87話
思いもよらず長くなりましたが、トンデモ追いかけっこも、終結です。
――人の動きは予測できないとよく聞くが、動きは予想が完全に出来ないものでもない。
ゲームでもそれ以外にも、「最適な答え」と「最多の答え」というものは何にしても少なからずあるものだ。「最適」であるということの多くは合理的であるということで、合理的である行動をあらかじめ推測できればある程度の目算は立つ。
……無論、こうした思考はあくまでも指針でしかない。それを予測や予知まがいの水準まで引き上げるのはひとえに観察力や洞察力、理解する力であり、自覚はないが昌司にはそれをごく限定的に――このパルクールによる追いかけっこという酷く限定的な場面においては――高い水準で発揮していた。
「おとなしく観念しやが……れッ!?」
意表を突いたつもりなのだろうか、高泉はこちらに向かって真っすぐに走ってきた。
音楽室の入り口は昌司の背にしている戸口しかない為、当然の行為ではあった。そのまま向かえば、入り口に待ち構えている昌司どころか、進行方向の先にいる紫歩先輩に捕らえられてしまうことすらあるかもしれない。
「――男を胸に飛び込ませるには、まだ早いんじゃないかな?」
「ーーーーーー〜〜ッ!!」
――だけれど、それはないだろう。
昌司のその推論は現実になる。
勢いを落とさないまま上体を後ろに倒して、ほとんど倒れる形でスライディングの姿勢を取っていた。
捕まえようと両手両足を広げた紫歩の股下を仰向けに滑り抜けて一言。
「……随分派手な下着だねえ。とやかく言いたくないけど、年相応ってものが――」
「――――死ね、んでもってブッ殺す!」
翻った制服のスカートを煮えたトマトスープばりに真っ赤な顔色で抑えながら、紫歩先輩は矛盾した脅し文句をまくし立てる。
何とも言えない雰囲気をよそに、吹奏楽部の演奏が変わった。
今度はコンクール用の曲目だろうか? ……いや、遊びに違いない。これ、ゲームの曲だ。日本のファンタジーRPGの金字塔、その七作目の戦闘曲。しかもボス戦の曲だ。
吹奏楽向けにパーカッションやピアノ部分のアレンジが効いて、妙に壮大な感じになっているけれども……この場合は果たしてどちらがボスなのだろうかと疑問符が浮かんだ。
――後で是非とも吹奏楽部の指揮者と話をしたいな、そんな風に考えながら、紫歩先輩を抜いてこちらに迫ってくる高泉先生を、昌司は素通りさせた。
「ちょ、しょーちゃん?!」
「……ふうん? 面白いこと考えてるね、キミは。ま、容赦なく逃げるけどね」
抜け様に知ったような口を叩く高泉に「覚悟しとけ」とだけ伝えると、そのまま振り向くこともなく教室を抜けて走り去っていった。程なく駆け寄ってくる先輩に合わせて、僅かに整え切れていない呼吸で追跡の歩を進める。
「――せっかくのチャンスだったのにどうして!」
「ケガしてて、無理はしたくなかった。
あと、仕掛けは揃ったから。第三校舎の、二階に降りるタイミングで……仕留める」
勝負どころは第三校舎を見据えた仕掛け。
第三校舎は各校舎との連結の都合で唯一、直角よりわずかに開いてL字型になっている。そしてその構造はこの仕掛けにおあつらえ向けと言える構造をしていた。
「ま、仕掛けっても大したものじゃあないけどさ……【アラン】お得意の戦況管理で、この勝負、詰めさせてもらうよ」
「――おーけー、しょーちゃんがそういうなら任せる。私はどうすれば?」
「追いかけて、こっちの企みを悟らせてくれ。そうすれば絶対、引っかかる」
* * *
遠巻きに続いている吹奏楽部の演奏を背景に、第三校舎に立ち入ると、途端にこれまでの校舎とは違って建物自体が非常に小奇麗な印象の雰囲気になる。
第三と第四は校舎自体が比較的新設で、とりわけ第四校舎に至ってはまだ出来上がってから数年も経っていない。
内装自体は何ら変わり映えのない普通の校舎だが、その清潔感、真新しさは生徒に好ましいモノとして受け入れられている。
第二から第三校舎へは通路が非常階段も兼ねているため渡り廊下もなく、すぐに第三校舎の三階に出た。廊下の突き当り……九十度よりわずかに外開きのL字状の廊下の折り返しの位置にはやはり、高泉が待ち受けていた。
