82話
「……いや、やりませんよ?」
「何、この期に及んで臆病風かい?」
「いや、そういうのじゃないんで。ただ単に面倒なだけで」
「高泉先生、さすがにそれはちょっと……」
「紫歩ちゃんフォローありがとうねー、さすが先輩、やさしいねえ、そうであるべきだよねぇ、それに比べて後輩の固くなさったらないよねぇ。
――でも大丈夫、この頑固者は絶対に参加するから心配しないでいいんだぜ?」
「あの、いや、そういう意味じゃなくてですね……」
「無駄だよ先輩。姉さんと大学で知り合ってから何度かあったこともあるんだけどさ、この人『姉』とタイプは違うけど、こうと決めたら話を聞かないタチだから」
先輩に理由を簡単に耳打ちをすると、途端に落胆して諦めたような表情になる当たりはさすが姉列伝経験時代の後輩。
理解が早くて助かるけれど……先輩。いくらそれだけで悟ったとはいってもその暑さにやられたクマみたいな表情はちょっと女子のしていい顔じゃないからね?
――試験間近にこれから部活動の合宿だなんて無茶……それも教育実習生“予定”の個人で決めていい話ではないから実地は難しいと思います。
……先輩はおそらくそう言いたかったのだろう。
「さすがにそれはちょっと厳しく指導し過ぎでは? せめて指導をするとかくらいにしておかないと可哀想ですから」だとか……その説得はきっと、曲解されてこんな風に好意的に受け止められているに違いないことは目に見えた。
「――面倒ってのはつまり、合宿なんて言うからには宿泊とか時間をかけてとかを心配してるでしょ?
テストも控えてる、大祭も近い。だからそんな余裕はない。もちろん長期の予定を立てるなんてもってのほか、来週からはテスト前だから部活禁止の週に入るしなおのこと……そんなところかな? うん、その程度であれば何の問題もない。なぜなら強化合宿とは名ばかり。強化が主目的だからね!」
「でも、そのあたり把握してるのならダメですし。私たち学生の本分は勉強ですので――」
「何を言ってるんだい紫歩ちゃん。勉強が本分なら勉強する。そのための授業だろう? 授業を受けたのなら……受けるということは、その内容は覚えて然り。予習復習なんてものは授業内容をまじめに聞かない大馬鹿者がやることだよ。わざわざ与えてもらっているはずの学習に熱意を持てない、付いて行くはおろか付いて行こうとすらない方が悪い。努力とは人に見せるものでもなく隠れてするものでもなく、ひとえに必要だからするものだからね。
その努力をあまつさえ自分可愛さに惜しむ輩に未来はあっても期待はないよ」
――あっ、だめだ。説得できるタイプじゃない。
今の発言、その返答を聞いて紫歩先輩も表情から察するに確信したことだろう。この人は姉と同じ、「当たり前」が通用しないタイプの人なのだ。人が必死こいて勉強する、その理由であろう『理解できなかった部分を理解できるようにする』という過程が、この人からは抜けてしまっている。
言葉を交わした時間は短くともそこは姉と同じ類の天才肌、そのくらいは平然と考えていて何もおかしくはないという昌司の推測は、確認のために訊ねた質問の答えに、「やはり」という心情へと変わる。そう、確信へと変わらざるを得なかった。
「あー……あのさ、仮に勉強はそれでいいとして、学校側の規則ってなるとさすがに先生だからってどうしようもないのでは?」
「それに関してこそ、問答無用でいいじゃない? 部活動の延長なわけだし。
パルクールはさ、もとよりそういった規則、規律、規範に対する「反社会性」を皮肉ったものという評価を得る側面もあるわけだ、つまりは若者だけの特権で……その点、キミたちって若いじゃない?
