6話
「アラン。名前はアランという」
その男の名を【アラン】という名前であると知った、それ以上に驚いたことがある。それは、エルフの言語を習得しているということだ。
――エルフが住まいと定める森は、他の種族にとっては非常に厳しい環境下にある。
森林、と一口に言ってしまえば簡単だが、現在いるような「開けた場所」のある森を選ぶ部族は稀だ。大抵のエルフは樹齢が五百年を超える樹木を中心として集落を形成してく。形成された集落は樹木の影響により上空からの視認は困難で、鳥や竜といった上空の外敵からの天然の要塞となり、エルフ達を守ることとなる。
また、水源がない場所に生命の根付くことがまれであるように、エルフ達もまた水源を求める。樹木に栄養が行き渡らなくなるという事態を避けるために、近隣の湧き水などを活用するのは最小限となる。なので樹木があることと同時に、河川や滝といった環境も近辺に存在する条件を探すことになっていく。
水源がある場所は多くの動物にとっても生命線となる。生命が豊富であるということは淘汰と生存競争の激しい場所であるということであり、多種多様に危険性をはらむ生物が闊歩する可能性がでてくる。すくなくとも、通常の場所よりもその変化は激しいものだと思わせる程度には。
これらの条件から、必然的にエルフの住む森は非常に森の辺境、奥深くでありながらも大型の獣や生命を脅かす外敵の巣窟、天然の要塞による発見の困難さを抱えることとなる。世俗に噂されるエルフが、狩りに特化し、魔法に長けた存在であると認識されるのは、生活環境への適応からの影響も少なからずあるのだろう。
ともあれ、こうした条件は、エルフの集落に対する他種族や権力の介入を非常に困難なものに変える。たとえ技術や知力に長けているとはいえ、地の利があるエルフに対して武力で攻め込んだところで被害ばかりでは割に合わない。交易をしようにも、たどり着くだけでも一苦労で済めばいいだろう。まず、命の保証はないのだ。
こうした背景をもつエルフの、その部族特有の言語である『フィウェレン第三古代語』を、彼は使っていた。それはつまり、どこかで、何かしらの形でエルフとの交流が存在したということになる。……この獣人が? これほどの傑物ならば、
「貴方はいったい、何者なのか?」――そう訊ねたい感情を必死に噛み殺し、怪我の具合を訊ねると、あれほどの深手だったというのに何事もなかったかのように立ち上がろうとした。柔らかに諫め、横たわらせるために敷いていた布へと座らせると、彼は初めて名乗り以外の言葉を紡いだ。
「西門の森、タァナに住まう猟兵のエルフ部族長・クムの……クムの二の羽根のフィオセアに、心から感謝を。しかし、起きているのに暗い。フィオ、これはよもや、目をやられてしまったのだろうか」
「流石に部族名までは知らないか……ああ、長いだろうから、名前はフィオで覚えてくれていればかまわない。
それより、目だな。ケガの具合はどうだ。そろそろ血も止まっただろうか……痛まないようであれば、布当てを取ってみたらいい」
「……得難き恩に、重ね心よりの感謝を」
「構わない。こちらもまた、助けていただいたのだから」
言葉の数は少ないが、それでも確信を得るに十分だった。一度目は聞き間違いかとも思った、だが二度目は違う。発音に微量ではあるが魔力が乗っている。
『フィウェレン』の言葉を口にしているのだ。
確信を得たところで彼の方を見やると、痛みに苦悶を浮かべる表情とともにその素顔を正面から見据えることとなった。
止血のために充てがった赤い布を取り払い、日の落ちて暗くなった森の端々までも見わたすほどに鋭い黄金色の眼光があらわになる。樹木に背を預けたその身は軽装でとても戦に勇む出で立ちではない。武器という武器も持たず、単身であれほどの敵を屠るだけの力を持つ狼人族。
狼人族は、噂に聞くその出自故にごく少数しか存在しないと聞く。多分に漏れず姿を目にするのは初めてだったが……それを差し引いても、控え目に言ってこの人物に普通という言葉は似つかわしくない質を感じた。
「大事に至らず幸いに存じます。……時に、あなたは一体?」
何者か、とも、どこから来た、とも聞けない曖昧な言葉になってしまった自身の言葉に小さな不快感を抱きつつ返事を待つが、一向に答えは帰ってこなかった。
「それは……」
沈黙は、明確な困惑だった。
何があったのかはわからない。なぜあれほどの力を持っているのかも、どうしてこの森で戦っていたのかも、いつの間にかほとんどの傷が癒えている理由も、どのような経験を経て『フィウェレン第三古代語』を語るに至ったのかも何もかも。……ともすると彼自身にもわからないのかもしれない。『なぜ』ばかりだ。
周囲は森に囲まれ、暗闇と囲いで明かりが漏れないようにした僅かな火種の明るさだけ。彼よりも重傷だった者の何人かは倒れて、いつ襲い来る敵が来るか分からない。問題なく動ける者は僅かで、傷付いた体に鞭打ちながら寝ずの見張りを両手ほどもない人数で続けている。
『なぜ?』
なぜ我々は、こんな戦いを続けなければならない?
いま、私たちエルフはおろか、どの種族も戦っている。それはいつまで?
エルフにそのような問答は、ない。
カランの惑い森の戦線を超えられたら、先にあるのはタァナの森。越えられればついにはウォロ大森樹に至る。そうならないよう、あるいは生きるために戦わないものなど、屍族や死霊、意思のない人形の類だけで十分だった。
そんな最中に彼と出くわしたのは、『なぜ』に対する答えなのかもしれないな、だからこそ助けの手を差し伸べるべきだと。そんなふうに感じさせてしまうのはなぜだろう。そして、「他人になぜを求めるばかりではダメだな」と自分へ言い聞かせるように呟いて不毛な思案を終わらせ彼の方を見やった。
もとより方々の警戒をしながらも漠然とアランの様子を視界に収めていたのだが、改めて見るになにやら意識がまだ明瞭ではないのだろうかのように感じられる。彼は空を掴むようにぼんやりとしたかと思うと、おもむろに立ち上がって、まるで初めて歩くかのように数歩歩いたり、腕や足を動かしたりという挙動を幾度も幾度も繰り返して行っている。ならば、と立ち上がって思うままに述べた。
「調子を知るために躯体確かめければ、手合わせ致しましょう」
ふと、「力を、この人物を知りたい」という、どうにも浅ましい感情が首をもたげてきてつい出してしまった言葉は、猟兵の名を授かるエルフの部族では意味深い意思を持つ言葉であることが、完全に頭から抜け落ちていた。