「セクハラセンセイって呼んでもいいですよね。それとも訴えられてもいいんですよね?」
「いやだなあ。部活動中の不可抗力じゃないか。
それとも紫歩クンは、『サッカーでスライディングなんて卑怯だ、反則だ!』とでもいうのかな?」
「センセイのしたことを考えれば、レッドカードで退場していいんですけど?」
「それは困る。
立場上色々とやらないとならないこととかあるんでね。
彼ともまだ話をしていないし……そういえば彼はいないようだけれど、何か良からぬ企みでもしてるのかな?」
「よからぬ……まあ、企みはしてるみたいですけどどうでもいいじゃないですか。
先生なんて所詮はただの中ボスみたいなものですから、さっさとやられればいいんです」
この場に昌司はいない。正確には、第三校舎にきてすぐに、四階に上がっていた。
第三校舎は校舎間の通路が非常階段を成している都合から、その非常階段で生徒も上下の階に移動することが出来る。
もちろん非常時のためのモノだが、校舎の多いこの学校ではグラウンドに出る部活の部員なども出入りの時間短縮のためにと頻繁に使っていた。
学校側もこれを厳しく咎めたりするつもりはないようで、何かの行事の際を除いて常時開錠されている。
……その階段を利用して、昌司は一旦二階に下り、回り込むようにして三階、紫歩先輩の位置と挟み撃ちにするつもりで動いていた。
「……それもそうだね。それじゃ、楽しい楽しい追いかけっこを再開しよう」
「――いいえ、楽しい遊びは、いつかは終わりがくるんですよ」
進路――高泉が向かうべきL字の廊下の先へと振り返ろうとしたところで、大きなバケツが見据えた廊下の先から激しい勢いを伴って転がってきた。
それは美術室にある石膏の廃液を貯めるためのバケツ。その大きさは人ひとりが余裕で入るだけのサイズをしている。
「中からこんにちわ、ってかい? これはあんまりにも、おざなりな――!?」
避けようとしたちょうどその瞬間、鈍い破裂音が炸裂する。
それに伴ってバケツの中身……大量の石膏の粉がその場に撒き散らされて高泉は思わず咄嗟に口元を押さえ、それでも僅かに咽≪むせ≫る。
「けふっごほっ、くそっ、窓が開いててよかっ……」
周囲に滞留した石膏の粉末は、しかし視界を曇らせる効果までは発揮しない。
バケツの転がってきた先に昌司はいるはずだと高泉は咽ながらも目を凝らしながら、何か仕掛けがあるであろう追撃に備えて僅かに紫歩のいる方へと移動する。
その際確認したその方向からは確かに、その手に広辞苑を持った昌司が迫ってきていた。
「ちょっと、詰めが甘いんじゃ――――」
「生憎と、詰めの甘さは、ダメージだけってなァァァァ!」
「……?」
大きな水音が高泉の足元で鳴る。
そして、昌司は窓から飛び降りた。
「え、えぇぇぇ?!」
あらかじめ聞いている時間もなかったため、『仕込み』の予想外の展開に、紫歩ですら驚きの声が上がる。
高泉と紫帆、2人の思い思いの驚愕など歯牙にも掛けない真剣な表情で……昌司は真っ直ぐ高泉を見据えていた。
――空中。
手は使えない。使わない。
樹木に一歩、存外に柔らかくしなるな。
再度跳躍、校舎壁は綺麗なようで、汚れが目につく。
風の音……
木々が揺れ、葉が擦れて空を舞う、音のみを感じる。何もかもが遅い。
けど、まだ、足りない。研ぎ澄ませる。
外壁に二歩。
角度が厳しい、次が限界か。
高い。心臓が早打つ、下は見る余地もない。
窓の位置、丁度だ、予想した位置……届くか?
三歩もまた壁、既に体が重力に引かれているのが分かる。
……届くか?
――でも届くんだろ。
――届けよ。
これはリスクを賭けた魔法だからな!
「――――るァあッ!」
――三歩目の跳躍。
その勢いに乗せて……昌司は全力で振りかぶる。
全力で、窓の先に見えた高泉目掛け、その右手に持った広辞苑を振り抜いて投げた。
「――――ラストッ!」
――広辞苑のぶつかる、鈍い音。
その結果を確かめることなど後回しに、その開け放たれた窓枠を、振り抜いた手の指先が掴んだ。
所用により、明日明後日はお休みさせていただきます。
追記:次回更新は7/17(火)18時に致します




