85話
「あれ、高泉くん、どこにいって――」
「ああ黄々崎センセ、ちょうどいいところに――」
「……丁度呼びに行こうと――思ッぷ!?」
――走る勢いそのままに、高泉の左手が右の肩口に乗せられる、同時に力一杯腕に荷重をかけると、予期していなかった黄崎先生の大柄な体勢が崩れる。
半身の前転、背と背を合わせる形で乗り越えると、最後に突いていた左手を大きく押しのけてそこから高泉の体は黄々崎の立っているときの……160に満たない高くはない身長だが……頭ほどの位置まで跳ね上がった。
中空で更に半回転して正面を見据えると今度は右手を床にあてがい、ついたと同時に脱力し衝撃を逃がして前転をこなす。
「――部活の後輩に、ちょっとばかり指導をしてましてー。 また後程伺います~!」
「それは構いませんけど、まだ先生じゃないんですから、ほどほどに――?!」
黄々崎先生が起き上がって高泉に声を掛けたところで、その言葉を言い切ることなく今度は加えて両肩に荷重がかかる。背中を向けていた方向からの突然の出来事に、黄々崎先生は二度目の膝を付く。
「邪魔だらァ、クソデブ!」
「黄々崎先生、――色々すみません!」
「おまえら、パルクールもかまわんがな、備品、壊さんようほどほどにしろよーー!」
――断じて口が悪いのは俺ではない、と昌司は心中で謝罪しながらも動きは止めない。
左と右、双方の肩をクッションに体を九十度と少し……重力から解き放たれたかのように錯覚する角度にまで跳ね上げてから、間髪入れずに勢いのまま壁を蹴る。
バックステップで普通に走る速度と何ら遜色なく走る高泉が、手を打ち鳴らしながら感嘆の声を上げる。
「――見事な左右対称のコンビネーション、いいねえ。
キミたち、パフォーマンスもノってきたんじゃないか?」
「クソッたれ、舐め腐りやがるのも今の内だ!」
「先輩、口、悪ィ!」
「文句があンならクソ実習生に言いやがれ!」
「いやあ、キミらを見てると退屈しないね。
……パルクールは一見すると派手なパフォーマンスに見える。
――けどね、大事なのはそこじゃあ、ない」
後ろ向きに進みながら、背中に目でもついているかのように障害物や人を避けて進んでいく。
第一校舎二階から第二校舎三階への渡り廊下は、部室や部活動を行う教室に向かう生徒や教員の往来があるため、人もそれなりに通っている。
――その理由はもちろん、部活動。
第一校舎の情報管理室に向かうのもそうだ。黄々崎先生の担当である新聞部なんかが正しくそれだと言えた。
第一校舎には職員室や体育館、PC含む機材の並んだ情報管理室。
第三校舎はグラウンドに出るのに一番近いから運動部が多い。
第四校舎は授業教室を主軸に新設の多目的教室がある。
そして、向かう第二校舎は……美術室に音楽室。障害物が最も多い建物になる。第二と第三は人の往来も第一校舎の比じゃなくなるだろう。
「……勘違いする人も多いんだけどさー。
パルクールってのは、スポーツとはちょーっと違う」
「くそ、人が多い……!」
「先輩、クソとか、野郎とか、言い過ぎ――」
「あァ? 文句があるならここで死ね!」
「それを言うなら、ここで言え、じゃ――うわっと」
正面数メートル先の高泉が横にズレて、突然目の前に現れた生徒の背中にぶつかりそうになるのをギリギリのところで躱す。つま先に加える微妙な力加減で体を深く沈め、右肩から前転して一回転。そのまま走りの速度を維持して駆ける。
「――無理、無駄のない身のこなしを求めることが、必ずしも正解とは限らないのがパルクールの厄介なところだね。正解がない。最適解がない」
第二校舎の連絡口までたどり着いた高泉は、扉を開ける動作の無駄を当然のように避けるべく、お得意の『落下』を始める。
第一と第二の連絡路はトタン屋根のついた屋外で、通路の横合いも当然フェンスはあるが窓はない。
左脇の手すりに手を掛けると、止まることなく身を乗り出す。
ステップ、ステップ、ハンドスプリング、コマのように身を翻して下っていく。
器用に下って、最後に辿り着く先の大きな窓は、しかし閉められたままで――
「なぜならそれは、整えられた競技と違って、置かれた状況が。訪れる環境が。常に変化するから――」
こちらに聴こえているかはもはや気にしない様子で、語らいながらも平然と窓へと身を向け足場から跳ねる。
身を乗り出してその様子を見ていた昌司は思わず「ぶつかる」と声を上げる。
「――うわ、外もあっつーい。空けてもあんまり意味なかったかな?」
その刹那、第二校舎の一階、学校食堂の窓が勢いよく開け放たれて、まるでそれを見計らったように高泉は食堂へと滑り込んだ。
食堂のテーブルに二回転。身を転がしてテーブルから降りた高泉は、管楽器を携えた吹奏楽部の女生徒たちに笑顔で「ご苦労ご苦労。諸君、部活動頑張ってねー」と返し、その場を後にする。窓を開けた生徒に至っては、その場で尻餅をついて放心していた。
「――ンにゃろゥ!」
「ちょ、先輩?!」
――先輩も先制の通った後に続く。
とはいえそのルートは同じではない。配管を足場にした高泉とは違い、彼女はまるで忍者の如く僅かに傾斜した通路側の壁面を、ブロック状になっている境目の窪みを旨く使って、半ば強引に滑走していった。
「しョーーーーじィ、てめェは上から周りこめェ!」
叫び声に半ば脊髄反射で弾けた体が手すりから離れてすぐ脇の第二校舎の扉に手を掛ける。思考は地図をなおも広げていて、真っ当な“追跡“では追いつけないことは明白だった。
「――だから、虚をつく」
裏を斯く。それしかないと、そのための手順を模索する。
その手段は視界にとらえた第三校舎がすぐに答えをはじき出し、昌司は聞こえるか分からないままに紫歩先輩に向けて叫んだ。
「――準備がある、そのまま追い込んでくれ!」
「委細、合点、やるからにゃァ、しくじんなよなァーー!」
「だから、先輩、口が悪いっての……任せろ!」
相槌を背に、昌司が向かうのはこの階にある美術準備室。この時間なら部活動の為解放しているから手に入る――作戦成功に必要なあるものを手にするために、授業で使った備品の場所まで想起しながら昌司は三度、駆け出した。
前後編くらいにしようと思ってましたが、長くなりましたね……
校舎内障害物レースは次話で終着になりますです。大詰め。




