86話
美術室があるのは三階。
第二校舎の連絡通路は第一、第三校舎共に二階。今追いかけているのは一階で、先輩が高泉と追いかけ回しているのも長くは続かない。
数十秒もすれば二階、三階へと到達する……おそらくは目当てのモノを探る間に、四階くらいまでは行くかもしれないな、と昌司は考える。
だからこそ真っ先に、追うことなく目的を据えて階を上へと向かった。
――四段、三段、二段、二段、手すりを掴み勢いを乗せ、筋肉の悲鳴を無視して進む。
体を上腕で捻り上げ、勢いで階段半ばの踊り場を仰向けに体を倒し滑走。
足先が到達した壁面を地面の如く踏み込んで屈伸すると、そのまま全身の発条を活かして床面すれすれに一瞬、滑空した。
……呼吸は乱れっぱなし、体はもとより疲労困憊。
これまで遠回しながら部活への不参加を決め込んでいたのも、ひとえに自分の体力の絶望的な低さを知っているからこそ「先輩の練習にはついていけない」と理解した上でものだった。――なにも最初から、「ゲームする時間が惜しい」が為に出不精に部活動を欠席してわけではなかったのだ。
それと同時に、「幽霊部員」と断定されない辺りにある種の才能の芽……優れた『瞬発力』を持ち合わせているのは、幸か不幸か。
状況判断とそれを行うだけの反射的行動、それは昌司がこの部活に姉によって加入させられるほどの才覚で……これらは本人も気づいていない才能でもあった。
――自覚がないからこそ、コントロールできない瞬間がある。
疲労は昌司にとって、その最たるものだった。
折り返し一段目のステップに手を掛けて、勢いを殺さないままに手を突いたところでしくじってしまう。
「何――?」
「ッくそ――――」
――パルクールは、常に大怪我の危険が付きまとう。
日常のあらゆる環境、障害、窪みや僅かな張りを利用して身体ひとつで乗り越えるそれは、他のスポーツと同様……否、それ以上に一瞬の判断のミスが命取りになる。
首の骨を骨折、神経を損傷し半身不随という話も稀ではない程度に聞くほどには、危険なものだということを、軽く見るものは多い。それらは初心者の鬼門だ。
表面の格好良さに目を奪われて、どのような手順を踏めばいいかしっかりと把握していないと、簡単に痛い目を見ることとなる。まして自分一人ならまだしも、万が一にも誰かを巻き込んでしまうような事となれば言うまでもなく、『最悪の結果』は起こり得る。
その可能性を……ここがまだ人がよく行き来する時間帯の学校であることを、失念してしまっていた。
――左手を突いた場所が悪かった?
腕の屈折に意識を裂きすぎて、上から降りてくる人もいるかもしれないという想定が、甘かった? 後悔はまだ早い。
丁度正面に横へ三列に並ぶ生徒たちの感情は驚きで固まる。
集団で降りてくる生徒に直面したところをギリギリのところで衝突を避けて回避。
――できるか?
――やれ。
咄嗟の判断で本来『前宙をして階段を八段飛ばす』予定だった体を、側面の壁に向けて逃がす。
悲鳴。生徒のものか? あるいは手首、腕、肩。痛みのうちに叫んだか?
関節は熱し、思考が煮える。壁面に無造作に投げ出されて、このままいけば背中から衝突は避けられない。
振臂一呼。
――叫びは痛みでも生徒でもない。それは、己を奮い立たせる吼声だった。
「う、おおお、オオォォォォォォォォォッ!」
――腕を振り抜いて逆。外回転、左半身を壁に当て、肘に衝撃。柔道の受け身、掌を打ち付けた音が響く。――背中の衝撃よりも先、左足を踏み込め!
