。
……そんな風にしか考えていなかったのだから、峰岸先生の反応は新鮮に感じられた。
気付いたところで見た目ほどには痛いわけではないから、客観的に、外見でしか判断できない峰岸先生にとっては尚のこと心配だったんだろう。
「高泉さんも保健室にまだいらっしゃるだろうから、里見さんと一緒に行って様子を窺ってきてください。
全く、あの人もいい大人なんですから少しは落ち着いてほしいものです。まったくもう……」
「……わかりました。失礼します」
一言断りを入れると、峰岸先生は挨拶を返してそそくさと自身の教務机に戻っていった。第二職員室を後にして、先輩と保健室に向かう。廊下に出たところで、先輩は大きくため息をついた。
「はぁぁぁー。大事になっちゃったなあ」
「……そうかな?」
「だって、怪我だよ? そんな前例があったら、今後の部活動にも支障が出るかもしれないんだよ?」
「そこはそれ、そういう部活だってことは先生たちもわかった上でやらせてるんだから……そこまできにすることか?」
「しょーちゃんは分かってない、わかってないよー。オトナの世界は汚いんだよー」
「先輩がそれを言うかね……」
「そこまでひどい感じじゃないとは言えない怪我だもん。
……【アイオーン】さんが口酸っぱく起こるのも納得だわー。『また怪我してるし! しかもそれをヒーラーに言わないとか誤魔化すとか、誰も得しないんだからね?!』とか言いそう」
「……確かに。ただまあ、善処するとしか言えないんだよな。それこそ、そういう怪我も茶飯事の部活動なわけだし」
「しょーちゃんの場合はその『茶飯事』な日常の範疇を越えてても、『気づかなかった』とか言いそうだから怖いわ……痛覚が無いとかじゃないよね?」
「……あるよ、人並みに」と答えて、昌司はそれきり口を噤んだ。
――歩きながらの他愛ないやり取りに交えて、先輩が怪我の心配をしてくれていたのだろうことは昌司にも分かっていた。
昌司自身から見ても、「支障があるほどひどい怪我じゃない」とは判断したものの、「些細な怪我だから気にしなくていい」とまで考えたわけではなかった。
……ただ単に、苦しい、痛い、と悲鳴を上げるような真似をしたくない。
だから、耐えているだけというだけのことだと……そう思うところはある。
ただ、それを紫歩にそれを話したところで何の意味もない話だということも、昌司の口が語ることを何となく閉じさせた。
昌司は静かに、紫歩も押し黙った昌司を見てからはそれ以上何も言わず。
遠くから野球部の掛け声がまだ聞こえる放課後の校舎を、二人は保健室に向って黙って歩くことになった。
明日以降は投稿再開いたします。