のちに控えるテストで赤点なんてものを取るような失態ともいえないほどの愚行さえ行わなければいいだけの話さ。この部活にいるような君らはそんな馬鹿にも劣る底辺みたいな愚かさは持ち合わせていないだろうからね大丈夫ダイジョーブ」
誰に対しても――たとえそれが目上の人物はおろか、権力者や有名人だったとしても――こんな態度だとは姉の言葉だけれどここまであっさりと他者の意見を否定できる人はそういない。こういう発言は大抵の人に好まれはしないだろうし、反感の声も少なからず上がるのだろう。
「……先生は、その、高校時代のテストの点は?」
「ん? ああ、主要科目は満点で他も同じようなものだったけど……あ、美術の実技だけは苦手だったかなぁ」
「むしろ美術の実技以外は満点だったんですね……」
驚き半分、呆れ半分、諦め顔といったところだろうか。そんな先輩の言葉にふてぶてしくデスクチェアに腰かけたまま「学校のテストなんて、ましてや教員の言葉を一言一句覚えて理解さえしていれば済む話でしょう?」なんて言う。
「何にしても宿泊は良くないです。準備もないですし、部員も全員揃いませんし」
「それはご心配なく、ですよ。ひとつ勘違いを正しておきたいのは、強化合宿とは名ばかりと先にも言った通り、別段泊りがけで訓練しようというわけではないというところかな。
うん、極論で言えばキミたちの頑張り次第では、すぐにでも終わる話だからさ」
「……というと?」
「紫歩クンと『しょーちゃん』クンには、私を追いかけて捕まえてもらいます。つまりは追いかけっこ。
――場所はこの学校の敷地内、屋外の地面……グラウンドや中庭を移動することは禁止。加えて私は、ある決められたポイントを順番に必ず通過しながら移動する。
それを君たちが捕まえる」
「ポイント?」
「そう、ポイントだよ」
何処から持ち出したのか、高泉は学校の俯瞰図を教務机から身を乗り出してローテーブルの上に広げた。図面には四つの校舎が中庭を書こう形で四面に建っていて、各建物の両端に赤い丸印が書き込んであるのが分かる。
椅子から立ち上がった高泉は、その印をこちらに確認させるように順繰りに指さしながら説明していく。
「各階層ごと、この印の位置を壁だと考えてもらうとして、第一から第四校舎まで……一階から最上階までだね。
その廊下の端の壁面に、私は必ずタッチして回ること。それがハンディキャップってやつだよ。
そうして走り回る私を、キミら二人は追いかける。そしてタッチした時点で終了、と言ったところかな」
「捕まえるって……そもそも各校舎は通路が決まってるから、そこに私かしょーちゃんが待ち構えていたら――」
「捕まえられるんなら……早く終わるんなら、キミらとしても悪い話じゃないんでは?」
「まあ、それはそうですけど……」
――どう、簡単でしょう? まるでちょっとカフェにでも行くかのような気軽さで言うが、そんな簡単なものではないのも、先生が「パルクール名誉部員」という点とこれまでの話、それに先輩とのいまのやり取りを考えればなんとなくだがわかる。
暗にこう言っているのだ。――決められた通路を通るだけが追いかけっこじゃないよ、と――
「先生、まず第一にかんがえるべき問題があるんですよ。……俺らはそれがないからこそやる気にはならない」
「んー、昌司クン。一応聞くが、その問題というのは一体何なのかな?」
「俺ら……少なくともおれには、メリットが無いんスよ。得るものが無い。おれは別にパルクールを極めようとも思ってないし、そもそも才能ってものが無い、と自分では思ってる。それでもここにいるのは先輩に誘われたからだし、自分でもある程度は体を動かしたいって時があるから……それ以上のものを、部活に見出して臨んじゃあいない。
甲子園を目指す野球部みたいに、新人賞を目指す美術部や漫画研究会、スターになるための目標を持つ演劇部みたいな意欲もなければ、鍛錬の末に腕を上げようと剣道や柔術を学ぶわけでもないから。
――先生から見て不合格でもなんらかまわないんですよ。おれは」
「……メリットか。そいつは見落としてたなあ。得するものが無けれゃあ人は動かない。それもそうだな、そりゃあそうだ。うんうん……昌司クン、キミは正しい」
さて、と膝に手をついて立ち上がると、高泉は軽い屈伸をしながら上着を脱いでストライプの入ったブルーのシャツとスラックスだけの身軽な姿になった。
「……人の話をまるで聞いてねえぇぇ」と大きく小声で呟くと、聞こえていたのか高泉は体をほぐしながらも尚、すでに決まったことのように「私がこの扉を出た瞬間からスタートね」とさらりと言う。同じくらいの目線の高さ、やや呆れた表情の先輩と顔を見合わせて呆れ顔を作っていた所に、次の瞬間。
先生の言葉は昌司の不意を突いた形となる。
「これでも私も数日後にはここの先生だからさ。
――キミが気に掛けていたハルトマン君の今の事情もある程度は知ってるんだよねぇ」
――メリットって、そういうのは含まれるのかな?
そう述べるが遅いか、驚きに意識を向けたときには既に先生は扉に手をかけて部室の外に出ていた。
「……くそったれ!」
「ちょ、しょーちゃん!?」
「――おれはあのヤローの話に乗るけど先輩は気にしないでいいから!」
心乱れながらも昌司は慌てずに――マットレスから側面に転げてそのまま上体で前転宙返り、勢いを殺さずに正面に傾く体重に加速を任せて――外へと飛び出すと、高泉は既に廊下の中ほどまで走っていた。細身な外見から足が速いだろうとはおもっえいた者の、見た目以上に健脚である規格外さに、改めて驚く。
不覚にも先制を取られた、とゲーム脳の思考が脳裏に掠めるのを振り払って、昌司もまたその後を追って駆け出した。