半身の勢いは尚も加速して、中空で回転した。
アクセル、アクセル、アクセル、三、いや四回転。これがフィギュアなら高得点だが、そんなジョークをかます暇も相手もここにはいないだろ。手摺りはどこだ、と視線を必死に走らせる。
そこで気付く。思考が身体に追い付いた。高く飛び過ぎていること、眼下の階段の最上段が定規の間ほどもない距離で訴えることに。
「……嘘だろ――」
視界は上下が反転していて、そして眼前には階段の最上段の床が僅かに十数センチに迫る。
既に落下の最中、なにかを掴むにも手は間に合わない、動かすより先に墜落する。
足? 無理だ。
体の向きはは逆立ちの状態に近い、だったら、だったらどうする?
「――左!」
――叫ぶが早いか、またも肩と床は衝突する。顎を胸元に引き、腕をたたんで肩から左肩側面、床へと叩きつけられた衝撃が身体の芯まで重く響く。
外れたか、ヒビが入ったか……どちらと判断する余裕すら僅か程もない、残された瞬間。身をよじって最上段の床へと肩から当たりに行った選択は、辛くも「成功」を選択できたようだった。
よじった勢いを乗せてそのまま前転……三度目でようやく勢いが止まる。
階段下には目を白黒させた女子生徒二人と男子生徒一人がこちらをみて唖然としていたが、それを気にする余裕もない。着地の衝撃で吐き切った息を取り戻すと共に、昌司は苦々しく吐き捨てる。
「――くそ、時間ロスった!」
――痛みが感じられないのは昂った脳内物質の賜物か。
幸いとばかりに、昌司は僅かに肩を準備室へと駆け込んでいった。
* * * § * * *
「いやあ、手のかかる後輩を持つと、先輩さんってのは大変だねえ。どうだい? ここでひとつ休憩でも」
「いりません。
そんなことより、高泉先生は状況に危機感を持った方がいいんじゃないですか。……追い詰められてますけど?」
「ぅわぉ、手厳しいねー。でもそんなんじゃ男子が寄り付かなくなっちゃうぜ?」
――昌司が美術室で準備をしている合間に、二人は昌司の予想通り。
最上階の行き止まり、一番奥の壁際で、高泉と紫歩は対面している。
「でもさ……キミは気にならないのかい?
どうして彼があんなにも一人のクラスメイトを気にしているのか。どうして部活動に出てくれないのか。どうして……」
「セ・ン・セ。――御託はいいですから、早くそのウザイ口閉じて捕まってくれません? 死ね」
「あらら、キミは冗談が通じないなー」
「そう言う先生は思春期経験したことないんでしょうね、死ね」
「これでも悩める思春期は君も知ってる先輩に随分振り回されたものだけどね」
「それはご愁傷様で。でも、その価値観を押し付けないでくれません? 死ね」
「全く、近頃の若者は口汚くて嫌だなぁ。死ねとか簡単に言っちゃって相手がもし本当に死んだら責任とれるのかい?」
「お亡くなりになられてくださるようお祈りさせていただきます」
「くぁーっ。そうじゃないんだなぁー。でも、そういう丁寧さは悪くない。というわけで……時間稼ぎは充分かな?」
――四階は行き止まりで、そこには短めの廊下と教室が一つしかない。
教室は普段は授業にも使う音楽室で、この時間は吹奏楽部が練習で使っている。
高泉と紫歩が勢いよくそこに入ってきたときこそ、吹奏楽部は驚いて練習の手を止めた。けれど、「部活動の一環ですのでお気になさらず」とさわやかな笑顔を作った高泉に、女性の割合高い吹奏楽部は総出で心を射抜かれて、そして威勢よく返事をして示し合わせたかのように練習に戻った。
そして丁度その折に、息を切らした守谷も音楽室に辿り着く。音の響く音楽室の扉を静かに開けて紫歩の姿を見つけると、小さく頷いた。
音合わせの音が鳴り響き、やがて演奏が始まる。
甲子園御応援歌としても有名なジャズスイングを背景に、高泉が口火を切る。
「最後の勝負のテーマ曲にするにはちょっと派手かな?
でも、こういう気分を乗せてくれるBGMの持ち味は、大事だよ……ね!」
その言葉を皮切りに誰ともなく、一斉に四度目の追跡劇が動き出した。




